れんだいこの大平良平論 |
更新日/2024(平成31→5.1栄和改元/栄和6)年.1.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「れんだいこの大平良平論」をしておく。「」その他参照。 2007.12.28日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの大平良平論】 |
あぁ驚いた。天理教及びその教祖中山みきの在家研究者を自負しているれんだいこが、偶々のネット検索で、大正期の天理教研究者として相当なる論考と足跡を遺している「大平良平」(以下単に「O」と記す)を、2023(栄和5)年末に初めて知った。丁度同じ頃、入信した廣池千九郎博士が天理教教育顧問並びに天理中学校の校長として活躍していた。廣池博士については履歴確認していたが、迂闊にも「O」氏については見落としていた。それには、「O」氏が大正3年に山名大教会系の一信徒として入信し、その後暫くして本部教理批判、当時の天理教組織の実態批判に向かい始め、赴くところ退会となった事情と関係している。 その後「O」氏は「何れの教会にも属せざる全然自由行動をとる」ようになり、大正4年4月から翌年8月まで天理教関係の個人月刊誌「新宗教」や研究書を刊行して、天理教の改革を叫んで「 天理教界革命の声」を発信し、自由闊達なる教団本部批判を展開した。これにより、大正時代の本部教理の生態が知れると云う副産物が生まれている。「O」氏の足跡は、「O」氏自身が「教祖直伝の宗教の宣伝者」と自負して営為しており、これを支持する側からは、「生命をかけて批判に生きた、天理教最大の価値ある異端」と評されている。しかしながら、これが為に天理教研究史上に於いて「O」氏の業績が本部教理から、その影響を受けがちな外野教理からも、意図的に隠蔽されることになったと思われる。れんだいこもその影響を受けて、2023(栄和5)年末に出会うまで存じあげなかったという事情にある。今、改めて、「大平良平」の足跡と論考を確認したところ、天理教教理の斬新な「O」式概括と、何より現在の稿本天理教教祖伝の粗筋の下敷きモデルとなる論考を著していることが分かり(このことが指摘されていないが、私にはそのように映る)驚かされている。 そこで、ネット上に公開された「O」論考を取り込み、「O」式教理の確認と対話、「O」式教祖伝と稿本天理教教祖伝の絡みを解析しておくことにする。その際、まずはサイト化し、次に読み易くするために旧かな使いを現代日本語に改めることから始めねばならない。この過程で、誤字訂正、句読点の是正、段落替えをする。これを何度も繰り返すうちに意自ずから通ずになるだろう。 |
【大平良平式天理教教理考】 |
「大平良平」(大正五年一月に大平隆平に改名)(1886年~1916年)は、明治42年、早稲田大学卒。大正2年、図書館で偶然出会った天理教の文献が機縁(きえん)となり天理教研究を開始している。 その「大平良平」式天理教教理を窺うのに、慧眼的な天理教論、教祖論、教義解釈が随分あり、そこはもっと評価され、その評価が天理教研究史に記されるべきである。が、全体的に思弁的で、その思弁の多くがユダヤ-キリスト教的教理とアナロジー(analogy、類似)的に通底させており、その際に、ユダヤ-キリスト教的教理に無批判的なままに同衾させている。時に天理教教理がそれらと別経路の独自性を持つことを指摘をしているものの、その方面を更に探求しつつ解析する企図を弱くしている。本来は、みき教理をして、日本の記紀神話に象徴される日本思想、それを更に突き抜けてプレ大和王朝的出雲王朝御代の日本思想まで辿り着き、この観点をべ-スにしての教理解析、その上でのみき教理の独自性の解析に向かうべきだったのではなかろうか。 もとへ、「大平良平」式教理の最大の難点は、ユダヤ-キリスト教的世界観を背景にしている西洋式ユ-トピア思想と安易に同衾させていることだろうか。それが為に非常に通俗的な理想郷論を開陳させている。