思案論その5 応法の理、鏡屋敷論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.8日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「応法の理、鏡屋敷論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


応法の理
 教祖のひながたの道は「誠真実の道」として「神一条の道」、「裏の道」とも云われるが、これに対し、当局の圧制から逃れる為に「一寸許した道」として「応法の道」を生み出していくことになった。「応法の道」とは「表の道」であり、「世上道理上の道、世界の道、世上の道、上の道」、「世上一寸始め掛けた道、一寸楽々の道」等々と云いかえられている。社会の常識や慣習、政治、法律、世俗的権威に従う態度の道ということになる。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 お指図には次のような御言葉がある。
この「応法の道」を仮の道とする厳しい戒めとなっている。
 「さあさあ応法応法の心、皆世界応法の理応法の理を以ってこれ一段で済むと思うなよ。未だ未だ神の道がある」(21.11.21)
 「今と云う今は応法の道であるから、心に応法と心胆の理を分けねばならん」(23.9.3)
 「さあさあ遠からず道見える。遠からず理が分かる。遠からず分かる事知らずして、応法世界の理に押され押され、段々根気尽し罪重ね、心一杯働き、働き損になってはならんで。これをよう聞き分け。一日の日を以って尋ねた理の指図、栄えると思うか思うか。栄えると思うか。さあさあ栄えるか。栄えると思えば、大いに取り損ない」(34.2.4)

【鏡屋敷論】 
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 水と神とは 同じこと
 心の汚れを 洗い切る
五下り目五ッ
 欲にきりない 泥水や
 心澄み切れ 極楽や
十下り目四ッ


 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)248−249p「南無という言葉について」より。
 「火は火や、水は水や。何でもないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものゝ一つ。間違うたら(火事や洪水など)、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。さあそうなってきたら、如何な強欲(の者)でも悪気(の者)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れてまず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と云う。”ナム”と云う言葉が先へ出るやろがな。ナムは親々やで。如何な大水も大火事も大風も皆なこれ親の意見やから、知らず/\親を呼び出して頼むというは、仏法というものを人間の心を和らげるために教えておいたのやで、と仰いました。教祖様が、こうやってお聞かせ下された事がある。『(五本の指の双方とも、親指をおまわし遊ばされ)今迄はこの通り親が働いていた。そこで、何の信心でも利益があったやろ。これからは(親指を手のひらへ付けて)こんなもんや。真実の親はこの屋敷へ留まっている』と」。

 お指図には次のような御言葉がある。

 「鏡屋敷、鏡ならどういう事もこういう事も、皆映る。善き事悪しきこと映るであろう」(20.3.25)
 「この屋敷は何屋敷と云うか、聞いて居るか。神屋敷と云う。神屋敷ならば神のまま聞くならば神が支配する」(23.4.19)
 「人間心を持たず、曇り無きより鏡屋敷と云う」(23.6.21)
 「神一条の道は神屋敷、鏡屋敷と云う」(23.6.21)
 「澄んだ道から澄んだ心が鏡屋敷。澄み切ったもの、曇りあっては世界映ろうまい。少しでも曇りあっては、世界は丸曇り」(28.3.18)
 「鏡屋敷なら、鏡屋敷のように通らにゃ鏡屋敷と云えん」(34.5.25)
 「澄んだ道から澄んだ心が鏡屋敷、澄み切ったもの。曇りあっては世界映ろうまい。少しでも曇りあっては、世界は丸曇り」(明治28.3.18)
 「ぢばも鏡なら世上も鏡、世上の理も映ればぢばの曇りも皆映る」(明治30.2..1)
 「鏡曇らしてはどんならん。鏡屋敷に曇りありては助けることでけん。しんが濁れば傍が皆濁る」(22.7.31)





(私論.私見)