教祖逸話篇その8、第176話から第200話 |
最新見直し2012.9.5日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖逸話篇その8、第176話から第200話」を確認しておくことにする。 2012.9.5日 れんだいこ拝 |
176 心の澄んだ人 | 177 人一人なりと | 178 身上がもとや | 179 神様、笑うてござる | 180 惜しみの餅 181 教祖の茶碗 | 182 元の屋敷 | 183 悪風というものは | 184 悟り方 | 185 どこい働きに | 186 結構なものを | 187 ぢば一つに | 188 屋敷の常詰 | 189 夫婦の心 | 190 この道は | 191 よう、はるばる | 192 トンビトート | 193 早よう一人で | 194 お召し上がり物 | 195 御苦労さま | 196 子供の成人 | 197 働く手は | 198 どんな花でもな | 199 一つやで | 200 大切にするのやで |
176、心の澄んだ人 |
明治十八年十二月二十六日、教祖が仲田儀三郎に下されたお言葉に、「心の澄んだ人の言う事は聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は聞こえぬ」と。
|
177、人一人なりと |
教祖は、いつも、「一日でも、人一人なりと救けねば、その日は越せぬ」と仰せになっていた。
|
178、身上がもとや |
教祖の仰せに、「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼けるのも構わず出す人はありゃせん。大水やと言うても、その通り。盗人が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆な出して
やりますやろ。悩むところも同じ事や。早く二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん。それに惜しい心が強いというは、ちょうど焼け死ぬのもいとわず金を出しているようなものや。惜しいと思う金銭・宝残りて身を捨てる。これ心通りやろ。そこで、二の切りを以て身の難救かったら、これが大難小難という理やで。よう聞き分けよ」と。これは、喜多治郎吉によって語り伝えられたお諭しである。
註 二の切り。切りとは、義太夫などに於て、真打が勤める最も格式の高い部分を言う。したがって、二の切りとは、一番にではなくて、二番目に大切なもの、という意。(新村出「広辞苑」平凡社「世界大百科辞典」) |
179、神様、笑うてござる |
ある時、村田イヱが、動悸が出て、次第に募って来て困ったので、教祖にお伺いしたところ、「動悸は、神様、胸が分からん。と言うて、笑うてござるのやで」とお聞かせ下された。
|
180、惜しみの餅 |
ある人が、お餅を供える時、「二升にして置け」、「いや三升にしよ う」と、家の中で言い争いをしてから、「惜しいけど、上げよう」 と言って、餅を供えたところ、教祖が、箸を持って、召し上がろうとなさると、箸は激しく跳び上がって、どうしても、召し上がる事が出来なかった、という。
|
181、教祖の茶碗 |
「教祖のお使いになった茶碗の中には欠けたのを接いだのがあった。私は茶碗を見た。模様ものの普通の茶碗に、錦手の瀬戸物で接いであった。これは本部の宝や。これを見たら、後の者は贅沢出来ん。お皿でも、教祖のお使いになったものの中には、接いだものがあった」と。これは梶本楢治郎の懐旧談である。
|
182、元の屋敷 |
大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう」と言うたので、同道して、お屋敷へ帰り、教祖にお目通りしてお願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると、激しい痛みは即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、「不思議な 神様やなあ」と心から感激した。その時、教祖は、「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや」とお聞かせ下された。
註 これは、明治十八、九年頃のことと言い伝えられている。 |
183、悪風というものは |
明治十八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衞門という講元が、おぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から、教祖に、この点をお伺いすると、お言葉があった。「さあさぁ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時はジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまづくやらこけるやら知れんから、ジッと
していよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで」とお諭し下された。又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は、「さあ、一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい」とお聞かせ下された。一同は、このお言葉に逸やる胸を抑えた、
という。
|
184、悟り方 |
明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、「それは結構やなあ」
と仰せられた。梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、 更に、もう一度、「子供をなくしましたので」と申し上げると、 教祖は、ただ一言、「大きい方でのうて、よかったなあ」と仰せられた。
|
185、どこい働きに |
明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘もみ上げる力見て、思やんせよ」と仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付き米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は晴らさずにはおかん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆な生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事」と、お聞かせ下された。
|
186、結構なものを |
明治十九年三月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田藤吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、お寝みになっていたが、「天恵四番、泉田藤吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました」と取次いで頂くと、直ぐ、「はい、はい」と、お声がして、お出まし下された。同年八月十七日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。同年九月二十日には、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、「結構なものを。誰が下さったのや」とお言葉があったので、側の者が「中西金次郎でございます」 と申し上げると、お喜び下され、翌二十一日宿に居ると、お呼び出しがあって赤衣を賜わった。それはお襦袢であった。
|
187、ぢば一つに |
明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい」とお願いしたところ、教祖は、「さあさぁ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」とお言葉を下された。
|
188、屋敷の常詰 |
明治十九年八月二十五日(陰暦七月二十六日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか」と、尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ。」と言うので、不審に思いながらも、戸を開けると、
五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げに してやる」と、口々に叫びながら、台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。彼等は、台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や
皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駆け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に、「この者の度胸を見せたのやで。明日から屋敷の常詰にする」との有難いお言葉を下された。
註 お日待ち 前夜から集まって、潔斉して翌朝の日の出を拝むこと。 それから転じて、農村などで、田植や収穫の後などに、村の者が集まって会食し娯楽すること。 |
189、夫婦の心 |
平野楢蔵が、明治十九年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、「教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ」と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは浴衣一枚ぎりにな
って、おたすけに廻わっていた。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた、さあ、一年
経てば、打ち分け場所を許す程に」と、お言葉を下された、という。
|
190、この道は |
明治十九年夏、松村吉太郎が、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、
教祖は、「この道は智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになった。このお言葉を承って、松村は、心の底から高慢のさんげをし、ぢば
の理の尊さを、心に深く感銘したのであった。
|
191、よう、はるばる |
但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸 の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に十七才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で、激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、 大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではな く、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近く なって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押 して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重 吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がっ て礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、「よう、はるばる帰って下された」と、勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を 生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだのである。 |