男女生態論、夫婦生態論も然りで、道徳的過ぎる奥行きの狭いものになっている。それらは天理教教祖の教理とは明らかに違う「大平良平」式のものであり、中山みき教理とは似て非なるものである。早晩、琢磨せねばならない教理の域に止まっているようにお見受けする。 彼が20代後半から30歳までの頃の思索であるから、社会的経験が短か過ぎ、その分書生的な青臭さを持つのも致し方ないと言えようか。そういう意味で、大平良平氏にはもっと長生きしてもらい、教理のその後の円熟に接したかった。「大平良平」氏は1886(明治19)年生まれ、1916(大正5)年生没の享年30歳の若さで他界している。まことに惜しまれる早世であった。 |
補足しておく。「O」氏につき特筆せねばならないことがある。それは、明治末から大正初年度に於いて、「O」氏が、当時勃興しつつあった社民思想、マルクス主義、無政府主義に通じた上で、そういう近代西欧革命思想を咀嚼した上で、天理教の思想的価値をそれら西欧思想に対する上に見て、西欧式革命に対置するように天理教思想による世直し、世の立て替えを指針させていた。その慧眼ぶりが称賛されるべきである。この観点よりの「O」氏論がなされねばならないと考える。しかしながら、この観点からの「O」氏論は当分の間、れんだいこの独壇場になるだろう。なぜなら、近代西欧革命思想と天理教思想の双方に通じる学徒が居ないからである。通常は両者は並行し交わることがない。れんだいこの知る限り、この「O」氏とれんだいこ以外を知らない。これによって、「O」氏は、近代西欧革命思想に代わる日本思想の粋としての天理教思想の押し出しのいわゆる先駆けなのではなかろうか、そういうものとしての「O」氏評が必要になるという評になる。 |
【大平良平式天理教教祖伝考】 |
驚くべきことに、現在の稿本天理教の稿本天理教教祖伝祖伝の下敷きが、「O」氏の天理教教祖伝であることが一目瞭然となる。天理教本部は「O」氏を天理教史から排斥したが、「O」氏の天理教教祖伝を抹殺しなかったと云うことになる。「O」氏の天理教教祖伝の出来栄えがそれほど良かったということであろう。そうとしか考えられない。「O」氏は冥府で密かに莞爾しているであろう。 |
【弓山達也著「天啓のゆくえ一宗教が分派するとき一」】 |
書評とりプライ弓山達也著「天啓のゆくえ一宗教が分派するとき一」(日本地域社 会研究所、2005年3月刊)をれんだいこ文法に則り転載しておく。 |
本書は、著者が近代以降の日本の新宗教のなかでも天理教から分派した教団もしくは天理教から影響を受けて設立された教団と規定する「天理教系教団」についての著者自身の硬究を著した書物である。天理教系教団が研究対象であることは序章で明示されるが、書名には表示されていない。著者としては、天理教系教団の「分派分立の特徴と背景」を「救済論の変遷」との関連で明らかにしつつ、「新宗教の分派分立の諸要因を考察する」というより一般的な研究目的を書名に表されたかったのではないか。しかし特に天理教の教会の成立についての研究を進めている評者としては、副題を「天理教が分派するとき」としていただきたかった。新宗教の分派分立の諸要因を考察しようとする著者の学術的な立場は、「宗教史研究と宗教学の双方にまたがるもの」であり、「分派分立の研究」を新宗教の「発生論的研究」の文脈に位置づけるところにある。この立場から「これまでの研究」が
、「宗教史的な研究成果」、天理教の「教学に関わる研究」、「分派分立の実証的研究」に分類されている。特に分派分立の実証的研究のなかでも、「継承性の問題」や「教義や活動に内在する緊張」など宗教社会学の観点から日本の他の新宗教の分派分立に関する論文や著書が参考にされている。著者が天理教系教団を見る視点は、天理教の「組織の凝集性」に対する
「当事者の個的な体験」、天理教の教祖以来の「伝統の継承と断絶」、「救済の力の顕現と抑制」といった分派分立で問題となる争点に置かれている。これらの視点は
