教祖逸話篇その3、第51話から第75話 |
最新見直し2012.9.5日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖逸話篇その3、第51話から第75話」を確認しておくことにする。 2012.9.5日 れんだいこ拝 |
51 家の宝 | 52 琴を習いや | 53 この屋敷から | 54 心で弾け | 55 胡弓々々 | 56 ゆうべは御苦労やった | 57 男の子は、父親付きで | 58 今日は、河内から | 59 まつり | 60 金米糖の御供 61 廊下の下を | 62 これより東 | 63 目に見えん徳 | 64 やんわり伸ばしたら | 65 用に使うとて | 66 安産 | 67 かわいそうに | 68 先は永いで | 69 弟さんは、尚もほしい | 70 麦かち | 71 あの雨の中を | 72 救かる身やもの | 73 大護摩 | 74 神の理を立てる | 75 これが天理や |
51、家の宝 |
明治十年六、七月頃(陰暦五月)のある日のこと。村田イヱが、いつもの ように教祖のお側でお仕えしていると、俄かに、教祖が、「オイヱはん、これ縫うて仕立てておくれ」と、仰せられ、甚平に裁った赤い布をお出しになった。イヱは、「妙や なあ。神様、縫うて、と仰っしゃる」と思いながら、直ぐ縫い上げたら、教祖は、早速それをお召しになった。ちょうどその日の夕方、亀松は、腕が痛んで痛んで困るので、お屋敷へ詣って来ようと思って、帰って来た。教祖は、それをお聞きになって、「そうかや」と、仰せられ、早速寝床へお入りになり、しばらくして、寝床の上に ジッとお坐りになり、「亀松が、腕痛いと言うているのやったら、ここへ連れておいで」と、仰せになった。それで、亀松を、御前へ連れて行くと、「さあ/\これは使い切れにするのやないで。家の宝やで。いつでも、さあという時は、これを着て願うねで」と、仰せになり、お召しになっていた赤衣をお脱ぎになって、直き直き亀松にお着せ下され、「これを着て、早くかんろだいへ行て、あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだいのおつとめをしておいで」と仰せられた。 |
52、琴を習いや |
明治十年のこと。教祖が、当時八才の辻とめぎくに、「琴を習いや」と仰せになったが、父の忠作は、「我々の家は百姓であるし、そんな 琴なんか習わせても」と言って、そのままにして日を過ごしていた。すると、忠作の右腕に大きな腫物が出来た。それで、この身上か ら、「娘に琴の稽古をさせねばならぬ」と気付き、決心して郡山の 町へ琴を買いに行った。そうして、琴屋で、話しているうちに、その腫物が潰れて、痛みもすっきり治まった。それで、「いよいよこれは神様の思わくやったのや」と、心も勇んで、大きな琴を、今先まで痛んでいた手で肩にかついで帰路についた、という。 |
53、この屋敷から |
明治十年、飯降よしゑ十二才の時、ある日、指先が痛んで仕方がな いので、教祖にお伺いに上がったところ、「三味線を持て」と、仰せになった。それで、早速その心を定めたが、当時櫟本の高品には、三味線を教えてくれる所はない。「郡山へでも習いに行きま
しょうか」と、お伺いすると、教祖は、「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうのでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは
何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」と仰せられ、御自身で手を取って、直き直きお教え下されたのが、 おつとめの三味線である。 註 飯降よしゑは、明治二十一年結婚して永尾よしゑとなる。 |
54、心で弾け
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飯降よしゑは、明治十年十二才の時から三年間、教祖から直き直き 三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。 教祖は、「どうでも道具は揃えにゃあかんで」、「稽古出来てなければ、道具の前に坐って心で弾け。その心を受け取る」、「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして稽古するのや」と。 |
55、胡弓々々 |
明治十年のこと。当時十五才の上田ナライトは、ある日、たまたま園原村の生家へかえっていたが、何かのはずみで、身体が何度も揺れ動いて止まらない。父親や兄がいくら押えても止まらず、一しょに
なって動くので、父親がナライトを連れて、教祖の御許へお伺いに行くと、 「胡弓々々」と仰せになった。それで「はい」とお受けすると、身体の揺れるのが治まった。こうして、胡弓をお教え頂くことになり、おつとめに出させて頂く
ようになった。
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56、ゆうべは御苦労やった |
本部神殿で、当番を勤めながら井筒貞彦が板倉槌三郎に尋ねた。 「先生は何遍も警察などに御苦労なされて、その中、ようまあ信仰をお続けになりましたね」と言うと、板倉槌三郎は、「わしは、 お屋敷へ三遍目に帰って来た時、三人の巡査が来よって、丹波市分署の豚箱へ入れられた。あの時、他の人と一晩中、お道を離れようか、 と相談したが、しかし、もう一回教祖にお会いしてからにしようと思って、お屋敷へもどって来た。すると、教祖が、『ゆうべは御苦労やったなあ』と、しみじみと、且つニコヤカに仰せ下された。わしは、その御一言で、これからはもう、かえって、何遍でも苦労しよう、という気になってしもうた」と答えた。これは、神殿が未だ北礼拝場だけだった昭和六、七年頃、井筒が 板倉槌三郎から聞いた話である。
註 板倉槌三郎は、明治九年に信仰始。よって、教祖のお言葉をお聞かせ頂いたのは、明治九年、又は十年頃と推定される。 |
57、男の子は、父親付きで |
明治十年夏、大和国伊豆七条村の矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子 供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キク
とは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは元来信心家であったので、直ぐその気になっ たが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っていたくらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、
信心するか。どちらかにしてもらいたい」 とまで言ったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のなかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、
はかばかしく御守護を頂けない。明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、『男の子は、父親付きで』と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ」と、言ってくれた。それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ」
と、言った。それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。
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58、今日は、河内から |
