大平良平の教理エッセイその8 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大平良平の教理エッセイその8」をものしておく。「天理教々理より観たる人生の意義及び価値」。 2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日 れんだいこ拝 |
大和の地場にて 大平良平 |
本論(下) 第一章 天理教と自由主義 |
追従軽薄これ嫌ひ(天啓の声) 気兼遠慮は少しも要らん(同上 ) 貸物借物の理に従へば人間は先天的に精神上の自由を与へられてある。即ち善を考へる自由も与へられてゐれば悪を考へる自由も与へられてゐる。また信仰の自由も与へられてゐれば不信仰の自由も与えられている。更に愛情の自由も与へられて居れば憎悪の自由も与へられてゐる。かくの如く精神上には無限絶対の自由を与へられてゐる。けれども肉体並びに物質上の自由はそうではない。或る一つの約束の下に有限相対的に許されてゐるに過ぎない。その自然の約束とは人のために善事をなすと云ふことである。例へば国家とか社会とか乃至他人の為とか云ふ利他的労働である。 この種の労働の為にはその肉体を幾ら使つても不健康に陥ると云ふ事もなければそれが為に他人から苦情を持ち込まれると云ふ事もない。けれども一旦誤つてそれを私利私欲の為に用ゐんか、忽ちにして生理的には病魔の襲ふ処となり、引いては道徳上乃至法律上の罪人として一種の社会的制裁を受けなければならない様になる。これが即ち肉体並びに物質には或る一つの制限即ち善事をなすと云ふ制限の下に自由を許されてゐる所以である。之によつて見ると天理教々理より観たる真の自由と云ふものはどうしても、善をなすと云ふ自由より外ないのである。云ひ換へれば善をなす事、その事に於てのみ絶対の自由が与へられてゐるのである。 例えば前例に挙げたる働きの如きそれである。国家の利益の為に又社会の利益の為に幾ら働らいたとても誰も来て制止するものはないのである。その如く凡て善事(同情とか親切とか云ふ如き)をなす場合には何人も苦情を云ふ権利もなければ、云つたからとてそれを顧みる必要もないのである。これが天理教教理より見たる肉体の自由である。次には物質上の自由である。これは各個人の魂の因縁によつてその自由の範囲は一定してゐない。例えば一万円の自由を授けられてゐる人もあれば十万百万の自由を授けられてゐる人もある。また一円二円の自由も授けられてゐない人もある。これは各個人の因縁であるから現在の所どうすることもできない。 けれどもここに一つの自由権拡張法がある。それは或る一つの商業をやる。その資本は十円である。即ち彼の許されたる金銭の自由は十円だけの範囲内である。けれどもそれが一旦商業に勤勉忠実なる結果として十円の資本より一円の利益を生んで十一円となる。即ち第一回には十円の自由が第二回には十一円の自由となつたのである。それを資本として段々十五円二十円の自由を得、遂には段々大きくなつて千円万円の自由を得るのである。この十円の金を勤勉努力によつて十一円とし、十一円を十二円とし、十二円を十三円とすると云ふ具合に与へられたる範囲を土台として漸次自由を拡張して行く処に物質上の真の自由がある。けれども之は独物質にのみ限らない。精神上に於ても亦同一である。即ち如何なる高僧智識と雖も始めより大なる高僧智識として作られたものではないのである。漸次信仰の階段を昇り智識の階級を経て遂に大なる高僧智識となるのである。 以上は天理教教理より観たる自由の客観的説明であるが、之を要するに真の自由は虚偽と不自然との中には存しない。唯真実自然の中にのみ存するのである。例へば借債である。それは一時自分に不時の自由を与へた様に思はれるけれども、自分にそれを返済するの実力がなかつたならば、それは自由にあらずして却つて不自由を買ふのである。この不自由は悪をなす場合も同一である。世間の人間は不品行と云ふことを思い掛けぬ儲け物の様に思つてゐる。それは一面に於てそうかも知らない。けれども道徳者の世界には不道徳者の入るべからざる特権の存することを忘れてはならない。例へば処女時代より一度も汚れざる貞女の有する清浄界である。そは実に堕落せる淫女が如何に高価の涙を払つても買ひ得ざる処の特権である。この高き深き広き自由を与へられずして誰か道徳の為に高価の犠牲を支払ふものぞ。凡て善をなす者は凡ての特権と自由を得、凡て悪をなすものは凡ての特権と自由とを失ふのであ る。 