教祖逸話篇その7、第151話から第175話

 最新見直し2012.9.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2012.9.5日 れんだいこ拝


151 をびや許し |  152 倍の力 |  153 お出ましの日 |  154 神が連れて帰るのや |  155 自分が救かって |  156 縁の切れ目が |  157 ええ手やなあ |  158 月のものはな、花やで |  159 神一条の屋敷 |  160 柿選び 161 子供の楽しむのを |  162 親が代わりに |  163 兄弟の中の兄弟 |  164 可愛い一杯 |  165 高う買うて |  166 身上にしるしを |  167 人救けたら |  168 船遊び |  169 よう似合うやろな |  170 天が台 |  171 宝の山 |  172 前生のさんげ |  173 皆、吉い日やで |  174 そっちで力をゆるめたら |  175 十七人の子供 | 
 151、をびや許し
 明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは私が包ませて頂きましょう」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲っていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、「鋏を出しておくれ」と仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、「これが、をびや許しやで。これで高枕もせず腹帯もせんでよ いで。それから今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」と仰せになり、残った袋の金米糖を、「これは常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで」と仰せられて、お下げ下された。

 註 これは、産後の腹帯のこと、岩田帯とは別のもの。
 152、倍の力
 明治十七年頃は警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばへ帰っても、教祖にお目にかからせて頂ける者は稀であった。そこへ土佐卯之助は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から詣りました」と申し上げると、教祖は、「遠方はるばる帰って来てくれた」と、おねぎらい下された。続いて、「土佐はん、こうして遠方はるばる帰って来ても、真実の神の力と いうものを、よく心に治めて置かんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん」と仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、御自分の親指と人差指との間に挾んで、「さあ、これを引いてごらん」と差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると教祖は笑いながら、「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで」と仰せになった。土佐は顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を入れて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であったが、どうしても、その手拭が取れない。遂に、「恐れ入りました」と 頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん」と仰せになるので、「では、御免下さい」と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、「さあ、もっと強く、もっと強く」と、仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、土佐は遂に兜を脱いで、「恐れ入りま した」と、お手を放して平伏した。すると、教祖は、「これが神の倍の力やで」と仰せになって、ニッコリなされた。
 153、お出ましの日
 明治十七年頃の話。教祖が、監獄署からお出ましの日が分かって来 ると、監獄署の門前には、早くから、人が一杯になって待っている。 そして、「拝んだら、いかん。」と言うて、巡査が止めに廻わっても、 一寸でも教祖のお姿が見えると、パチパチと拍手を打って拝んだ。警 察は、「人を以て神とするは、警察の許さぬところである。」と言うて、 抜剣して止めて歩くが、その後から、又手を打って拝む。人々は、「命 のないところを救けてもろうたら、拝まんといられるかい。たとい、 監獄署へ入れられても構わんから、拝むのや。」と言うて拝むのであ るから、止めようがなかった。
 154、神が連れて帰るのや
 教祖の仰せに、「巡査の来るのは神が連れて帰るのや。警察へ行くのも、神が連れて行くのや」、「この所に喧しく止めに来るのは、結構なる宝を土中に埋めてある のを、掘り出しに来るようなものである」、「巡査が止めに来るのやない。神が連れて帰るのである」と。
 155、自分が救かって