「天理教系教団の分派分立が教義や儀礼に基づく救済の追求の過程で引き起こされる傾向にある」(p .15)ことにあらかじめ留意して設定されたものという。そしてこの留意は
、著者が天理教系教団に対する調査を実施したから可能であったと考えられる。主要な天理教系教団の刊行物の収集と分析はもとより、教団関係者への面接聞取りや教団の儀礼や信者研修への参与観察までおこなわれている
。 著者は 「約40教団を確認した」 (p .43)という天理教系教団を、特に多くの分派分立教団を生み出した 「母教団」に注目して、さらに三つの教団群に分類している。すなわち天理 教から直接分派分立した「天理教直系教団群」、天理教直系教団群にも含まれる「ほんみち」もしくは「ほんみち」から分派分立した「天理三輪講」を経て分派分立した「ほんみち一天理三輪講系教団群」、ほんみち一天理三輪講系教団群にも含まれる 「天理神之口明場所」を経て分派分立した「天理神之口明場所系教団群」である。この分類も著者が天理教系教団を調査したから可能になったと考えられ、著者が作成した各教団群の系図が掲載されている(順にp.35 ,39 ,41)。これらの三つの教団群に分類される教団がどのような救済を追求したのか、さらにはそれぞれの母教団からどのように分派分立したかが以下の各論で明らかにされる 。 天理教直系教団群がどのような救済を追求し、天理教からどのように分派分立したかは、第一部「天啓の終焉と天啓者待望の昂まり」で明らかにされる。天理教の教祖・中山みきの在世中から大正初年度までにおこった分派活動は、第1章「教祖の後継者と分派の論理」で考察される。結局、天理教の分派活動は、教祖・中山みきや教祖の後継者である本席・飯降伊蔵から許された「授け」という「救済の業」による救済としての病気治しや「伺い」による「神意感得」としての天啓といった「創始者の個的な体験」から始まるという結論である。しかしこの結論は天理教直系教団群がなぜ分派分立するかを天理教の救済論から説明したにとどまり、どのように分派分立するかを説明していない。特に教祖在世中には、京都の「明誠社」など「組織、制度上の問題」から分派分立する教団さえあった。まだ天理教として公認されていない状況で、明誠社が神習教の傘下に入ったように、公認のために他宗派に所属する場合などである。たしかにそのような分派分立は、教祖の死後天理教が公認されると、ほとんど見られなくなることから、著者のように例外とみなすことができる。しかし水屋敷事件の後、飯田岩治郎が大成教の教師となったように、創始者の天啓や病気治しの体験から分派分立した教団も、後から公認を求める側面があるといえる。「組織、制度上の問題」は天理教直系教団の分派分立の原因とまではいえないものの、分派分立の方向を左右する重要な要因とみることはできないだろうか。 教祖に代わって天啓を伝えるようになった本席の死後、「天啓者」出現への期待が高まり、本格的な分派分立を誘発した天理教内の状況が、第2章「大正期における天啓者待望」で明らかにされる。後の教団拡大に貢献する教会本部員・増野鼓雪でさえ、天理教内向けの雑誌「道乃友」において、大正初頭には「天啓の再来」を期待していた。ところが「教団の周辺から」、一般向けの雑誌「新宗教」の創刊者大平良平が天啓者への期待を論じたり、「ほんみち」の創始者・大西愛治郎や兵庫県の信者井出クニらが自らの天啓を主張し始めると、教会本部員たちは神の視点からの人間の精神的成熟と捉えられる「成人」を教義的根拠に天啓不要を説くことになった。つまり天啓者待望の「教内での終熄と教外への分派といった二つの分極化した方向」(p .116)が明らかになっている。天理教の教会本部が天啓者待望を否定したから分派分立が起こったのではなく、分派分立が起こったから否定せざるをえなくなった事実の提示は極めて重要である 。 ほんみち一天理三輪講系教団群がどのような救済を追求し、どのように分派分立したかは第二部「終末預言の運動へ」で明らかにされる。「ほんみち」の創始者・大西愛治郎が、天理にとどまらず日本の危機と自身の天啓を通しての救済を預言するようになり、天皇に対する「不敬罪」で起訴されるに至った経緯が第3章「ほんみちの出現と社会状況」で描かれる。