天理教では他人の権利並びに自由意志を尊重する。それに向つては神と雖もどうせこうせの指図はしないと断言せられてある。従つて一切の生活はその人自身の責任である。即ち善をなすも悪をなすも、それより生ずる結果はその当事者が刈り取らなければならない。而してそれがたとひ悪い結果であつても、人はそれに向つて何も不平を云ふ権利はないのである。例へば信仰の自由である。人は如何なる宗教をも信ずる自由を有してゐる。たとひそれが迷信であつても下等の宗教であつても第三者がそれを止むる権利はない。けれども宗教は恰も食物の如く、下等の宗教には下等の宗教だけそれによつて受くる利益も少なく、高等の宗教には高等の宗教だけそれによつて受くる利益も大きい。けれども無信仰にはそれによつて受くる何らの利益もないのである。之と同一の原理に因つて人間は自己保存の必要上勢ひ悪を捨てゝ善を選まずにはゐられなくなる。人間の進歩はそこにあるのである。 けれどもここに一つ注意しなければならぬことは自由と我がままとの区別である。世人は往々この二つを混同視してゐるけれども、二者の間には大なる相違のあることを知らなければならぬ。即ち自由とは責任を自覚した合理的生活であり、我がままとは責任を自覚しない不合理的精神である。この二つの誤解は単なる教養の乏しい下層社会ばかりではない。実に智識を専門の対象とせる思想家の間に往々発見するのである。その云ふ人達は自由と云へば直ちに我がままを連想するのである。この連想より種々の誤つた生活を生む。 天理教の自由主義とは与へられたる天賦の特権(意志の自由)に従つて何ものにも煩はせられざる真実の自己を実現せんとする自我実現主義である。それが我がまま主義と異る処は、彼は我意(非真実の自己)を貫徹せんとし之は自然の意志を顕現せんとし、彼は利害を中心とし之は真実を中心とする点にある。ここに天理教の自由主義の意義がある。之を要するに自由は人間生活の内容を広め深め高め強める為に神より与へられたる吾人々類の特権である。吾人はその与へられたる自由を乱用しもしくば局限して、却つて厚き天意に反く様なことがあつてはならぬ。益々与へられたる自由を利用して真実の自己を実現することに努めなければならぬ。この真実自然の自己の囚れざる実現が天理教の自由主義である。 |
第二章 天理教と平等主義 |
上にも八百八段の段がある。下にも八百八段の段がある(天啓の声) 凡そ何が階級が多いと云つても人間社会程階級の多いものはあるまい。実に上は王侯貴族より下は非人乞食に至る迄の階級の差は全人類の数に一致して居るのである。けれども人間は始めよりかくの如く作られてはなかつた。また将来に於てこの状態を継続すべきも のではない。どうしても最後に於て全人類を平等化せられなければならない。 「上たるは 世界中をままにする 神の残念 これを知らんか」 「これまでは 万づ世界は 上のまま もう之からは文句変るで」 「この世を 始めてからに何もかも 説いて聞かした 事はないので」 「上たるは 世界中を我がままに 思うて居るのは 心違ふで」 「高山に 育つる木も谷底に 育つる木も 皆なおなじこと」 は即ちこの人類の平等化を歌つたものである。 けれども天理教の平等主義の今日一派の社会主義と異る点は人為的に現実の階級を破壊し貴族も平民も富豪も貧民も打して一丸とせうとするのではない。云ひ換へれば有てるものより奪つて有たざるものに与へ、もつて形式的に全人類を平等化せんとするのではない。天理教の平等主義は今日人間と人間との間に存する階級の区別は元来人間と人間との人格的相違にあることを自覚せしめ、長い間の努力の後、その人格を平等化しその結果として全人類の運命を平等化せんとするにある。即ち之を今日一部の過激なる社会主義と比較すればその達する処の結果は或は同一であつても、彼の如く一時的でなく彼の如く皮相的でない。更に永久的にして更に一層根本的である。元より天理教の平等主義は之を今日の社会に直ちに実現することはできない。何故なれば天理教の平等主義は単なる物質的形式的の平等化が理想でないからである。天理教の平等主義は人格的平等主義であつて運命の平等化の如きは人格的価値の平等化せられた結果に外ならないからである。 如上の理由により客観的社会の平等化と云ふ事は到底一時に実現すべからざる理想である。けれども主観的社会の平等化と云ふことは今日に実現することは必ずしも困難ではない。主観的社会の平等化とは人と人との間に待遇を異にせざることである。云ひ換へれば、王侯貴族なるの故をもつて乞食非人なるの故をもつて待遇を異にせざるにある。更に云ひ換へれば後天的権利の相異によつて先天的権利を無視せざることである。凡て皆な一列平等に同一の膳に同一の御馳走をもつて饗応せんことである。けれどもこの主観的平等主義の理想も今日の社会に行はれてゐない。否な今日の天理教界にさへ行はれてゐない。これ吾人の大なる不満の素地である。けれどもこの平等主義は必ず近き将来に於て全人類の習俗化するに至るであらう。それと同時に客観的社会の平等化と云ふことも漸次事実となつて表はれるであらう。何故なればこれ自然人生の先天的約束であるからである。 |
