教祖逸話篇その1、第1話から第25話

 最新見直し2012.9.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖逸話篇その1、第1話から第25話」を確認しておくことにする。

 2012.9.5日 れんだいこ拝


 1 玉に分銅 |  2 お言葉のある毎に |  3 内蔵 |  4 一粒万倍にして返す |  5 流れる水も同じこと |  6 心を見て7 真心の御供 |  8 一寸身上に |  9 ふた親の心次第に |  10 えらい遠廻わりをして |  11 神が引き寄せた |  12 肥のさづけ |  13 種を蒔くのやで |  14 染物 |  15 この物種は |  16 子供が親のために |  17 天然自然 |  18 理の歌 |  19 子供が羽根を |  20 女児出産 21 結構や、結構や |  22 おふでさき御執筆 |  23 たちやまいのおたすけ |  24 よう帰って来たなあ |  25 七十五日の断食 | 
 1、玉に分銅
 教祖は、綿木の実から綿を集める時は、手に布を巻いてチュッチュ ッとお引きになったが、大層早かった。又、その綿から糸を紡ぎ機を 織るのが、とてもお上手であった。糸を括って紺屋へ持って行き、染めてから織ると模様が出るのであ るが、中でも最も得意とされたのは、玉に分銅、猫に小判などという 手の込んだ模様ものであった、という。
 2、お言葉のある毎に

 天保九年十月の立教の時、当時十四才と八才であったおまさ、おき み(註、後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました」と述べている。

 3、内蔵

 教祖は、天保九年十月二十六日、月日のやしろとお定まり下されて 後、親神様の思召しのまにまに内蔵にこもられる日が多かったが、こ の年、秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、十日程で平癒した。内蔵にこもられる事は、その後もなお続き、およそ三年間にわたった、という。

 4、一粒万倍にして返す
 『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。 水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す』。
 5、流れる水も同じこと
 教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ 落ち込め、 落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、 貧乏せ』と、仰っしゃりました」 と。
 6、心を見て
 嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、辻家の出であったので、 梶本の家へ話したところ、話が進み、辻忠作を仲人として、縁談を申し込んだ。教祖は、「惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを見て、やる」と、仰せられ、この縁談は、目出度く調うた。おきみは、結婚して、 おはると改名した。惣治郎は、幼少の頃から気立てがよく素直なため、村でも仏惣治郎と言われていた、という。
 7、真心の御供
 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の 信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下 さい」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、 「ああ、そうかえ」と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうござ います」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常に御満足の体であらせられた。これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、 正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言う て持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」というので、その搗き立てのところを取って、 持って来たのであった。教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と、仰せられた。
 8、一寸身上に
 文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばなら ぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる」という事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と、仰せられ、更に、「一寸身上に知らせた」とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。 お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、「身上に知らせたのやで」とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえ る頃には、治っていた。それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷のお掃除に通わせて頂いた。 こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。
 9、ふた親の心次第に
 文久三年七月の中頃、辻忠作の長男由松は、当年四才であったが、 顔が青くなり、もう難しいという程になったので、忠作の母おりうが 背負うて参拝したところ、教祖は、「親と代わりて来い」と、仰せられた。それで、妻ますが、背負うて参拝したところ、「ふた親の心次第に救けてやろう」と、お諭し頂き、四、五日程で、すっきりお救け頂いた。
 10、えらい遠廻わりをして
 文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっ ちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と、すすめられた。目に見えない綱ででも、 引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「待っていた、待っていた」と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温か なお言葉を下された。それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、 詣り信心をしておりました」と、申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。 おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」と、仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほ んに成る程、これこそ本当の親や」と、何んとも言えぬ慕わしさが、 キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。
 11、神が引き寄せた
 それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。 忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既 に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし」 と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通り させて頂いたところ、お言葉があった。「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのであ る程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」 と。
 12、肥のさづけ
 教祖は、山中忠七に、「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで」と、お諭しになり、「嘘か真か、試してみなされ」と、仰せになった。忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥の さづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだ か少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ」と、疑わざるを得なかった。ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、蟲が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、蟲穂や空穂は少しもなく、結 局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。
 13、種を蒔くのやで
 摂津国安立村に、「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、 タツという夫婦があった。二人の間には次々と子供が出来た。もう、 これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。それで、タツは、大和国に、願うと子供をおろして下さ る神様があると聞いて、大和へ来た。しかし、そこへは行かず、不思議なお導きで、庄屋敷村へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、「あんたは種市さんや。あんたは種を蒔くのやで」と、仰せになった。タツは、「種を蒔くとは、どうするのですか」と、 尋ねた。すると、教祖は、
 「種を蒔くというのは、あちこち歩いて、天理王の話をして廻わるのやで」と、お教えになった。更に、お腹の子供について、「子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの 家の後取りや」と、仰せられた。このお言葉が胸にこたえて、タツは、子供をおろすことは思いとどまった。のみならず、夫の藤助にも話をして、それからは、夫婦ともおぢばへ帰り、教祖から度々お仕込み頂いた。子供は、 その年六月十八日安産させて頂き、藤次郎と名付けた。こうして、二人は、花の種を売りながら、天理王命の神名を人々の胸に伝えて廻わった。そして、病人があると、二人のうち一人が、おぢばへ帰ってお願いした。すると、どんな病人でも次々と救かった。
 14、染物
 ある時、教祖が、「明朝、染物をせよ」と、仰せになって、こかんが、早速、その用意に取りかかっていた。 すると、ちょうど同じ夜、大豆越でも、山中忠七が、扇の伺によって このことを知ったので、早速、妻女のそのがその用意をして、翌朝未 明に起き、泥や布地を背負うてお屋敷へ帰って来た。そして、その趣 きを申し上げると、教祖は、「ああそうか。不思議な事やな。ゆうべ、こかんと話をしていたと ころやった」と、言って、お喜び下された。こういう事が度々あった。染物は、後にかんろだいのぢばと定められた場所の艮(註、東北)にあった井戸の水で、お染めになった。教祖が、「井戸水を汲み置け」と、仰せになると、井戸水を汲んで置く。そして、布に泥土を塗って、 その水に浸し、浸しては乾かし、乾かしては浸す。二、三回そうしているうちに、綺麗なビンロージ色に染まった。この井戸の水は、金気水であった。

