その1-4 誠真実の理、阿呆の理、慎みの理、結構の理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「誠真実の理、阿呆の理、慎みの理、結構の理」教理を確認する。「天理教教理随想」の「No.92教理随想(43)、自由自在について」 その他を参照しながら私流に再推敲しておく。

 更新日/2016.02.29日 れんだいこ拝


【心遣いによる神のご守護、助かりの理】
 お道教義では、神の思惑に叶う心遣い、行いを為すことに因り神のご守護が働きになられ、これが「助かりの理」となると教えられている。

 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。
 どのような 助けするのも 真実の
 親がいるから 皆な引き受ける
七号101
 どのような 事をするのも 月日には
 助けたいとの 一条ばかりで
十二号78

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「日々は喜んで通らしてもらうのやで」。
 「喜べないような日もあろう、喜びにかえて通らしてもらうのやで」。
 「真実の心で通らしてもらえれば喜べるのや。誠の心で通ってくれ」。
 「日々通らしてもらう心の使い方、持ち方、よう思案してくれ」。
 「心の使い方というても、我が身思案からの通り方、人に助かってもらう、喜んでもらう通り方があるのや。ちり一つ拾うても誠、大きな木を取り片づけても真実といえん場合もあるで。日々よう思案してくれ。誰でも通れることやで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合のいいように考え、または思い、我が身に都合の悪いことはそうはでけんと言うてしまう。そんなことでは道はつくはずがない。都合のいいことも悪いことも心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで、一つも心配いらんのやで」。
 「日々通る中にどんな中もあろう。難儀な中、難しい中、その成らん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。無理と思うのやないで。無理と思えば無理になってしまうで。心通りの御守護下さるのやから、さらさら思うやないで」。
 「喜びにかえて通っていく中に、ああ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らしてもらいなはれや」。
 「日々通らしてもろうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で神様によろこんでもらう道を通るのやで。神様によろこんでもらう道は真実だけや。真実というても、自分だけが真実やと思うていても何にもならん。真実とは、低い、優しい、素直な心をいうのや。自分で低いと思うているうちは低くはないで。優しいというても、素直というても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれるまでの道を通るのやで」。
 「素直というてもなあ、人の心をひくような素直は何にもならん。神様によろこんでもらえるような素直というは、親の言うなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで。やさしいというても、口だけでは何にもならん。ハイと言うたらすぐ行ってこそ優しいのやで。そうして何でもつとめさしてもらう心を低いと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、よろこんで下さらんのやで」。
 「神様のお話をよく聞かしてもらうのやで。神様のお話とは親の声や。親の声というていい加減に聞いていてはならん。しっかり心に治めなはれや」。
 「真実の心というても、昨日も話をしておったのや、まるごとでなきゃいかんで。まるごととは全部や。一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人ひとりがさせてもらうのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳を積ましてもらうという心はいかん。これは我が身のためやからなあ。何でも人のため、我が心は人のよろこぶよう、人のたすかるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考えんでもよいのや。これがまるごとの真実やで」。
 「人に腹を立てさせて下さるな」。
 「親の心に添うと言うても、形だけやったらいかん、心を添わして頂くのやで。どんなに離れていても、心は親に通じるものやで。心を添わしてもらいなはれや」。
 「親々の心に添わしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむような事はないで。だが、因縁なら通らにゃならん道もあろう。しかし親の心に添って通らしてもろうているのなら、何にも身上や事情やというて案じる事はないで。心倒さんように通りなはれや」。
 