この章でも創始者個人の神意感得の体験にもとつく天理教の救済論の展開が重視される。すなわち教会本部に救済の源泉の標識として設置される予定の石製の「かんろうだい」が人であり、自身であるとする 「かんろうだい人の理」という愛治郎の教義解釈が彼の天啓によって可能になったことが示される 。 しかし特に第1章に比べると、天理教内外の社会的な状況が重視される。愛治郎の教義解釈が教会本部に否定され、彼自身も教師資格をはく奪され追放された事実が示されている。やがて愛治郎が天皇を「天徳なき唐人」と批判する日本 の状況として、大正末から昭和初めにかけて天皇への崇敬が強く求められたことに対して、感情的な反抗や社会主義の思想にもとついた批判がおこなわれていた事実が指摘されている 。 続いて、ほんみち一天理三輪講教団群の「終末論的宗教運動の挫折と変容」(第4章)も社会的な状況に即して考察される。ほんみち以外の教団は、当初はほんみちと同様、終末論的な救済を主張したものの、不敬罪もしくは治安維持法で拘束された創始者が死去すると、創始者による天理教原典の解釈や天啓に依拠した個人救済を追求するようになった。これに比べてほんみちは、創始者の愛治郎が受刑後復帰したこともあり、教義の教授法を組織的に充実させ、終末論的な救済観を保持した。しかしほんみちも、敗戦後天皇の宗教的権威による統治の理念が後退していくと、終末における天啓者による世界統治を強調することはなくなった。結局ほんみち一天理三輪講系教団群は「修養道徳」、「聖地建設」、「神秘呪術」のいずれかによる救済を追求するようになったとされる。 著者はこれらの三つの救済の要素のいずれもが 「中山みきによって示された天理教の伝統の中に認められる」(p .221)ことを重視しているが、評者は天理教内外の社会状況の変化に応じて変化したことを重視したい。天理神之口明場所系教団群の分派分立については、「秘儀と霊能の拡がり」(第三部)という観点から明らかにされている。すなわちこの教団群における「霊能の継承と分派分立」(第5章)は、天理神之口明場所教団の創始者・山田梅次郎が始めた「甘露水授け」をはじめとする「授け」の儀式の実施をめぐって、繰り返されるようになった経緯が述べられている。治安維持法違反による検挙の際に教団資料が没収されていることもあり、この章では教団内外の社会的な状況よりも、天理教の救済論の展開が考察の中心となっている。ならば天理教においても初期には病気治しの救済だけでなく天啓による神意感得の手段でもあった「授け」が「神成人」といういわば神性獲得の手段とも捉えられたことが、「秘儀」とみなされるようになる上でどのような意味をもったかも分かればと思う。 第6章 「芹沢光治良の晩年と天理教」では、作家として自身の天理教との関わりを小説に著すようになった光治良の神秘体験の推移とその背景が描かれている。しかしこの章では、彼が協力した伊藤青年という 「霊能者的人物」の活動の天理神之口明場所系教団群における位置が問題となる。天理教教会本部から懲戒・除籍処分を受けている伊藤青年が各参拝者に天理教の教祖や神の言葉を取り次いだり、「甘露水授け」をはじめとする各種「授け」を実施する活動は、神秘呪術の実践による個人の救済を重視する天理神之口明場所系教団群の活動といえる。しかし光治良の小説というマスメディアを通しての布教やニューエイジの思想の影響を受けた伊藤自身のコンサートや個展などの活動は「ゆるやかな共同性」しか必要とせず、天理教自体の影響から脱却しつつあると捉えられる。神秘呪術による救済を迫求する信者の動向が教団という枠にとらわれずに捉えられ、著者の素直な関心にもとついて書き上げられた章と思われる。ただ しこの一例だけでは一般的な傾向とはいえないので、同様の特徴をもつ、より新しい事例が見つかればと思う。 以上の各論を踏まえ、 天理教系教団全体の「分派分立 のメカニズム」(終章)が 「分派分立を比較的繰り返しやすい新宗教教団」との関連で明らかにされる。