教祖逸話篇その5、第101話から第125話 |
最新見直し2012.9.5日)
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ここで、「教祖逸話篇その5、第101話から第125話」を確認しておくことにする。 2012.9.5日 れんだいこ拝 |
101 道寄りせずに| 102 私が見舞いに 103 間違いのないように 104 信心はな 105 ここは喜ぶ所 106 蔭膳 107 クサはむさいもの 108 登る道は幾筋も 109 ようし、ようし 110 魂は生き通し 111 朝、起こされるのと 112 一に愛想 113 子守歌 114 よう苦労して来た 115 おたすけを一条に 116 自分一人で 117 父母に連れられて 118 神の方には 119 遠方から子供が 120 千に一つも 121 いとに着物を 122 理さえあるならば 123 人がめどか 124 鉋屑の紐 125 先が見えんのや |
101、道寄りせずに |
明治十五年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、「今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(註、こい
その生家山中宅のこと)へもどこへも道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで」と、お聞かせ下された。それから程なく、五月十日(陰暦三月二十三日)午前八時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは急に産気づいて、どうする暇もなく、
自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、 丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には綺麗な産着を着せて寝かせてあった。お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。教祖は、「もう、こいそはん来る時分やなあ」と、お待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、「名をつけてあげよ」と仰せられ、「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けて
おくで」と御命名下された。
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102、私が見舞いに |
明治十五年六月十八日(陰暦五月三日)教祖は、まつゑの姉にあたる河内 国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、「姉さんの障りなら私が見舞いに行こう」と仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、 国分街道を出かけられた。そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なされたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。それでも、多くの信者が寄って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。教祖は、「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで」と仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた。 |
103、間違いのないように |
明治十五年七月、大阪在住の小松駒吉は、導いてもらった泉田藤吉に連れられて、お礼詣りに初めておぢばへ帰らせて頂いた。コレラの身上をお救け頂いて入信してから間のない頃である。教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、お手ずからお守りを下され、 続いて次の如く有難いお言葉を下された。「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。年は十八、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで」と。駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、しっかり守って通ったのである。 |
104、信心はな |
明治十五年九月中旬(陰暦八月上旬)、富田伝次郎(註、当時四十三才)は、当時十五才の長男米太郎が胃病再発して、命も危ないということになった時、 和田崎町の先輩達によって、親神様にお願いしてもらい、三日の間にふしぎなたすけを頂いた。そのお礼に、生母の藤村じゅん(註、当時七十六才)を伴って、初めておぢば帰りをさせて頂いた。やがて、取次に導かれて、教祖にお目通りしたところ、教祖は、「あんた、どこから詣りなはった」と仰せられた。それで、「私は兵庫から詣りました」と申し上げると、教祖は、「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ」と仰せ下され、次いで、「あんた家業は何をなさる」とお尋ねになった。それで、「はい、私は蒟蒻屋をしております」とお答えした。すると教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と仰せになった。そして、尚つづいて、「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」と、お教え下された。ところが、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分からない。そんな事をすると、損をして、商売が出来ないように思われる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、 お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損する事のない、共に栄える理である」と諭されて、初めて 「成る程」と得心がいった。この時、お息紙とハッタイ粉の御供を頂いてもどったが、それを生母藤村じゅんに頂かせて、じゅんは、それを三木町の生家へ持ちかえったところ、それによって、ふしぎなたすけが相次いであらわれ、道は播州一帯に一層広く伸びて行った。 |
105、ここは喜ぶ所 |
明治十五年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と七人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が、産後の患いで、もう命がな いというところを救けて頂いた、お礼詣りである。夜明けの四時に家を出て、歩いたり、巨掠池では舟に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の八時頃おぢばへ着いた。翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、「何故、泣くのや」と仰せになった。美紗は、尚も泣きじゃくりながら、「生神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて嬉し涙がこぼれました」と申し上げた。すると教祖は、「おぢばは泣く所やないで。ここは喜ぶ所や」と仰せられた。次に、教祖は善助に向かって、「三代目は清水やで」とお言葉を下された。善助は「有難うございます」とお礼申し上げたが、過分のお言葉に、身の置き所もない程恐縮した。そして、心の奥底深く、「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう」
