「その理由は、起源を縄文時代にまで遡ることのできる古き神の道を、政治的な理由によって天皇家を中心とした国家神道へと変質させ、やがて破滅に向かって突き進んでしまうこの国を救う為だったからではないでしょうか。私には中山みきさんの生涯には人を助けるという目的だけでなく、国家神道に決して屈服しない古き神の意地というべきものがあるように思えます」。 |
興味深い指摘であり、これについては改めて考察する。
中山ミキ思想の古神道との通底考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.7.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
【「中山ミキ思想の古神道との通底性」について】 | |
「中山ミキ思想の古神道との通底性」を確認しておく。中山みき思想が日本古来の縄文的古神道の精華である出雲-三輪山神道と通底している気配が認められる。例えば、天理教では柏手を四つ打つが、これは出雲大社も同じで、真柱という用語も共通している。「中山みきによる古代神の復権」は次のように記している。
興味深い指摘であり、これについては改めて考察する。 |
【「中山ミキ思想と日月神示の通底性、齟齬性」について】 |
最近、大本教系譜のは画家にして神道家、神典研究家である岡本天明氏が神掛かり自動書記したとされる「日月神示」なる霊能教が登場している。れんだいこが、その幾冊かを読み取るのに、興味深い内容になっている面と同時に危うい解釈が散見する。そこで、どう理解すべきかコメントしておく。「ウィキぺディア岡本天明」、「ウィキぺディア日月神示」その他を参照する。
岡本天明 (おかもと てんめい、1897(明治30).12.4日 -1963(昭和38).4.7日)は、1944(昭和19).6.10年、大東亜戦争が終結する約1年2ヶ月前のこの日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天之日津久神社を参拝した直後、同神社の社務所で後に「日月神示」(別名「ひふみ神示」、「一二三神示」)と云われる「神示」を自動書記し始め、これが止まることなく約17年間にわたって続いた。日月神示の内容は極めて広範囲にわたり、そのそれぞれに多くの記述が見られるが「人間の生き方」、「正しい食生活について」、「夫婦の本当のありかた」、「霊界の実相」、未来に関するいわゆる「予言書」的な記述が注目されている。「神示」は後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられ発刊された。原文は漢数字とカナ文字と記号、抽象的な絵などからなり、書記した天明自身が当初はまったく読めなかったと云われる。その後、仲間の神典研究家や霊能者の協力のもと少しずつ解読が進んでいるが、「神示」が「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」とも述べており全貌解読が困難であることを告げている。1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作等により広く一般にも知られるようになってきている。 |
【「日月神示語録」考】 |
天明が麻賀多神社の社務所で最初に自動書記した原文は下のようなものであった。「二二八八れ十二ほん八れ ㋹の九二のま九十の㋹のちからをあら八す四十七れる」。これは次のように解読されている。「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」。 続いて、「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四 いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 九の四八まって二十十七一九六てある」。次のように解読されている。「仏もキリストも何もかもハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ 今一苦労あるが この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ この世始まって二度とない苦労である」。解釈として、「マコトの神が世に出現して神の力を現して、すべてを助け何の苦労もない理想的な世界に立て直していくが、その前には人類は未だかつてなかった程の大災厄や大試練を迎えなければならない。助かる為には身魂(心、精神、身体)を絶え間なく磨き、鍛練つつ備えよ。磨いていなければ助かることが出来ない」。(※日月神示の中ではこのような大災厄や大試練を大峠や三千世界の大洗濯と呼んで、多くの帖で書記されている。この大峠は我々の住む現界のみならず、いわゆる霊界等も含めすべての世界とすべての存在に等しく起こると神示には記されている) 日月神示はそのほとんどが数字や記号で書記されているが、その理由を神霊自らが神示の中で次のように述べている。「高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなす「レ」と「〇」と「+」があるのみ。また高度の霊人の文字として、殆ど(ほとんど)数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである」(二日んの巻第十三帖)。「天人同志の文字は数字が多いぞ。天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝え得るぞ」(「星座之巻」第十八帖、第十九帖)。 また、一方ではこの神示は単に現界に生きる人間のみならず、天界や霊界、また、その他多くの世界に住んでいる存在(神、竜神、天人、天使、霊人達)にも等しく与えられているらしい次のような記述も見られる。「この神示は、神と竜神と天人天使と人民たちに与えてあるのぢゃ」と「極め之巻」第十八帖で述べられている。 「下つ巻」第一帖や「黄金の巻」第二帖で、「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ」、「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ」。「アメの巻」第一帖で、「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ」と述べている。神示を宗教でもなく教えでもなく三千世界の大道だと語っていることになる。 神の「しるし」や「証し」として重要視、神聖視されている奇跡に対して、これを否定し次のように述べている。「二日んの巻」第十三帖で、「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない」。「黄金の巻」第二十二帖で、「奇跡では改心出来んのであるぞ」。「龍音の巻」第十八帖で、「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか」。 修行の一環としての断食を厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖で、「滝に打たれ断食する様な行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ」。