宮家 準(國學院大學神道文化学部教授)「民俗宗教における柱の信仰と儀礼」。
「柱」考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.7.21日
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【「柱」考】 |
宮家 準(國學院大學神道文化学部教授)「民俗宗教における柱の信仰と儀礼」。
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序 縄文時代を代表する三内丸山遺跡では、6本の巨大な柱を立てて西方のはるか彼方の山に沈む太陽を拝し、さらに柱を天と地を結ぶ架け橋としたことが推測されている。また日本では古来神格の名数として柱が用いられている。このハシラの語義に関しては「ハシ」は屋根と地のハシ(間)にある物の意、ラは助辞(古事記伝、雅言考、大言海)。ハシラ(間等)の義(言元梯)。ハは永久の義、シラはシルシ(標)の義(古史通)とされている。これを宗教的に敷衍すると、ハシラは上と下の間にあって両者を永久に結びつける標と考えることができる。なお日本の民俗宗教では、柱は神霊の「依り代」とされており、このことが神格の名数を柱とする根拠となっているのである。 本講演ではこうしたことを考慮に入れて、日本の民俗宗教に見られる柱の信仰と儀礼を民俗儀礼に見られる柱、記紀神話の天の御柱、中世神話に於けるその解釈、伊勢神宮の心御柱、吉田神道の大元宮の柱、修験道の柱源護摩や柱松、天理教のかんろだいの順に比較検討し、最後にこれらをアジアの民俗宗教に見られる柱の信仰と儀礼と比較してみることにしたい。なお本講演の視点は柱という宗教的なシンボル、それをめぐってなされる儀礼の根底にひそむ意味を解明するという視点に立っている。その際に柱にかかわる種々宗教現象を相互に比較して本質を解明するという視点に立つものゆえ、歴史学などのように史料の吟味を厳格に行うものではなく、その現象をどう読みとるかということを目的とするものであることを、あらかじめおことわりしておきたい。 |
1.民俗儀礼に見られる柱 一般の民家で最も重要視されるのは土間との境に立つ大黒柱である。この柱は建前の最初に御神酒や塩で清めた礎石の上に立てられ、御幣をつけ、蓑と笠がぶらさげられる。そして家を建て終えると大黒柱の上方に大黒と恵比寿をまつり、粥などを供えて守護を祈願する。なおすでにある家に転居した際にも、まず大黒柱に粥を供えて守護を祈っている。そこで暮らすようになると正月に粥を供えて祈願したり、主婦が布を織りおえたり、夫や子供の衣物を縫いおえると、まず大黒柱に懸けて、祈りをこめていた。ちなみに童謡に「柱の疵はおととしの五月五日の背くらべ」と歌われているが、この柱は子供の成育を見守る大黒柱を意味している。このように大黒柱は家屋を支えるのみでなく、家族を守護し、その成育を助けると信じられたのである。こうしたこともあって、一家を支える人を大黒柱といったり、主婦をうちの大黒と呼んでいる。神社の祭礼などで神霊の「依り代」として柱を立てることは、つとに柳田国男、折口信夫によって指摘され(3)、全国各地の事例が報告されているが、ここでは卯月8日の「天道花てんどうばな」と盆の「柱松はしらまつ」について簡単に紹介しておきたい。卯月(4月)8日は、柳田民俗学では水分神と祖霊の性格を持つ山の神が里人に迎えられて田の神となり、稲の生長を守り始める日とされている。この神は収穫後の秋に子孫と新穀を共食したうえで再び山に帰って山の神となる。これが神社の春祭り、秋祭りのはじまりとしている。この卯月八日に山の神を里に迎えるにあたって、里人はツツジ、シャクナゲ、ウツギなどの花を長い竿の先につけた天道花を庭や軒先に立てている。これは山の神霊の「招ぎ代」ともいえるものである。この天道花は八日花、夏花、立て花とも呼ばれている。日本の仏教では4月8日を釈迦の誕生日とし、各寺では屋根を花でかざった小さな花御堂に誕生仏を安置して甘茶を灌いで祝っている(4)。 盆には寺院の境内などに柴草で作った柱の先端に御幣や榊をつけたものを立てて、下から松明などを投げて御幣への点火を競う柱松という行事が畿内、長野、山口などで行われている。また各地で新仏が迷わずに家に帰るように頂に葉をつけた杉、檜、竹を立て、中ほどにこれも葉をつけた横木をわたす「高灯籠」が立てられている。この両者はともに祖霊を迎える招ぎ代と考えられるものである。ただ後述するように戸隠、英彦山などでは「柱松はしらまつ」とよばれる独自の修験行事がある。 |
2.記紀神話に見られる柱 今は日本神話といった場合は、まず古事記があげられるが、これは本居宣長が古事記伝を著わして以後のことで、本講演で主にとりあげる中世神話、吉田神道、修験道では、日本書紀の影響がより強く認められる。そこで、ここではまず、日本書紀の天地開闢と国土形成の神話に見られる柱にかかわる記述を紹介しておきたい。 日本書紀の本文では天地開闢に関しては天地陰陽が分れず鶏卵のように混沌とした状態の時、ほの黒い中に「牙きざし」があらわれ、清く明るいものがたなびいて天、重く濁ったものが土となった。そしてこの後に「神聖かみ」が生まれた。なお天地開闢の始めの大地は、水の上に浮かぶ魚のような状態であった。その時天地の中から「葦牙あしかび」のようなものがあらわれ、それが国常立尊になったとしている。ここでは混沌の中からまず「牙」があらわれ、ついで天地・陰陽が成立し、神聖が出現していること、天地の中から葦牙のようなものが生じ、それが国常立尊となっていることに注目しておきたい。 一方、古事記では、天地開闢の時、高天原に天御中主神、高皇産霊神、神産巣日神の独神が現れて身を隠した。ついで国が稚く浮脂のようにただよっている時、葦牙のように萌えあがるものがあらわれ、そこから宇麻うま志阿しあ斯訶備比しかびひ古遲神こじのかみ、天之常立神の独神が現れて姿を隠したとしている。