第三章 天理教と自治独立主義 |
「人の恩恵は雨露だで。降ることもあれば降らぬこともある。降るときまらぬものを的にしてゐたならば餓死するで」(教祖) 「どんな苦しいことがあつても人に助けを乞ふな」(同上) 天理教では、自分一身の問題、自分一家の問題、自分一村の問題、自分一郡の問題、自分一県の問題、自分一国の問題で、他人、他家、他村、他郡、他県、他国に累を及ぼすと云ふ事を非常に嫌ふ。自分一身の問題は自分自身で解決し、自分一家の問題は家内で解決し、自分一村の問題は村内で解決し、自分一郡の問題は郡内で解決し、自分一県の問題は県内で解決し、自分一国の問題は国内で解決することをもつて理想としてゐる。 例へば教会内の問題の如きはかなり教会内で解決して累を親教会、同胞教会、子女教会に及ぼさゞるにある。この理想の簡単なる実例が玄関より室内に上る時、下駄を外向きに脱いで上ることであるが、将来こんな一事に止まらず人生百般の事に亘つてこの精神が広く深く徹底して行つたならば、今日迄閑却せられてゐた無性の為に浪費せられた時間と労力とが如何に節約せらるゝか知らない。現に地方の県郡市町村の如きはこの自治体を取りつゝあるが、今日の処はまだ個人の生活に迄徹底してゐない。わけて権門富豪と云ふ人達は自分の手で処理すればする事のできる事を、ワザ他人の手を労して無益の労力と時間とをその人から奪ひ、却つて将来不自由の因縁を積み重ねつゝある。これは明きらかに人道上許すべからざる大罪人である。 抑も人間は生涯親に負はれ他人に縋がつて通るべく造られてはゐない。三歳にして生理的に独歩し十五歳にして精神的に独立すべく造られてある。従つて「何時迄も人に手伝ふて貰らはんならん様ではいかん。手伝ふと云ふ力もつてくれねばならん」(天啓の声)。もし何時迄経つても四十五十の嬰児や四十五十の少年少女であつたならば一旦他人の手が去つた場合には忽ちにして生活を停止しなければならない様になる。この不時の用意の為、不断の精神的独立の必要を説いたものが本章の冒頭に掲げた教祖の聖訓である。彼の天理教徒が五体の自由に動く限り自活し、一椀の飯一杯の水も故なくして他人の恩恵に縋ることを拒むの理由は、それによつて精神上の負債を重ねざらんが為である。 かう云つたからと云つて人間は全然天地人の恩恵より離れて生活することはできない。これ一生を挙げて天地人の報恩の為に捧ぐる所以である。この点に於て孤立主義と独立主義とは大なる区別を要するのである。之を例へて云へば独立とは一本の木の根は根、幹は幹、枝は枝、葉は葉、花は花、実は実で一個の独立体と自活力とを有し相連つて一本の木をなすが如きものである。もし之と反対に根は根、幹は幹、枝は枝、葉は葉、花は花、実は実と分離したならば、その木は立ち処に枯死しなければならぬ。これが独立と孤立との相異である。 之を要するに真の独立とは個体として与へられたる自己の天分に生きつゝも尚ほその生活の根底に於て全体としての統一を忘れざる責任生活を云ふ。蓋し国家の強弱社会の優劣は一に自活力に富んだ自治独立体の多少に因るのである。畢竟偉人とか凡人とかの区別も亦この自活力自立力の大小強弱に帰因するのである。イプセン曰く、この世界の最大強者は独立した人間であると。天理教の目的は即ちこの大なる自活力を養成するにある。云ひ換へれば独立した大人格を養成するにある。この要求によつて生れたものが天理教の自治独立主義であるのである。 |
第四章 天理教と神産主義 |