192、トンビト-ト |
明治十九年頃、梶本宗太郎が、七つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、「トンビト-ト、カラスカ-カ-」と仰っしゃって、「指を出しや」と仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨ-ッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。 |
193、早よう一人で |
これは、梶本宗太郎の思い出話である。教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。それでも、「今やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボ-ロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、 持って来て下さった。私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、「早よう、一人で来るようになったらなあ」と仰せ下された、という。私の弟の島村国治郎が生まれた時には、「色の白い綺麗な子やなあ」と言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にもよく聞いた。吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは頑丈な方やったが、教祖は、 やさしい方やった。御腰は曲っていなかった。 |
194、お召し上がり物 |
教祖は、高齢になられてから、時々、生の薩摩藷を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。又、味醂も、小さい盃で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては差し上げた、と いう。又、芋御飯、豆御飯、乾瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような、色御飯がお好きであった。そういう御飯を召し上がっておられるところへ、人々が来合わすと、よく、それでお握りようのものを拵えて下された。又、柿の葉ずしがお好きであった。これは、柿の新芽が伸びて香りの高くなった頃、その葉で包んで作ったすしである。 |
195、御苦労さま |
「教祖ほど、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお 会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、『御苦労さま』。物もらいが来ても、『御苦労さま』。その御態度なり言葉使いが少しも変わらない。皆な可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆な、一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又、地方のゴロツキまでも、皆な信仰に入っている。それも、一度で入信し、又は改心している」と。これは、高井直吉の懐旧談である。 |
196、子供の成人 |
教祖の仰せに、「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教えが隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ」と、繰り返し繰り返し聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。 |
197、働く手は |
教祖が、いつもお聞かせ下されたお話しに、「世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、莚でも何んでも始末せにゃならん。蔭日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってく
ると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭うというようになってくる。こうなってくると、何んぼでも仕事がある。この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こう
しよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られ
ぬようになる。この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は一人も要らん」と。又、ある時のお話に、「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、
側楽・ハタラク)と言うのや」と、お聞かせ下された。
|
198、どんな花でもな |
ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。
|
199、一つやで |
兵神真明講周旋方の本田せいは、明治十五年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で、又、お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、「おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは
辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様が、きっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは、何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで」と、お言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと、一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて、神前に供え、これによって又、ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治十九年
秋、四十九才の時、又々脹満が悪化して、一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、「起こせ」とか、「寝させ」とか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉が、おぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次で、教祖に、お目にかかり、事の由を申し上げると、
教祖は、「寝させ起こせは聞き違いやで。講社から起こせ、ということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ」と仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、
三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても効しは見えない。そこで、更に、三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは、歯を食いしばってしまって、二十八日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を、
行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、「今度は死ぬ」と言って、診に来てもくれない。 然るに、その二十八日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、二十八日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹が、すっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、「エッ」と、驚きの声をあげた。
その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、 すゑが、「おばん聞こえるか」と言うと、せいは、「勿体ない、勿体な い」と、初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、「ああ、
おいしいよ。勿体ないよ」と言い、次で、梅干で二杯食べ、次には トロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が、代参でおぢばへ帰って、教祖に、このことを申し上げると、教祖は、「無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで」と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けん、という程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。こうして、四十九才から七十九才まで三十年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いたのである。
註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度 昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお 願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。 |
200、大切にするのやで |
明治二十年一月十一日、紺谷久平は、信者一同が真心をこめて調製した、赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚を、同行の者と共に背負うて、家を出発し、おぢばに帰らせて頂き、村田幸右衞門宅で宿泊の上、山本利三郎の付添いで、同一月十三日、教祖にお目通りした。教祖は、御休息所の上段の間で寝んで居られ、長女おまさが、お側に居た。山本利三郎が、衣服を出して、「これは播州飾磨の紺谷久平という講元が教祖にお召し頂きたいと申して、持って帰りました」と申し上げると、教祖は御承知下され、そこで、その赤い衣服を上段の間にお納め下された。続いて、座布団二枚を出して、山本が、「これも日々敷いて頂きたいと申して持って参りました」と申し上げると、教祖は、それもお喜び下されて、双方とも御機嫌宜ろしくお納め頂いた。それから仕切りの襖を閉めて、一寸の間、そちらへ寄っておれ、とのことで、山本は下の八畳の間に下りる。紺谷も共に畏まっていると、おまさが襖を開けて山本を呼んだので、山本が教祖のお側へ寄らせて頂くと、赤衣を一着お出しになって、「これをやっておくれ」と仰せられ、続いて、「これは粗末にするのやないで。大切にするのやで。大事にするのやで」と仰せになった。山本は、「きっと、その事を申し聞かします」とお答えして、八畳の間に下り、紺谷に、教祖からそう申された、と詳しく話して聞かせた。こうして紺谷久平は赤衣を頂戴したのである。
|
(私論.私見)