良きように受け取る理、どの日柄も吉日論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「良きように受け取る理、どの日柄も吉日論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【良きように受け取る理】
 「良きように受け取る理」の逸話は次の通り。
 私が大和へはじめて来たころに聞いた話だが、ある人が、教祖に『世界では、教祖を”きつねつき”と言っておりますが』と申し上げると、教祖は『結構なことや。”きつね”といったら、根がきついことや。根がきつかったら枝葉が栄える』と申されたという。(「きつねつき」、昭和五十九年六月発行、高野友治著「創象24」15pより)
 河内に法善寺という村があった(今の柏原市法善寺)。そこの信者たちが、数人して教祖の許へお詣りに出た。その中に婦人もいた。乳呑み児を背負うて来た人もいた。教祖の前に出て、子供を抱いて、お話を聞いていると、教祖が、その子一寸かしてみなさい、と言って、御自分の膝においてあやされた。子供は小便を垂れた。母親が恐縮して、あわててお詫びするのだが、教祖は、『いいで、いいで。肥かけてもろたら太るだけや』と優しく言われたという。(「肥をかけてもらえば」、昭和五十四年十月発行、高野友治著作集第六巻「神の出現とその周辺」(道友社)130pより)。

【どの日柄も吉日論】
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「60. 金米糖の御供」。
 教祖は、金米糖の御供をお渡し下さる時、『ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで』と、お説き聞かせ下された。又、『一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理』と、お聞かせ下された。

 173「金米糖の御供」。
 一年中一日も悪い日はない。皆な良い日やで。

 「年中是皆良日」(上村福太郎「教祖の御姿を偲ぶ 改訂新版」212−213p(道友社新書、平成5年10月発行)。稿本天理教教祖伝逸話篇173「皆、吉い日やで」もほぼ同文)。 教祖は、高井直吉に、「『不足に思う日はない。皆な吉(よ)い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆なの心の勇む日が一番吉い日やで』と教えられた」。

 「教祖から教えて頂かれた高井猶吉先生のお話し。陽気楽しみをもって、この世をはじめた。
一日 もののはじまりは一なるが故にはじまり。
二日 よきこと二つよせるとたっぷり。
三日 みにつく身についてくる。
四日 しやわせ。
五日 りをふく。
六日 六だいはじまる。くにとこたちのみこと、をもたりのみこと、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみこと。
七日 なんにもいうことない。
八日 八方ひろがる。
九日 苦がなくなる。
十日 十ぶん。
十一日 十ぶんはじまる。
以下、同じく十ぶんの下に二から十までの文句をつけてとなえること。たとえば、十分苦がなくなるの如し。
二十日 十ぶんたっぷり。
二十一日 十ぶんたっぷりはじまる。
以下、十ぶんたっぷりの下に、二から九までの文句をつづけてとなえること。たとえば、十ぶんたっぷり苦がなくなるの如し。
三十日 十十たっぷり。
一月は三十日、三十日が十二あつまって一ヵ年、年中悪い日はないはずのこと。
 お指図には次のような御言葉がある。

十分の理
 『十分は、こぼれると云うて、十分のその上は、こぼれると云う理がある。こぼれては、結構とは云えん。こぼれては、こぼれただけは、無駄である程に。そこで、身上の道具を、九つ貸してある』とお聞かせ下された。そこで九のどう(胴)と云う」。(「十分はこぼれる」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)247ページより)




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