 明治十七年頃のこと。大和国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、三十才頃の話。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んで来て、医者に診てもらうと、「この人の寿命は、これまでやから、好きなものでも食べさせてやりなされ」と言われ、全く見離されてしまった。それで、かねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直き直きおたすけをして頂いた。それから二、三日後のこと。鶴松が、寝床から、「一寸見てくれんか。寝床が身体にひっ付いて布団が離れへんわよう」と叫ぶので、家族の者が行って見ると、ヨウの口があいて、布団がベタベタになって いた。それから、教祖に頂いたお息紙を、貼り替え貼り替えしているうちに、すっかり御守護を頂いた。それで、お屋敷へお礼詣りに帰り、教祖にお目通りさせて頂くと、「そうかえ。命のないとこ救けてもろうて結構やったな。自分が救かって結構やったら、人さん救けさしてもらいや」と、お言葉を下された。鶴松は、この御一言を胆に銘じて、以後にをいがけ・おたすけに奔走させて頂いた。
 156、縁の切れ目が
 松田サキは、大和国五条野村の生まれで、先に一旦縁付いたが、そこを振り切って離婚し、やがて二十三才の時再婚した。明治十六年、三十才の時、癪持ちから入信したが、翌十七年頃のこと、右腕に腫物が出来て、ひどく腫れ上がったので、お屋敷へ帰っておたすけを願うた。教祖にお目通りさせて頂くと、「縁の切れ目が命の切れ目やで。抜け出したいと思うてたら、あかんで」と、お言葉を下された。このお言葉を頂いて、サキは、「決して抜け出 しません」と、心が定まった。すると、教祖が、息を三遍おかけ下された。その途端、右腕の痛みは立ち所に治まり、腫れは退いて、ふ しぎなたすけを頂いた。
 157、ええ手やなあ
 教祖が、お疲れの時に、梶本ひさが、「按摩をさして頂きましょう」 と申し上げると、「揉んでおくれ」と仰せられる。そこで、按摩させてもらうと、後で、ひさの手を取って、「この手は、ええ手やなあ」と言うて、ひさの手を撫でて下された。又、教祖は、よく、「親に孝行は銭金要らん。とかく按摩で堪能させ」と歌うように仰せられた、という。
 158、月のものはな、花やで
 ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、「利八さん、外の方を見ておいで」と仰せになった。その頃は、警察の取締まりの厳しい時であったから、それについての仰せと思い、気を付けて、辺りを見廻わったが 誰も居ない。それで、もどって来て、「神さん、何んにも変わりはあり ゃしません。向こうのあの畑には南瓜がなっています。この畑には 茄子が沢山出けました」と申し上げると、教祖は、膝を打って、「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、 あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるもの は一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で言うけれども、何も不浄なことありゃせんで。男も女も寸分違わぬ神の子や。女というものは子を宿さにゃならん、 一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、 それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も 不浄やないで」と、お教え下された。
 159、神一条の屋敷
 梅谷四郎兵衞が、ある時、教祖のお側でいろいろお話を承っていた が、ふと、「ただ今、道頓堀に大変よい芝居がかかっていますが」と、 世間話を申し上げかけると、教祖は、その話を皆まで言わさず、「わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。 この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せ になりますで」と、お誡めになった。
 160、柿選び
 ちょうど、その時は、秋の柿の出盛りの旬であった。桝井おさめは、 教祖の御前に出さして頂いていた。柿が盆に載って御前に出ていた。教祖が、その盆に載せてある柿をお取りになるのに、あちらから、 又こちらから、いろいろに眺めておられる。その様子を見て、おさめは、「教祖も、柿をお取りになるのに、矢張りお選びになるのやなあ」 と思って見ていた。ところが、お取りになったその柿は、一番悪いと思われる柿をお取りになったのである。そして、後の残りの柿を載せた盆を、おさめの方へ押しやって、「さあ、おまはんも一つお上がり」と仰せになって、柿を下された。この教祖の御様子を見て、おさめは、「ほんに成る程。教祖もお選びになるが、教祖のお選びになるのは、我々人間どもの選ぶのとは違って、一番悪いのをお選りになる。これが教祖の親心や。子供にはうまそうなのを後に残して、これを食べさしてやりたい、という、これが本当に教祖の親心や」と感じ入った。 そして、感じ入りながら、教祖の仰せのままに、柿を頂戴したのであった。教祖も柿をお上がりになった。おさめは、この時の教祖の御様子を、深く肝に銘じ、生涯忘れられ なかった、という。
 161、子供の楽しむのを
 桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日はどうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をしていた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せになった。「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事をする事要らんのやで。子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや」と、やさしくお言葉を下された。何も彼も見抜き見通しであられたのである。
 162、親が代わりに
 教祖は、平素あまり外へは、お出ましにならなかったから、足がお疲れになるような事はないはずであるのに、時々、「足がねまる」とか、「しんどい」とか仰せになる事があった。ところが、かよう仰せられた日は必ず、道の子供の誰彼が、意気揚揚として帰って来るのが常であった。そして、その人々の口から、 「ああ、結構や。こうして歩かしてもろても、少しも疲れずに帰らせ て頂いた」と、喜びの声を聞くのであった。これは、教祖が、お屋敷で、子供に代わってお疲れ下された賜物だったのである。神一条のこの屋敷へ帰って来る子供が可愛い余りに、教祖は、親として、その身代わりをして、お疲れ下されたのである。ある時、村田イヱが、数日間お屋敷の田のお手伝いをしていたが、 毎日かなり働いたのにもかかわらず、不思議に腰も手も痛まないのみか、少しの疲れも感じなかった。そこで、「あれだけ働かせてもらいま しても、少しも疲れを感じません」と、申し上げると、教祖は、「さようか。わしは毎日々々足がねまってかなわなんだ。おまえさんのねまりが、皆わしのところへ来ていたのやで」と仰せられた。
 163兄弟の中の兄弟
 教祖は、ある時、「この屋敷に住まっている者は兄弟の中の兄弟やで。兄弟ならば、 誰かが今日どこそこへ行く。そこに居合わせた者、互いに見合わせて、着ている着物、誰のが一番によい。一番によいならば、さあ、これを着ておいでや。又、たとい一銭二銭でも、持ち合わせている者が、互いに出し合って、これを小遣いに持って、さあ行っておいでや。と言うて、出してやってこそ、兄弟やで」とお諭し下された。
 164.可愛い一杯
 明治十八年三月二十八日(陰暦二月十二日)、山田伊八郎が承って誌した、教祖のお話の覚え書に、「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。というは、世界一列の人間は、皆な神の子や。何事も、我が子の事思うてみよ。ただ可愛い一杯のこと。百姓は、作りもの豊作を願うて、それ故に、神がいろいろに思うことなり。又、人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと、踏ん張り切る」と。
 165、高う買うて
 明治十八年夏、真明組で、お話に感銘して入信した宮田善蔵は、その後いくばくもなく、今川聖次郎の案内でおぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。当時、善蔵は三十一才、大阪船場の塩町通で足袋商を営んでいた。教祖は、結構なお言葉を諄々とお聞かせ下された。が、入信早々ではあり、身上にふしぎなたすけをお見せ頂いた、という訳でもない善蔵は、初めは、世間話でも聞くような調子で、キセルを手にして煙草を吸いながら聞いていたが、いつの間にやらキセルを置き、畳に手を滑らせ、気のついた時には平伏していた。が、この時賜わったお言葉の中で、「商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで」というお言葉だけが耳に残った。善蔵には、その意味合いが、一寸も分からなかった。そして思った。「そんな事をしたら、飯の喰いはぐれやないか。百姓の事は御存知でも、商売のことは一向お分かりで ない」と思いながら、家路をたどった。近所に住む今川とも分かれ、家の敷居を跨ぐや否や、激しい上げ下だしとなって来た。早速、医者を呼んで手当てをしたが、効能はない。そこで、今川の連絡で、真明組講元の井筒梅治郎に来てもらった。井筒は、宮田の枕もとへ行って、「おぢばへ初めて帰って、何か不足したのではないか」と、問うた。それで、宮田は、教祖のお言葉の意味が、納得出来ない由を告げた。すると、井筒は、「神様の仰っしゃるのは、他よりも高う仕入れて問屋を喜ばせ、安う売って顧客を喜ばせ、自分は薄口銭に満足して通るのが商売の道や、と、諭されたのや」 と説き諭した。善蔵は、これを聞いて初めて、成る程と得心した。と共に、たとい暫くの間でも心に不足したことを深くお詫びした。そうするうちに、上げ下だしは、いつの間にやら止まってしまい、ふしぎなたすけを頂いた。
 166、身上にしるしを
 明治十八年十月、苣原村(註、おぢばから東へ約一里)の谷岡宇治郎の娘ならむめ(註、当時八才)は、栗を取りに行って、木から飛び降りたところ、足を挫いた。それがキッカケとなってリュウマチとなり、疼き通して三日 三晩泣き続けた。医者の手当てもし、近所で拝み祈祷もしてもらったが、どうしても治らず、痛みは激しくなる一方であった。その時、同村の松浦おみつから、にをいがかかり、「お燈明を種油で小皿に上げて、おぢばの方に向かって、『何卒このお光のしめります(註、消える)までに、痛みを止めて下され』と、お願いするように」と教えられた。早速、教えられた通り、お燈明を上げて、「救けて頂いたら、孫子に伝えて信心させて頂きます」と、堅く心に誓い、一心にお願いすると、それまで泣き叫んで手に負えなかった手足の疼きは、忽ちにして御守護頂いた。余りの嬉しさに、お礼詣りということになって、宇治郎が娘のなら むめを背負って、初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。辻忠作の取次ぎで、 宇治郎は、教祖に直き直きお目にかかって、救けて頂いたお礼を申し上げた。それから間もなく、今度は宇治郎が胸を患ってやせ細り、見るも哀れな姿となった。それで、お屋敷に帰らせて頂いて、教祖にお目通り させて頂いたら、「身上にしるしをつけて引き寄せた」とのお言葉で、早速着物を着替えて来るようにとの事であった。翌日、 服装を改めて参拝させて頂いたところ、結構にさづけの理を頂いた。そして、さすがに不治とまで言われた胸の患いも、間もなく御守護頂いた。感激した宇治郎は、その後、山里の家々をあちこちとおたすけに歩かせて頂き、やがて、教祖の御在世当時から、苣原村を引き揚げてお 屋敷に寄せて頂き、大裏で御用を勤めさせて頂くようになった。