明治十年頃のこと。当時二十才の河内国の山田長造は、長患いのため数年間病床に呻吟していた。ところが、ある日、綿を買い集めに来た商人から、大和の庄屋敷には不思議な神様が居られると聞き、病床の中で、一心に念じておすがりしていると、不思議にも気分がよくなって来た。湯呑みで水を頂くにも、祈念して頂くと、気分が一段とよくなり、数日のうちに起きられるようになった。この不思議な御守護に感激した長造は、ぜひ一度、庄屋敷へお詣り
して、生神様にお礼申し上げたいと思い立った。家族は、時期尚早と反対したが、当人のたっての思いから、弟与三吉を同行させて、二本の松葉杖にすがって出発した。ところが、自宅のある刑部村から一里程の、南柏原へ来ると、杖は一本で歩けるようになった。更に、大和へ入って竜田まで来ると、残りの一本も要らないようになった。そこで、弟を家へかえして、一人でお屋敷へたどりついた。そして、取次から、「あんたは河内から来られたのやろう。神様は、朝から、『今日は、河内から訪ねて来る人があるで』と、仰せになっていたが、あんたの事やなあ。神様は、待っていられ
るで」と聞かされて、大層驚き、「本当に、生神様のおいでになる所 やなあ」と、感じ入った。かくて、教祖にお目通りして、数々のやさしいお言葉を頂き、約一週間滞在の上、すっきり御守護頂いたので、お暇に上がると、「又、直ぐ帰って来るのやで」と、お言葉を下さった。こうして、かえりは信貴山越えで、陽気に伊勢音頭を歌いながら
元気にかえらせて頂いた、という。
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59、まつり |
明治十一年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、二十八才で教祖の御 許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は二十 六日の理について、「まつりというのは待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は何もするのやないで。この日は、結構や、結構やと、をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで」とお聞かせ下されていた。こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを日課としていたが、赤衣は、教祖が必ずみずからお裁ちになり、それをこいそにお渡し下さる事になっていた。教祖の御許にお仕えして間もない明治十一年四月二十八日、陰暦三月二十六日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそは、教祖に向かって、「教祖、朝早くから何もせずにいるのは余り勿体のう存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます」 とお願い
した。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、「さようかな」と、仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下 された。 こいそは、御用が出来たので、喜んで、早速縫いにかかったが、一
針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事であるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこいそは、「教祖」と叫びながら、「勿体ないと思うたのは、かえって理に添わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは、明日の事にさして頂きます」と、心に定めると、忽ち元の白昼に還って、何の異状もな
くなった。後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、「こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と言いなはるから裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで」と仰せ下さった。
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60、金米糖の御供 |
教祖は、金米糖の御供をお渡し下さる時、「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで」と、お説き聞かせ下された。又、「一ぷくは一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理」と、お聞かせ下された。
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61、廊下の下を |
明治十一年、上田民蔵十八才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、「民蔵さん、私とおまはんと、どちらの力強いか力比べしよう」と仰せになり、教祖は、北の上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖はビクともなさらない。民蔵は、そのお力の強いのに全く驚歎した。又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、「民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、 おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで」と、お言葉を下された。民蔵は、「わしは百姓をしているし、子供もあるし、そんな事出来そうにもない」 と思うたが、その後子供の身上から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、「民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」と仰せられた。 後年、お言葉が、次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入った、という。 |
62、これより東 |
明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には病たすけの神様がござる」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、 日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、 案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂い ていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖から お言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ 運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山 本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂 くようになった。 |
63、目に見えん徳 |
教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」 と、仰せになった。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」 と、お答え申し上げた。 |
64、やんわり伸ばしたら |
ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂い たところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、 お聞かせ下されたのには、「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって又使えるのや。何一つ要らんというものはない」と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心にお
たすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭を使っては功能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。
水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三 十日間程これを続けた。又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、
天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに 廻わらせて頂いた。こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで」と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。
註 一っ刻は、約二時間。 |
65、用に使うとて |
明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、「守りが要る、守りが要る」と仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談 の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう」という事になった。そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて、教祖のところへお伺いに行った。秀司から、事の由を申し上げると、教祖は、直ぐに、「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、 直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあ/\楽しめ、楽しめ。ど んな事するのも、何するも、皆な神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆な一粒万倍に受け取るのやで。さあ/\早く、 早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ」とお言葉を下された。かくて、りんは、その夜から、明治二十年、教祖が御身をかくされるまで、お側近く、お守役を勤めさせて頂いたのである。 |
66、安産 |
前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂きに、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、「よう帰って来た」と仰せられ、更に、「出産の時は人の世話になること要らぬ」と、お言葉を下された。たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を切り、後産の始末もし、赤児には産湯をつかわせ、着物も着せ、全く人の世話にならずに、親神様の自由自在の御守護によって、安産させて頂いた。
註 前川きみの出生は、明治十三年一月二十五日である。よってをびや許しを頂いたのは、その前年明治十二年と推定される。 |
67、かわいそうに |
抽冬鶴松は、幼少から身体が弱く、持病の胃病が昂じて、明治十二年、十六才の時に、危篤状態となり、医者も匙を投げてしまった。この時、遠縁にあたる東尾の伝手で、浅野喜市がにをいをかけて くれた。そのすすめで、入信を決意した鶴松は、両親に付き添われ、 戸板に乗せてもらって、十二里の山坂を越えて、初めておぢば帰りをさせて頂き、一泊の上、中山重吉の取次ぎで、特に戸板のお許しを頂いて、翌朝、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、「かわいそうに」と仰せになって、御自身召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松の頭からお着せ下された。この時、教祖の御肌着の温みを身に感じると同時に、鶴松は夜の明けたような心地がして、さしもの難病も、それ以来薄紙をはぐように快方に向かい、一週間の滞在で、ふしぎなたすけを頂き、やがて全快させて頂いた。鶴松は、その時のことを思い出しては、「今も尚、その温みが忘れられない」 と一生口癖のように言っていた、という。 |
68、先は永いで |
堺の平野辰次郎は、明治七年、十九才の頃から病弱となり、六年間、 麩を常食として暮らしていた。ところが、明治十二年、二十四才の時、 山本多三郎からにをいがかかり、神様のお話を聞かして頂いたその日から、麩の常食をやめて、一時に鰯を三十匹も食べられる、という不思議な御守護を頂いた。その喜びにおぢばへ帰り、蒸風呂にも入れて頂き、取次からお話を聞かせて頂き、家にかえってからは、早速、神様を祀らせて頂いて、
熱心ににをいがけ・おたすけに励むようになった。こうして、度々お ぢばへ帰らせて頂いているうちに、ある日、教祖にお目通りさせて頂 くと、教祖が、「堺の平野辰次郎というのは、おまえかえ」と、仰せになって、自分の手を差し出して、「私の手を握ってみなされ」と仰せになるので、恐る恐る御手を握ると、「それだけの力かえ。もっと力を入れてみなされ」と仰せになった。それで、力一杯握ったが、教祖が、それ以上の力で握り返されるので、全く恐れ入って、教祖の偉大さをしみじみと感
銘した。その時、教祖は、「年はいくつか。ようついて来たなあ。先は永いで。どんな事があ っても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで」と、お言葉を下された。
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69、弟さんは、尚もほしい |
明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた頃、教祖は、「心の澄んだ余計人が入用」とお言葉を下された。 余計人と仰せられたのは、与三郎は、九人兄弟の三男で、家に居ても居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意 味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別段欲もな く、殊にたんのうがよかったと言われているから、そういう点を仰せになったものと思われる。又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せてもらっていたら、「為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、『弟さんは尚もほしい』と仰っしゃりますねで」とお聞かせ下された。 |
70、麦かち |
