その6の8 教祖の力比べ、神には倍の力論、撃剣論

 更新日/2018(平成30).5.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 教祖は、老境に達してからの明治の御代、おぢばを訪れた屈強そうな男性たちに「力比べ」をもちかけては簡単に負かし、「神の方には倍の力」と説いていた。これを確認し、どう拝察すべきかを問う。

 2018(平成30).5.10日 れんだいこ拝


【神には倍の強力論】
 御神楽歌、お筆先(明治7年のみきが77才の時の執筆)には次のように記されている。
 これからは 神の心と 上(かみ)たるの 
 心と心の 引き合わせする
三号81
 この話し 一寸(ちょっと)のことやと 思うなよ 
 神が真実 見かねたる故
三号82
 これからは 神の心と上(かみ)たるの
 力比べを すると思えよ
三号83
 いかほどの 強敵あらば 出してみよ
 神の方にも 倍の力を 
三号84
 真実の 神が表に 出(い)でるからは 
 いかな模様も すると思えよ
三号85
 今までは 唐が日本を ままにした
 神の残念 何としょうやら
三号86
 この先は 日本が唐を まヽにする
 皆な一列は 承知していよ
三号87
 同じ木の 根枝との ことならば
 枝は折れくる 根は栄え出る
三号88
 今までは 唐が偉いと 云うたれど
 これから先は 折れるばかりや
三号89
 日本見よ 小さいように 思うたれど
 根が表われば 恐れいるぞや
三号90
 この力 人間技とは 思われん
 神の力や これはかなわん
三号91

 「正文遺韻抄」の「年のよるのを、まちかねる」は次のように記している。これによると、教祖は次のようにお話しなされている。
 一つには、四十台や、五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことはできんが、もう八十過ぎた年よりなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年の寄るのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで。
 八十過ぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよと仰有る(同上、p140-p141)。
 お指図には次のような御言葉がある。
 「」()
 「」()

【平野楢蔵考】
 天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843-1907)は、入信前まで、河内・大和の国中一帯で「恩地楢」と一目置かれていたやくざの大親分であった。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920年(大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来るだけ赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団の初期の雰囲気を迫力をもって描いている。平野楢蔵が元、やくざの大親分であったことに触れた後、「重い神経病」(幻覚と幻聴)に罹ったこと。お道により「ない命を助けられ」、以来やくざ稼業から足を洗い信心に打ち込むようになったこと。教団に暴徒の乱入が及んだ場合、平野楢蔵が対抗暴力に訴え手際よく撃退したこと。これを、教祖が「このものゝ度胸を見せたのやで」と褒め、「明日からは屋敷の常詰とする」(「道すがら」p59)と教祖の護衛に任命されたことを明らかにしている。その上で、次のように評しているようである。
 「これ等の出来事に現れた平野会長の行動を只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あるいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめた会長の心情に漲る『道思ふ』てふ精神、『我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり』てふ精神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか」。(「道すがら」p80)
(私論.私見)
 教祖の「神には倍の強力論」をそのままに窺い、教祖が理不尽な暴力に屈しない抵抗暴力を称賛していたと受け止めるべきであろうが、上記末尾の受け取りは一回りし過ぎではなかろうか。
 熊田一雄氏の「天理教教祖と『暴力』の問題系」(The Founder of Tenrikyo and Problems of Violence)。
 「この論文の目的は,日本の初期新宗教である天理教の女性教祖である中山みき(1798-1887年)の男性信者に対する信仰指導を再検討することにある。老境に達した中山みきは,自分のもとを訪れる男性たちに対して、しばしば『力比べ』をもちかけて、簡単に負かしては『神の方には倍の力』と説いて聴かせていた。中山みきは、『世直し』という当時の時代風潮の中で、国家に対する対抗暴力(「謀反」)や妻に対するドメスティック・バイオレンスのような男性信者による暴力を制御する(「手綱をさばく」)可能性を,親神に対する信仰に基づいて高めようとした実践した無抵抗・不服従の宗教家であった」。
(私論.私見)
 上記の観点は基本的には鋭く正しい。若干の疑念は、末尾の「無抵抗・不服従の宗教家であった」で、教祖の御教えを「無抵抗・不服従思想」と断定しているところにある。私論は、教祖の谷底救済の世の立替、世直し思想の裡には必ずしも「無抵抗・不服従思想」では括れない「不服従抵抗思想」を内包していたとみなしている。追々、この見地からの論考をものしてみようと思っている。

