医術観医者の手余りの理、話し医者、神の手余りの理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「医術観、医者の手余りの理、話し医者、神の手余りの理」教理を確認しておく。

 2006.1.23日 れんだいこ拝


医術観、医者の手余りの理】
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 しやんせよ やまいとゆうて さらになし
 神のみちをせ いけんなるぞや
三号138
 一寸したる めへのあしくも できものや
 のぼせいたみハ 神のてびきや
三号139
 せかいぢう どこのものとハ ゆハんでな
 心のほこり みにさハりつく
五号9
 いまゝでハ やまいとゆへば いしやくするり
 みなしんバいを したるなれども
六号105

 教祖は次のようにお話しなされている。
 「医者の手余り、捨て者助けるのが神の助け」。

 お指図には次のような御言葉がある。
「身上の理できゝわけ、おがみきとうするでなし、医者薬のさしづするでない、身の内の理でふそくなる、この理をきゝわけ」(明治23.5.15)。  
「元々医者はいらん、薬は飲む事はいらんという事は教えにないで、元々医者にもかゝり、薬も飲み、医者のてあまりたすけやうといふは、誰にも医者にかゝることいらん、薬のむ事いらんといふはどっからでたのや、手あまりを救けるのは誰にもなんともいふまい、神さんに救けてもらうた、はじめかけのやうなもの」。(明治23.7.7)
 「医者の手余り捨てもの助けるが神の助けと云う」(明治29年.5.1日)。
 金光教では次のように説かれている。
 「祈れ薬れにすればお陰は早いが、薬れ祈れにするからお陰にならん」。
 「病気が治ったのが有難いのではない。いつもまめなが有難いのだ」。

【話し医者】
 「助け人衆は話し医者と呼ばれる時が来る」
 「人の助けもこの理やで。心の皺(しわ)を、話の理で伸ばしてやるのやで」
 「イガの理」。
 「栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛(こわ)いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味の良い実が出てくるで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで」。
 「改訂正文遺韻」119頁。
 「取次に、理が分かりて、十が十ながら神の心に叶うようになったなら、取次に、みな何事も任せよう。そこで、やまいでも、なおる、なおらん、取次ぎの言うとおりに守護する。そこで、世界から、話し医者と言うようになるで」。

【身体を苦しめて通るのやない】
 ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない」と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心におたすけに廻った。

 しかし、道は容易にはつかない。心が倒れかかると、泉田は我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭いを使っては効能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して30日間程これを続けた。又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻らせて頂いた。 

 こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は次のように仰せ下された。
 「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで」

【神の手余りの理】

【踏み込み末代信心の理】
 「信心は末代にかけて続けるのやで。しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで」




(私論.私見)