このように古事記では、まず高天原での独神の出現が語られ、葦牙から生まれた神も、天之常立神とするというように天界に力点が置かれているのである。 国生みに関しては日本書紀の本文では伊弉諾尊と伊弉冉尊が天浮橋に立って、この底つ下に国があるに違いないと云って「天あまの瓊矛ぬぼこ」を下して探ると青海原があった。さらに矛の先からしたたり落ちた潮がかたまって島が出来た。そこで二人の神はこの島をオノコロ島と名づけ、そこに降って、この嶋を国中の柱として、男神は左から女神は右からまわってミトノマグワイをして日本の国々山川草木、神々を生んだとしている。なお日本書紀の一書では二神はオノコロ島に降って八尋やひろの殿を化作みたて、また天の御柱を化堅みたてて、その柱をまわってミトノマグワイをしたとしている。ただし古事記では、天つ神が二神にただよっている国を固めるよう命じて、天の瓊矛を与え、それに応じて二神が矛で海を探り、潮が固まって出来たオノコロ島に降りて、天の御柱を見立て、さらに八尋殿を見立てて、その周囲をまわってミトノマグワイをし、国生みを行ったとしている。いずれにしろ国生みの話では海をかきまぜ、天の瓊矛からしたたりおちた潮がかたまって島となり、その島に天降った二神が八尋殿に安置されたと思われる天の御柱をまわって日本の国土、山川草木、神々を生むというように、矛、柱が国を始め万物を生み出す根源ともいえる重要な要素となっている。その際日本書紀では、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神が相談の上で国生みをしているのに対して、古事記では天の神の命令でなされているということが大きく異なっている。 |
3.中世神話に見られる柱 中世になると、伊勢神道などで日本書紀に見られる天地開闢や国土の形成の神話を仏教、とくに密教の視点から捉えなおすことが試みられた。周知のように伊勢神道は鎌倉初期から中期にかけて成立した神道五部書に始まり、度会家行(1256-1356)の類聚神祇本源によって大成された。本書の中で家行は日本の天地開闢神話を論じるにあたって官家(日本書紀、先代旧事本紀など)、社家(「神道五部書」など)、釈家(『大和葛城宝山記』など)のそれぞれ括弧内に入れた書物などを引用している。ここでは後にとりあげる修験道や吉田神道にもその影響が見られる、葛城を拠点とした修験者の手による『大和葛城宝山記』の開闢神話を検討することにしたい。本書ではまず冒頭に「神祇」の項を設けて、水が変じて天地が生じたとし、その経緯を次のように説明している。十方の風が相触れて大水を保っていた。その水の上に1000 の頭2000 の手足を持つ異形の神聖かみが化生した。この神はヴィシュヌ神で常住慈悲神王と名づけられた。この神の臍から多くの太陽が照らすような明るい光を発する金色の1000 の花弁を持つ妙宝蓮華が出現し、その中に結跏趺坐した人神がやはり無量の光明をはなっていた。この神は梵天王と名づけられたが、その心から八子が生まれ、八子は天地人民を生んだ。なおこの梵天王は天神とも名づけられ、天帝の祖神であるとしている。ヴィシュヌ神は紀元前12 世紀から、紀元前3世紀頃に成立したリグ・ヴェーダに見られるヒンズー教の太陽神で、迦楼羅かるら(金翅鳥)を乗り物とし、大蛇を敷物とするとしている。ちなみに日本では迦楼羅は烏天狗とされている。一方梵天王は万物の根源であるブラフマンを神格化したもので、諸王の長である。なお上記の記述のうち、最初から梵天王の八子が天地人民を生むとの記載までは『雑譬喩経ぞうひゆきょう』(一名『菩薩度人経』)の引用である。そしてこの経の記載をうける形で梵天王は天神で天皇の祖神としているのである。国生みに関しては「大日本洲造化の神」の項に、第六天宮の主の大自在天王でもある伊弉諾尊、伊弉冉尊の二尊は「皇天」(「天神」か)から天の瓊矛を受けて、その呪力を用いて日神、月神を作り、四天下を照らすとともに山川草木を加持して、種々の未曽有のことを行なった。そして中国やインドの衆生を救済し、現在は日本の金剛山にいるとしている。ここでは諾・冉二尊の本地を第六天宮の主の大自在天王としている。そして天の瓊戈は日月を作り、山川草木に奇瑞をもたらす呪具としている。なお『大和葛城宝山記』では、上記の冒頭の天地開闢の記述の他に「水大の元始」の項で、高天の海原に生じた葦牙のような霊物から神聖かみが化生し、天神、大梵天王、尸棄大梵天王と名づけられた。この霊物は天帝の御代には天の瓊矛、金剛宝杵と呼ばれ、神人の財とされた。地神の御代には天のあめの御量柱みはかりばしら、国の御量柱とされ、日本の国の中央に立てて、常住慈悲心王の柱、正覚正智の宝として心の御柱と名づけられた。なお天地人民、東西南北、日月星辰、山川草木のすべては天の瓊矛の応変ゆえ、不二平等である。そして葛城山の守護神の発起王が「心柱の三昧耶形は独鈷、すなわち金剛宝杵で独一法身の智剣である。この不動明王の大悲の徳を示すために海の水が変じて独鈷の形となったのである。さらに独鈷は倶利迦くりか羅竜王らりゅうおう、明王、八大竜王となった。そして十二神将が常に心柱を守護している。これは不動明王が本尊であることによる」としている。また「大八州、国の神の座処」の項では、この間のことを日の御子の伊弉諾尊と月の御子の伊弉冉尊が皇天の詔に従って天の瓊矛を山跡やまと(大和)の中央に立てて、国家の心柱として八尋殿を造った。さらに2神は真経津鏡ますみのかがみ(八咫鏡)を捧持して、日神、月神と化生して天下を治めたとしている。そしてここで国家の心柱としているものは具体的には伊勢神宮の内宮・外宮の本殿下にある心御柱しんのみはしらをさすとしている。そこで次にはこの心御柱について検討することにしたい。 |