 2018.5.12日 れんだいこ拝

【教祖の「力比べ」の逸話】
 老境に達した中山みきは、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎、おぢばを訪れる力持ち、例えば井筒梅次郎、諸井国三郎、土佐卯之介、仲野秀信らに対して「力比べ」を持ちかけている。ご自分の腕を差し出して「力の限り押さえてみよ」と仰せられ、拒むわけにもいかず握り返して反発したところ、教祖は少しもたじろがず、そればかりか教祖が少し力を入れて握り直すと腕がしびれて力が抜け降参を余儀なくされた。教祖は、「神の方には倍の力や」と説いて聴かせている。また「こんな事できるかえ」と仰せになって、人差し指と小指とで相手の手の甲の皮をつまみ上げるや、非常に痛くてその跡は色が青く変わるくらい力が入っていた。また背中の真中で、胸で手を合わすように正しく合掌なされたこともあったと云う。以下、「力比べ逸話」を確認しておく。
 1.井筒梅次郎との力比べ
   (教祖伝逸話篇逸話75「これが天理や」p131-132)
 明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が眼病にかかり、失明せんばかりの重体となった。隣家に住む井筒梅次郎は早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに鮮やかなご守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼参りにお屋敷へ帰らせていただいた。 教祖(おやさま)は、中川にお会いになって、「よう親里を尋ねて帰ってきなされた。一つ、私と力比べしましょう」 と、仰せになった。 日頃力自慢で、素人相撲のひとつもやっていた中川は、このお言葉に苦笑を禁じ得なかったが、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、ご自身の左手首を力限り握りしめるように、と仰せられた。そこで、中川は、仰せの通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議なことには、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍してください。」と、叫んだ。このとき、教祖は、 「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れてきたら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」 と、仰せられた。
 「力だめしの話」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)138-140p。
 「教祖様は、御老年に及びても、お弱り遊ばされず、時々御前へ伺う人々に対して、力だめしを遊ばさる。或る時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引きを成されたるに、力士は、下より上段の方へ、引っ張られければ、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛の者といえども、神の方には、敵一倍、皆なこの通りやとお聞かせ下された。これ教祖様、御自身の力にあらず。正しく神様の入込み給う事を示し給うなり。又手の甲を出さしめて、御自身の人差し指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給うに、痛さ身に沁みて堪えかね、恐れ入らぬ者はなかりしと」。
 「そこで、今日は、神さんがな、今日の日を待ちかねたのやで。もう八十過ぎた年寄りで、それも、女の身空であれば、何処に力のある筈がないと、誰も思うやろう。ここで力を現わしたら、神の力としか思われようまい。よって、力だめしをして見せよと仰るでな、おまえ、ワシの手を持ちて、力限り引っ張って見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれども、たちまち引き上げられる様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをして見せよ、と仰るから、してみせるのやで』とお聞かせ下されたりと。又仰らるゝに、『年の寄るのを、待ちかねると云うは、一つには、四十台や、五十台の女では、夜や夜中に男を引き寄せて、話を聞かすことはできんが、もう八十過ぎた年寄りなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年の寄るのを、えろう、お待ちかねで御座ったのやで』と聞かせ給う。もっともの事にこそ」。
 2.諸井国三郎との力比べ
   (教祖伝逸話篇逸話118「神の方には」p198-200)
 明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、はじめておぢばへ帰って、教祖(おやさま)にお目通りさせて頂くと、 「こうして手を出してごらん」 と、仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差し指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挟んで、お上げになる。そして、 「引っ張って、取りなされ」 と、仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで、離れない。そこで、「恐れ入りました」と申し上げると、今度は、 「私の手をもってごらん」 と、仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、 「しっかり力を入れて握りや」 と、仰せになる。そして、 「しかし、私が痛いというたら、やめてくれるのやで」 と、仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、 「もっと力はないのかえ」 と、仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました。」と申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめになって、 「それきり力はでないのかえ。神の方には倍の力や」 と、仰せられた。
 3.高井直吉、宮森与三郎との力比べ
  (稿本・天理教祖伝逸話篇「逸話131、神の方には」p220-222)
 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、「力試しをしよう」 と、仰せられ、ご自分の腕を、 「力限り押さえてみよ」 と、仰せられた。けれども、どうしても押さえきることができないばかりか、教祖が、少し力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、 「神の方には倍の力や」と仰せになった。又、 「こんなこと出来るかえ」 と、仰せになって、人差し指と小指で、こちらの手の甲の皮を、おつまみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。 又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なさったこともあった。 これは、宮森の思い出話である。
 4.土佐卯之介との力比べ
  (教祖伝逸話篇「逸話152、倍の力」p254-256)
 明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばに帰っても、教祖にお目にかからせていただける者は稀であった。そこへ土佐卯之介は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から参りました」と申し上げると、教祖は、 「遠方はるばる帰ってきてくれた」 と、おねぎらい下された。続いて、 「土佐はん、こうして遠方からはるばる帰ってきても、真実の神の力というものを、よく心に治めておかんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん」 と、仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、ご自分の親指と人差し指との間に挟んで、 「さあ、これを引いてごらん」 と、差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、 「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで」 と、仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を込めて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であった。が、どうしても、その手拭が取れない。遂に、「恐れ入りました。」と頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん」 と、仰せになるので、「では、御免下さい」と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、「さあ、もっと強く、もっと強く」 と、仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、遂に土佐は兜を脱いで、「恐れ入りました」と、お手を放して平伏した。すると、教祖は、 「これが、神の、倍の力やで」 と、仰せになって、ニッコリなされた。
 5、上田民蔵との力比べ(植田つる (上田民蔵の娘、本部婦人) 手記「力くらべ」)
 「父(上田民蔵/たみぞう)の十八才の時だったと思います。教祖のお齢(よわい)は、聞いたように思いますが、忘れました。父の母(上田いそ)と一緒にお屋敷へ帰らせて頂いた時のこと、教祖が、『民蔵さん、私とおまはんと、どちらが力強いか、力くらべをしよう』と仰って、教祖は、昔のお祀り所の上段の板間の下から、ほんのわずかの高さですが、一、二、三のかけ声で、お手を取って、引っ張り合いをすることになりました。『わしは一生懸命ひっぱった。男の十八、やぶ力というて、思いきり、えらい力を出したのに、教祖がお勝ちになった。ビクともお動きにならへん。教祖、お齢を召しておられるのに、力のお強いこと!わしはもうビックリしてしもた』」。
 5.仲野秀信との力比べ
  (教祖伝逸話篇174「そっちで力をゆるめたら」p288-289)
 もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当に腕に覚えがあった仲野秀信が、ある日おぢばに帰って、教祖にお目にかかった時のこと、、次のような逸話がある。教祖は、「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われてなさるが、ひとつ、この手を放してごらん」 と、仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手に込めて、気合諸共ヤッとひきはなそうとした。しかし、ご高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。 まだ壮年に仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何んとかして引き離そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。 それのみか、驚いたことには、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張る程、だんだん自分の手首が堅く握りしめられて、ついには手首がちぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに耐え切れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います」と言って、お放し下さるように願った。すると、教祖は、 「何も、謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れて来たら、神も力を入れるのやで。これが天理や。神の方には倍の力や。この事は、今だけの事やない程に」 と、仰せになって、静かに手をお放しになった。