教祖天啓後十年施すものは殆んど施して了つて三日間と云ふもの家内中が飲まず食ずに通つた。それでは仕事もできないから教祖自身隣家の足達へ行つて白米五合を借りて帰つて来た処、門前に子供を負つた女の乞食が寒そうに立つて居た。御新造さん三日御飯を戴かぬのでお腹が空いて困りますがどうか何かやつて下さい。教祖はこの憐れな女乞食の声を聴いて自分の空腹を忘れ五合の米をサラ/\と半分程乞食の袋の中に落して内へ入つた。彼女が物を施す時には「これは私が上げるのではない。神様の預り物をお返しするのだからサア/\遠慮なく持つて行つておくれ」と云つて微塵惜しみの念を伴はなかつた。ここに貸物借物の理を根本的に体得した偉大なる真人の真実がある。 共産主義の理想は各人の所有を合してもつて等差なき生活を送るにあるが天理教の神産主義はそうではない。始めより物質上の私有観念が全然ないのである。恰度一軒の家の家屋敷土地財産は戸主の所有に属して家族はそれによつて衣食しつゝあるが如く、世界の物質は神の所有に属し全人類、神の子供は凡て皆な神親の財産によつて衣食しつゝあるのであるから、我が物を醵出して我も食ひ人にも食はしむるといふ観念は全然ないのである。この点に於て天理教の神産主義の生活はその形式に於て共産主義の理想と一致してゐるけれども、その内容は異つてゐる。 即ち一方には神の物と云ふ観念が働いてゐるけれども一方には人の物と云ふ観念が支配してゐるのである。従つて一は先天的にして他は後天である。この主義の普及の結果として人は貪婪と吝嗇との邪欲より解脱し有るものは無い者に与へ、無い者は有る者より受けて過不及なく富豪もなければ窮民もない。人は皆な一膳の膳に 天の与へを共楽して嫉みなく妬みなき万人快楽の世界と変ずるのである。これが天理教の神産主義の理想である。この世界は勿論今日の如き利己主義者をもつて結合せる社会には直ちに行ふことはできない。けれども人は貸物借物の理を身上によつて仕込まれたならば厭が応でもこの主義に同化しなければならない、何故なればこれ自然即ち神の意志であるからである。従つて何人も之を止むることもできなければ止むべき性質のものではない。寧ろこの主義を普及して真の共楽共苦の理想の世界の実現することを力めなければならない。これが天理教の神産主義の理想である。 |
第五章 天理教と共力主義 |
「皆なこれ一本柱があつて一本柱は立つまい。あっちから風吹くこっちから風吹くヒヨロ/\ 細い柱も太い柱も植え込んだる伏せ込んだるもあれば十分突張り/\……(天啓の声) 凡そ一軒の家を建つるには礎だけでは家と云へぬ。また柱一本では家と云へぬ。土台石も確つかり入れ、柱も充分揃へ、家根を葺き、壁を塗り、一切の装飾を整へて始めて家と云ふ。家の中には床の間もあり座敷もあり寝室もあり台所もあり広間もあり便所もある。それと同様に人間それぞれ神の社の用材である。その中には真柱となるものもあれば祭壇の用材となるものもある、また階段や廊下の用材となるものもある。相寄つて世界一社の無形の神殿を形造るのである。凡て一軒の家にしても男一人の世帯ならば働きもそれだけ小さいのである。それに妻の力が加はつて力が二人力となり、親子兄弟の力が添ふて五人力十人力となるのである。その十人の力と一人の力を比較せばどうしても一人の力は十人の力に及ばないのである。それが千人となり万人となり一億となり十億となり二十億となるに従つて力は一層拡大すると共にその働きも一層複雑となり、そこに専門の分業が生れる。その小さなものが家庭であり、その大なるものが社会である。之を要するに社会は一大共同生活体であつて個人はその一員である。従つて両者の関係は全と一との関係である。而してこの両者は社会あつての個人、個人あつての社会なる点より観察すれば互いに不可分離的関係を有するのである。 之を例へて云へば一本の木である。それは根幹枝葉が相寄つて一つの生活体をなすものにして互ひに分離しては生活すること能はざるが如きものである。吾人々類もそれと同様に日々生活の資料を社会より供給せられるをもつて安全に生活し得るものにして社会を離れて単独にては一日と雖も安全に生活し得ざるものである。従つて吾人は互ひに社会的に結合してそこに人間共通の生活を創造して行かなければならない。天理教の共力主義は即ちこの必然の要求の表れである。 |
第六章 天理教と人格主義 |
「身上は心の鏡といふ」(天啓の声) この天啓の声を今日の言葉に意訳すれば、性格は即ち運命なりと云ふ事ができる。けれども天理教の根本義は運命即ち影を正さんが為めに形を正すことではない。先づ人格を改造せよ然らば運命も改造せらるべし、といふのが天理教の人格主義の根本義である。この根本義を逆にとつて説明すると即ちこうなる。曰く運命の改造は少くとも吾人の第一問題ではない。吾人の第一の問題は先づ人格を改造するにありと云ふことである。元よりこの意味は運命の改造を全然度外視したのではない。更にそれ以上の根本義の存することを云つたのである。その根本義とは即ち人格改造の一事である。天理教の根本的目的は即ちここにあるのである。 |
