教祖逸話篇その2、第26話から第50話

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 2012.9.5日 れんだいこ拝


 |26 麻と絹と木綿の話 |  27 目出度い日 |  28 道は下から |  29 三つの宝 |  30 一粒万倍 |  31 天の定規 |  32 女房の口一つ |  33 国の掛け橋 |  34 月日許した |  35 赤衣 |  36 定めた心 |  37 神妙に働いて下されますなあ |  38 東山から |  39 もっと結構 |  40 ここに居いや   41 末代にかけて |  42 人を救けたら |  43 それでよかろう |  44 雪の日 |  45 心の皺を |  46 何から何まで |  47 先を楽しめ |  48 待ってた、待ってた |  49 素直な心 |  50 幸助とすま |
 26、麻と絹と木綿の話
 明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ」と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう」と、仰せになって、「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼 しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれ までや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反 故と一しょや。絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆なほしいもんや。でも、絹のような人になったら、 あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。
そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、 夏は汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところま で使えるのが木綿や。木綿のような心の人を、神様はお望みに なっているのやで」と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み 込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。
 27、目出度い日
 明治五年七月、教祖が、松尾市兵衞の家へお出かけ下されて、御滞在中の十日目の朝、お部屋へ、市兵衞夫婦が御挨拶に伺うと、「神様をお祀りする気はないかえ」と、お言葉があった。それで、市兵衞が、「祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか」 と、伺うと、「あそこがええ」と、仰せになって、指さされたのが仏壇のある場所であった。余りに突然のことではあり、そこが、先祖代々の仏間である事を思う時、 市兵衞夫婦は、全く青天に霹靂を聞く思いがした。が、互いに顔を見合わせて、肯き合うと、市兵衞は、「では、この仏壇は、どこへ動かせ ば、宜しいのでございましょうか」 と、伺うた。すると教祖は、「先祖はおこりも反対もしやせん。そちらの部屋の同じような場所へ移させてもらいや」との仰せである。そちらの部屋とは旧客間のことである。早速と、大工を呼んで、 教祖の仰せのまにまに、神床を設計し、仏壇の移転場所も用意して、 僧侶の大反対は受けたが、無理矢理、念仏を上げてもらって、その夜、仏壇の移転を無事完了した。そして、次の日から、大工四名で神床の工事に取りかかった。教祖に、「早ようせんと、間に合わんがな」と、お急ぎ頂いて、出来上がったのは、十二日目の夕方であった。翌朝、夫婦が、教祖のお部屋へ御挨拶に上がると、教祖はおいでにならず、神床の部屋へ行ってみると、教祖は、新しく出来た神床の前に、 ジッとお坐りになっていた。そして、「ようしたな。これでよい、これでよい」と、仰せ下された。それから、長男楢蔵の病室へお越しになり、身動きも出来ない楢蔵の枕もとに、お坐りになり、「頭が痒いやろな」と、仰せになって、御自分の櫛をとって、楢蔵の髪をゆっくりお梳き下された。そして、御自分の部屋へおかえりになった時、「今日は吉い日やな。目出度い日や。神様を祀る日やからな」と、言って、ニッコリとお笑いになった。夫婦が、「どうしてお祀りするのかしら」と思っていると、玄関で人の声がした。ハルが出てみると、秀司が、そこに立っていた。早速、座敷へ案内すると、教祖は、「神様を祀る段取りをされたから、御幣を造らせてもらい」と、お命じになり、やがて、御幣が出来上がると、御みずからの手で、 神床へ運んで、御祈念下された。「今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほんとに目出度い」と、心からお喜び下され、「直ぐ帰る」と、仰せになって、お屋敷へお帰りになった。仏壇は、後日、すっきりと取り片付けた。
 28、道は下から
 山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば 一段と結構になりましょう」 と、申し上げた。すると、教祖は、「上から道をつけては下の者が寄りつけるか。下から道をつけた ら上の者も下の者も皆つきよいやろう」と、お説き聞かせになった。
 29、三つの宝
 ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、「伊蔵さん、掌を拡げてごらん」と、仰せられた。伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで」と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで」と、仰せられた。伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。
 30、一粒万倍
 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には何万という数になる。これを、 一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで」と、仰せられた。
 31、天の定規
 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみ て下され」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆な真っ直ぐやと思うている事でも、天の 定規にあてたら、皆な狂いがありますのやで」と、お教え下された。
 三二 女房の口一つ
 大和国小阪村の松田利平の娘やすは、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせて頂いた。教祖は、「おまえの炊いたものを、持って来てくれると、胸が開くような気 がする」と、言うて、喜んで下された。お食事は、粥で、その中へ大豆を少し入れることになっていた。ひまな時には、教祖と二人だけという時もあった。そんな時、いろいろとお話を聞かせて下されたが、ある時、「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえり なさい。と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆と言うけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、 あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで。」と、お教え下された。やすは、二十三才の時、教祖のお世話で、庄屋敷村の乾家へ嫁いだ。 見合いは、教祖のお居間でさせて頂いた。その時、「神様は、これとあれと、と言われる。それで、こう治まった。治まってから、切ってはいかん。切ったら、切った方から切られますで」と、仰せられ、手を三度振って、「結構や、結構や、結構や」と、お言葉を下された。
 三三 国の掛け橋
 河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちら こちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、 命旦夕に迫って来た。明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村 の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが、にをいをかけてくれた。それで、父の利八が代参で、 早速おぢばへ帰ると、教祖から、「この屋敷は人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待ってたのやで」と、結構なお言葉を頂いた。もどって来て、これを伝えると、利三郎は、「大和の神様へお詣りしたい」 と言い出した。家族の者は、「とても大和へ着くまで持たぬだろう」 と止めたが、利三郎は、「それでもよいから、その神様の側へ行きたい」と、せがんだ。あまりの切望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。けれど も、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので、一旦は引き返した。しかし、家に着くと、不思議と息を吹き返して、「死んでもよいから」 と言うので、水盃の上、夜遅く、提灯を けて、又戸板をかついで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。既にお屋敷の 門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると、教祖は、「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるの や」と、仰せ下され、つづいて、「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁 々々々々」と、お言葉を下された。それから、風呂をお命じになり、「早く風呂へお入り」と、仰せ下され、風呂を出て来ると、「これで清々したやろ」と、仰せ下された。そんな事の出来る容態ではなかったのに、利三郎は少しも苦しまず、かえって苦しみは去り、痛みは遠ざかって、 教祖から頂いたお粥を三杯、おいしく頂戴した。こうして、教祖の温かい親心により、利三郎は、六日目にお救け頂き、一ヵ月滞在の後、 柏原へもどって来た。その元気な姿に村人達は驚歎した、という。
 三四 月日許した
 明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊し た時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり」と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、 腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、 人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したと言うたら、許したのやで」と。
三五 赤衣
 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六 日(陰暦十一月十八日)であった。教祖が、急に、「赤衣を着る」と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ 布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、 お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、 桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、 教祖が、「出来上がり次第に着る」と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。
三六 定めた心
 明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうと すると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚 いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰 暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった 人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日 三夜の祈祷で救かる」という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあら われない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を 召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって、もどって来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂 いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家 のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、 たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます」と、 家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。 やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を 見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました」 と、言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通し てお礼を申し上げると、お言葉があった。「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやな。さあ/\いんねん、いん ねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、 よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう」と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理 を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあ/\いんねん、いんねん。佐右衞門さん、よくよく聞かしてや ってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。 さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ/\勇め、 勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの 心次第やで」と、仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、 仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやな あ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤 めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれ た。時に、増井りん、三十二才であった。

