その2-5 お産のおびや許し

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理の「お産のおびや許し」教理を確認しておく。

 2003.7.23日 れんだいこ拝


【おびや許しその1、出産についてのお諭し】
 教祖は、当時の社会を規制していた女性特有の性としての月経、出産の「忌むべき血の穢れ思想」に対して、これを忌むことなく自然現象、本能的摂理的なものとして受容させんとし、「血の穢れ思想に基づく諸習慣」に対する否定改良的方法を次のように指針させていた。お道教義ではこれを「おびや許し」と云う。

 みかぐらうた、お筆先の教理は次の通り。
 胎内へ 宿し込むのも 月日なり
 生まれ出るのも 月日世話取り
六号131

 教祖のお諭しは次の通り。
 「神の云う事疑ごうて、嘘と思えば嘘になる。真実に、親に許して貰うたと思うて、神のいう通りにする事なら、常の心の善し悪しを云うのやない。常の悪しきは別に現れる」。
 「産については疑いの心さえなくして、神の教え通りにすれば、速やかに安産さす。常の心に違いなくとも、疑って案じた事なら、『案じの理』がまわる」。
 明治10年10.28日、「教祖口伝」。
 人間元はじまりの話し(を)よう心に治めねば子を育てることできようまい。子を育てることできぬようでは親の恩は返せまい。子を育ててこそ親の恩は返せるのやで。お産は病ではない。だが、お産から色々と病を引き起こすような事がもしもあったなら、女として女の道が立ってないからや」。
 「必ず、疑うやないで。月日許したと云うたら、許したのやで。これまでのようにもたれ物要らず、毒忌み要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りで良いのやで」。

 つまり、お産に当たっては、別段深い理をお聞かせになる訳でもなく、又おわび、さんげや精神定めを求められる訳でもない。人間の身上はもとより、人生百般の事は凡て親神様の自由のお働きによるもので、そのご守護を頂くならば如何なる中にもいささかの不安もない。親を信じ、親にもたれ切ることが肝要であるとお諭しされていた。この当時、お産にまつわる様々な病に苦しむ女達が大勢居り、みきの「をびや許し」は大いなる福音となあった。

 「をびや許し」にあたって、種々お諭しが為されていることはもっと着目されて良い。みきは、単に霊能力的威力でもって「病治し」しようとしたのではない。「親神様の守護の理、自由自在の働きの理」にもたれることによって安産が約束されていると説き、「案じの心」から「親神様の働きを信じる心」への「心の入れ替え」を促し、神の御心に叶う「生まれ直し」によって「神の御働きを引き出し」、「よろずの守護を頂く」、と言う手法を採用していることが判明する。

 助けでも 拝み祈祷で いくでなし 
 伺い立てて いくでなけれど
三号45
 このところ よろずの事を 説き明かす 
 神一条で 胸のうちより
三号46
 分かるよう 胸のうちより 思案せよ 
 人助けたら わが身助かる
三号47

 この時のお諭しの内容が以上の外は伝わっていない。以下推測となるが重要な内容である。この時、教祖は、始めはかぼちゃのめしべと花粉を例に使って性事を理解させようとしていた。生物は皆な交配によって生命を生む。動物の場合には精子を女性の胎内に送り込む。こうして新しい生命が宿しこまれ生まれる。男種、女種が五分五分に結合してはじめて、男親とも女親とも異なる新たなる生命が生まれる。この生命は神のご守護により妊娠し育まれる。こうした生命のメカニズムを説き聞かせ、物の怪や迷信の類に脅かされる必要はない、何ら案ずるに及ばないことを福音していたようである。これは、当時の人々が様々な俗説、仏教的因縁教説によって「お産」を畏怖させられ、不安を増幅されていたことに対する批判的啓蒙でもあったと思われる。「祟(たた)りはない、前世の業、因縁などはない。怖れることはない」と説いたのではないのか。

 このみきの時代を飛び越えた合理性は、当時の女性が置かれていた習俗に伴う蔑視観からの解放を企図していたことが着目されるに値する。今日的な合理観として通用する男女平等思想に根ざす「お諭し」として精彩を放っているやに見受けられる。何はともあれ、こうしてみきの「お助け」は、女性の封建的習俗からの解放として世に飛び出すこととなった。当時、不浄のもの、けがれたものとタブー視されていた女性の生理現象に関して、次のお話が伝えられている。

 「南瓜(カボチャ)や茄子(ナス)を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花 が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で云うけれども、何も、不浄なことはありゃせんで。男も女も、寸分違わ ぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りが あるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。 無駄花というものは、何にでもあるけれどな。花無しに実ののるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで」

【おびや許しその2、出産に纏わる俗信についてのお諭し】
 教祖の「おびや許し」の際に語られるお諭しは着目されるに値がある。教祖みきは更に、お産に関わる当時の習慣を誤った習俗であるとして退け、次のように諭している。
 「をびや一切は常の通りにして居ればよいので、世間一般の人間が案じ心からしている腹帯、毒忌、もたれもの等は不要であり、75日間の身の汚れもない、親神様にもたれ切って居りさえすれば、何をしようと何処へ行こうと、常平生と少しも変らず振る舞って良い」。