第七章 天理教と陰徳主義 |
次に天理教では「人に施しをしたことを自慢するのは恰度蒔いた種を掘り返すやうなものや」と云つて教へて居る。凡て種を蒔いてそれより収穫を得んと欲せば蒔いたる後に土をかけて置かなければならない。この土とは無言の沈黙である。天理教では一切の善行は神が受け取つて置くものと信じ、敢て善行を蔭で行つて之を人の前に公表しない。よしまた神が受取らうと受取るまいと善事をなすことは人の当然の務めにして何ら誇るべきことではない。教祖は物を人に施して後その人の立ち去る後姿を見て御苦労様と手を合して拝んだと云ふことであるがこれが天理教の陰徳主義である。
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第八章 天理教と瞬間主義 |
教祖は常に側に向つて「その日のことはその日に忘れよ。その場のことはその場で忘れよ」と云つて善悪共にその時その場で忘るべきことを教へた。蓋し人間は向上進化の霊動体である。何時迄も昨日の問題を今日の問題としてゐる様な ことではならない。また明日の問題を今日の問題としてゐる様なことではならない。今日は今日一日の問題、現在は現在、一瞬間の問題に向つて全力を注ぐべきものである。之を云ひ換へれば現在をもつて最も意義ある瞬間たらしめ、今日をもつて最も意義ある一日たらしむるのが現在もしくば今日に対する義務である。この処世上の一大方針を示したものが天理教の瞬間主義、現在主義、今日主義である。 |
第九章 天理教と平民主義 |
天理教の一大特色は平民的であるといふことである。これは過去の宗教中浄土宗以外に殆んど見るべからざる近代的特色の一つである。凡そ人生の事何事にもあれそれが生命に近ければ近い程平民的にならざるを得ないのである。それと反対に、それが生命に遠ざかれば遠ざかる程、その者は貴族的形式的古典的になるのである。天理教の平民主義は即ち天理教に生ける生命のある何よりの証拠である。教祖は常に「低い心」になれ「優しい心」になれと教へたが、自分自身は信徒の前を通るにも、必らず手を下げて「御免なさい」と云つて通つた。これは云ふ迄もなく彼女の平民的であつたことを示す一例に過ぎないが凡て如何なる人に対しても尊大に構へると云ふ事は彼女の知らぬことであつた。 蓋し尊大と云ふ誇張した態度は古い芸術や哲学や宗教に通じた悪癖である。然るに彼女の宗教には全然誇張と云ふものがなかつた。これ天理教が精粋的実質的なる所以である。今日でも古典主義や形式主義や貴族主義的思想の想路に発生して来た人間は古語や古典や古礼を引つ張り出して来て無暗に高尚がつて悦に入つて居るが、それは根本義を攫んだ人間にとつては何らの価値もないものである。吾人が天理教に於て真に偉大なる価値を認むるのは(今日天理教は神道の儀式を模倣したり古典を引用したりして天理教の根本義を忘れては居るが)凡てこれ等の属性を排して真に精粋を攫んでゐることである。(人は精粋を攫めば攫む程平民的になる)云ひ換へれば貴族主義を排斥して平民主義を発揮して居るこ とである。(この平民的思想は御神楽歌や御筆先にも表はれて平民的宗教平民的文学の鼻祖をなして居る) 凡て人間が進歩すればする程その人間は平民的となり、社会が進歩すればする程その社会は平民的になつて来るのである。前者の最も良き実例は教祖である。後者の最も良き実例は米国である。人は天理教の教理が通俗的平民的なるの故をもつて浅薄な詰らない宗教の様に思ひ、米国が実際的平民的なるの故をもつて米国人は世界中最も浅薄な国民の様に思つて居るが、殊に若い文学者中には私はそうは思はない。将来は知らず今日の所国民として最も進歩した生活をもつてゐるのは英にあらず仏にあらず独にあらず露にあらずして実に米国である。今日の米国は或る点に於ては天理教の理想をその発生地よりも早く実現 して居る。従つて将来天理教がその教勢の手を第一着に伸ばす所は英にあらず仏にあらず独にあらず露にあらずして実に米国であると。私は平民主義の宣伝者として特にこの事を云つてをく。 要するに今日は時代が一変した。今日の時代は最早や貴族的専制時代ではない。明きらかに平民的立憲時代である。この新時代の新思想の先駆者として表はれたものが天理教である。元より人為的のものにあらずして実に世界の大勢を支配して行く自然の大事実である。この点に於て私は特に天理教の平民主義に大なる意義及び価値を発見するのである。 |
