その5 迫害論、節から芽が出る論、路銀論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.20日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「迫害論、節芽論、路銀論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


迫害論
 「『本気になってこの道を止めたら、その者の息の根が止まる』。教祖御在世の間、教祖に迫害攻撃を加えに来た者があったが、しかし、その人達は自身の意志から邪魔をしたのではなく、上の者の命令を受けてやって来たのだから、神様はお許しになったので、自分自身の意志によって止めたりしたならば、それだけ神様のお叱りを受けている筈である」。
 (「増野鼓雪選集第二巻」107ページより「迫害について 」)

節芽論

 「節から芽が出る」 

路銀論
 一般的な意味での「ろぎん(路銀)」とは、旅をする際の宿泊や食費などの旅費にあてるお金のことを云う。お道では、旅のお金のことではなく、助け一条の旅に出る布教師に親神様から授けて下さる「おさづけ」を効能として、その対価として得られる謝礼金のことを云う。「おさづけ」を「ろぎん(路銀)」と表現されたのは、教祖(おやさま)が「肥のさづけ」を下さるときに「長の道中路銀無うては来られようまい、路銀として肥授けよう」と仰せられたことに始まる。この他にも、「教会名称の理」を許されたことは「ろぎん(路銀)」を渡したようなものであるという意味にも使われている。「心のろぎん」(お指図、明治31.3.30日)という表現も使われている。

 一ッ広い世界を 打ち回わり
 一せん二せんで たすけ行く
み神楽歌九下り目一ッ

 「長の道中路銀無うては来られようまい、路銀として肥授けよう」。
 「三杯たべるものを二杯にして、身の暮しをつつましやかにして、一杯を人さまから喜んでもらう。こうしてたすけてもらうこと」。
(私論.私見)
 本部教理では、布教に使う「お授け」そのものを「路銀」(ろぎん)としているが、違うと思う。み神楽歌九下り目一ッの「広い世界を 打ち回わり 一せん二せんで たすけ行く」が根拠となる。このみ神楽歌の「一せん二せん」を「一洗二洗」と解する向きもあるが、「一銭二銭」と受け取る方が素直であろう。み神楽歌の神楽踊りでは、このところで「一本二本と指を出し、これを両手で受ける」手振りをする。これより思案すれば、「“道の路銀”と仰せ下されてある『お授け』を取りついで、一銭二銭の喜捨(きしゃ)をもらいながら難儀不自由の人々を求めてたすけて行く」と受け取るべきであろう。




(私論.私見)