 註一 大和には、金気井戸が多いが、他の井戸では、このように綺麗には染まらなかった。泥は、教祖が、慶応元年八月、山中家にお入り込みの時、家の東側を流れている小川に、染物によい泥がある、とお気付きになり、所望なさったので、その後、度々お屋敷へ運ばせて頂 いた。この泥は、竹の葉が、竹薮などで堆積して出来たもの、という。
 二  ビンロージ色 ビンローは、インド、マライシア等に育つ植物で、 ヤシの一種である。その実をビンロージ(檳榔子)と言い、鶏卵大で、 黄赤色に熟する。原産地では、口中でかんで嗜好品とするが、日本で は、その乾かしたものを染料に使って、暗黒色を染めた。それから、 暗黒色をビンロージ色という。   (平凡社「世界大百科辞典」)

 15、この物種は
 慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は、既にお寝みになっていたが、「神床の下に納めてある壷を、取り出せ」と、仰せになって、壷を取り出させ、それから、山中忠七をお呼びに なった。そして、お聞かせ下されたのに、「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由に なると思い、心配するであろう。何んにも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう」と、仰せになって、その壷を下された。そして、更に、「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで」と、お言葉を下された。そして、その翌日、このお礼を申し上げると、「これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなあ」と、お喜び下された。これは、永代の物種として、麦六升、米一斗二升、小遣銭六十貫、 酒六升の目録と共に、四つの物種をお授け下されたのであった。それ は、縦横とも二寸の白い紙包みであって、縦横に数条の白糸を通して、 綴じてあり、その表にそれぞれ、「麦種」 「米種」 「いやく代」「酒代 油種」というように、教祖御みずからの筆でお誌し下されてある。教祖が、 この紙包みに糸をお通しになる時には、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながらお通しになった。お唱えにならぬと、糸が通らなかっ た、という。これは、お道を通って不自由するということは、決して ない、という証拠をお授け下されたのである。

 註 六十貫は、当時の米二石七斗、昭和五十年現在の貨幣 九四五〇〇円にあたる。

 16、子供が親のために
 桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になっ て来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発 し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂 いて、「母親の身上の患いを、どうかお救け下さいませ」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで」と、仰せになった。これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、 伊三郎は、「さようでございますか」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へかえって来た。が、家へ着いて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ」という気持で一杯になって来た。それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救け て頂きとうございます」 と願うと、教祖は、重ねて、「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない。」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。又、トボトボと五十町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、 もう、夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」と。すると、教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、 これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と、仰せ下された。この有難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、 八十八才まで長命させて頂いた。
 17、天然自然
 教祖は、「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や」と、慶応二、三年頃、いつもお話しになっていた。
 18、理の歌
 十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ」と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖は、「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういう ふうに歌うのや」と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。次に、「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ」と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったとこ ろ、教祖は、それをごらんになっていたが、「皆な、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こう いうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや」と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え 下された。こうして、節も手振りも、一応皆の者にやらせてみた上、御みずか ら手本を示して、お教え下されたのである。これは、松尾市兵衞の妻ハルが、語り伝えた話である。

