教祖逸話篇その6、第126話から第150話

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 2012.9.5日 れんだいこ拝


126 講社のめどに |  127 東京々々、長崎 |  128 教祖のお居間 |  129 花疥癬のおたすけ |  130 小さな埃は |  131 神の方には |  132 おいしいと言うて |  133 先を永く |  134 思い出 |  135 皆丸い心で |  136 さあ、これを持って |  137 言葉一つ |  138 物は大切に |  139 フラフを立てて |  140 おおきに 141 ふしから芽が切る |  142 狭いのが楽しみ |  143 子供可愛い |  144 天に届く理 |  145 いつも住みよい所へ |  146 御苦労さん |  147 本当のたすかり |  148 清らかな所へ |  159 卯の刻を合図に |  150 柿 |
 126、講社のめどに
 明治十六年十一月(陰暦十月)、御休息所が落成し、教祖は、十一月二十五日(陰暦十月二十六日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は道具も片付け、明日は大阪へ帰ろうと思って、二十六日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、「この間中は御苦労であった。教祖は、『これを明心組の講社のめどに』下さる、とのお言葉であるから、有難く頂戴するように」とのことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、「『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやって くれ』との教祖のお言葉である」と、唐縮緬の単衣を差し出した。重ね重ねの面目に、「結構な事じゃ、ああ忝ない」と、手を出して頂戴しようとしたところで目が覚めた。それは夢であった。こうなると目が冴えて、再び眠ることができない。とかくするうちに夜も明けた。身仕度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤衣を捧げてやって来た。「『これは明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉である」と、昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いながら有難く頂戴した。すると、今度は山本が入って来た。そして、これも昨夜の夢と符節を合わす如く、「『着古しじゃけれど子供にやってくれ』と教祖が仰せ下された」と、赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで有難く頂戴すると、次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、「教祖が、『子供達に上げてくれ』と、仰せられます」と伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感 銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働 きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた。
 127、東京々々、長崎
 明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、「東京々々、長崎」というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。
 128、教祖のお居間
 教祖は、明治十六年までは、中南の門屋の西側、即ち向かって左の十畳のお部屋に、御起居なさっていた。そのお部屋には、窓の所に、 三畳程の台が置いてあって、その上に坐っておられたのである。その台は、二尺五寸程の高さで、その下は物入れになっていた。子供連れ でお伺いすると、よく、そこからお菓子などを出して、子供に下された。明治十六年以後は、御休息所にお住まい下された。それは、四畳と八畳の二間になっていて、四畳の方が一段と高くなっており、教祖は、この四畳にお住まいになっていた。御休息所の建った当時、人々は、 大きなお居間が出来て嬉しい、と語り合った、という。
 129、花疥癬のおたすけ
 明治十六年、今川聖次郎の長女ヤス九才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿を持つものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、「こっちへおいで」と仰っしゃった。恐る恐る御前に進むと、「もっとこっち、もっとこっち」と仰っしゃるので、とうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口で 御自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと と三回お撫で下され、つづいて又三度、又三度とお撫で下された。ヤスは、子供心にも、勿体なくて勿体なくて、胴身に沁みた。翌日、起きて見たら、これは不思議、さしもの疥癬も後跡もなく治ってしまっていた。ヤスは、子供心にも、「本当に不思議な神様や」と思った。ヤスの、こんな汚ないものを、少しもおいといなさらない大きなお慈悲に対する感激は、成長するに従い、ますます強まり、よふぼくと して御用を勤めさして頂く上に、いつも心に思い浮かべて、なんでも 教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、勤めさして頂いた、という。
 130、小さな埃は
 明治十六年頃のこと、教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、お助けに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや」と剣もホロロに喰ってかかって来た。 高井は、「私は未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って教祖にお伺いして参ります」と言っ て、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり」と仰せ下された。高井は、「有難うございました」とお礼申し上げ、 直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういう ように聞かせて頂きました」とお取次ぎした。すると、先方は、 「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ」と詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。
 131、神の方には
 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森與三郎などの若い者に、「力試しをしよう」と仰せられ、御自分の腕を、「力限り押えてみよ」と仰せられた。けれども、どうしても押え切ることは出来ないばかりか、教祖が、すこし力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、「神の方には倍の力や」と仰せになった。又、「こんな事出来るかえ」と仰せになって、人差指と小指とで、こちらの手の甲の皮を、お摘まみ上げになると、非常に痛くて、その跡は色が青く変わるくらい力が入っていた。又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なされたこともあった。これは宮森の思い出話である。
 132、おいしいと言うて
 仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、時々、近所の 小川へ行って雑魚取りをする。そして、泥鰌、モロコ、エビなどをとって来る。そして、それを甘煮にして教祖のお目にかけると、教祖は、その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて 聞かせるように、「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世してお いでや」と仰せられ、それから、お側に居る人々に、「こうして一番大きなものに得心さしたなら、後は皆な得心する道理やろ」と仰せになり、更に又、「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやってお くれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来る のやで」と、お教え下された。各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これと同じように仰せられた、という。
 133、先を永く
 明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、 急ぐ事要らん」、「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん」、「たんのうは誠」と。
 134、思い出
 明治十六、七年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの 二人で、「お祖母ちゃん、およつおくれ」と言うて、せがみに行くと、 教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、「ああ、たまさんとオモトか、一寸待ちや」と仰っしゃって、お坐りになっている背後の袋戸棚から出して、二人の掌に載せて下さるのが、いつも金米糖であった。又、ある日のこと、例によって二人で遊びに行くと、教祖は、「たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ」と仰せになって、二人一しょに、教祖の背中におんぶして下さった。 二人は、子供心に、「お祖母ちゃん、力あるなあ」と感心した、という。

