諭し論その3 真心のお供え論、御恩奉じ理立て論、尽し論、日々の運び論、繋ぎ論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「真心のお供え論、御恩奉じ理立て論、尽し論、日々の運び論、繋ぎ論」教理を確認する。」その他参照。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【真心のお供え】
 「中山家が谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、これを教祖にお上げして下さい、と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、『ああ、そうかえ』と仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。それから2、3日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、これを教祖にお上げして頂きとうございます、と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、『直ぐに親神様お供えしておくれ』と非常に御満足の体であらせられた。これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅をついて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅をつくことが出来たので、これも親神様のお陰だ。何は措いてもお初を、というので、そのつき立てのところを取って持って来たのであった。教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。

 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、『
要らんのに無理に食べた時のように一寸も味がない、と仰せられた」。

御恩奉じ理立て、尽し論
 お道教義では、日々生かされている有り難さに対するその御恩奉じとして「理立て」、「尽し運び」を諭されている。お尽し・お運びの大切さが次のように教理化されている。(「」その他参照)

 天理教事典526頁「つくし・はこび(尽くし・運び)」の項は次のように記している。
 信仰的実践の徳目としてあげられる。普通には、「心を尽くし、身を運んでつとめることの意味」である。しかし、実際の場面で熟語的に用いられる場合には、親神に対する報恩の念からする教会への献金、教会への参拝、教会での奉仕を指すことが多い。欲の心を離れて、欲の心の対象となる金銭をお供えし(このことは、しばしば「おつくし」と言われている)、自らのために働く日常生活を離れて教会へ行き、親神に対する報恩の行ないにつくことが、何よりも信仰的歩みの第一であると考えられ、信仰的成人への具体的な過程として、そういう努力をするように教えられている。

  天理教事典526頁「つくす」の項は次のように記している。
 「つくす」は教語とは言えないが、心を尽くすことの大切さが、信仰生活の中で広く勧められている。 特に「親神に対し、誠の心、直実の心を尽くすべきである」というように言われる。「つくす・はこぶ」という言葉が一緒に用いられることが多い。「心を尽くし、身を運ぶ」ということが、信仰生活の要諦であることを示している。そして実際には、心を尽くすことが「お供え」という形であらわされ、身を運ぶということが「教会への参拝と奉仕の姿」にあらわされている。

 天理教事典131頁「御供金(おそなえきん)」の項は次のように記している。
 神にお供えする金銭。特に部内教会および布教所や信者から、記名された御供金で、奉賽金に該当しない喜納金をいう。

 本部の見解としては「つくし・はこび」とは、教会への献金、教会での参拝、奉仕を指すようです。


 お筆先は次のように記されている。
 人のもの 借りたるならば りがいるで
 早く返済 礼を云うなり
三号28

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「価を以って実を買う」。
 「尽すと云うは、金や物を尽すだけを言うのやない。身上貸して頂いているという恩を報じる心を尽すのが、尽しと云うて果たしになるのやで。借りものという理分からねば、尽しようがあるまい。段々と恩が重なるばかりやで。この理よう思案して、つとめなけりゃいかんで」。(明治12.3.4日、枡井、村田、辻、飯降を前にしてのお諭し)
 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速ご恩返しの方法をお伺いした。教祖は、 「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行くことが一番のご恩返しやから、しっかりおたすけするように」と仰せられた。(教祖伝逸話篇127頁「72 救かる身やもの」)
 教祖は「心一条になったので救かったのや」と仰せられ、大層喜んでくださった。定吉は「このような嬉しいことはございません。このご恩は、どうして返させていただけましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられた。それで「どうしたら人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話させていただくのやで」と仰せられ‥。(教祖伝逸話篇 171頁「100 人を救けるのやで」)
  「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや」(教祖伝逸話篇 292頁「178 身上がもとや」)
 