4.伊勢神宮の心御柱 心御柱は伊勢神宮の内宮及び外宮の正殿の御霊代の鎮座している床の真下に奉建されている聖なる柱である。この柱は持統天皇の代以来、20 年に一度の式年遷宮のたびに建立され、延暦23(804)年になる『延暦儀式帳』にも記載されている。中世期の心御柱は、鎌倉初期になる『宝基本記』に忌柱、天御柱、天の御量柱ともいうとし、「一気から生起し天地の形、陰陽の根源、万物の本体で、皇帝の命、国家の固、富の物代で永遠に不動の存在で、大地の底の岩に大宮柱として建立して、神徳を崇めるもの」としている。また鎌倉初期成立の度会行忠『心御柱記』によると、心御柱は経4寸(天の四徳を示す)、高さ5尺の柱に五色の線をまき(五行を示す)、先端に8枚の榊の葉をつけたものである。そして伊弉諾尊と伊弉冉尊が陰陽変通の本基にもとづいて、諸神を生み出すもととし、万物が天皇に帰し、国家を助け、天下を固めることを示すもので三十六禽、十二神、八大竜王が守護している。それ故これに欠損が見られると、天災がおこるとされ、新たに奉建されている。一般には式年遷宮に際して、木元祭、地鎮祭、奉遷、奉建の順序で心御柱建立の儀式がなされている。その概要を簡単に紹介すると、まず心御柱に用いる木の根元で山の神をまつる木元祭を行なったうえで伐採し、長さ5尺経4寸の柱にして宮地に運ぶ。宮地ではまず心御柱を立てる土地の神を鎮める地鎮祭をし、穴を掘って、地符、鎮謝符、鬼符を各1つおさめ、石上に賢木を立てて祭りを行なう。いよいよ柱を立てる際には、元の柱の四方に楉すわえを立てて、そこから元の心御柱の頂に桁けたを渡して、高さをはかる(図1「元の心御柱と楉・桁」参照)。そして元の柱を掘り出して、忌穴を掘り、その穴の中に守護神や祭物(粢米しとぎまい、供物、天平の瓮いらかと呼ばれるカワラケ800 枚など)をおさめる。この守護神は「神道五部書」の1つ『御鎮座伝記』によると、竜神と土地神とされている。そしてこの穴に五色の糸を巻き、上に8枚の榊の葉をつけた新しい心御柱を地上からの高さを前のものと同じにして立てる「心御柱奉遷の儀」が行なわれる。なおこうして床下に心御柱の建立をおえると、そこに幡を立てて五穀の粥を供物として献上している。時代は下るが寛文年間(1661-73)に自省軒宋因の書写した「大神宮心御柱記異本」によると、心御柱にする檜は長さを8尺に切り八角に削って朝廷に差し出し、天皇の身長の処に印をつけてもらって、そこで切ったという。そしてこの柱に鏡をかけて、黄金の鉢にのせ、これも黄金の榊をそえて立てた。それゆえ、心御柱は天皇の玉体そのものである。また黄金の色は葦牙を示している(11)。ところで真言宗広沢流の智円は正中元(1324)年、伊勢に参宮した際に当山正大先達の伊勢の世義寺の治部律師の所に泊って、彼から「御即位辰狐法」を始め伊勢に伝わる秘法を授かった。彼がこれらをまとめたのが『鼻帰書びきしょ』である(12)。本書によると大日本国の義は天照大神と大峰に示されている。天照大神は智種をはじめ一種の義を含む独鈷形をなす日本の仏法の棟梁であり、大峰は国の軸で、両界曼荼羅を石面に顕わしている。このように日本は天然法璽ほうじの真言の国で顕密兼帯の地なのである。この日本を代表する行人は、役行者と大師(弘法)で、行人の居処は弁財天を祀る竹生島と吉野の金峰山であるとする。このように本書は『大和葛城宝山記』と同様に修験的な色彩の強いものである。この『鼻帰書』では国生みについて、「大梵天王(天照大神)が第六天の魔王の指示で日本国を得るために天あまの逆鉾さかほこを外宮の酒殿(逆殿)に下した。この天逆鉾は独鈷のことであり、そのこともあって日本国は独鈷の形をしている」とする。さらに本書では独鈷をいわば護法として自由に操作する乙おと護法ごほうについてもふれている。そして心御柱というのは独鈷の形をした天逆鉾のことでその下には白蛇すなわち福の神の弁財天が住している。心御柱は龍樹ともいうが、この龍は白蛇、樹は心御柱を示している。ちなみに本書では外宮の豊受大神の「豊」は蛇形の福神が与える豊穣を意味し、「受」は内宮の神がそれを享受することを示すとの度会常昌(1263-1339)の説をあげている。 |
なお修験道では役行者が白鳳20(692)年に箕面みのおの滝穴で龍樹菩薩と弁財天から秘密の灌頂を授かり、箕面寺を開く話が伝えられている(13)。また相応(831-918)が葛川から京にむかう途中で川に念珠を落とした際に、乙護法を修して独鈷を川に投じると、独鈷が蛇が蛙を追うように念珠を追い掛けてとりもどした話も知られている(14)。このように独鈷は修法者の意に応じて験力を行使する呪具ともされているのである。『鼻帰書』はこれにつづいて心御柱は閻浮堤の衆生の心法をあらわす須弥山であるともしている。そして須弥山は難陀なんだ竜王、抜ばつ難陀なんだ竜王によって守られているとの『倶舎論』の説を紹介している。さらに心御柱の料木とする檜には根を四方にはり、枝も4本出ていて須弥山を思わせる木を選ぶように指示している。ちなみに『渓嵐拾葉集』でも、伊勢の神殿中央下の心御柱は須弥山と同じで、難陀、抜難陀の竜王が擁護しているとしている。なお『鼻帰書』では、神宮の建物は床は方形で地、神座は円輪で水、屋根は三角で火、千木は半月形で風、堅魚木かつおぎは円形で空を示すというように、五輪をあらわすとしている。また心御柱を黄・白・赤・黒・青の五色の糸でまくのは、地水火風空の五輪になぞらえてのことである。特に外宮の心御柱には上部に五輪を示す5つの丸印が付されている(第2 図「心御柱と天の瓊矛」参照)。このように天の瓊戈を天逆鉾と呼び、大日如来が変化した独鈷とすることに加えて、これを五輪の卒都婆とすることには、伊勢の西南に位置し、東大峰とも通称される仙宮院に伝わる『伊勢瑞柏鎮守仙宮祕文』にも記載されている。 |