 註 一 この頃、たまへは、七、八才。モトは、五、六才であった。二 およつは、午前十時頃。午後二時頃のおやつと共に、子供がお 菓子などをもらう時刻。それから、お菓子そのものをも言う。

 135、皆な丸い心で
 明治十六、七年頃の話し。久保小三郎が、子供の楢治郎の眼病を救けて頂いて、お礼詣りに妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のこ とである。教祖は、赤衣を召してお居間に端座して居られた。取次に導かれて御前へ出た小三郎夫婦は、畏れ多さに頭も上げられない程恐縮していた。しかし、楢治郎は、当時七、八才の子供のこととて、気がねもなく あたりを見廻わしていると、教祖の側らに置いてあった葡萄が目についた。それで、その葡萄をジッと見詰めていると、教祖は、静かにその一房をお手になされて、「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆な丸い心でつながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に」と仰せになって、それを楢治郎に下された。
 136、さあ、これを持って
 教祖が、監獄署からお帰りになった時、お伴をして帰って来た仲田儀三郎に、監獄署でお召しになっていた、赤い襦袢を脱いでお与えになって、「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も救かる で」とお言葉を下された。儀三郎は大層喜び、この赤衣を風呂敷に包んで、身体にしっかりと巻き付け、おたすけに東奔西走させて頂いた。そして、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、その赤衣で病人の患うているところを擦すると、どんな重病人も忽ちにして御守護を頂いた。
 137、言葉一つ
 教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気侭癇癪(きままかんしゃく)は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」と。又、「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」と仰せになった。桝井は、女房が告口をしたのかしらと思ったが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられると思い返して、今後は一切腹を立てません、と心を定めた。すると、不思議にも、家へかえって女房に何を言われても一寸も腹が立たぬようになった。
 138、物は大切に
 教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も、数度お伴させて頂いた。そのうちのある時、教祖は、反故になった罫紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。それは、実に丈夫な上手に作られた袋であった。教祖は、それを、監獄署を出てお帰りの際、仲田にお与えになった。そして、「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ家の宝にしときなされ」と、お言葉を下された。
 139、フラフを立てて
 明治十七年一月二十一日(陰暦 前年十二月二十四日)、諸井国三郎は、第三回目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、二十二日に豊橋へ着いた。船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の提灯屋が目についた。そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社と 大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。 一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、二十六日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。翌二十七日朝、六台の人力車を連らね、その先頭の一人乗りにはこの旗を立てて諸井が、つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗っていた。お屋敷の表門通りへ来ると、一人の巡査が見張りに立っていて、 いろいろと訊問したが、返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ。お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで」と仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていたが、この旗を見るに及んで、成る程、教祖には、ごらんになる前から、この旗が見えていたのであるなあ、と感じ入った、という。