註 仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の 時に、儀三郎と改名した。

 37、神妙に働いて下されますなあ
 明治七年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他 の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶 してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆な用事出 して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ」と、仰っしゃった。すると、こかんは、「沢山用事はございますなれど、 遠慮して出しませなんだのや」 と答えた。その時、教祖は、「そんなら、出してお上げ」と、仰っしゃったので、こかんは、糸紡ぎの用事を出した。人々は、 一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがて、ナラギクのところで一つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩をポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、「ナラギクさん(註、当時十八才)、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに神妙に働いて下されますなあ。 この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。 用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて 置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや」と、仰せになった。

 註 西尾ナラギクは、明治九年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、 おさめと改名、桝井おさめとなる。

 38、東山から
 明治七年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、 という。「東山からお出やる月はさんさ小車おすがよにいよさの水車でドン、ドン、ドン」。節は、「高い山から」の節であった。
 39、もっと結構
 明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアに かかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから匂いがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎がお助けに来てくれ、不思議な助けを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に床下でコトコトと音がする。「これは怪しい」と思って、そっと 起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って闇の中へ逃げ てしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で結講でございました」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。
 40、ここに居いや
 明治七年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)十八才の時、腕の疼きが激しく、 あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、 「一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうや」と、にをいをかけ てくれた。当人も、かねてから、庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めて、お屋敷へ帰らせて頂いた。そして、教祖にお目通りすると、「与之助さん、よう帰って来たなあ」と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に、腕の疼きは、ピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし、夜になって桧垣村へもどった。ところが、家へもどると、又、腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねて、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、不思議にも腕の 疼きは治まった。こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のよ うにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、「与之助さん、ここに居いや」と、仰せ下されたので、仰せ通り、お屋敷に寝泊まりさせて頂いて、 用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。こうして、与之助はお屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。
 41、末代にかけて
 ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり 踏み込め」と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで」と、仰せになった。後日、儀三郎の孫吉蔵の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んで来た時、急に吉蔵の顔に面疔が出来て、顔が腫れ上がってしまった。それで、家中の者が驚いていろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄り達の口から、教祖が地固めをして下された土地であることが語られ、早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは、鮮やかにすっきりとお救け頂いた。