5.吉田神道の大元宮と十八神道 吉田兼倶(1435-1511)が伊勢神道の影響のもとに樹立した吉田神道(卜部神道、唯一神道、元本宗源げんぽんそうげん神道)は、江戸幕府が寛文5(1665)年7月に「諸社禰宜神主法度」によって吉田家の諸社への支配権を公認したこともあって宗教界に大きな影響を及ぼした。その基本的な性格は兼倶の著書『神道大意』『唯一神道名法要集』、斎場の「大元宮」、十八神道・宗源・護摩の三壇行事などから知ることが出来る。ここでは「大元宮」の中央に立てられている心柱と三壇行事の基本をなす十八神道を紹介することにしたい。大元宮は文明16(1484)年に吉田兼倶が吉田神社内に再建した茅葺きで八尋殿を思わせる八角形の独自の堂舎で、吉田神道の主神大元神ならびに日本国中の八百万神が祀られている。(図3「吉田社図」参照)なおこの本殿の後部には図に見られるように唐破風造、桧皮葺の後房がつけられている。この後房の後部の棟には十八神道を示す○一印が描かれている。大元宮の側面正面、縦断面、横断面は図4~7に示す通りである。なおこの本殿の向かって右側には東国32 箇国、左側には西国33 箇国の式内社の神々、後方右側には伊勢神宮の内宮、後方左側には外宮が勧請されている。なお明治政府が江戸に神祇官を設置するまでは、後方中央に神祇官の八神殿(8つの祠)が設けられていた。大元宮の心柱は図6及び図7に見られるように土台の亀腹上の二段の石壇の下壇を礎石とし、上の石壇の中央を貫き、さらに天井、鬼板付きの箱、棟の中央、八角の銅製の露盤、八角の銅製の台、覆鉢を貫いて頂の宝珠に達している。そしてその宝珠の周囲には7本の金具が火炎を示すように付けられている。心柱は節を抜いた竹筒で天の雨水がこれを通って地下に達するという天地一貫の理を示すとしている(図6・図7参照)。なおこの棟上の中央の飾りつけは八咫やたの璽じと呼ばれている。また図7に見られるように、心柱の正面には輪宝があって、前面の開口部から拝することが出来る。大元宮の屋根は妻入りで、屋上の前と後には破風板の先を延ばした形の千木ちぎがある。この千木は前方のものは内そぎ(水平に切る)、後方は外そぎ(垂直に切る)である。なお中央の宝珠の前方(宮殿の正面側)には丸材を品字型に重ねた三本の堅魚木(陰を示す)、後方には3本の角材の堅魚木(陽を示す)が置かれている。なお正面と側面には五段の階段が付けられているが、これは五行を示すとされている(図6・図7)。この宮殿内には近世末迄は鎮魂の具とされる十種とくさの神宝かむたから(沖津鏡、辺津鏡、八握やつか剣、生玉いくたま、死反玉まかるかへしのたま、足玉たるたま、道反玉みちかえしのたま、蛇比礼おろちのひれ、蜂比礼はちのひれ、品物くさぐさのものの比礼ひれ――まとめると鏡、剣、玉、比礼)と三種神器(八咫鏡、八や坂瓊曲玉さかにのまがたま、草薙剣くさなぎのつるぎ)が収められていたが、この両者は神籬ひもろぎと磐境いわさかに充当されていた。また口伝ではこの亀腹の下には五輪塔が埋められているとされている。十八神道の修法壇は、前方正面中央に宝珠のついた柱、その左に白和幣、右に青和幣、手前に小鳥居があり、四隅には小さな柱が立てられ注連が張られている(図8「十八神道行事壇鋪設図」参照)。鳥居の左右には八角の台にのった八角の筒があり、左の筒には大麻おおぬさ、右の筒には岐神ふなどかみ(天の瓊矛をあらわす1尺2寸の桃の杖)が立てられている。鳥居の前方には菱形状の黒漆の板があって、その中央に大元器(台に乗った器)その上手に神鈴、四隅にお宮(丸い器)が置かれている。修法壇手前の祭主の座る円座の左には次第書と供米桶、右には打鳴とその撥、榊の葉をさした葉挿はさし、打ならしを置いた小机がある。修法は1「導入」、2「宇宙形成」、3「神勧請」、4「神人合一」、5「祈願」、6「終結」の6つの部分から成っている。まず1「導入」では、祭主は十宝印相によって大元器の上に岐神を置き、大麻をとって二拝し、天地人を加持し、自己が神通力を持つことを観じる三種加持を行なう。2「宇宙形成」では、大元器に水を灌いで岐神でこの水をまぜることによってオノコロ島、八尋殿を建て、水を象徴する神と大元神を供養する。3「神勧請」では、大元神の根本印を結ぶことによって陰の神の天御中主神など、陽の神の国常立神など、造化三神を始め全国の神々、道教や陰陽道の神を勧請する。4「神人合一」では、特に天・地・人を代表する各6柱の計18 柱の神名をあげながら、葉挿の榊を大元器に入れる(十八神道の名はこれに因んでいる)。これによって天地人の合体、諾冉二尊の婚合、天地の和合によって万物が生じることを観じる。5「祈願」ではこれらの修法によって、祭主が神力、加持力、神通力を得たことを観じたうえで、「中臣祓」をあげて祈念する。そして最後の6「終結」で十宝印相によって勧請した神々を送り返して修法をおえている。このように吉田神道の修法の基本をなす「十八神道」では、万物の根源とされる大元器に入れられてた水を、天の瓊矛を象徴する岐神でかきまわすことにより、天地、陰陽、具体的にはオノコロ島や八尋殿がつくられている。その際、大元宮に安置されている石上神宮の十種の神宝を思わせる十宝印相が神勧請や神送りの印相として用いられていることが注目される。 |
6.修験道の柱源神法はしらもとしんぽうと柱松 修験道では室町時代中期になる石上神宮の神宮寺である内山永久寺に伝わる「峰中ぶちゅう灌頂かんじょう本軌ほんき」に修験道独自の修法である「柱源神法」に関する切紙が納められている。この柱源神法は天然自然の原理、万物能生の理を明らかにして、宇宙万象の和合の根源を表示する作法である。この柱源の「柱」は宇宙万物の柱をさし、「源」は天地陰陽和合の本源を示すとされ、宇宙の形成や修験者の天と地を結ぶ柱として再生を示す儀礼がなされている。その修法壇(図9「柱源神法の法具」参照)は中央の壇板(天地陰陽未分を示す―以下括弧内にその意味をあげる)の上の奥に鼎状の水輪(天地、陰陽和合の場所)を置き、その中央の穴に金襴に包まれ赤い房がついた閼伽札あかふだ(修法者自身を示す)、その両脇の穴に黒い布に包まれた乳木にゅうぼく(金剛界・胎蔵界、父・母)をいずれも自由にとりはずしが出来るように差しこんでおく。そして水輪の手前には穴があって水が灌げるようになっている。