その6 ひのきしん論、ふしん論、足場論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ひのきしん論、ふしん論、足場論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


ひのきしん論】
 お道教理の「ひのきしん(日の寄進)」論は次の通りです。

 
人間は、親神様から身体からだをお借りし、日々に親神様の十全じゅうぜんの守護を頂いて生きています。これを当たり前と受け取らず、「親神によって創造され、今もご守護され、身上事情において病まず弱らずの身であることの有り難さ」に感謝を申し上げるのが人としての自然な情の発露です。お道では、そのご恩に報いる感謝の心からの労働を捧げることを「ひのきしん」と称して重要なこととして位置づけています。「ひのきしん」は「日の寄進」、「日々の寄進」を略したものです。「ひのきしん」は、「元の理」、「貸しもの、借りものの理」が真に心に治まったとき、その喜びと感謝が自ずから行動となって表れ出るもので、世間の労働観とは違い無償の奉仕活動を特質としています。

 一般的には、寄進きしんは「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を云いますが、お道教理では、身をもってする神恩報謝の行いをも寄進と見なしています。「ひのきしん」は、貧富や老若男女ろうにゃくなんにょの別なく、真実の心一つで誰にでもできるものです。「ひのきしん」の現れ方は様々で、ぢばに伏せ込むひのきしん(「伏せ込みひのきしん」)、それぞれの教会での御用に務める「御用ひのきしん」、建設労働に於ける「もっこかつぎひのきしん」、神殿や公共施設や福祉施設での「清掃ひのきしん」、「災害救援ひのきしん」、布教の「匂い掛けひのきしん」等々があります。松下幸之助が天理教本部の「ひのきしん」に接して感動を覚えた逸話が遺されています。


 御神楽歌には次のように記されている。
 八ッ 病むほど 辛いことはない
     わしもこれから ひのきしん
三下り目8ッ
 一ツ ひとこと話しハ ひのきしん
     匂い
ばかりを かけておく
七下り目1ッ
 八ッ 屋敷ハ神の 田地やで
     まいたる種ハ 皆なはへる
七下り目8ッ
 一ッ  ひのもと しよやしきの
     神のやかたの ぢば定め
十一下り目1ッ
 二ツ 夫婦揃うて ひのきしん
     これが第一 ものだねや
十一下り目2ッ
 三ッ 見れバ世界が 段々と
     もっこになうて ひのきしん
十一下り目3ッ
 四ッ 欲を忘れて ひのきしん
     これが第一 肥えとなる
十一下り目4ッ
 五ッ いつ/\までも つちもちや
     まだあるならバ わしもゆこ
十一下り目5ッ
 六ッ 無理に止めるや ない程に 
     心あるなら 誰なりと
十一下り目六ッ
 七ッ 何かめづらし 土持ちや
     これが寄進と なるならバ
十一下り目7ッ

 お筆先には次のように記されている。
 にち/\に 心つくした ものだねを
 神がたしかに うけとりている
おふでさき号外
 教祖は次のようにお諭し為されている。
 お指図には次のような御言葉がある。
 「助けとても一日なりともひのきしん、一つの心を楽しみ。助け不思議普請、真実の心を受け取るための不思議普請」。(明治23.6.15日)
 「この人ににをいを掛けんならんと思えば、道の辻で会うても掛けてくれ。これからこれが仕事や」。(明治40.4.7日)

 天理教教典第8章76-78pは次のように記している。

  「日々常々、何事につけ、親神のめぐみせつに身に感じる時、感謝の喜びは、おのずからその態度や行為おこないにあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」。
  「ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである」。

ひのきしん的労働観考
 お道教義の「ひのきしん的労働観」は、新たな人類の労働の在り方を示唆しているかも知れない。この労働観は、キリスト教的な「働くことは贖罪である-罪を背負って生まれてきた人間には、その罪を贖うために労働に服さねばならない」(マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)の対極に位置している。