 註 フラフは、元来オランダ語で、vlag と書く。旗の意。
 明治十二年、堺県令に対して呈出した「蒸気浴フラフ御願」の中にも「私宅地ニ於テ蒸気浴目印フラフ上度候間」という一文がある。これを見ても、フラフが、旗を意味する帰化日本語として、コレラ、ガラス、 ドンタクなどと共に、当時、広く使用されていたことを知る。

 140、おおきに
 紺谷久平は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢば へ帰らせて頂き、明治十七年二月十六日(陰暦正月二十日)朝、村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に、初めて、教祖にお目通りさせて頂いた。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、 教祖は、「播州のおたけさんかえ」と仰せになり、そのお供を頂くようになされて、「おおきに」と礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、「その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよかったのに、と思った」という。
 141、ふしから芽が切る
 明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、「さあさぁ尋ね出る、尋ね出る。さあさぁよく聞き分けにゃならん。さあさぁこのぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、 ふしあって芽、ふしから芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。段々段々これまで苦労艱難して来た道や。よう聞き分けよ、という」とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこで、深谷と宇野は、「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから」と申し上げて、重ねてお許しを願った。すると、「さあさぁさぁ真実受け取った、受け取った。斯道会の種は、さあさあ今日よりさあさぁ埋んだ。さあさぁこれからどれだけ大きなるとも分からん。さあさぁ講社の者にも一度聞かしてやるがよい。それで聞かねば、神が見ている。放うとけ、という」とお許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実は、親神様にお受け取り頂いたのである。
 142、狭いのが楽しみ
 深谷源次郎が、なんでもどうでもこの結構な教を弘めさせて頂かねば、と、ますます勇んであちらこちらとにをいがけにおたすけにと歩かせて頂いていた頃の話。当時、源次郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中を、心を倒しもせずに運ばして頂いていると、教祖はいつも、「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい 時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」と仰せ下された。
 143、子供可愛い
 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん」と、お諭し下された。源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと 信者を育て上げたのである。
 144、天に届く理
 教祖は、明治十七年三月二十四日(陰暦二月二十七日)から四月五日(陰暦三月 十日)まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も十日間入牢拘禁された。その間、忠三郎は、獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて、教祖の御前にもどると、教祖は、「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ」とお尋ね下されたので、「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます」と申し上げると、教祖の仰せ下さるには、「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで」と、お諭し下された。
 145、いつも住みよい所へ
 明治十七年二月のこと。増野正兵衞の妻いとは、親しい間柄の神戸三宮の小山弥左衞門の娘お蝶を訪ねたところ、お蝶から、「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞いた。当時いとは、三年越しソコヒを患うており、何人もの名医にかかったが、如何とも為すすべはなく、今はただ失明を待つばかり、という状態であった。又、正兵衞自身も、ここ十数年来脚気などの病に悩まされ、医薬の手を尽しながら、尚全快せず、曇天のような日々を送っていた。それで、それなら一つ、話を聞いてみよう、ということになった。そこで、早速使いを走らせ、二月十五日、初めて、小山弥左衞門から、お話を聞かせてもらうこととなった。急いで神床を設け神様をお祀りして、夫婦揃うてお話を聞かせて頂いた。その時の話に、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって神様にもたれなさい」。又、「食物は皆な親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。そこで、病気のためここ数年来やめていた好きな酒であるが、その日のお神酒を頂いて試してみた。ところが翌朝は頗る爽快である。一方、いとの目も一夜のうちに白黒が分かるようになった。それで、夫婦揃うて、神様にお礼申し上げ、小山宅へも行ってこの喜びを告げ、帰宅してみると、こは如何に、日暮も待たず、又、盲目同様になった。その時、夫婦が相談したのに、「一夜の間に神様の自由をお見せ頂 いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせて、熱心に朝夕神前にお勤めして、心をこめてお願いした。すると、正兵衞は十五日間、いとは三十日間で、すっきり御守護頂いた。ソコヒの目は元通りよく見えるようになったのである。その喜びに、四月六日(陰暦三月十一日)、初めておぢばへお詣りした。しかも、その日は、教祖が奈良監獄署からお帰りの日であったので、奈良までお迎えしてお伴して帰り、九日まで滞在させて頂いた。教祖は、「正兵衞さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならん で」と、やさしくお言葉を下された。このお言葉に強く感激した正兵衞は、商売も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、にをいがけ・おたすけに奔走した。が、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くない。それで伺うと、教祖は、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と、お言葉を下された。この時、正兵衞は、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのである。