第十章 天理教と労働主義 |
古来宗教の数も数ある中に真に労働の真価を認めてその福音を宣伝した宗教は天理教をもつて嚆矢とするのである。即ち今日迄何れの宗教が朝起き、正直、働きをもつて神の子供の三大義務であると説いたか?また今日迄何れの宗教が実業第一親孝心をもつて人間生活の要義であると説いたか?恐らく天理教以外に一つもないであらう。ミキ子は懶惰なる信徒に向つては「働きなさい/\。人間であつて働かない者は我が教への子ではない」と云ひ、羨望に富んだ信徒に向つては「人を羨む暇に己が商売に手を出せ」と云つて教へた。蓋し彼女にとつて最大の教敵は神道にあらず仏教にあらず基督教にあらずして実に満足の五体を有しながら労働を欲しない乞食その者にあつた。かくの如く彼女は生涯労働の福音を説き自ら進んでその最も良き雛型となつたが、彼女が自らも努めまた人にも勧めた労働は世人の考へてゐる利己的労働ではなかつた。彼女の実行した労働は働らく(傍楽)即ち自己の周囲の人を安楽ならしめんが為の労働であつた。 彼女が労働に関する教訓の中に「働きなさい儲けなさい。然し財布の底に穴の開かぬ様に括つてをきなさい」と云つたのは明きらかに利己的労働の何らの価値もなきことを示した風刺である。畢竟天理教で云ふ処の労働の意義は、自分一身もしくば一家の為の小さな価値の労働ではない。全く我利我欲を離れた日の寄進的労働である。ここに世間で云ふ労働と天理教で云ふ労働との鮮かな区別があるのである。等しく労働と云つても単に自分一身の欲望を充たすだけの労働ならば何ら動物と異る所はない。更に一歩進んで周囲の人々の生活を助ける為に我を忘れて日の寄進的に労働する処に、汲めども尽きぬ大なる労働の価値が生ずるのである。天理教で云ふ所の労働は即ち後者の意味の労働である。将来全世界を真の幸福の域に導くにはどうしてもこの日の寄進的労働主義に待たなければならない。この点に於て天理教の労働主義は現在並びに将来の世界にとつての大なる力で ある。 |
第十一章 天理教と実際主義 |
「論は一寸も要らん/\/\。論は世界の理で行ける。神の道には論は要らん。誠一つなら天の理、実で行くが良い 明治二十二年七月廿六日」 従来の宗教はやゝもすれば実際よりも理論に傾き易き傾向をもつてゐたが天理教は反対に理論よりも実際を重んずる宗教である。云ひ換へれば論より証拠を重んずる宗教である。「口先に何んぼ真実説いたとて誰が聞き分けするものかある。口先きの追従ばかりは要らんもの真の心に誠あるなら」。凡そ如何なる主義如何なる理想と雖もそれが現実となり実際となつて表れなければ何らの価値あるものではない。天理教の主義は何処迄も理想を理想として行かないで理想を現実化し思想を生活化して行かうとする所に天理教の実際主義の価値がある。元より影よりも形理論よりも実際の方が貴重なることは云ふ迄もない。然るに人間、殊に近代人の弱点としてやゝもすれば形よりも影実際よりも理論を貴重し易きものである。この点に於て天理教の実際主義は人間わけて時代の病弊を救ふものである。 |
第十二章 天理教と一元主義 |
実際主義と相並んで天理教主義の一つを形造つてゐるものは一元主義である。この主義の要領は口と心もしくば行と心の二重生活を排斥して精神と形式との一致を目的とするのである。この目的を最も良く実現した生活は正直である。それで一元主義は之を一名正直とも一筋心とも云ふことができる。御神楽歌三下り目「六ツむりなねがひをしてくれな ひとすぢこゝろになりてこい 七ツなんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」の一筋心とは即ちこの一元主義を云つたものに外ならない。之を要するに正直と云ひ、一筋心と云ひ之を狡猾なる二重生活者の眼から見たならば如何にも阿房に見えるであらう。けれども正直もしくば一筋心には彼ら二重生活者の知らない価値がある。之を譬えて云えば口と心との二重生活者は門を大きくして小さな家に住んでゐる様なものである。その表より見る時は如何にも立派なれども、裏に廻る時はその哀れな魂胆が直ちに曝露するのである。けれども一元生活者はその門もその家も共に相応したる為、却つてその主人の四方正面の精神の価値を発揮するのである。元より之は一元生活と二重生活との客観的価値に過ぎないが更に之を主観的に論ずれば、一元生活の価値は全体的であり実質的であり二重生活の価値は半面的であり形式的である。之を譬へて云へば小供と大人との遊戯である。子供は一事に向つて常に全力を集注するが故にそれより得る所の興味も全体的であるが、大人は普通小供の如く全心をそれに向つて集注することができないから子供の感ずる十分の一の興味も感ぜざるが如きものである。 凡て子供に限らない。世の邪智に染まない純潔な精神は常に一元的である。それが二元的となり三元的となるに従つてその人の精神も生活も益々濁つて来るのである。教祖は常に三歳児の心になれと云つて小児の天真爛漫な性質を喜んだが之を云ひ換へれば一元主義の主張と見るべきものである。 |