 お指図には次のような御言葉がある。  お指図は次の通り。
 「価を以って実を買う」。
 「金銭一つの道じゃない。神一条は金銭ではいかん。‥  金銭で出来る理であろうまい。神一条は金銭で出来まい」(明治22.8.12、陰暦7.16)。
 「わづか五十年、五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れといへばいこまい、二十年も十年も通れといふのやない、まあ十年の中の三つや、三日の間の道を通ればよいのや、わづか千日の道を通れといふのや」(22.11.7)。
 「一日の日でも心たんのう(足納)の理は受け取る。金銭の心は受け取りはない。心だけ金銭、何程(なにほど)の金を持って来て、今日からと言うても受け取るものやない。これだけよう聞き分け」(明治23.6.17 午前三時半)。
 「思うよう(に)成るもいんねん(因縁)、成らんもいんねん」。皆んな段々いんねん知らず/\越せば、どんないんねんが持って出るや分からん。どねしても(どのようにしても)成らんがいんねん。金銀力(きんぎんちから)で行けば、世上に一つの理もあるまい。金銀力で行かんがいんねんという」(明治23.8.26 補遺)。
 「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け」(25.1.13)
 「尽す一つ、運ぶ一つの事情に、理が治まらにゃならん」(25.7.25)
 「日々運び尽す理を受け取りて日々守護と云う」(26.12.6)
 「しんどの中に実がある、楽の中に実がない」(32.12.6)。
 「これもと(これも、と、)金銭づく(尽く)でする事はどうでもなる。なれど、心を養う理は、金銭ではいかん。これしっかり聞き分け。勝手はならん。金銭で出ける事は小さい」(明治34.5.25)。
 「人を救ける道なら、救かるは天の理である。日々の理である。この道理聞き分けてくれ」(明治34.11.4)。
 「〈神の〉自由(じゅうよう)〈の守護〉というは、何程(どれだけ)の金銭積み立てたと言うて(いうて)成るものやない」(明治35.10.7)。
 「道という尋ねる一つ理、所々一つ〈教会〉名称、この理〈、〉金銭や智者学者で出来たものやない」(明治37.7.15)。
 「元というものは、金銭ずくめ(尽くめ)で買えるものやない。真実の一つ心を出し、一つどうこう理を尋ねば、心は勇んで来る」(明治37.12.17)。
 「この道というは、もう言うまでのものである。金銭ずくで求められやせん。国々所々あちらこちら遠き所より運び来る。又、日々稼ぎという、皆な働いてる人の事を思え。金銭稼ぎ、朝晩(朝から晩) まで働いたとて、何ぼうの(どれだけの)あたゑ(与え)あるか、よう思案せい」(明治40.4.10、陰暦2.28、午後五時半)。

【真心のお供え】
 2016.10.27日、立教179年、中田善亮表統領が、本部直属教会長・教区長への方針発表をしたその中で次のように述べている。(みちのとも、立教179年12月号28−29頁)
 また「おつくし」についても、しっかり説かねばならない。「おつくし」ができなくなると、たすかる道が途切れてしまうからである。「おつくし」によって、たすけてもらった経験があれば、その理が分かる。 説く上には「おたすけ」をしっかりすることが前提となる。「お金のことは言いにくい」と避けていては「よふぼく」は「おつくし」の意味がますます分からなくなる。「おつくし」は「命のつなぎ」であり、親神様にお受け取りいただく真実である。

 また、天理教道友社のインタビュー「新方針について聞く」では次のように述べている。
 「おつくし」についても、しっかり説かねばなりません。「おつくし」ができないのは、その意味が分かっていないからだと思います。 「おつくし」は負担ではありません。親神様にお受け取りいただく真実です。教会長はこれを丁寧に、そして自信を持って説いていただきたいと思います。そのためには、やはり「おたすけ」をすることです。真剣に「たすかり」を求めるなら、「おつくし」は必ず出てくることです。考えてみれば「おつくし」も「ひのきしん」も、すべて日々が基本です。こういった日々の行ないを自然に身に付けるには、子供の頃からの丹精が大切です。親の態度が一番の丹精だと思います。 
(私論.私見)
 中田善亮表統領の「おつくし=献金」論の立場での、「『おつくし』ができなくなると、たすかる道が途切れてしまう』という発言につき、疑念が表明されている。この疑問も尤もであるが、要は理論と実践の相克なところであり、是非は何ともいえないと考える。
 吉岡道太郎近愛三代会長様のお話し「お供えはお救けの副産物」。
 「三代会長様はあるとき、『お供えはなあ、お救けの副産物やで。それなのに皆副産物を追いかけるから、肝心のお救けが鈍り、一も取らず、二も取らずで心を倒してしまうのや。お救けさえあがれば真実は自然と寄ってくるで。何も心配いらん、しっかりお救けに精を出してくれたらよいのや』と部内の会長さんにお諭しされたそうであります」。