註 年寄り達とは、中田しほと、その末妹上島かつの二人である。 しほは、儀三郎の長男の嫁。

 42、人を救けたら
 明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気 違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる」と聞き、 早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで教祖にお目通りした。すると、教祖は、「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。 かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや」と、お言葉を下された。栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、なむてんりわうのみことと、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かに なって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み 続けた。すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家からもお礼に来た。全快した娘には養子をもろうた。栄治郎と娘夫婦の三人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて 頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。
 43、それでよかろう
 明治八年九月二十七日(陰暦八月二十八日)、この日は、こかんの出直した日である。庄屋敷村の人々は病中には見舞い、容態が変わったと言う ては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに駈せ参じた。その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、 教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は今まで 神様を疑うていて申し訳なかった」と、中には涙を流す者さえあった。その時、列席していたお屋敷に勤める先輩が、「あなた方も、一つ 講を結んで下さったら、どうですか」と、言った。そこで、村人達は、「わし等も村方で講を結ばして頂こうやないか」と、相談がま とまった。その由を、教祖に申し上げると、教祖は大層お喜び下された。そこで、講名を何んと付けたらよかろう、という事になったが、 農家の人々ばかりでよい考えもない。そのうち、誰言うともなく、 「天の神様の地元だから、天の元、天元講としては、どうだろう」 とのことに、一同、「それがよい」 という事になり、この旨を教祖に伺うと、「それでよかろう」と仰せられ、御自分の召しておられた赤衣の羽織を脱いで、「これを信心のめどにして、お祀りしなされ」と、お下げ下された。こうして、天元講が出来、その後は、誰が講元ということもなく、毎月、日を定めて、赤衣を持ち廻わって講勤めを始めたのである。
 44、雪の日
 明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、 途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた。そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、 教祖が窓から外をお眺めになって、『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ 難儀やろうな』と、仰せられていたところでした」と、言った。りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ結構やなあ」 と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、 手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせ た人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御 挨拶に上がると、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。 あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆な受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりと お握り下された。それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。
 45、心の皺を
 教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの 紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使い なされた。お話しに、「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら何んなりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。人のたすけもこの理やで。心の皺を、話しの理で伸ばしてやるのやで。心も、皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを、落とさずに救けるが、この道の理やで」と、お聞かせ下された。ある時、増井りんが、お側に来て、「お手許のおふでさきを写さして 頂きたい」とお願いすると、「紙があるかえ」と、お尋ね下されたので、「丹波市へ行て買うて参ります」と申し上げたところ、「そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう」と仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、「さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ」とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これは、おふでさき第四号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という。
 46、何から何まで
 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理して おくれ」 と言った。出刃はなかったのである。りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など一揃い買うて来て、 お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を申し上げると、 教祖は、それをお頂きになって、「おりんさん、何から何まで気を付けてくれたのやなあ。有難い なあ」と仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。

 註、八尾のお逮夜 毎月二回、十一日と二十七日に、八尾の寺と久宝 寺の寺との間に出た昼店。

 47、先を楽しめ
 明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、『松は枯れても、案じなし』と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが」と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人人が申します」 と人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が 早速このことを教祖にお伺いすると、教祖は、「さあ/\分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に」と、仰せ下され、しばらくしてから、「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所」と、重ねてお言葉を下された。
 48、待ってた、待ってた
 明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、 突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い」と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心するうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた 叔母やで」と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時に ナライト十四才であった。
 49、素直な心
 明治九年か十年頃、林芳松が五、六才頃のことである。右手を脱臼したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、仰っしゃって、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せられた。芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちらこちら」と、御自身の右手をお上げになった。威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたら、持てた。茶碗を持った右手は、いつしか御守護を頂いて治っていたのである。
 50、幸助とすま
 明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、 三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ」と仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、「はい、有難うございます」と、お答えした。すると、教祖は、「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい」と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛はもうすっきり治っていた。それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「オマスはんを村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日 の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ」と仰せになったので、伊三郎は「有難うございます」とお礼申 し上げて、伊豆七条村へもどった。翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ」と、仰せになったので、イヱは「有難うございます」とお答えした。すると、教祖は、「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり」と、仰せ下された。二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って来た。そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで」と、お言葉を下された。この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。

 註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、 村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙」)








(私論.私見)