水輪の左右には花皿(榊の葉が入れられている)、前には舎利器しゃりき(飯器-米を入れる)、その手前には独鈷、左右には杓と蓋がついた閼伽器(水が入っている)が置かれている。修法座の左脇机には柄香炉・小刀・火箸・小木など、右脇机には肘比ひじころと箇こ打木うちぎ(ともに小丸太)・打鳴などがおかれている。修法全体は1「導入」、2「床堅とこがため」、3「柱源」、4「護摩」、5「終結」の部分に分けることが出来る。まず1「導入」で、修法者が本尊に帰依し菩提心を開く。2「床堅」では修法者が肘比と箇打木を打ちあわせ、両者を腰にあてることによって、自分は大日如来と同じ五大を備えた仏ゆえ、成仏が可能であると観じる。修法の中心をなす3「柱源」の前半部では、まず閼伽器の水を中央の水輪に灌いで「天地の潤水ここに至る」と唱える。そして天地の水が交わることによって父母が生じることが観じられる。次に水輪上の2本の乳木をとりはずして虚心合掌した両掌にはさむ乳木作法によって、胎児が生じることを示す。この胎児は修法者と金剛界・胎蔵界の種子を記した中央の閼伽札に象徴されているように、大日如来と化した修法者を示している。後半部に入ると修法者が宇宙そのものを示す大峰山でこの修法を行なうことによって、即身即仏の境地に達したとの啓白をする。そしてこのことを確信するかのように今一度さきの乳木作法を行なったうえで、2本の乳木を水輪上に返して不動明王の慈救の呪を唱えながらその胎児の成育に欠くことが出来ない水と米を供えている。これはこの成育が不動明王の助けのもとに行なわれていることを示している。4「護摩」は修法者が煩悩を焼尽することによって大日如来として再生することを示す作法である。そして最後の5「終結」では、中央の柱を虚心合掌した手にはさんで、自分が大日如来(宇宙)として再生したことを示すとともに、万物が仏性を持つことを確認している。 このように修験道の柱源神法では、混沌の状態から天地が形成され、天地の合体により父母、その父母の和合により修法者が仏として再生することが演じられている。しかもこうして再生した修法者は、水軸中央の閼伽札(柱)によって象徴されている。そしてこの柱は天と地を結ぶ軸であるとしている。それ故この柱源神法を行なうことによって修法者は自分が天と地を結ぶ軸となったと観じているのである。九州の彦山、戸隠山、妙高山、羽黒山などの修験霊山では松などの柱の先端の御幣に火を転じる、柱松と呼ばれる儀礼が行なわれている。ここでは室町後期になる即伝の『三峰相承法則密記』の「柱松作法事」に見られる彦山のものを紹介しておきたい(17)。この作法は彦山の修験が春の峰入に先立って行なう神事で、まず道場の正面に頂に上るための縄索を巻いた足場をつけ、その上端に大幣をつけた松の柱が立てられる。そして峰入の山伏がこの柱の三方に並んで錫杖経や慈救の呪をとなえている間に「松山伏」が柱にのぼって火を燧うって御幣につけたうえで、切りおとす(図10「彦山松会幣切り図」)。すると駈出の法螺が吹かれ、峰入の行列が出発するというものである。近世期には彦山最大の行事である松会の時に柱松や金棒振りがなされていた。その概要を示すと、まず松会に先立って2月13 日に道場に柱松を立てる松おこしがある。この柱松の根元には五大明王を示す五本の杭と幣束を立て、その中央の先端に青と白の幣束をつけた柱松を立て、6本の叉木またぎで支え、柱松の上方から東西に2本の大綱をはって木などにむすびつける。この大綱は二大竜王または天の男女二神、上端の青と白の幣は春秋の幣と呼ばれる。なお柱松は神の御柱、大日如来の三昧耶形、五鈷杵を示すともされている。そしてこの柱の下で、2月15 日には稲作の模擬儀礼の御田祭おんだまつりと刀衆が刀・鉞・金棒を用いて呪力を誇示する金棒振りが行なわれる。このうちの金棒は先の鉄の部分(陽・伊弉諾尊)と手元を五色の布で巻き榊をつけた部分(陰・伊弉冉尊)から成り、これを持って舞うことによって諾・冉二尊のマグワイで万物が化生したことを示している。そしてこの金棒は伊勢神宮の心御柱にあたるが、修験では金棒と呼ぶとしている。この日の最後には柱松の周囲を4人の先山伏が3度まわったうえで、柱の四方に立って「法華懺法」を唱える。この間に幣切山伏がやはり柱松の周囲を3度まわったうえで、柱松にのぼり、御幣に火をつけて、切りおとして下りる。このあと年番の合図で柱松を倒している(18)。なお天保年間(1830-1844)になる『大祭顕状略考』の「先山伏之事」の条によると、この柱松に日本六十余州の大小神明、仏陀、十方三世一切の諸神諸仏が来臨影向して、頂上の御幣に点じられた火によって衆生の罪を焼尽して安穏をもたらすとしている。ところでさきに述べたようにこの柱松は伊勢の心御柱に準じるものとされている。また金棒振りでは、諾冉二尊のまぐわいによる万物の化生が演じられている。これは『大和葛城宝山記』などで伊勢の心御柱を金剛杵になぞらえたのと同じ信仰にもとづくと考えられるのである。 |
7.天理教のかんろだい 天理教は中山みき(1798-1887)が天保9(1830)年10 月26 日に開教した宗教である。その開教の経緯は次のようである。みきは長男が足の病になったので、当山正大先達内山永久寺の配下の山伏市兵衛に祈祷を依頼した。けれどもその時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だった。そこでみきが依り坐となった。すると何時もの神霊とは全くちがう「元の神、実の神」(現在は親神天理王命と称している)が憑依してみきを神のやしろとして貰いたいとの神託があった。夫の善兵衛はこれを拒否したが、憑依状態がつづいた。そこで最終的に10 月26 日に夫がこれを承諾した。天理教ではこの日を開教の日としているのである。ちなみに内山永久寺は石上神宮の神宮寺で、さきに紹介した『峰中灌頂本軌』(柱源神法に関する切紙集成)を伝える修験の古刹である。