 註 松尾ハルは、天保六年九月十五日生まれ。入信は慶応二年。慶応 三年から明治二年には三十三才から三十五才。大正十二年五月一日、 八十九才で出直した。

 19、子供が羽根を
 「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、 同八月に到る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。『恥かかすようなものや』と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、 三年かかりました。教祖は、『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや』と、言うて、お教え下されました」。これは、梅谷四郎兵衞が先輩者に聞かせてもらった話である。
 20、女児出産
 慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、 教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆な、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり」と、仰せになった。忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨 夜もお屋敷で泊めてもらった程であったが、このお言葉を頂いて、「さようでございますか」と、申し上げたものの、半信半疑でいた。が、 出産の知らせに来た息子の彦七に会うて、初めてその真実なることを知ると共に、尚その産児が女子であったので、今更の如く教祖のお言 葉に恐れ入った。
 21、結構や、結構や
 慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後のことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざまを見よ。阿呆な奴や」 と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、 残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、 後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うや ろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心から親神様にお礼申し上げた。
 22、おふでさき御執筆
 教祖は、お筆先について、「筆先というものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あの筆先も、一号から十七号まで直きにできたのやない。 神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』 と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』 と、仰っしゃりました。72才の正月に初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。 『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは入れ筆しましたのや。それが筆先である」と、仰せられた。これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。
 23、たちやまいのおたすけ
 松村さくは、「たちやまい」にかかったので、生家の小東家で養生の上、明治四年正月十日、おぢばへお願いに帰って来た。教祖は、いろいろと有難いお話をお聞かせ下され、長患いと熱のためにさくの頭髪にわいた虱を、一匹ずつ取りながら、髪を梳いておやりになった。そして、更に、風呂を沸かして、垢付いたさくの身体を、 御手ずから綺麗にお洗い下された。この手厚い御看護により、さくの病気は三日目には嘘のように全快した。
 24、よう帰って来たなあ
 大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。 盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出 かけて行って、音頭櫓の上に立った。明治四年、19才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、と聞き、夜、横川の滝で、「コーリャ コリャコリャ」と、大声を張り上げた。昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、 三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったのである。長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。 それで、付添いの母親しかが、「足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか」 と、歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、にをいがかかった。 「庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そんなぐらい直ぐに救けて下さるわ」という事である。それで、早速おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いたところ、 教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、「よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり 同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて 下さるで」と、仰せになった。彦太郎は、「このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます。」とお答え した。すると。教祖は、「それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろうて、人救けに歩きなされ」と、仰せられた。「そんなら、そうさしてもらいます」と彦太郎の 答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、にをいがけ・おたすけに 励んだ。それから八十七才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が 読めるよう、お救け頂いたのである。
 25、七十五日の断食
 明治五年、教祖七十五才の時、七十五日の断食の最中に、竜田の北にある東若井村の松尾市兵衞の宅へ、おたすけに赴かれた時のこと。 教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の 輪切り三箇を、召し上がってから、「参りましょう」と、仰せられた。その時、「駕篭でお越し願います」 と、申し上げる と、「ためしやで」と、仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着 されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中四里の道 のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走 を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もう、 これで満腹や。さあ、早ようこれをお下げ下され。その代わり、水と塩を持って来て置いて下され」と、仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰 せになるのか、と思って、お尋ねすると、「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とても、おいしそう に出来ている」と、仰せになった。それで、ハルは、「何一つ、手も付けて頂けず、水と塩とだけ出せ、と仰せられても、出来ません」と申し上げると、「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。お気持は、よう分かる。そしたら、どうや。あんたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか」と、仰せられた。それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、「それでは、お上がり下さいませ」 と、申し上げてから、箸に御飯を載 せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした 事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に 落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと 微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び 調えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな」と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止め になったのや。さあ/\早く、膳部を皆お下げ下され」と、いたわりのお言葉を下された。こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、五日目頃、お屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さ らに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。 食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ」と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳ん で行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入っ た。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村の小東の家から、駕篭を借りて来て竜田までお召し願うたが、その時、「目眩いがする」と、仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。
 「親神様が『駕篭に乗るのやないで。歩け』と、仰せになった」 と、お聞かせ下された。







(私論.私見)