更に、「正しい食生活について」、「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふへて弥栄へるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ」(春の巻第五帖)。 多食や肉食について戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ」(冬の巻捕帖)。「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。 「人間の生き方」に関しては次の記述が代表的なものであろう。「臣民にわかる様にいうなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ」(日月の巻第十五帖)。 更に夫婦のありかたについては次のように述べられている。「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ」(黄金の巻第九十九帖)、更には「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で信仰の礎であると語られている。 日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、ほとんどがこれらについての記述である。そのなかでも、我々が住んでいるこの現界と関係が深いと思われるもので主なものを以下に箇条書きで記す。「広く霊界といっても神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる」、「天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる」。「幽界は人間界(現界)と最も深い関係にあり、初期の神懸かりの殆んどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である」。「高度の霊がただちに肉体人に感応する事はなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない」。「 目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいる為、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るのでこれも注意が必要である」。「高度なものはその人間の心(精神)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される」。「下級霊が懸かった霊媒の態度や所作、動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらは良く見極めれば判る」。「特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりする事がある。また天使の霊が母体(母胎)に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人が沢山ある」。「特別の使命を持つ天使は別として、人間霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば神、天狗、仙人、狐、狸、猫などが大部分である」。「先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊の知っていることを、直ちに知り得るからである」。「動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んで其処に有る道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る」。「基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合が有る」。「例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっている事も有る。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破る事が中々難しい」。「人間霊の場合でも或種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信を以って断言する場合が多い。人間の知らぬ世界の事を自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう」。「仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある」。「竜体(竜神の事か?)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである」。「先祖霊が出る場合は、何か頼みたい事が有る場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない」。
天明に日月神示が降り始めてから、まだ1年も経たない昭和20年の4月か5月のある日に(天明はこの頃は上記した東京、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社で留守神主をしていた)、神前に座ると神霊の「天明、此所をやめい」と言うお告げが有り、これはそれから3日間にわたって連日続いたという。この後、天明が留守神主を辞職した直後の5月26日に米国軍の焼夷弾が本殿に落下し、危ういところで天明は一命を救われたという。左記の事実は岡本三典が天明から直接に聞いた話として三典の著書(『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)に記されている。 日月神示の書記が始まった数日後、枢軸国側と日本の敗戦を告げているらしい記述が見られる。「上つ巻」第四帖(書記日、昭和19年6月13日)では「ドイツもイタリアもあてにならぬ、世界中一つになりて㋹の国に寄せて来るぞ。それなのに今のやり方でよいと思うてゐるのか」(原文ではドイツは卍、イタリアは一十と書記されている)、更には日本がその後、国家としての存続が危ぶまれるほどの大打撃を受け、東京もあたり一帯が焦土と化し焼け野原になってしまうらしい事が、「日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ」(同巻第九帖、書記日、昭和19年6月17日)、「東京も元の土に一ときはかえるから、その積りでゐて呉れよ。神の申したこと違はんぞ」(同巻第十一帖、書記日、昭和19年6月19日)、「江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ」(下つ巻第十六帖、書記日、昭和19年7月21日)と書記されている。 終戦の約2カ月前に書記された「松の巻」第七帖(書記日、昭和20年6月23日)では「偉い人皆俘虜(とりこ)となるぞ。夜明け近くなったぞ。夜明けたらなにもかもはっきりするぞ。夜明前は闇より暗いぞ慌てるでないぞ」とあり、間もなく戦争が終わるらしい事と指導者達(政治家高官や軍事関係者上層部)が戦犯として逮捕、収監されるらしい事がこの時点ではっきりと述べられている。