なお天理教はみきの開教後の他宗や村人たちの迫害を避ける為に慶応3(1867)年に京都の吉田神社管領の公認を得ている。 明治8(1875)年、みきは人間創造の場であり、親神天理王命が鎮まっている人間の守護や救済が展開する根源の地点である「ぢば」を明示し、そこに「かんろだい」を建設し、その周囲で幹部が「みかぐらうた」にあわせて「かんろだいのつとめ」をするように指示した。璽来このかんろだいとかんろだいのつとめは天理教の信仰と儀礼の中核をなしている。そこで以下その概要とその意味について紹介することにしたい(19)。 かんろだいは本部神殿中央の一段低い所の「ぢば」に設定された神域の中心に立てられ、その周囲が礼拝所となっている。またこの中央神域の上方の屋根には6尺四方のくりぬきがあって空が見とおされ、雨水が直接入るようになっている。その位置はみきが指示して以来不動である。かんろだいは正六角形の立方体を13 段積み重ねたもので、台座とも思える1段目は径3尺厚さ8寸、2段目は径2尺4寸、厚み8寸、3段目から12 段目までの10 個はいずれも径1尺2寸、厚さ6寸となっている。そして13 段目は2段目と同じく径2尺4寸だが厚さは6寸である。全体の高さは8尺2寸である。なお各段の上中心に深さ5分、直径3寸の丸い穴、下部中央には同じ寸法のほぞがつくられていて、上段の立方体が下段のそれにはめこむようになっている。(図11「天理教本部のかんろだい」参照) なお材質はみきは当初石造りを指示し、その試みもなされたが、現状は檜である。教義のうえでは、この台の上に5升入りの平鉢をのせ、台の下でつとめ衆が「かんろだいのつとめ」を陽気につとめると、天の親神天理王命から115 才までの定命を保つ「かんろ」が授けられるとしている。ちなみに天理教では神殿の四方に配された教団の建造物のすべてをかんろだいの礼拝所とし、全国の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている。 「かんろだいのつとめ」は真柱(教主)が選んだ真柱夫妻を含む、男・女各五人の教団幹部によって、かんろだいの周囲の神域で行なわれる。なお「かんろだいのつとめ」が実施されるのは、毎年、元旦祭(1月1日)、春の大祭(教祖の命日、1月26 日)、秋の大祭(立教の日、10 月26月26 日)、教祖誕生祭(4月18 日)、毎月26 日の月次祭である。つとめ衆の10 人は図12「かんろだいのつとめの配置図」に示すように親神(日月親神とも)・天理王命を示す「かんろだい」の八方(男女8人)と東側に男女各1人のように配される。そして、北と南の人は獅子面、西北の男性は天狗面をつけ背に鯱、東南の女性は女面で亀を背におう。他は男性は男面、女性は女面をかぶる。服装は男性は紋付で黒袴、女性は紋付で帯をしめている。そしてこの10 人は、神楽歌の地唄、鳴物にあわせて、それぞれ独自の特徴的な所作を行なう。その基本は天理教の経典「こうき(泥海古記とも)」に記載の、人類誕生と陽気ぐらしの起源を演じることによって、始源の陽気ぐらしの生活に立ちかえって再出発をはかるというものである。人類の起源神話は、宇宙の元初のどろ海を味気なく感じた日月親神(天理王命)は、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て楽しもうと思われた。そこでどろ海の中から「うを」(岐神)と「み」(白蛇)をとりよせて、「うを」を男雛型、「み」を女雛型とした。次に西北の鯱から男の道具をとり出して「うを」につけて「つきよみのみこと」(神名以下同様)、東南の亀から女の道具をとり出してこれを「み」(くにさこづちのみこと)につけた。ついで東の鰻に飲み食いのわざをつけて「くもよみのみこと」、西南の鰈に息ふきのわざをつけて「かしこねのみこと」、西の黒蛇に引き出しのわざをつけて「をふとのべのみこと」、東北の河豚に切るわざをつけて「たいしよくてんのみこと」と名付けた。こうして陽気ぐらしの道具をすべて整えたうえで、どろ海の中の泥鰌を食べて、これを人間のたね(魂)とした。そして月の親神は東の男性のいざなぎのみことの身体に、日の親神は西の女性のいざなみのみことの身体に入って、人間創造の方法を教え、3日3夜の間に9億9万9999 人の子種をいざなみのみことの胎内に宿しこんだ、というものである。 かんろだいのつとめにあたっては、10 人のつとめ衆のうち8人はかんろだいの周囲、2人の男女は東側(本来は中央だが、台があるのでここに位置する)でこの神話を演じている。まず親神が鯱(男)①と亀(女)②に男女の道具を与える。次いでこの二神の尾にむすばれた③・④・⑤・⑥の四人の神が陽気ぐらしに必要な道具をととのえる。そのうえで親神の日の性格が東のいざなぎ、月の性格が西のいざなみの身体に入る。その際いざなぎは種、いざなみは苗代を示し、そのまじわりで数多くの子供が生まれ、その子供は飲み食い、息、引き出し、切るなどの道具衆の神々の助けで陽気ぐらしを行なっていることが演じられている。そしてこの陽気づとめが楽しくなされると、それを祝がれた親神、天理王命が天から甘露の法雨をそそがれるとしているのである。 |