 「真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん。真実やったら神様は必ず守って下さるで。神様に守ってもらっておれば日々は安心やで。なんでも守らしてもらう心になんなはれや。神様はきっと守って下さるで」。
 「真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで」。 
 「人を助けるのも真実、その真実に神が働くのや」。 
 「人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす」。
 「真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで」。
 「日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで」。
 「日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで」。
 「銘々我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。
 概要「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに」。
 「人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで」。
 「我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで」。
 「親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで」。
 概要「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由用の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで」。
 「親の声聞いたら、そのまま受ける心に神が働くのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。
 「借りものという事は、神様からこんな結構な身体を借りているという事をよく心に治めることやで。これが分かれば、それでよいのや。よく心に治まれば、どうしてお礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えてきた事を供えさせてもらうのや」。
 「日々通る心の持ち方は、自分勝手な心遣い、気随気ままな心遣い、そんな心遣いでは御守護は頂けないで」、「気随気ままな心遣いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない。こんな事は分かっているやろ。ここのところ、よく思案してくれ」。
 「日々に埃の心遣うて通るから御守護が頂けないのやで。人の心に嫌な思いをさせるのは何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心を殺して通っているのと同じこと、目に見えない埃を日々に積んでいったら、身上にもなろう、事情にもあらわれてこよう、みな我が身が苦しむことになるのやで」。
 「日々通らしてもらうには、難しい事は何にもない。ただ真実の心で、借りものという理をしっかり心に治めて、ありがたい、結構やと言うて、思うて、明るい心で通ってくれ、神様が必ず御守護下さるで」。
  「日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで。結構な日々が通れるで。借りものという事分からねば、この道は通れないで」。
 「神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、陽気遊山を見たいゆえーー人間心で通る人間もあるーーー神の残念、親の心は助けたい一条やで。人間思案を捨てて、指図一つの理をもって通りたなら、身上事情で苦しむようなことはない」。
 「親の心に添うて通る者、火の中水の中でも連れて通るほどに。人間心出すやない。もたれる心に神がはたらくのや、案じない」
 明治17年10月11日、宮森与三郎。(願いの筋なし)。
 あゝもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ。その心を供えるのや。親のいうなり、するなりにして貰う心、それを素直という。何でもつとめると、いう心ひくいという。なんでもはいとうける心やさしいという。この三つ誠真実やで、誠真実なら何でも自由用という」。
 逸話篇79「帰って来る子供」。
 「教祖が、ある時、喜多治郎吉に、『多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何にもなくなってしまう輩もあるで』、とお聞かせ下された」。
 昭和8年11.5日号みちのとも「おやさまのことども」の柏木庫治「教祖と筋芋」より。
 「或る日の事である。ざるにいっぱい盛られた蒸し芋が、おやつとして出された。お弟子たちの集まりは至極和やかである。芋ざるを中にして四方山の話を交しながら、一つ一つの芋は平らげられていった。途中から教祖様も一座の中に見えられた。談笑の中に、芋はざるの中から姿を消した。ところが小指のような細いヒョロ長い筋芋が二三本ざるの底に残されたあった。おや様は、その一つをお摘まみになってお弟子の前に御示しになり、『皆さん、筋芋は結局残されました。誰からも食べて貰えないのであります。正味のない筋だけでは、食べようにも食べられぬのであります。人間の筋言い、即ち理屈ばかりを言うて、正味のない‥、誠の少ない者は世の中から取り残されます。人が用いてくれません。あれでもない、これでもないと、筋ばかり言う者には正味がありません。お互いは筋芋にならない様に気をつけねばなりません』、とお諭しになった」。
 諸井政一著「正文遺韻抄」(道友社発行)250-251p「子の出て来るのを」。
 「教祖様がな、『この屋敷へ出て来る者は、無理に去(い)ねとは云わへんほどに。何事でも、我が家の事と思うてつとめたら、我が家の事になるで』、と仰った。又、『使い良い道具は、さいしき(彩色。美しく彩ること)に、さいしきをして、どうしてなりとも使うで。なれど、使い勝手の悪いものは、更(さら。手の加わっていないこと。未使用で新しいこと。また、そのもの)でも使えんで。どう仕様もない』、と聞かせられる。『何でも素直な心もって、神様の云う通りの道を守って神妙につとめにゃならん。親が尽くしておいたら、子の出て来るのを神が待っている。道に背いたら、親は子が出て来ても横向いている』、と仰る。よって、尽くした理は一代ぎりやない。子孫に伝えて末代の理や。よって、何でも真実を尽くさにゃならん」。
 お指図は次の通り。