 これによれば、むしろ今日的な合理観を指し示しているかに見受けられる。

 この当時、女性の月経は汚れであり、お産は大変な汚れものとして、産婦は、納屋や土間を産屋とし、ウブスナを撒いた上に藁を敷き、人眼にふれないようにして出産するものとされていた。その為、当時の産屋は不潔になりがちで、母子共に産褥熱などで死亡する者が多かった。又凭れ物に寄り掛かって分娩する方法により、産後も凭れ物から離れてはいけないとされた。

 又産婦は、例えば妊娠中に鶏を食えば三本指の子が生まれるとか、兎の肉を食えば唇に障害のある子が、タコを食べれば骨為しの子、エビやカニを食べればコセ(軽い皮膚病の一種)の子、ネギを食べればワキガの子、その他アレを食べればアレの子等々というように、毒忌みに支配され飲食に制限を受けていた。こうして産婦は栄養不足となり、産後の患いにかかる者が多かった。又安産を願う儀式として腹帯の着帯が為されていた。腹帯は、一般に妊娠5ケ月目の戌イヌの日に帯を付ける慣しであった。犬のお産が軽くて、よく子を産むという俗信から風習化されたようである。

 又、産婦の汚れが完全に解消するのは、75日目とされ、この間針仕事や木綿織りもしてならず、神仏へのお参りも禁じられた。次のように評されている。

 「それは穢れを忌むという名目で妊婦を仕事から解放し、母体を休める効用があったといわれる事もあるが、そうした点を認めたとしても、これらの慣習の根底には血穢が死穢に通じるということが明確に観念されており、それが女性を穢れた存在と見る社会的風潮を助長していたことは民俗学の教えるところである」(「中山みき-その生涯と解放」27P)。

お産のおびや許し逸話
 「乳は子に与えたもの」 (「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)147~148ページより。逸話篇51「をびや許し」)
 「ある時、諸井国三郎妻、妊娠に付き、”をびやゆるし”を御願い申し上げしに、教祖様、御自身に(て)御供を包み下されんとせしかば、傍にありたる高井様、進み出て、私が包まして頂きましょう、と申し上ぐ。さらばとて、その紙を御渡しに相成りしに、高井様、無造作にも、いがみなり(大和方言で曲る、歪む)に包みしかば、教祖様それを受取り遊ばされて、傍に置き給い、良しとも悪しとも仰らずして、又、更に他の紙にて御供を包みて、それを国三郎にお渡し下されて、お許しのお話例の如くお諭し下されしという。『神様は、いがみなりはお嫌いやで』。恐れ入りたる事なり、と国三郎の話なり。ちなみに記す。この時、お聞かせ下されし中に左の言葉あり。『親の乳はな、その子に与えてあるのやで。子供が飲みたくなれば乳はさしてくる。これ神の自由用(じゅうよう)やで。乳がさしてくるまでは、神様へ供えた御水に、大白(たいはく。大きなさかずき)の砂糖を入れて、ほど/\に温めて、吸わしておけばよいで。乳がさして来たなら、誰にどうせんでも、すぐその子に飲ますればよいで』と。是まで世上の常として、小児出産すれば三日、四日はマクリとか云う薬を飲ましておいて、それから親の乳を吸わせる。吸わせるにも、先ず一度は他所の子に飲んで貰うて、それから吸わせる例なれど、すでに神様の仰せ承りては、その様な手数もいらず、有難きことにこそ」。
   (いゑ談、倉之助手記、昭和五十七年三月発行「先人の遺した教話(三)-根のある花・山田伊八郎」(道友社新書15)117~119ページより)。「をびやだめし 」。
 「明治15年5.10日(陰暦3.23日)午前8時、家の人たちが田んぼに出た留守中、山田こいそは急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取りはずして畳の上に敷いてお産をした。ところが、丸々とした女の子と胎盤、俗に”ゑな”(※胞衣。胎児を包んでいる膜や胎盤などの総称。分娩後に排出される)と申すもののみで、何一つよごれものはなく、不思議ときれいなお産で、昼食に家人が帰宅した時には綺麗な産着を着せて寝かせてあった。このお産の少し前の日、おぢばへお詣りをした時に、教祖が、『今度は”をびやだめし”やから、お産して”おぢば”へかえる時は大豆越(こいその生家山中家のこと)へも、どこへも道寄りせずに、ここへすぐ来るのやで、ここがほんとの親里やで』、とお聞かせ下されてあったので、出産の翌々日(5.12日)まっすぐおぢばへかえらせて頂き、おぢばで一晩泊めて頂いた。この日は前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて三里余りを歩かして頂いたが、おりもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議な”おぢばがえり”だった。教祖は、『もう”こいそ”はん来る時分やなあ』、と仰せられ、勿体なくも、『今、門のところまで出たところや』、とおっしゃって、門の外でお待ち下されていて、大変お喜び下され、赤児を御自らお抱き下された。その上、『”をびや許し”も沢山出したが、”こいそ”はん程結講さして頂いた人も少ないで』、とお言葉を賜わり、そして、『名をつけてあげよ』、と仰せになって、『この子の成人するにつれて道も結講になるばかりや、栄えるばかりやで、それでいくすえ栄えるというので”いくえ”と名づけておくで』、と御命名までして下さった」。





(私論.私見)