 146、御苦労さん
 明治十七年春、佐治登喜治良は、当時二十三才であったが、大阪鎮台の歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊に入隊中、大和地方へ行軍して、奈良市今御門町の桝屋という旅館に宿営した。この時、宿の離れに人の出入りがあり、宿の亭主から、「あのお方が庄屋敷の生神様や」とて、赤衣を召された教祖を指し示して教えられ、お道の話を聞かされた。やがて教祖が、登喜治良の立っている直ぐ傍をお通りになった時、佐治は言い知れぬ感動に打たれて、丁重に頭を下げて御辞儀したところ、教祖は、静かに会釈を返され、「御苦労さん」と、お声をかけて下された。佐治は、教祖を拝した瞬間、得も言われぬ崇高な念に打たれ、お声を聞いた一瞬、神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がした。後年、佐治が、いつも人々に語っていた話に、「私は、その時、このお道を通る心を定めた。事情の悩みも身上の患いもないのに入信したのは、全くその時の深い感銘からである」と。
 147、本当のたすかり
 大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのことではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、 おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます」と、願った。すると、教祖は、「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆なすっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで」と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。この時以来、手のふるえは一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に写してもらったお筆先を生涯いつも読ませて頂いていた。そして、誰を見ても、熱心ににをいをかけさせて頂き、八十九才まで長生きさせて頂いた。
 148、清らかな所へ
 斯道会が発足して、明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、 斯道会へ入る人が続出して来たので、明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、後の者はついて来ると考えて、人を派して説得しようとし た。が、その者が、これから出掛けようとして、二階から下りようとしてぶっ倒れ、七転八倒の苦しみをはじめた。直ちに、医者を呼んで 診断してもらうと、コレラという診立てであった。そこで、早速医院へ運んだが、行き着く前に出直してしもうた。それで、講中の藤田某が、おぢばへ帰って、教祖に伺うと、「前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、又、泥水の中へ引き入れようとするから神が切り払うた」と、お言葉があった。
 149、卯の刻を合図に
 明治十七年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたたいて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、「阿波の土佐はん居らぬか。居るなら早よう出て来い」と。それは山本利三郎であった。出て行くと、「土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻を合図に、 なんと、月日のやしろにかかっているものを、全部残らずおまえにお下げ下さる、と言うておられるのや。おまえは日本一の仕合わせ者やなあ」と言うて、お屋敷目指して歩き出した。後を追うて歩いて行く卯之助は、夢ではなかろうかと、胸を躍らせながらついて行った。やがて、山本について、教祖のお部屋の次の間に入って行くと、そこには、真新しい真紅の着物、羽織は言うまでもなく、襦袢から足袋 まで、教祖が、昨夜まで身につけておられたお召物一切取り揃えて、丁寧に折りたたんで、畳の上に重ねられていた。卯之助は呆然とな り、夢に夢見る心地で、ただ自分の目を疑うように坐っていた。すると、先輩の人々が、「何をグズグズしている。神様からおまえに下さるのや」と注意してくれたので、初めて上段の襖近くに平伏した。涙はとめどもなく頬をつたうが、上段からは何んのお声もない。ただ静かに時が経った。卯之助は、「私如き者に、それは余りに勿体のうございます」と辞退したが、お側の人々の親切なすすめに、「では、お肌についたお襦袢だけを頂戴さして頂きます」と、ようやく返事して、その赤衣のお襦袢だけを胸に抱いて、飛ぶように宿へ持ってかえり、嬉し泣きに声をあげて泣いた、という。 

 註 卯の刻とは午前六時頃。
 150、柿
 明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十 七日におぢばへ到着した。一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、「一寸お待ち」と、土佐をお呼び止めになった。そして、「おひさ、柿持っておいで」と、孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな籠に、赤々と熟した柿を沢山運んで来た。すると、教祖は、その一つを取って、みずから皮をおむきになり、二つに割って、「さあ、お上がり」と、その半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいしそうに召し上がられた。やがて、土佐も、頂いた柿を食べはじめた。教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早く、次の柿をおむきになって、「さあ、もう一つお上がり。私も頂くで」と仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を、御自分がお召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、「遠慮なくお上がり」と仰せ下されたが、土佐は、「私はもう十分に頂きました。宿では、 信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやりま す」と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして、重たい程の柿を頂戴したのであった。







(私論.私見)