(私論.私見) 教祖の力比べ逸話考
 「教祖の力比べ逸話」は存外と興味深い。天理教本部教理は、この逸話に対しても、「教祖はみずからが月日のやしろに坐しますことを示されたのである」と特別にコメントを加えているとのことである(「稿本・天理教教祖伝逸話篇」)。しかし、「天理教教団のコメントは、説明になっていない」(熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」)。それではどう拝するべきか。

 熊田一雄氏の「天理教教祖と<暴力>の問題系」は、「みきは、男性信者たちの暴力を制御する可能性を、親神(天理王命)に対する信仰に基づいて高めようとしたのではないだろうか」と云う。私は真逆に受け取りたい。「教祖の力比べ逸話」は、明治新政府による天理教弾圧に対し、教内が内も外も従順応法しつつある局面に於いて、「理不尽に対する抵抗精神の涵養」を説く為に、わざわざに興じられたお諭しの一種だったと拝する。

 よって、熊田一雄氏が「明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、生き神の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する対抗暴力の運動(みきの言葉では「むほん」)の指導者を期待する血気盛んな男性も少なくなかったのではないか」と問うのは真っ当である。

 続けての受け取り様が合点し難い。次のように述べている。
 「そうした男性たちに、『力比べ』を持ちかけて簡単に負かして『神の方には倍の力』と説くことによって、みきは、『暴力に訴えることの空しさ』を暗にさとし、『力任せ』の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか」、「みきの『力比べ』を見聞した男性たちは、親神の前では人間の暴力など無に等しいことを知り、それからはもはや、江戸幕府や明治国家に対する対抗暴力はもちろん、妻に対するドメスティック・バイオレンスを含めて、力任せに暴力に訴えることができにくくなったであろう。みきは、『力比べ』によって社会の底辺に生きる『荒くれ男』たちの手綱を見事にさばいて見せたのだと思う」、「みきの『力比べ』が『暴力のアート』のひとつ、『荒くれ男たちの手綱さばき』であったという私の解釈を裏付ける有力な証拠である」。

 池田氏は次のように述べているらしい。
 「『真の非暴力』の教えを我が身でもって具体的にわかりやすく説いたのが、みきの『力比べ』だったのではないか。みきは、近代日本において、日本的な無抵抗・不服従運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う」(池田2007)。