【誠真実の理、まことの宝】
 お指図は次の通り。
 「誠というのは天の理である。誠より外に受け取るところなし」。(明治20.9.18日)
 「誠ほど強いものはない。誠は天の理である。誠であれば、それ世界成る程と云う」。(明治21.6.2)
 「助け一条の理を聞き分けるのが一つの理である。(中略)心一つの理によって、互いへの誠の心が助けのこうのうの理である」。(明治21.8.9日)
 「誠の心の理が成る程という理である。常に誠という心あれば、その場で、天の理が直ぐに受け取る。直ぐに返す返す」。(明治21.11.11日)
 「常々真の誠あれば、自由自在である」。(明治21.12.25日)
 「誠あれば、うちうち睦まじいという理になる」。(明治21年)
 「誠一つは自由自在」。(明治22.6.1日)
 「さあさぁ段々の席返し/\の席をして、一日の日は生涯心一つの理を以て一つ席。席順序一つの理はよく聞き分け。生涯の理を諭そ。生涯の理を諭するには難しい事は一つも言わん。どうせこうせはこれは言わん、言えんの理を聞き分けるなら、何彼の理も鮮やかという。それ人間という身の内という皆な神の貸し物借り物、心一つが我がの理。心の理というは、日々常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理でも、日々に皆んな受け取る。日々に皆んな受け取る中に、たゞ一つ自由という一つの理、自由という理は、何処にあるとは思うなよ。たゞ銘々精神一つの理にある。日々常に誠一つ、誠の心と言えば一寸には皆な弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものはない。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まる。そら世界という成る程という成る程の者成る程の人というが、常に誠一つの理で自由。よく聞き分け。又一つ、これまで運ぶ尽す中に互い扶け合いというは諭する理。人を助ける心というは真の誠一つの理で自由。よく聞き分け。又一つこれまで運ぶ尽す一つの理は内々銘々事情理に治め」。(明治23.1.10日)
 「誠一つの理は天の理。天の理なれば直ぐと受け取る。直ぐと返すが一つの理」。(明治23.4.17)
 「どうでも運び掛けたら運ばにゃならん。切れんように運ばにゃならん。切れやせんで。あらかた(粗方)了(しも)たら切れるか、と思う。切れやせん。一つ手を繋ぐ模様。一つ/\治めにゃならん。 一つ手が(を)繋がにゃならん。切れた事なら切れた処(所)から火が入る、風が入る、水が入る。怖わい恐ろしい〈ことになる〉。〈しかし〉誠続く理があれば、どんな中でも怖わいことはない」(明治24.12.19日夜)。
 「銘々の心に誠さえあれば踏み損ないはない」。(明治30.12.23日)
 My Library Home 」の天佑會「まことたから(上巻)」。
 「気は長く、心は広く、勤めは堅くと云うは堪忍を旨とし、何事にも癇癪を出さず、又何事に懸かりても捲まざるを云う。心広くと云うは、何事にも心を動せず、先を案じざるを云う。勤めと云うは言行一致のことなり。正直から情けが出る。正直、慈悲、堪忍の三つが誠(真事)なり。誠は神也。誠より尊き心なし。水火風、これより上の宝はない。これが人間万物の命なり。人間の肉体を始めとし一切動物の肉体、宇宙の万体は、悉く水土温熱風にて産み出され、この世に生命を有し活動をなす。神が命なり、故に神様を尊、命と云う。