なお、上記した終戦時に自殺を思いとどまった軍人達の中にはこの記述を知っていた者もかなりの人数がいたと言われている。神示にはまた、敗戦後の復興や経済的な発展、そして日本人の精神的な凋落ぶりを指摘していると思われる帖も有るという。「アメの巻」第十四帖(書記日、昭和20年12月18日)では「今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返へすぞ」や「三の巻」(うみの巻)第四帖(書記日、昭和22年8月14日)でも「出てきてから、又同じ様なこと繰り返すぞ、今度は魂抜けてゐるからグニャグニャぞ、グニャグニャ細工しか出来んぞ、それに迷ふでないぞ」とあり、これらは逮捕、収監されていた者も釈放、解放される事。また、敗戦後の復興の反面、精神的に退廃する社会や無気力な人間が多く現われて来る様子を書記させたものだと言われている。また、「黄金の巻」第五十九帖(書記日、昭和24年12月7日)では「金で世を治めて、金で潰して、地固めしてみろくの世(ミロクの世)と致すのぢゃ」と語られている。 国常立尊と過去の預言者達神示の中ではこれから起こるらしい大災厄や戦乱を「大峠」や「三千世界の大洗濯」と呼び、それらは現界に生きている人間のみならず霊界等も含めた全ての世界に等しく起こるとされ、神霊の別の言葉によれば「三千世界すべての大建替」になるという。また、洋の東西を問わず、預言者と称される人間が過去に幾人か現れて現在の世界が大災厄と大戦乱の末に終焉を迎える事と、その後にそれまでと全く異なる新しい「理想世界」の到来する事を説いているが、それらもすべて「国常立尊」と呼ばれるこの神霊の仕組みであったと神霊自身は語っている。「一火リの巻」(ヒカリの巻)第四帖で「世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱現はしてあろが、これは皆この方の仕組ぢゃから皆仲良う手引き合ってやって呉れよ。」と述べられ、時代や国、地域を超えて古くからこの神霊の仕組みや働きがあったものと考えられている。 なお、この先に起こるらしい未来の出来事やその対処について、神霊は「この先どうしたらよいかと云ふ事は、世界中金の草鞋(わらじ)で捜しても九九(ここ)より他分からんのざから、改心して訪ねて御座れ。手取りてよき方に廻してやるぞ」(松の巻第五帖)や「世が引繰り返って元の神世に返るといふことは、神神様には分って居れど、世界ところどころにその事知らし告げる神柱あるなれど、最後のことは九(こ)の神でないと分らんぞ。」(下つ巻第二十三帖)、「あちこちに臣民の肉体かりて予言する神が沢山出てゐるなれど、九分九厘は分りて居れども、とどめの最后(最期)分らんから、この方に従ひて御用せよと申してゐるのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ。」(天つ巻第四帖)と語っており、高級神霊や高級霊でも必ずしもその全てが、今後に起こる未来の正確な出来事やその結末、また救われる為にはどうすればよいのかといった対処の仕方や救済の方法を知っている訳ではないらしいという記述が見られる。 また、「みろくの世」(ミロクの世)と神霊が呼ぶ理想世界が来る前には我々が住むこの現界でもこうした肝心な事が何もわからない神(低級な神)や霊に憑かれた怪しげな予言者や神懸り、霊懸りした宗教家(低級な神や霊が懸った宗教家)や指導者(同じく低級な神や霊が懸った霊能者やチャネラー)などが多く現れて、世の人を惑わすらしいと記されている次のような帖もある。「夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、勝手放題にまぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言。」(星座之巻第十八帖)で書記され、こうした混乱も一時的で束の間のものでしかないと語られている。 しかし、一方では、「小さい事はサニワで家来の神神様から知らすのであるから、その事忘れるなよ」(下つ巻第二十六帖)や「ひむかとは神を迎えることぞ、ひむかのお役は人の病をなほして(治して)神の方へ向けさすお役ぞ」(上つ巻第五帖)と書記されている帖もあり、大きなことではなくても、国常立尊の眷属の神霊やその系統の神霊による知らせ、病気治しなどの働きとそうした仲介と役割を持つ現界の人間も存在するらしいことが述べられている。 三千世界の大洗濯と大峠神示には過去にも世の建替は6度あったとあり、今後に起こるとされる大建替で7度目だという。そして、これが最後なのだとも書記されている。過去6度のそれぞれについてはその全てが現界のみの建替でしかなかった為に、すぐに元に戻り根本的な大建替にはならなかったのだという。そして、今後に起こるとされる大建替では過去にあったそれらとは全く異なり、この現界はもちろんの事、神界、霊界、幽界等も含めた全ての世界に起こり、天明が最初に麻賀多神社の社務所で書記させられたように、文字通り「この世始まって二度とない苦労」になるのだとされる。 「松の巻」第十二帖では「前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって悪は走れば、苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ。」や「天つ巻」第二帖でも「これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元にかへるのぞ。今度は今までにない、文(ふみ)にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく神界も引っくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらに御座る守護神さまには分らんのぞ。」続いて、「戦ばかりでないぞ、天災ばかりでないぞ、上(天界)も潰れるぞ、下(現界)も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、つくりかためのいよいよのことは、神神様にも分りては居らんのざぞ。」(同じく「天つ巻」第二帖)、更には「今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。」(松の巻第八帖)と述べられ、今までの建替とは違い三千世界すべてに渡って起こる大災厄と大建替、大建直になる事と国常立尊をはじめとした一部の高級神霊しか、それらの仕組みが分らないらしい事がここでも述べられている。 また、今度の建替と建直については次のように述べられている帖もある。「建替と申すのは、神界、幽界、顕界(現界)にある今までの事をきれいに塵(ちり)一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直と申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。」(水の巻第十二帖)とあり、今度の大建替があらゆる世界に及ぶ事とその後の建直では想像を絶するような光の世界が到来することが書記されている。 予兆
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参考文献 |
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(私論.私見)