|
「おつくし考 ①」。 |
天理教事典526頁「つくし・はこび(尽くし・運び)」の項は次のように記している。
つくし・はこび
信仰的実践の徳目としてあげられる。普通には「心を尽くし、身を運んでつとめることの意味」である。しかし、実際の場面で熟語的に用いられる場合には、親神に対する報恩の念からする、教会への献金、教会への参拝、教会での奉仕を指すことが多い。 欲の心を離れて、欲の心の対象となる金銭をお供えし(このことは、しばしば「おつくし」と言われている)、自らのために働く日常生活を離れて教会へ行き、親神に対する報恩の行ないにつくことが、何よりも信仰的歩みの第一であると考えられ、信仰的成人への具体的な過程として、そういう努力をするように教えられている。
|
天理教事典526頁「つくす」の項は次のように記している。
つくす
「つくす」は教語とは言えないが、心を尽くすことの大切さが、信仰生活の中で広く勧められている。 特に「親神に対し、誠の心、直実の心を尽くすべきである」というように言われる。「つくす・はこぶ」という言葉が一緒に用いられることが多い。「心を尽くし、身を運ぶ」ということが、信仰生活の要諦であることを示している。そして実際には、心を尽くすことが「お供え」という形であらわされ、身を運ぶということが「教会への参拝と奉仕の姿」にあらわされている。
〔天理教事典 「つくす」〕
|
天理教事典131頁「御供金(おそなえきん)」の項次のように記している。
御供金
神にお供えする金銭。特に部内教会および布教所や信者から、記名された御供金で、奉賽金に該当しない喜納金をいう。
|
本部の見解としては「つくし・はこび」とは、教会への献金、教会での参拝、奉仕を指すようです。
|
2016.10.27日、立教179年、中田善亮表統領が、本部直属教会長・教区長への方針発表をしたその中で次のように述べている。
また「おつくし」についても、しっかり説かねばならない。「おつくし」ができなくなると、たすかる道が途切れてしまうからである。「おつくし」によって、たすけてもらった経験があれば、その理が分かる。
説く上には「おたすけ」をしっかりすることが前提となる。「お金のことは言いにくい」と避けていては「よふぼく」は「おつくし」の意味がますます分からなくなる。「おつくし」は「命のつなぎ」であり、親神様にお受け取りいただく真実である。
〔みちのとも 立教179年12月号 28~29頁〕 |
また、天理教道友社のインタビュー「新方針について聞く」では次のように述べている。
「おつくし」についても、しっかり説かねばなりません。「おつくし」ができないのは、その意味が分かっていないからだと思います。 「おつくし」は負担ではありません。親神様にお受け取りいただく真実です。教会長はこれを丁寧に、そして自信を持って説いていただきたいと思います。そのためには、やはり「おたすけ」をすることです。真剣に「たすかり」を求めるなら、「おつくし」は必ず出てくることです。考えてみれば「おつくし」も「ひのきしん」も、すべて日々が基本です。こういった日々の行ないを自然に身に付けるには、子供の頃からの丹精が大切です。親の態度が一番の丹精だと思います。
|
|
(私論.私見) |
中田善亮表統領の「おつくし=献金」論の立場での「『おつくし』ができなくなると、たすかる道が途切れてしまう』という発言につき、「それでは月日親神様・おやさまに伺ってみましょう」と疑念が表明されている。この疑問も尤もであるが、要は理論と実践の相克なところであり、是非は何ともいえないと考える。 |
吉岡道太郎近愛三代会長様のお話し「お供えはお救けの副産物」。
「三代会長様はあるとき、『お供えはなあ、お救けの副産物やで。それなのに皆副産物を追いかけるから、肝心のお救けが鈍り、一も取らず、二も取らずで心を倒してしまうのや。お救けさえあがれば真実は自然と寄ってくるで。何も心配いらん、しっかりお救けに精を出してくれたらよいのや』と部内の会長さんにお諭しされたそうであります」。 |
|