 神言「身上あって楽しみ、身上あっての道である。これよう聞分けてくれ」と仰せ下さる。

 ばっと腹立ちたのをそのまま風に出さずに堪忍して、どん事でも分かる様に説いて聞かす。人の満足の行くように聞かす。人に満足与える、善き方/\と優しく物の治まる様の風を吹かす言葉が堪忍の風、かしこねの命の智恵なり。かしこねの命の言葉、口弁舌、賢いという。人は心中道理の見分け、噛み分けのよくできる者、即ち切り分け故にかしこねの命の裏は大食天命(丑寅と未申)。見分け聞分けの神、交際義理の神様、かしこねの命誠が現れ、慈悲心気を長くして、人に満足与える風が智恵。

 しかして言葉は心は現れるもの故、物が惜しいや欲しいで欲が深いようでは人の助かる人に満足与える真実の言葉が出ん。木の葉も根より水気入り込み、温味が入りて芽が出る。芽は葉なり。言葉も同一の理なり。現れるなり。誠は、情けと思い切りの理、例えば人を助けるにも人様に志し心尽くすにも情けを施すにも思い切らねばできぬ如く我が家我が身欲を思い切れぬようでは社会の為に働けぬが如し。

 その真実が誠がなくては出んなり。誠の心陽に現われ或いは人を助ける食物与えるとか世話をするとか金銭物を施すとか実行して、その誠の現われたものを実と云う。真実なり、心に誠あっても行なわざれば見えん。行なうたものが即ち実、例えば人間夫婦の間に子の生まれたのが実、柿の木は甘き柿の実を結ぶ。渋柿は渋い味の実が現れる。甘き木の誠が現れて甘柿となる如し。木の実も実も同じ。親神様の誠が宇宙万物に現れて衣食住その他総ての物を身に受け見聞して陽気に暮らす。皆な親様の実を頂いて活きて居る人間也。これが神様の真実誠。人間も同じ。助けよと思う心は誠。誠は無形現れて実、欲のなきものが誠。親が我が子を思う、我を忘れ欲を忘れ、真心尽くして育てる慈悲、この心が真実誠也。

 堪忍と素直は同じ理となる。素直は神の心、水の心。人間誠というは足納が第一。足納はこの世の大王とも足納大き木とも仰せられてある。心澄む心の掃除するには足納。足納はこの世の治まる理。水の心なり。八方の神様の御心が一つにまとまり下されたものが即ち誠、月日の御心なり。優しき心と云うは誠にて、この世は八方八柱の神。この八柱神の心にかなう心に定めるが世界の式なり。この心を優しいと云うなり。

 正直、慈悲、堪忍、この三つは人間暖み水気息一日もなくては立たぬと同じく、これより宝はない。堪忍は物のよく分かりた賢い人から堪忍をする。寛仁、大度、慈悲心を以って敵を味方にする如き古今の例話もある如く、誠ほど尊きものはなく、誠ほど人の感化するものはない。誠には刃も立たず、矢も立たず、水に溺れず、火に焼けずという。宇宙間は悉く神の誠の現われ故、本書中だん/\逑ぶる所は借り物の理を了解せんとするもの皆な誠の一つに止まる故、この誠と云う理は何程にても話し尽くせぬものなり。

 『誠という理の働きさえあれば天の親よりも実があるで。実と云うは分かろうまい、火水風という。この恩理が分かれば一切の恩理が知れる。これ知れば衣食住の三点は火水風の賜物という理が知れる。この理が分かれば神の守護という理が知れる。この理が治まれば神の誠という理が明らか知れる。なれど、教えの理を取り違えるというは、これまでの心の理が忘れられんから、目に見えたものに惜しみをかけて身上の大敵という事を知らず。欲しい惜しいの心の理が離れられんから、真実という理が治まらん。早く思案をしてくれ。世上の難はどういう所から身に受けるは八つのヶ条は何と思うてしている。