 167、人救けたら
 加見兵四郎は、明治十八年九月一日、当時十三才の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年十月七日から、兵四郎もまた 目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、十一月一日、妻つねに申し付けて、おぢばへ代参させた。教祖は、「この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で抑えているのやで。そのなあ、抑えているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に」と仰せになり、つづいて、「人言伝ては、人言伝て。人頼みは、人頼み。人の口一人くぐれば 一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ、話が狂う。狂うた話した分にゃ、世界で誤ちが出来るで。誤ち出来た分にゃ、どうもならん。よって、本人が出て来るがよい。その上、しっかり諭してやるで」と、お諭し下された。つねが家に戻って、この話しを伝えると、兵四郎は、「成る程、その通りや」と心から感激して、三日朝、笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらってお屋敷へ帰って来た。教祖は先ず「さあ/\」と仰せあり、それから約二時間にわたって、元初まりのお話しをお聞かせ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がピリピリと震動した程であった。そのお言葉がすむや否や、ハッと思うと、目はいつとなく、何んとなしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女きみの目も鮮やかに御守護頂いていた。しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までというものは、ボ ーッとして遠目は少しもきかず、どう思案しても御利やくない故に、翌明治十九年正月に、又、おぢばへ帰って、お伺い願うと、「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで」とのお諭しを頂いた。よって、その後、熱心におたすけに奔走するうちに、自分の身上も、すっきりお救け頂いた。
 168、船遊び
 教祖は、ある時、梶本ひさ(註、後の山沢ひさ)に向かって、「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられた。海の外までも親神様の思召しの弘まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられる。
 169、よう似合うやろな
 教祖は、お年を召されてから、お側に仕えていた梶本ひさに、「何なりとほしいものがあったら、そう言いや」。又、「何か買いたいものがあったら、これ、お祖母さんのに買いました。と言うて、持って来るねで」と仰せになった。ある時のこと、行商の反物屋から、派手な反物をお買い求めになり、「これ、私によう似合うやろな」と、言いながら、御自分の肩先におかけになって、ニッコリ遊ばされ、それから、「これは、おまえのに取ってお置き」と仰せになって、ひさにお与えになった。又、ある時のこと。長崎から来たというベッコウ細工屋から、小さな珊瑚珠のカンザシをお買い求めになり、やはり御自分のお髪に一度おさしになってから、「これ、ええやろうな」と、仰せられて後、「さあ、これをおまえに上げよう」と仰せになって、ひさに下された。このように、教祖は、一旦御自分の持物としてお買い求めになり、然る後、人々に下さることが間々あった。それは、人々に気がねさせないよう、という御配慮からと拝察されるが、人々は教祖のお心のこもった頂きものに、一入感激の思いを深くするのであった。
 170、天が台
 梅谷四郎兵衞が、教祖にお聞かせ頂いた話しに、「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」と。又、「人詣るにより威光増すのである。人詣るにより守りしている 人は立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは恩に報ずるのである」、「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は両手両指の揃いたる如きものなり」、「この世の台は天が台。天のしんは月日なり。人の身上のしんは目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という」と。
 171、宝の山