8.アジアの柱の信仰と儀礼 柱の信仰はヨーロッパのメイポール、クリスマスツリーなど、世界各地の民俗宗教に認められる。しかしここでは日本の民俗宗教とかかわりを持つ、東アジアの諸宗教に於ける柱の儀礼と信仰について簡単にふれておきたい(20)。古代中国では天地往来の柱に関する伝承が早くから知られている。ここでは日本文化の原郷ともされる中国南部のミャオ(苗)族の伝承や儀礼を紹介しておきたい。貴州省凱里近くのミャオ族の間では香炉山の頂上に黄金の玉石を9層つみあげた天柱がある。この山は歌垣うたがきの場所として広く知られている。ここには天女(天帝の娘)がこの天柱を下って香炉山で若者と歌垣をして交わって娘をもうけた。けれども天帝に見つかり、夫は香炉にされ、天女は天の牢に閉じこめられた。山頂に残された娘は山の水を飲んで成長し、歌垣で結ばれた若者と結婚したとの伝説があり、これにちなんだ爬坡節パーポーセツという祭りが行なわれている。もっとも古代にはこの天柱には生命の木と呼ばれた桑が用いられていた。ちなみに淅江省余姚県河姆渡遺跡から出土した新石器時代の陶盤には中央に生命の樹、その根元の左右に雌雄を示すと思われる魚が描かれていた。また四川省成都市の後漢時代の画像墓には桑の木の下で男女が交合している図が認められた。これらから宇宙木が死と再生の場所と信じられていたことが推測される。なおミャオ族は正月から3月に、上端に花をつけた花杆、木彫の鳥をつけた鳥竿を立てて、これを先祖の霊の招ぎ代として、そこで歌垣を行なった。これは祖霊の加護のもとに子孫の繁栄を願う祭りと考えられる。これらは形のうえでは天理教のかんろだいつとめと似ているとも思われる。湖南省西部のミャオ族の間では秋の収穫前にあたる7月15 日頃に村落の外の平坦な広場に5色の段で飾った通天柱を1本立てて、そこで牛を供犠して先祖に村落の平安、村民の長寿、豊作を祈る椎牛ついぎゅう祖先祭が行なわれている。今少し具体的に述べると、広場には儺だ公こうと儺母(共に疫鬼)の塑像、ミャオ族の始祖や儺の群神を描いた絵、祖先の霊を祀る3層の白い紙の幡、紙銭などを置いた霊棚と呼ばれる祭壇が設けられる。中央の通天柱の下方には、竹を薄く割って作った輪をはめて、これに雄牛の鼻に通した麻縄をむすびつける。こうした準備のうえで、主家の者が親類の人を会場に招きいれる。やがて巫師が霊幡や祭具をもって呪文を唱えながら通天柱と牛の周囲をまわり、主人一家がこれにつづく。次に祭りを主催する法師が儺舞をしながらやはり柱の周囲を回り、親類のものがこれに従う。これをおえると2人の若者が竹で牛を駆りたてて柱を回らせ、牛を槍でつき殺し、牛がミャオ族発祥地の東を向いて倒れると吉とされる。一方祭壇ではミャオ族の始祖を示す紙の人形や紙幡、紙銭などを焼く。若者は牛の首を切りおとし、それを主家の者に渡す。主家ではこの頭を1年間家の堂屋の主柱に供えてまつる。4本の足は親類の者に与えられ、その他の部分は参加者が共食する。その日の夜は跳鼓ちょうこ(豊作の模擬儀礼)がなされ、あと長老によってミャオ族の神話(天地開闢など)が語られる。ベトナムのクバン県のバナ人もコーサ・ユパ(水牛を神と食べる意)と呼ばれる水牛供犠を行なっている。この祭りではまず初日に広場に山から切り出した生木の柱(プラン)と牛をつなぐ供犠柱を建て、2日目に水牛を死霊がいるとされる森に連れていって先祖を祭り、3日目の最終日に供犠柱につないだ牛を戦士が剣でさし殺す。このあと女たちが水牛の口に草をつめる。これは再生を祈る為とされている。ちなみに古代日本に於いても各地で牛を殺して天神に祈願する祭りが行なわれていた。ネパールのカトマンズでは雨期が終わる9月初旬から中旬の8日間、旧王宮広場でインドラの幡はたと称する柱を立てて、王権の更新を祈るインドラ祭が行なわれた。この祭では、まず山で森の女神に祈願したうえで、神木を切って旧王宮広場まで引いてくる。そしてバラ・グルジュ(王の導師)の立ちあいのもとに王宮付きの警官が護摩をたいたうえで柱を立てる。そしてこの柱の根元に金のインドラ神の像をまつり、柱の周囲には結界を示す8本の黒木の柱が立てられる。このあと王の剣を先頭に導師、祭官など要人が柱の周囲を3回まわる。これは柱に象徴されるインドラ神に国の平穏、王と民の守護、豊穣を祈る祭りとされている。朝鮮半島には『魏志』東夷伝の「韓伝 馬韓条」に「蘇塗という大きな木を立てて、鈴鼓を懸けて鬼神を祀った」と記されている。この蘇塗は現在韓国各地で村の入口や境、村の中心に立てられている頂に鳥状のものを置いた「ソッテ」また「鳥竿」と呼ばれる長い棒か、石柱をさすと考えられる。ソッテは毎年村祭りのたびごとに新しいものが立てられるが、古いものもそのまま放置されている。ソッテの下には厚い板の上部に顔を描き、その下に「天下大将軍」・「地下大将軍」と書いた「チャンスン」と呼ばれるものが立てられている。そして、ソッテやチャンスンがある場所は「ソナンダン(城隍堂)」または「ダンサン(堂山)」と呼ばれ、聖域とされている。ソッテ・鳥竿の上に鳥状のものを置くのは、13 世紀頃に編まれた『旧三国大逸文』によると、高句麗の始祖、朱蒙が大樹の下で母の使者である鳩から麦の種を授けられた故事にちなむとされている。ちなみに彼の母は日光の精を受けて卵を産み、この殻を破って自ら出生したのが、朱蒙であるとされている。韓国の江原道江陵市の端午の祭りでは先端に華蓋、頂に金属の宝珠をのせた笠をつけた10m近い芋蓋(「クエテ」)と呼ばれる柱を上下に振ることによって、山神を降臨させて豊穣を祈っている。これはクエテが万物を成長させる生命の本であることによるとされている。ちなみに東京の府中の大国魂神社の暗闇祭のあとの田植祭の時にも近年まで白鷺をつけた傘鉾を立てて豊穣が祈られていた。シベリアに近い中国黒竜江省に住むホジエン族のシャマンは家の庭に神桿しんかんと呼ばれる木の柱を3、4本立てている。そのうちの最も高い頂に鳩をつけた柱の下には朱林(「チュリン」)と呼ばれる男女の人形をおき、柱の下部から上部にかけて蛇、亀、蝦蟇、トカゲ、愛米(子供の姿をしたシャマンの守護霊)の絵を描いている。そしてシャマンは神がかってこの柱をのぼって、鳩の案内で他界に旅立つとしている。なおホジェン族のシャマンの巫術では神鼓、神刀、神杖、神竿(色のついた布をまいた杖)などの法具が用いられている。このうち特に神杖、神竿は、密教で用いる独鈷、修験が採灯護摩に用いる杖のように呪力の根源をなすと考えられるものである。結本講演では日本の民俗儀礼、記紀神話、中世神話、伊勢神宮の心御柱、吉田神道の大元宮、修験道の柱源と柱松、天理教のかんろだい、アジア諸地域の柱の信仰と儀礼を概説した。そこで最後にこれを理論的に整理しておきたい。