 小滝透氏の「いのち永遠に」は、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を次のように要約している。
 「禁欲的ブロテスタンティズムの諸宗派は、多少の違いこそあれ、いずれも神からの救済の確証を得るために、選ばれた職業に専念し邁進することを基本とした。その為、彼らは世俗的欲望、世俗的享楽を徹底的に退けた。と同時に、日常の暮らしの中に可能な限りの合理的組織性を持ち込んだ。そして、それを自らの絶対規範として内面化した。こうした救いの確証を得るための職業への専念と、そのための世俗的禁欲や合理的組織性、そしてその結果出てくる世俗的禁欲の内面規範化が必然的に導かれた。ウェーバーはこうした禁欲的プロテスタンティズムの倫理規範を『資本主義の精神』と呼んだ。加えて彼は、禁欲的プロテスタントにとっては、こうした資本主義の精神のもとで生産される安くていい商品の搬出が隣人愛の表出であるととらえられ、また計算合理的に組織された『時間即労働』の関係が確立することから、資本の蓄積が可能となり、資本主義の成立が為された、と見るのである。つまり、資本主義とは、キリスト教の一派=禁欲的プロテスタントの労働観が形成したということになる。そしてその一番の元をたどれば、『彼らの労働観とは、自己の救済の確証を得んがため』ということになる」。
(私論.私見)
 「小滝透氏のマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の要約」が上記の通りとすれば、資本主義の精神をこういう風にプロテスタンティズムの倫理と結びつける受け取り方は既に古いと云うか、歴史的ユダヤ商法そのももの発展系と見なす受け取りから目をそらしている点で問題があると云わざるを得ない。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、資本主義の精神の合理化であり、彼もまた国際金融資本陣営側の一員でしかなかった、と云うことになる。こういうところに本質が現れる。

 2016.6.6日 れんだいこ拝

【ふしん論】
 「My Library Home 」の「愛町分教会初代会長 関根豊松/ふしん」。
 神様から新築のお許しがいただけた。これは大きな節を越す時旬です。道の上に徳を積んで、大節から芽を出し、家柄を立て替える時旬です。こんな時は二度とありませんよ。さて、そんなら、その普請はどうしてやらせてもらえばよいかをお話しましょう。

 教会の普請はやれば良い、作れば良いというものじゃない。そんなものなら、私一人で今直ぐにでも建ててみせる。また請負師に請け負わした方が、どんなにうまく早く出来るかもしれない。しかしここはたすけ場所です。万人の誠のこもっているほど人は助かります。畳のヘリひとつでも、持ち寄った誠で作らねばなりません。埃のものはたすけの邪魔になるので、神様が受け取ってくれません。御本部でも昔、ある病院長さんが一人で多額の費用を受け持つといわれ、先生方も奇特として喜ばれ、早速御本部を通じ、神様のお言葉を頂かれたところ、「これは一人でする普請やない。全体でする普請や。たとえ一銭ずつでも、多くの人に勤めさせてやって欲しい」とおっしゃった。私が今日まで狭い不都合を我慢して待った理はそこにありますが、今はもう時旬。下から盛り上がる力と神様からのお許し、二つ、共に揃いました。

 お許し頂いた限りは誠心誠意で作り上げたい。なぜならば自分の一身一家に困ったこと、苦しいことが出来た時、そこに座って自らのことを頼む場所じゃないか。人に建ててもらった、人の建てた場所に座って、それで願って助かるかい。そんなに大切な場所を作り上げるのに、それを請負師に請け負わせて、それでよいか。 私はそうじゃないと思う。皆の多くの誠が寄ったのが教会というものだ。何万人という人が一人助かる度毎に、その助かった喜びが、そのままここで伏せこんだ方々のお家へ帰るからだ。

 教会の普請だ。新築だと思ってはならない。銘々の家を建てるんだ。自分の家を作るのなら、いい加減なことをする人は恐らくないだろう。その自分の家より大切な教会を建てさせてもらうのだ。いい加減なことをしていては神様に、自分の家を司ってもらう神様に申し訳ない。ですから皆さんも精神をまとめてしっかりやって下さい。建築に経験のある人は寄って申し出てください。さあ、それではこれからみんなで神様にお勤めをしよう。御本部から、お許し頂いた書類を教祖にお供えして、みんなお勤めをしよう。その後で談じ合いをするが、これは主だった者だけ寄ればよい。