第十三章 天理教と全力主義 |
「もうあかんかいな/\と云ふは節と云ふ。精神定めて確つかり踏ん張つてくれ。踏ん張つて働らくは天の理であるとこれ悟しをかう」(天啓の声) 凡そ五分の力よりは十分の仕事は生れず、十分の力より五分の仕事は生れざるは自然の法則である。従つて十分の仕事をなさんとせば先づ十分の力を出さなければならない。ミキ子は出し惜しみ、負け惜しみと共に骨惜しみも亦大なる埃として排斥した。彼女の仕事に対する秘訣は何事にあれ自分の現在なしつゝある仕事に向つて全力を打ち込む事にあつた。この全力を打ち込むことによつて彼女は常に常人の二倍の働きをした。単にそう云ふ日常の仕事のみならず人格の修養や救済の事業やに対しても良い加減の所で中止してをくと云ふことはしなかつた。またできなかつた。一旦手を下すや否や何処迄もそれを徹底しなければ止まなかつたのである。理を施すにしても力を施すにしても物を施すにしても大抵の人間は申訳的にやつて居る。けれども彼女のはそうではない。あらん限りの理、あらん限りの力、あらん限りの物を施し尽さねば満足ができなかつた。凡そ事をなすには金銭や材料や力を惜しんでゐる様なことではならぬ。わけて人心救済、人格創造の大事業の如きに対つては、理を惜しみ力を惜しんでゐる様では十分の成績を挙げることはできない。こう云ふ点に於て全力主義は処世の秘訣である。 |
第十四章 天理教と積極主義 |
凡そ現代並びに将来の宗教の第一の條件は積極的活動的現代的たることにある。この時代の要求を負ふて生れたのが天理教である。天理教は従来の宗教が第一義的生活として認めた孤独生活隠遁生活厭世生活に対しては何らの価値をも認めない。天理教の認めて第一義生活となす処のものは国家的生活社会的生活人類的生活の如き生産的生活である。教祖はこの種の理想的人格を「里の仙人」と云つた。蓋し真の生産的人物を意味するのである。之を要するに凡そ人生の価値は生活を積極的に創造するにある。然るに従来の宗教は多くこの中心の意義を逸してゐた。天理教は即ちこの逸せられたる中心の意義に従つて生 活価値を無限に創造せんとするのである。この目的によつて必然に生れて来たのが天理教の積極主義である。吾人は敢てこの主義に対して管々しく批評を下すの必要を認めない。何故なれば凡そ一歩進んで生活を創造せんとせば勢ひこの主義によるより外他に何らの方法のないことを知つてゐるからである。こう云ふ意味よりして吾人は天理教の積極主義に未来文明の本流を発見するのである。 |
第十五章 天理教と漸進主義 |
「皆な段々の人間。偉い者にならうとて一時にならん。人間一生の理と云ふても人間一生、事は急いではいかん。末代の道や。物急いではいかせん。天然自然の道に基いて心を調べてくれる様」(天啓の声) 神はない人間、ない世界を造つたとは云へ、始めより今日の世界今日の人間をつくつたのではない。自然に生成化育してもつて今日の世界今日の人間にしたのである。こう云ふ点より云つて大自然即ち神の取つて居る処の方針は漸進主義である。この神の漸進主義を称して天然自然の道と云ふ。之を例へて云へば茄子である。吾人々間としての希望は今日蒔いて今日茄子をとりたい。けれども自然はそれを許さない。矢張り一定の時を経なければ本当の茄子はできないのである。その如く吾人は何時でも想像の甘露台世界を画くことができる。けれどもその時が来なければ現実の甘露台世界を見ることはできないのである。凡て事をなすには(また成るには)その時がある。一時に思ふて一時に成らんが天然自然の道である。この漸進的人間改造漸進的世界改造が即ち天理教の理想を実現する唯一の方法である。天理教が他の過激なる人間革命社会革命の主義と異る処は即ちここにある。 之を要するに天理教の革命思想と他の宗教哲学の革命思想とはその目的に於て多大の相違がある計りでなく、その目的を実現する方法に於ても亦多大の距離があるのである。即ち一は自然的にして他は人為的、一は永続的にして他は一時的、一は漸進的にして他は急進的、一は根本的にして他は皮相的の相違がある。天理教が他の革命思想に比して一層自然であり一層根本的であるのは即ちこの漸進主義である。この点に於て吾人は大なる意義及び価値をこの主義に認むるのである。 |