本講演でとりあげた柱の儀礼や信仰を見ると、大きく5種類のものが考えられる。まず第1は柱を他界から神々や祖霊を招き、それにつける招ぎ代とする思想で神道や民俗宗教の多くはこれである。第2は逆にシャマンや、修験者がそれを登って天にいく儀礼である。ホジェン族のシャマン、修験の柱松、本講演ではとりあげなかったが、10 の剣の階段をのぼる御嶽教の刀わたりがこれにあたるものである。第3は柱そのものを神と考えるものである。神の数を何柱と数えるのはこの信仰にもとづいている。ちなみに天理教では教主を真柱と呼んでいる。これが更に展開すると第4の柱を天と地を結ぶ、宇宙軸とする見方となる。伊勢神宮の心御柱を天皇の身長にあわせていたのは天子を天と地を結ぶ軸とする思想にもとづくと思われる。修験道の「柱源神法」では、この修法を行なった修験者は天地を結ぶ軸となっていた。ちなみに如来教では教祖をお軸様とよんでいた。なおこの柱を宇宙軸とする思想は第5の中世神話に見られたように、心御柱を宇宙山ともいえる須弥山になぞらえるものに展開する。吉野の金峰山を国軸山と呼んだり、大峰山系を金剛界・胎蔵界の曼荼羅とするのはこの思想にもとづいている。第6は記紀神話で諾・冉二尊が天の瓊矛でオノコロ島を生み、さらにその周囲でミトノマグワイをして万物を生んだとの話のように柱を万物を生み出す力の根源とする思想である。中世神話では心御柱は密教の修法で力の根源とされ、加持などに用いられる金剛宝杵(独鈷)としていた。そしてさらに修法の本尊である不動明王やその法具である剣と索を象徴する倶利加羅不動(竜王)と結びつけていた。また吉田神道では大元宮の心柱を、鎮魂の作法に用いられる石上神宮の十種神宝と関係づけていた。さてこうした日本の民俗宗教に見られる柱の儀礼や信仰は最後に紹介したアジア各地の民俗宗教の柱の儀礼や信仰と酷似している。これは日本の柱の儀礼や信仰がアジアのそれから影響を受けたことによる面もあるが、今一方で、ほぼ同じ水田稲作を営むことや、日本人が人種的にモンゴロイドであることから通底する面があるとも考えられ、今後より詳細な比較宗教学的研究を試みることが必要とされるのである。 |
注 (1) 小林達雄『縄文人追跡』日本経済新聞社、平成12(2000)年 (2) 『日本国語大辞典』16、小学館、昭和50(1975)年、p.234 (3) 柳田国男「神樹篇」(『定本柳田国男集』11、筑摩書房、昭和38(1963)年)、折口信夫「髯龍の話」(『古代研究』民俗編1、 59 1929 年、のち『折口信夫全集』2、中央公論社、昭和30(1955)年)など参照 (4) 宮家準「修験道の峰入と卯月八日」『日本民俗学』128、昭和55(1980)年 (5) 以下の『日本書紀』の記述は、黒板勝美校訂『日本書紀』(岩波文庫、1943 年)、また『古事記』に関しては幸田成友 校訂『古事記』(岩波文庫、昭和18(1943)年)をもとにしている。 (6) 度会家行『類聚神祇本源』(『神道大系』論説編5 伊勢神道上、神道大系編纂会、平成5(1993)年、p.396) (7) 『大和葛城宝山記』(『中世神道論』岩波書店、昭和52(1977)年、p.58-68) (8) 『造伊勢二所太神宮宝基本記』(『神道大系』論説編5 伊勢神道上、平成5(1993)年、神道大系編纂会、p.58) (9) 度会行忠『心御柱記』(大永2(1522)年大司伊長朝自筆本、寛政2(1790)年正月書写)國學院大學図書館所蔵本 (10) 詳細は山本ひろ子「心の御柱と中世的世界」1~25(『春秋』302-339、昭和63(1988)-平成4(1992)年)参照 (11) 『大神宮心御柱記異本』(『神道大意他六篇』との合巻本)國學院大學図書館所蔵 (12) 『鼻帰書』(『神道大系』論説編2 真言神道下、神道大系編纂会、平成4(1992)年、p.505-521) (13) 「諸寺略記」『阿裟縛抄』文永12(1275)年所収「箕面寺の縁起」 (14) 『渓嵐拾葉集』87 巻(『大正新修大蔵経』76)、p.783 (15) 宮家準「吉田神道と修験道-大元宮と柱源・柱松を中心に」『國學院雑誌』104-11、平成16(2004)年 (16) 詳細は宮家準『修験道思想の研究』春秋社、昭和60(1985)年、p.213-233 参照 (17) 「柱源作法事」『三峰相承法則密記』(『修験道章疏』2、名著出版、60(1985)年、p.462-463) (18) 村上龍生『英彦山修験道絵巻』かもがわ出版、平成7(1995)年、p.10-11、p.46-47 参照 (19) 松本滋「宗教教団における象徴-とくに天理教の場合」(『人類科学』13、昭和36(1961)年)、『天理教事典』天理教おや さと研究所、1997 年 (20)「柱のダイナミズム」(『自然と文化』33、平成3(1991)年)、「アジアの柱建て祭り」『自然と文化』61、平成11(1999) 年)、萩原秀三郎『神樹-東アジアの柱立て』小学館、平成13(2001)年参照 図版出典 図1 國學院大學日本文化研究所編『神道要語集』祭祀編1、神道文化会、昭和49(1974)年、p.140 図2 山本ひろ子『中世神話』岩波書店、平成10(1998)年、p.103 図3~図7 福山敏男『神社建築の研究』、中央公論美術出版、昭和59(1984)年、p.304-305 図8 『神道大系』論説編9 卜部神道下、神道大系編纂会、平成3(1991)年、p.27 図9 宮家準『修験道思想の研究』春秋社、昭和60(1985)年、p.215 図10 村上龍生『英彦山修験道絵巻』かもがわ出版、平成7(1995)年、p.46-47 図11 『天理教辞典』天理教おやさと研究所、平成9(1997)年、p.238 付記 本講演は國學院大學21 世紀COE プログラム『神道と日本文化の國學的研究発信の拠点形成』における宮家担当の「神道儀礼 と諸宗教文化の比較宗教学的研究」の一部をなすものである。 60 |
(私論.私見)