と、堅く決心したのである。
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106、蔭膳 |
明治十五年十月二十九日(陰暦九月十八日)から十二日間、教祖は奈良監獄署に御苦労下された。教祖が、奈良監獄署に御苦労下されている間、梅谷四郎兵衞は、お屋敷に滞在させて頂き、初代真柱をはじめ、先輩の人々と、朝暗いうちから起きて、三里の道を差入れのために奈良へ通っていた。奈良に着く頃に、ようやく空が白みはじめ、九時頃には差入物をお届けして、お屋敷に帰らせてもらう毎日であった。ある時は、監獄署の門内へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったからかえる事ならん」と言うて威かされ、同行の三人は、泥の中へ手をついて詫びて、ようやく帰らせてもらった事もあった。お屋敷の入口では、張番の警官から咎められ、一晩に三遍も警官が替わって取り調べ、毎晩二時間ぐらいより寝る間がない、という有様であった。十一月九日(陰暦九月二十九日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、「四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭でちっともひもじゅうなかったで」と仰せられた。監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずはないのに、と、不思議に思えた。あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をさせて頂いていたのであった。そして、その翌十日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、というお許しを頂いた。
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107、クサはむさいもの |
明治十五年、梅谷タネが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、 赤ん坊であった長女タカ(註、後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせて頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが、一面に出来ていた。教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、その赤ん坊を、みずからの手にお抱き下され、
そのクサをごらんになって、「かわいそうに」と仰せ下され、自分のお坐りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しずつ指でちぎっては唾をつけて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、「オタネさん、クサは、むさいものやなあ」と仰せられた。タネは、ハッとして、「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあった。それで、教祖に厚く御礼申し上げて、大阪へもどり、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサがすっきりと浮き上がっている。あれ程ジクジクしていたクサも、
教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして、見事に御守護頂き、頭の地肌には既に薄皮が出来ていた。
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108、登る道は幾筋も |
今川清次郎は長年胃を病んでいた。法華を熱心に信仰し、家に僧侶を請じ、自分もまたいつも祈祷していた。が、それによって、人の病気は救かることはあっても、自分の胃病は少しも治らなかった。そんなある日、近所の竹屋のお内儀から、「お宅は法華に凝っているから、話は聞かれないやろうけれども、結構な神様がありますのや」と
言われたので、「どういうお話か、一度聞かしてもらおう」というこ とになり、お願いしたところ、お道の話を聞かして頂き、三日三夜のお願いで、三十年来の胃病をすっかり御守護頂いた。明治十五年頃の
ことである。それで、寺はすっきり断って、一条にこの道を信心させて頂こうと 心を定め、名前も聖次郎と改めた。こうして、おぢばへ帰らせて頂き、 教祖にお目通りさせて頂いた時、教祖は、「あんた、富士山を知っていますか。頂上は一つやけれども、登る道は幾筋もありますで。どの道通って来るのも同じやで」と結構なお言葉を頂き、温かい親心に感激した。次に、教祖は、「あんた方、大阪から来なはったか」と仰せになり、「大阪というところは、火事がよくいくところだすなあ。しかし、
何んぼ火が燃えて来ても、ここまで来ても、ここで止まるということがありますで。何んで止まるかと言うたら、風が変わりますのや。 風が変わるから、火が止まりますのや」と、御自分の指で線を引いて、お話し下された。後に、明治二十三年九月五日(陰暦七月二十一日)、新町大火の時、立売堀の
真明組講社事務所にも猛火が迫って来たが、井筒講元以下一同が、熱誠こめてお願い勤めをしていたところ、裏の板塀が焼け落ちるのをさかいに、突然風向が変わり、真明組事務所だけが完全に焼け残った。聖次郎は、この時、教祖からお聞かせ頂いたお言葉を、感銘深く思い出したのであった。
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109、ようし、ようし |
ある時、飯降よしゑ(註、後の永尾よしゑ)が、「ちよとはなし、と、よろづよ の終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか。」と、伺うと、
教祖は、「ちよとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、 これは、どうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はない やろ」と、お聞かせ下された。
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110、魂は生き通し |
教祖は、参拝人のない時は、お居間に一人でおいでになるのが常であった。そんな時は、よく、反故の紙の皺を伸ばしたり、御供を入れる袋を折ったりなされていた。お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう」と申し上げると、教祖は、「こかんや秀司が来てくれるから少しも寂しいことはないで」と仰せられるのであった。又、教祖がお居間に一人でおいでになるのに、時々、誰かとお話しになっているようなお声が、聞こえることもあった。又、ある夜遅く、お側に仕える梶本ひさに、「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか」と仰せになったこともある。又、ある時、味醂を召し上がっていたが、三杯お口にされて、「正善、玉姫も一しょに飲んでいるのや」と仰せられたこともあった。