 ところで、これから建築に当たって、経験者は自分がそれぞれ責任持って、その事に当たってくれ。神様に「御本部からお許しを頂きましたから、今日からいよいよ普請にかからせてもらいます」としっかり頼もう。この前の普請の時に私がやかましく言って責任持ってやらせたのに、二人のうち一人は死んだ。そして後の一人は教会の門の際まで来ても中へ入れない。私は知っている。門の中へ入れぬような事、何をしたのだ。未だもって入れぬではないか。私は今日この教会を作るまでには、ならぬ中総てに命がけでやって来た。命がけでやって、やっとここまで来たのだ。私は命がけでやったのだから、あなた方も命がけでついて来りゃいい。今言った、死んだり来られなくなった連中は、きっとフラフラやって来て日当取って、あごで人を使って自分は遊んでいたに違いない。私が今日まで命がけでやってきた事を、これから皆さんに責任持ってやってもらうんだから、冗談ごとじゃない。君たちも責任持ってやらしてもらって下さい。責任持たず、いい加減でやっていいると皆な倒れちゃう。私はそうさせたくない。それだから、この教会の仕事は銘々が責任持ってやらねばならぬ。何故こんなにくどいかというと、いよいよという時になれば、親神様に責任持って頼むんだろう、その尊い場所だもの。

 一人死んだ。一人門内に入れぬ。何した。恩に恩着たら、牛馬の道が見えてくる。しっかり責任持ってやってくれ。「あいつはどうした」と後で僕に言われぬように通って下さい。恐らく生涯にまたとない一身一家にとって良い時旬ですよ。この時旬をはずしてはなりません。私は責任持って今日まで、永い年代一生懸命通さして頂いたから、今では親神様が私の事を責任持って見ててくれます。教会は建った。部内に死人やケガ人が出た、それは困る。どうぞ、皆なしっかりお通りになりますよう、よく頼んでおきますよ。皆なの意志を、家を、子孫を建てるのですから、しっかりやって下さい。 私が今までに一人やれば出来たものを、今日まで待っていた私の腹をよく読んでやらせて貰って下さい。見て見ぬふりしていると、いよいよという時になって、神様に見て見ぬふりをされますよ。

 私が今日までいろいろ尽くしきってきた。これは子供に徳を積ませてやりたかったのです。子供に徳を積ませてやればいいじゃないか。社会の因縁の渦の中に巻き込まれ、因縁どおり倒れて行く子供が可哀想やで。その中を立派に抜けきる徳を持たせておいてやりたいじゃないか。一銭でも良い。子供さんに徳を積ましてやってくれと願うように言うのはここだ。今一つ頼んでおきたいのは、道の仕事は無理にどうせよと神様もおっしゃいません。そこで惜しみの心のある者は絶対にいけません。その返しが来て、神様から命を貸して頂くことを惜しまれたら大変です。それと、如何に私がしっかりした信仰を持っておりましても、皆さんが私を信じ、私にもたれてくれなかったらどうにもなりません。どうか私を信じて通りきって下さい。また役員さんはみなさんの心を買って、働きよいように勤めて下さい。


【足場論】
 「広くの足場、国々まで掛けてくれ。先ず/\の事情、どれだけの足場を掛けても、縄切れば(縄を切れば/縄が切れれば)落ちる。安心なるは一時、風の向き何時(なんどき)難風に誘われな(いつだって難風に誘われるなよ)。どんな理にも遭わんよう〈に気をつけろ〉。一時速やか洗い切る。こう 〈、〉という事情が間違う。風雨という、どういう理が発しる(発する)とも分からん。前々指図、一時洗い切って十分〈に注意して〉足場〈を〉括(くく)り掛け」。(明治26.5.11日夜)。




(私論.私見)