 又神の守護という理が心に分かりたことなれば、道のりは容易ならぬ重い理なれど、深い楽しみの理を与うるには日々銘々の心の勤め方の理によって与うる理と与えられん理とあるから、取り違いのなきように勤めにゃならん。我が身の助かると云うは、人の為なら我が身捨ててもと云う精神を以って人を助けにゃならん。人に喜んで貰わにゃならん、と云う心で日心勤めて人の心を助け、自分も喜び、日々勤むる理であると仰せ、又御道は話一條で助け下さるその話は月日の真実。これを取次ぐ者は月日の代理である。神様の御言葉は人間が考えたり作った事でないから、正直に取次がねばならん。我々人間が智恵高慢を交ぜて我が身欲から我が身の用害や身引、例えはこの話をしては人か如何に感ずるから気に入らぬからと云う風にて取次ぐにひかえるとか上手口とか遠慮気兼ねして居ては人が助からぬ故、神に対して高慢となる。神の御言葉は正直に取次ぐ。神に素直になくては誠とは云えぬ我が身をだくは欲。

 又人間の俗に云う硬いと云う心は一時強いようなれども欲というものがために決断力が乏しく心が変わる崩れる。硬いものがやわらかい中途で挫ける。真実定めた心は立ち抜く挫けぬ変わらん迷わんくるわんと云うのが誠。真実の定まった心なり、日本魂とも云う、たとえば弾丸は出かけは強いが先に行くと布に包まれる。矢は出かけは弱い手の効いた者はつかむという。先の行く程激しく強くなると云うたとえの如し』。

 『自由用と云う理は何所にあると思うなよ、只銘々精神一つの理にある日々と云う常と云う、日々常に誠一つという、誠の心と云えは一寸には弱いように皆な思うなれど誠より堅き長きものはない誠一つが天の理、又人を助ける心は真の誠と仰せ下さる』」。


【阿呆の理】
 増井りん手記/誠真実(まこと)の道97-99p「あほうが望み」。
 「神様(教祖)、私ども(増井りん)はあほうでござりまする、と申しましたならば、『さようかえ、おまえさんはあほうかえ。神様にはあほうが望みと仰るのやで。利口の者は付けん。人が小便かけたならば、ああ温(ぬく)い雨が降ってきたのや、と思うて喜んでいるのやで。人が頭を張れば、ああ、あなたの手は痛いではございませんか、と言うて、その人の手を撫(な)でるのやで』、と仰る。『その通りに、優しい心になるのやで』、とお聞かせ頂いております。『人がきつい言葉を言えば、われ(自分)もきつい言葉にて、一言(ひとこと)言われれば、その通り仕返しをするというのが利口やから、仕返しをするのやないほどに』。その時には、言われましても、『あほうになって言い返しをせぬように。叩(たた)かれても叩き返しをせぬようにするのが、これが本真実の誠、真心である』。『それが、利口であれば、なかなかそのような心になっておりませんから、言われたならば言い返す。叩かれたら叩き返しをする。一つ叩かれたら二つも三つも叩く。一言(ひとこと)言われたならば二言も三言も言い返しをするのが利口の人の返しや。それをあほうになって、叩かれても叩き返しをせぬのが誠や。神様がお返しをして下さるのや、という心になっているのやで』、と神様(教祖)のお言葉。 どうぞどうぞ神様、その人たちを救けてやって下さいませ、と、まだ神様へ、その人の事をばお願いをしてあげまするのが、これが真実の誠であります」。

【慎みの理】
 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。

 お指図は次の通り。
 「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」(明治25年1.14日)。

【結構の理】
 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。

 お指図は次の通り。
 「道具でもどんな金高い値打ちでも、心の理がなくば何にもならん。授け/\のところ、よう聞分け。日々の席をする。席をすれば授けは渡す。その時の心、受取る時の心、後々の心の理がある。日々まあ一日の日、結構という理を忘れて了う。どうも残念でならん」(明治23年7.7日)。





(私論.私見)