 教祖のお話に、
 「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の 山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中ま で行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるか ら、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡 って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂 けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂 けないのやで。」
と、お聞かせ下された。

 172、前生のさんげ

 堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に 伺ったところ、
 「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生に して置いたのや。」
と、仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかな 御守護を頂いた、という。

 173、皆な吉い日やで
 教祖は、高井直吉に、「不足に思う日はない。皆な吉い日やで。世界では縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆なの心の勇む日が一番吉い日やで」と教えられた。

 一 日 はじまる
 二 日 たっぷり
 三 日 身につく
 四 日 仕合わせようなる
 五 日 りをふく
 六 日 六だいおさまる
 七 日 何んにも言うことない
 八 日 八方ひろがる
 九 日 苦がなくなる
 十 日 十ぶん
 十一日 十ぶんはじまる
 十二日 十ぶんたっぷり
 十三日 十ぶん身につく
                   (以下同)
 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり
 二十一日 十ぶんたっぷりはじまる
                   (以下同)
 三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり
 三十日は一月、十二ケ月は一年、一年中一日も悪い日はない。

 174、そっちで力をゆるめたら
 もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当腕に覚えのあった仲野秀信が、ある日おぢばへ帰って、教祖にお目にかかった時のこと、教祖は、「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われていなさるが、一つ、この手を放してごらん」と仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手にこめて、気合諸共ヤッと引き離そうとした。しかし、御高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。まだ壮年の仲野は、今は顔を真っ赤にして、何んとかして引き離そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。それのみか、驚いた事には、仲野が力を入れて引っ張れば引っ張 る程、だんだん自分の手首が堅く握り締められて、ついには手首がちぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに堪え切れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います」と言って、お放し下さるよう願った。すると、教祖は、「何も謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は、今だけの事やない程に」と仰せになって、静かに手をお放しになった。
 175、十七人の子供
 明治十八年のこと。ある日、教祖は、お側の人達に、「明日は、阿波から十七人の子供が帰って来る」と、嬉しそうに仰せになった。が、その翌日も又翌日も、十七人はおろか、一人も帰って来ない。 そのうちに、人々は待ちくたびれて、教祖のお言葉を忘れてしまった。 しかし、それから十数日経って、阿波から十七人の者が帰って来た。人数は、教祖のお言葉通り、ちょうど十七人であったので、お側の人人は驚いた。話を聞いてみると、ちょうどお言葉のあった日に出帆したのであったが、悪天候に悩まされて難航を重ね、十数日も遅れたのであった。土佐卯之助たち一行は、教祖のお言葉を承って、今更のように、驚き且つ感激した。そして、教祖にお目通りすると、教祖は大層お喜び下されて、「今は、阿波国と言えば遠いようやが、帰ろうと思えば一夜の間にも、寝ていて帰れるようになる」と、お言葉を下された。







(私論.私見)