註 梶本ひさは、明治二十年結婚して、山沢ひさとなる。 |
111、朝、起こされるのと |
教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、 大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」と。 |
112、一に愛想 |
教祖が、ある日、飯降よしゑにお聞かせ下された。「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと 言うて、明るい返事をするのが、第一やで」。又、「人間の反故を作らんようにしておくれ」、「菜の葉一枚でも粗末にせぬように」、「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」と。 |
113、子守歌 |
教祖は、時々次のような子守歌をお歌いになっていた、という。一、弁慶は、有馬の国で育てられ、三つの上は四つ五つ、七つ道具を背に負い、五条の橋にと急がれる。二、甚二郎兵衞は、手盥持って、釣瓶で水を汲んで、手水使うて、
神さん拝んで、シャンシャン。梶本宗太郎が、二十代の時に、山沢ひさから聞いたものである。
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114、よう苦労して来た |
泉田藤吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出会うた。その時、 頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下
さい」と言って、頭を上げると、三人の追剥は影も形もない。余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ」と仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。
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115、おたすけを一条に |
真明組周旋方の立花善吉は、明治十三年四、五月頃(陰暦三月)自分のソコヒを、つづいて父の疝気をお救け頂いて入信。以来数年間、熱心に東奔西走しておたすけに精を出していたが、不思議なことに、おたすけにさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでいると、何んとなく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し上げて、「何故でございましょうか」と伺うと、教祖は、「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は
何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで」とお聞かせ下された。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時も忘れず、一層たすけ一条に奔走させて頂いたのである。
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116、自分一人で |
教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに 行こうやないか」などと、居合せた人々が、二、三人連れを誘うて行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常であった。「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、尚その上に、「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せ下され、いともねんごろにお仕込み下された。
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117、父母に連れられて |
明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衞が、当時五、六才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達摩を思い出したものか、「達摩はん、達摩はん」と言った。それに恐縮した四郎兵衞は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、「梅次郎さんはどうしました。道切れるで」と仰せられた。このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。
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118、神の方には |
明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、初めておぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂くと、「こうして手を出してごらん」と仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挾んで、お上げになる。そして、「引っ張って、取りなされ」と仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで、離れない。そこで、「恐れ入りました」と申し上げると、今度は、「私の手を持ってごらん」と仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、 「しっかり力を入れて握りや」と仰せになる。そして、「しかし、私が痛いと言うたら、やめてくれるのやで」と仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、「もっと力はないのかえ」と仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました」と申し上げると、教祖は手の力をおゆるめになって、「それきり、力は出ないのかえ。神の方には倍の力や」と仰せられた。 |
119、遠方から子供が |
明治十六年四、五月頃(陰暦三月)のある日、一人の信者が餅を供えに来た。それで、お側の者が、これを教祖のお目にかけると、教祖は、「今日は遠方から帰って来る子供があるから、それに分けてやっておくれ」と仰せられた。お側の人々は、一体誰が帰って来るのだろうかと思いながら、お言葉通りに、その餅を残して置いた。すると、その日の夕方になって、遠州へ布教に行っていた高井、宮森、井筒、立花の四人が帰って来た。しかも、話を聞くと、この四人は、その日の昼頃、伊賀上野へ着いたので、中食にしようか、とも思ったが、少しでも早くおぢばへ帰らせて頂こうと、辛抱して来たので、足の疲れもさる事ながら、お腹は、 たまらなく空いていた。この四人が、教祖の親心こもるお餅を頂いて、有難涙にむせんだのは言うまでもない。 |