 これらの受け取りはいただけない。逆ではなかろうかと思う。私の見解によれば、教祖は明治新政府の政治全般に対して、直接的には天理教弾圧に対して、ひれ伏すばかりではなく敢然と切り返す勇士を教内に求めていたのであり、恭順するしか能のない信徒に対して、「神の方には倍の力」を見せつけることで、「恐れることはない」、教祖の示す道に真一文字に怯まず進めと説いていたと伺いたい。よって、この部分につき、熊田一雄氏、池田氏と反対の結論になる。

 このれんだいこ理解の方が、元「やくざの大親分」にして天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年)伝説が生き生きとしてくる。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920年(大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相はできる丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団の初期の雰囲気が、迫力をもって描かれている。やくざ時代の平野楢蔵の悪行について、「こんな(熊田註;喧嘩の)場合に幾人の人命が彼の不当な欲望の犠牲になって居るかわからない」(同上、p9)と書かれている。その平野が「重い神経病」(幻覚と幻聴)を経て、「ない命を助けられ」たことにより信者になった。後に、教団に暴力を用いた迫害が及んだ際、平野楢蔵は対抗暴力に訴え、その顛末の結果、みきは、「このものゝ度胸を見せたのやで」と褒め、「明日からは屋敷の常詰とする」(同上、p59)と教祖の護衛に任命し一躍幹部に抜擢している。

 「道すがら」は、こうした対抗暴力について次のように説明している。
 「これらの出来事に現れた平野会長の行動を、只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あるいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめた会長の心情に漲る「道思ふ」てふ精神、『我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり』てふ精神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか」(同上、p80)。

 教祖の「理不尽に対する抵抗精神の涵養」指導により、この初期の天理教教団には、原典「おふでさき」の一節「いかほどの がうてき(熊田註;「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ 神の方には 倍の力や』と口ずさんだ」(同上、p74-p75)という雰囲気があったと云う。

 教祖の伝承を明治時代に記録した諸井政一(1876年―1903年)の「正文遺韻抄」p259には次のような伝承が記録されている。

 「教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親方親方といはれているものがあるやろ。一寸聞いたら悪者のやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有るところのものをとりて、難儀な者や困る者には、どんゝやってしまう。それで難渋が助かるやろ。そやって、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しっかりした借り物やろがな』と仰有りました」(諸井1970、p259)。

 熊田一雄氏は云う。「知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、『ほんまに、それに違いございません』(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。『道すがら』や『正文遺韻抄』は、『谷底せりあげ』(社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している」。

 そう、この理解で何ら問題ない。「道すがら」や「正文遺韻抄」のこれらの逸話は、教祖が、「谷底せりあげ」(社会的弱者の救済)を目指す民衆の対抗暴力(「謀反」)、お道に乱暴狼藉を働く者への対抗暴力、理不尽な弾圧に狂奔する権力への抵抗暴力に親和的だったことを示していよう。

 熊田一雄氏は次のように結んでいる。

 「稿本・天理教教祖傳が大塩平八郎の乱についてひと言も触れず、稿本・天理教教祖伝逸話篇がみきの「力比べ」について説明になっていないコメントをつけている理由は、もちろん教団が教祖の独自性を強調したかったからであろう。しかし、それだけではなく、やや挑発的な発言を付け加えるならば、これらの教典が編集されたころには、天理教の教学者たちが、みきが「引きこもり」の3年間に、当事者性をもって真剣に考え抜いたほどには「宗教と真の非暴力」の関係について深く考えておらず、天理教は常に「平和」的な(私に言わせれば「疑似非暴力」的な)教団だったと、外部社会にアピールしたかったことにもよるのではないだろうか」。
 
  末尾三行目の「宗教と真の非暴力の関係について深く考えておらず」のところを、「教祖が指針せしめた理不尽に対する抵抗暴力称揚論について深く考えておらず」と書き換えたなら何も言うことはない。

【撃剣について】
  教祖逸話。
 大正12年12.5日号みちのとも「初代管長公の青年時代~追憶に任せて」(道友社刊)50pの永尾芳枝「初代真柱と撃剣」より。
 「(前略)又撃剣(剣術)は中野さん(※仲野秀信さんの事と思われる)に就いて、少し習われたのであります。教祖は撃剣をする事を余り御機嫌よくは思っておいでなかったのでありますが、それでも初めの内は黙ってにこ/\笑って御覧になって居られました。けれども少し御熱心におやりになるようになってから、『この道は人をなでてやるのやで。人をなぐるのとは違うで』、と仰って撃剣をする事をお止(と)めになった。それから管長様(初代真柱・中山眞之亮)も好きな撃剣もピッタリとお止(や)めになったのであります。こういう風で、管長様はお若い時分から物事に非常にご熱心でした。そうして一度やりかけた事は、どこまでもやり通すという堅い御気性の方でありました。(後略)」。




(私論.私見)