他の新宗教の分派分立との比較は、著者が序章で設定した研究の視点に規定される天理教系教団の分派分立の特徴を確認しているだけのようにもみえる。とくに天理教の組織の凝集性に対する天理教系教団の個的体験を見る視点からは、「本部に対する支部の相対的な独立性の高さ」から「組織的な分派」が起こった霊友会と世界救世教に比べて、天理教においては「教祖との特別なつながり(夢告や遺言や霊告)」の体験から分派が起こったことが確認される 。 しかし序論で設定された視点だけでは規定できない天理教系教団の特徴も指摘されている。とくに天理教の「救済の力」の顕現と抑制の均衡をみる視点から、「救 済の力を整流する機構」をもつ真如苑と崇教真光に比べて、「ひとり一人が天啓を拝受する 『甘露水授け 』 が制度化」(p .312)されている天理神之口明場所系教団は「分派を重ね小グループになっていく」が、ほんみちは「天啓者はその時代に一人とする教義を守り」、創始者の継承問題を解決したことが指摘されている。このように天理教系教団と他の新宗教の分派分立教団の相違点と共通点の双方を明らかにする比較が新宗教一般の分派分立のメカニズムを解明するには有効と思われる 。 研究成果は、終章末で「総括」されている。何よりも序章で設定された研究目的が達成されたことが確認されている。天理教系教団を三つの教団群に分類することによって、それぞれの分派分立の特徴とその背景、救済の変遷、そして分派分立のメカニズムも明らかになったとされる。しかし分派分立のメカニズムについて、「天理教の分派分立は社会変動と結びついておきていない」(p .314)ことを強調しすぎると、天理教系教団の分派分立を他の新宗教の分派分立に関連づけて一般的に説明することが難しくなるのではないか。研究の意義も、著者が序章で示した研究の立場から確定される。宗教史研究においては、これまで「明治から昭和前期までの天理教は、国家神道体制化に組み込まれ、権力に妥協していく過程としてしか」言及されなかったが、本書の研究は同時期の天理教の、しかも分派史という 『闇』の部分の解明」をおこなったと主張される。また宗教学においては、新宗教の「発生論的研究」の展開を踏まえ、当事者の経験と信仰の意味を理解する 「内在的理解」の手法で、しかし先行研究のように民俗宗教との連続面だけでなく、分派分立という組織宗教との断続面を論じたと主張される。評者としては、第2部においてほんみち一天理三輪講系教団が天理教内外の社会的な状況に応じて、終末論的救済を前面に押し出すようになり、後退させていったことがいわば外在的に明らかにされている側面も確かな成果として評価したい。最末尾で本書の研究成果を宗教社会学の宗教運動論と教団類型論にどう位置づけるかという 「今後の課題」が提起されている。藤井正雄氏の宗教運動論や森岡清美氏の「教団ライフサイクル論」、トレルチのチャーチーセク ト論、ウィルソンのセク ト類型、森岡氏の「おやこモデル」の天理教の分派分立もしくは教団改革への適用が示唆されている。評者としては、スタークがキリスト教の分派の社会的な要因を考察した論考[Stark 1985]も参考にしていただきたい 。 基本的には現世を否定するキリスト教と現世を肯定する天理教の救済の性格は対照的なため、教会の世俗化からセクト運動の勃興を説明するのは強引だろう。しかし教団で得られる救済に満足できない人々が分派するのは天理教でも同じだろう。だとすればスタークのように、教団内外においてどのような社会的地位にある階層がどのような救済を求める傾向があるかを把握しておくことも一定の意味があるかもしれない。少なくとも同じ天理教系教団群に含まれる各教団の創始者が教団内外においてどのような社会状況に置かれれば、天理教の救済論をどのように展開させるかがさらに明らかになれば、他の新宗教からの分派分立教団の創始者による救済論の展開との相違点のみならず共通点も論じられるのではないだろうか。(大阪産業大学非常勤講師) |
(私論.私見)