120、千に一つも |
明治十六年の春頃、山沢為造の左の耳が大層腫れた時に、教祖から、「伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思うている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け」とのお言葉を聞かせて頂いた。又、「神が一度言うて置いた事は千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで」と聞かせて頂いた。それで、先に父の身上からお聞かせ頂いたお言葉を思い起こし、父の信仰を受けつがねばならぬと、堅く心に決めていたところ、母なり兄から、「早く身の決まりをつけよ」とすすめら
れ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、「これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然らば、こちらへ来て働いた理に受け取る」と、お聞かせ下された。
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121、いとに着物を |
明治十六年六月初(陰暦四月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女い くゑを連れて、いくゑ誕生満一年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、教祖は大層お喜び下され、この時、「いとに着物をして上げておくれ」と仰せられ、赤衣を一着賜わった。これを頂いてかえって、こいそは、六月の末(陰暦五月下旬)に、その赤衣の両袖を外して、いくゑの着物の肩布と、袖と、紐にして仕立て、その着初めに、又お屋敷へお礼詣りをさせて頂いた。その日は、村田長平が、藁葺きの家を建てて、豆腐屋をはじめてから三日目であった。教祖は、「一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわけにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、 ちょうど思う通り来て下されて」と仰せられ、いくゑを背負うて、井戸を見においでになった。教祖は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁 寧に仰せになったのである。そして、帰って来られると、「お蔭で、見せてもろうて来ました」と仰せられた。この赤衣の胴は、おめどとしてお社にお祀りさせて頂いたのである。
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122、理さえあるならば |
明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て顔を見せてもら いたい」と言うて呼びに来た。伊三郎はかねてから、「我が田はどうなっても構わん」と覚悟していたので、「せっかくやが帰られん」と、アッサリ返事して、使いの者を帰した。が、その後で思案した。「この大旱魃にお屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と自分は満足している。しかし、そのために隣近所の者に不足さしていては申し訳ない」と。 そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう」と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう」と、お言葉を下された。こうして、村へ戻ってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜遅くまで水かいをした。しかし、その水は一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と深く心に感銘した。その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では段に一石 六斗という収穫をお与え頂いたのである。
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123、人がめどか |
教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が大和三界まで仕事に来て」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて大阪へ戻ろうとした。足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。「あ、教祖が」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。翌朝、お屋敷の人々と共に御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで」と仰せ下された。
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124、鉋屑の紐 |
明治十六年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫を教えて頂いていた。ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂いて、袋ができたが、さて、この袋に通す紐がない。「どうしようか」と思っていると、教祖は、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられたので、その鉋屑を拾うて来ると、教祖は、早速、器用に、それを三つ組の紐に編んで袋の口にお通し下された。教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へチョイチョイお越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持って来て下さる。その巾着の端布には赤いのも黄色いのもあった。そして、その紐は鉋屑で、それも三つ組もあり、スーッと紙のように薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものもあった。
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125、先が見えんのや |
中山コヨシが、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、「コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ」と、お言葉を下された。これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫び
した途端に、目が又元通りハッキリ見えるようになった。
註 中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その後、間もなくの事と言われている。 |
(私論.私見)