お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出 ましになって、「私も手伝いましょう。」と仰せになって、よくお手伝い下された。麦かちの時に使う麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、 大きい方は「柄ガチ」と言って、打つ方と柄の長さがほぼ同じで、こ れは大きくて重いので、余程力がないと使えない。が、教祖は、高齢になられても、この「柄ガチ」を持って、若い者と同じように、達者にお仕事をして下された。明治十二、三年頃の初夏のこと。ある日、カンカンと照りつけるお日様の下で、高井や宮森などが、汗ばみながら麦かちをしていると、 教祖も出て来られて、手拭を姉さん冠りにして、皆と一しょに麦かちをなされた。 ところが、どうしても八十を越えられたとは思えぬ元気さで仕事をなさるので、皆の者は、若い者と少しも変わらぬお仕事振りに、感歎の思いをこめて拝見した、という。 |
71、あの雨の中を |
明治十三年四月十四日(陰暦三月五日)、井筒梅治郎夫婦は娘のたねを伴って、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日の朝で、豪雨の中を出発したが、おひる頃カラリと晴れ、途中一泊して、到着したのは、その日の午後四時頃であった。早速、教祖にお目 通りさせて頂くと、教祖は、「あの雨の中をよう来なさった」と仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。更に、教祖は、「おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じることはない」と仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていたところに、お紙を貼って下さった。たねが、間もなく全快の御守護を頂いたのは言うまでもない。梅治郎の信仰は、この、教祖にお目にかかった感激とふしぎなたすけから、激しく燃え上がり、ただ一条に、にをいがけ・おたすけへと 進んで行った。 |
72、救かる身やもの |
明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわ れ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを尽したが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落
とされた思いで、明け暮れしていた。何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出
し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、「救かるで、救かるで。救かる身やもの」と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。
そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途につ いた。家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜ
ず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治十四年の正月には、本復祝いを行った。幸三
郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわしめた。おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は、「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、
しっかりおたすけするように」と仰せられた。幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。
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73、大護摩
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明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、 赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お坐りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りにな った。かねてから、地福寺への願い出については、「そんな事すれば親神は退く」とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身 はどうなっても」と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打たれずにはいられない。
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74、神の理を立てる |
明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が 躊躇していると、教祖は、「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、 二つ一つの返答をせよ」と、刻限を以て厳しくお急き込み下された。そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう」ということになった。ところが、おつとめの手はめいめいに稽古もできていたが、かぐらづとめの人衆は未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて勤めさせて頂くことになった。又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと種々相談もしたが、人間の心で勝手にはできないという上から、教祖にこの旨をお伺い申し上げた。すると教祖は、「さあさぁ鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆な勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け」という意味のお言葉を下されたので、皆な安心して勇んで勤めた。山沢為造は十二下りの手踊りに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。 |
75、これが天理や |
明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が突然眼病にかかり、 失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は早速お助けにかかり、三日三夜のうちに鮮やかな御守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、中川にお会いになって、「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べ をしましょう」と、仰せになった。日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒む訳にもいかず、逞ましい両腕を差し伸べた。すると教祖は静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられた。そこで、中川は、仰せ通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、 不思議な事には、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍して下さい」と叫んだ。この時、 教祖は、「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」と仰せられた。 |
(私論.私見)