【借金してでも尽し運びについて考】
 「借金についてその1」(養徳社発行・本部員叢書2「生涯くるわぬ精神」清水由松より)。
 「私の養父清水与之助は豪胆な一面、手堅い信仰のしかたであった。○○先生とはまったく正反対である。○○先生は借金してでも、多少人に迷惑かゝるのは神様の御用だから致し方ない、やりきるというお方であった。養父は何からでも節約して一切借金をしないように尽し運ぶ、手堅いやり方であった。だからいつも○○先生と意見が対立して、双方譲らず、見ていて冷汗をかゝせるような論争をしたことであった。几帳面にやらぬと気に入らぬ父は、本部のことは何から何まで首を突っ込んで、何一つ知らんことがない程、心にかけてつとめた。(中略)〜明治17年頃、神戸の副講元であった富田伝次郎さんは父を評して、「会長さんはホトトギスみたいや。八千八言、泣きやむまで餌もたべずに泣く、そういう人やった」と述懐しておられたことがあった。父が手堅かったことについて春野喜一さんは、「盲(めくら)が石橋折れはせんかと、叩いて通るようなやり方の人であった」。松村吉太郎先生は、「○○はんは大ざっぱにやるし、清水(与之助)、梅谷(四郎兵衛)さんは手堅いし、わしはその中をとってやって来たのや」とよく話された。父の手堅いやり方について、それでよいかどうか、いつか御母堂様(中山松恵)に伺ったら、「教祖様は貧乏なされたが借金なされたことはない。といって借金してでもせいとはおっしゃらん」と仰せられたことがある。お指図ののどこにも「借金してでもやれ、あとは神が引受けてやる」というお言葉は見当らない。親としては子供が沢山借金をこしらえたら案じずにはおられんのである。初代真柱様は、「そんなに借金をこしらえたり、人を倒したりするのは道やない。堅うやるのが道や」とおきかせ下さり、本席様は、「○○は借金していつも無茶やりよる。あれは”大やまこ”や。あんな”やまこ”あらへん。わしは心配で夜もねられんことがある」とおっしゃった。借金してでも、という心は親を思う真実があるように思えるが、かえって親をやます、心配させる、親不孝になるのである。兵神も父の手堅い信仰をついで、派手ではないが地味にゆくので結構だと思っている。『この道は人を助ける道や』と教祖様はおっしゃった。借金する道ではないのである」。

 ※「やまこ」‥山子。目当てのないことや危ないことなど犯して、万一の大利を得ようとすること。質実でないこと。天理教校論叢第十号「おさしづの方言瞥覧(べつらん)」伊藤明徳・参照。
※なお、教校論叢の同瞥覧に例として掲載のおさしづには、「先の方であら山子や山子や。仕舞いになればよいと言うて居ても、教祖の理これ頼りと言うて行けば、道やないとは言えまい」(おさしづ改修版通巻頁3917)とある。これは、「明治三十三年十一月二十二日 安堵の飯田岩治郎の事情に付、九州地方へ桝井政治郎派出する事願」というお指図中にある。
 借金についてその2」。
 「明治三十三年十一月二十二日 飯田岩治郎(※1)の事情につき、九州地方へ桝井政治郎派出する事願い

 さあさぁ尋ねる事情/\、どうも一時変わりた事情である。この道というは成る程という道の理、道の心たとえ変わりたといえど、道の理変わらにゃ順序、どういうならん処でも通れんではない。これ皆々に何度も諭したる。毎々刻限にも諭してある/\。よう聞き分け。どれだけの者これだけの者寄った処が、一つ心というは、第一道であるという。道は仮名な一つ理が道、理が神である。これまで毎夜/\諭して、刻限同様として数知れん程諭したる。なれど、道はこれまで/\成ったら大丈夫という。これ思て居るからどうもならん。そこで、あちら濁りこちら濁り差すと言うてはならん。真に思わにゃならん。よう聞き分け。順序道諭す。世界色々心変わりて/\も、もうこれ神の理一つ。だゞ一言話し、又刻限一つ角目/\、角目取り繕うてすれば真の道と言わにゃならん。よう聞き分け。たゞ真の道ほっとしてはならん。そこで、夢に知らす/\。これ皆々心得にゃならん。あちらにも反対、こちらにも反対。反対の中に理あったらどうするか。反対の理立ったらどうするか。これまで刻限諭したる。うっかりして居てはならん/\。よう聞き分け。一時抑える/\。どういう理用いるな/\。心には早くと思う処、これ年限歳遅れる程ほどき難くい。ほどき難くいようなってはならん/\。先にほどかにゃならん。よう聞き分け。先の方であら山子や/\。仕舞になればよいと言うて居ても、教祖の理これ頼りと言うて行けば、道やないとは言えまい。これ聞き分け。こういう目論見(もくろみ)/\、角目/\が道である。この言葉は容易ならん諭、これ、皆んな聞き分けて諭さにゃならん。(後略)

 ※1‥飯田岩治郎さんは生駒郡安堵村の出身で、教祖より「水のさづけ」を頂かれた人である。「安堵村の教会は水屋敷で、三島の教会は火屋敷。火がなんぼ盛んでも、水を掛けたらシュウと消える」などと言い始めて、いわゆる「水屋敷事件(安堵事件)」を起こした人である。明治三十年十一月十八日付けで平安支教会長の職を懲戒免職され、本教との関係を絶ち、明治三十二年大成教直轄大道教を創設。明治四十年五月に出直し。教団自体は、終戦後、現在の「大道教」に至る。飯田さんは、後年九州に居住されていたようで、このお指図は、恐らく大道教創設後の何らかの事情で、桝井さんを派出するに付き伺われたものと予測されます。詳しい事情は不明。






(私論.私見)