第十六章 天理教と陽気主義 |
「よるひるどんちやんつとめする そばもやかましうたてかろ いつも助が急ぐから 早く陽気になりてこい」(御神楽歌四下り目) 「いつまで信心したとても 陽気づくめであるほどに むごい心をうち忘れ やさしき心になりてこい」(御神楽歌五下り目) 天啓によれば、神がない人間、ない世界を始めた抑々の動機は人間(子供)の陽気遊山を見て楽しみたいと云ふことにあつた。然るにその後人間の生長するに従つて欲を生じ遂にこの世界を「ほしい、をしい、かはゆい、にくい、うらみ、はらだち、よくにこうまん」の満ちた陰気な世界と化して了つた。天理教の目的は現在の陰気な世界を変じて神の予定なる陽気な世界に化する為に生れたのである。それで天理教は一名これを陽気な教えと云ひ天理教の信仰生活を一名陽気勤めと云ふ。蓋し陽気は天理教の生命である。之を自然に就て云へば春はこれ陽気の象徴である。これを人間に就て云へば青春はこれ陽気の象徴である。それで教祖は陽気な精神状態を形容して十八の心と云つた。 蓋し人間十七、八歳の時代は鬼も笑ふと云ふ程精神の溌剌たる時代であるからである。蓋し陽気と云ふは天地万有を育てゝ行く太陽の精神である。天理教が何故この陽気な精神の発揮を讃美するかと云へば陽気は創造的気分であるからである。この創造的気分に最も富んだ時代が十七、八歳の青春時代である。それで天理教が常に陽気になれ/\と云ふのは何時も春の精神青春の気分になつて絶えず新生活を創造せよと云ふことを意味するのである。偉人とは即ち絶えずこの春の精神、青春の気分によつて新生活を創造しつゝある人に外ならない。 凡そ自然の理法として流動するものは生き停滞するものは死す。例へば水である。彼の海水が常に清潔なるは絶えず流動するからである。また潴水が腐敗するのは停滞するからである。教祖は常に信徒に向つて、「心は甲斐絹の様に持て、湿つた雑巾で板の間を布いてる様なことではどうもならんで」と教へたが、この言葉の意味は人間は常に陽気な心に生きなければならぬ(陰気な心で生きてはならぬ)と云ふことを意味せられたのである。英国の諺に「A rolling stone has no moss」(転々たる石に苔生ぜず)と云ふて居るが、畢竟常に活動し常に進化しつゝある精神には疾病の生ずる余地がない。畢竟その精神に故障を生ずるから遂に生理的故障を引き起すのである。こう云ふ心理的乃至生理的故障より脱して真の生活を楽しむ所に天理教の陽気主義の価値がある。 |
第十七章 天理教と真実主義 |
「誠(真実)一つが天の理。天の理なれば即ぐに受け取り即ぐと返やすが一つの理」(御聖訓) 天理教主義はこれを種々なる方面より観察し得べしと雖もその中心の主義はここに云ふ真実主義に外ならないのである。この主義に関してはここに改めて多くの言を費す必要を認めない。何故なれば人生の目的は真実なる自己を発揮するにありとは屡々述べた処のことであるからである。それでこの主義の結論として次の言葉を記憶すれば沢山である。 「世界から力入れて来ても真実をして真実の心あれば抜いた剣も鞘となる/\。抜いた剣も鞘となると云ふは真実神が受け取りたから」(天啓の声 ) |
第十八章 天理教と自他力主義 |
天理教は、之を力を中心として観察すれば、二個の主義に分類することができる。曰く自力主義と曰く他力主義とである。即ち天理教は一面に於て人事の最善を尽すと云へ、点より云へば自力主義である。と共にまた他の一方に於て人事の最善を尽した上に天命を待つ点より云へば他力主義である。之を例へて云へば、天理教はその精神に於て禅宗の自力主義と真宗の他力主義とを合した様な宗教である。始めより純自力主義でもなければ純他力主義でもない。この自他力混合の処に天理教の面目があるのである。而して之を儒者の言葉をかりて云へば 「人事を尽して天命を待つにあり」と云ふ事ができる。人事を尽すとは人間力を極度に発揮せしむるのである。天命を待つとはそれ以上の範囲は神の加護に委任することを云ふのである。之を天理教より云へば、「誠一つが天の理。天の理なれば即ぐに受け取り即ぐと返やすが一つの理」。これが天理教の自他力主義である。 |
第十九章 天理教と男女同権主義 |
之は天理教の両性観の中に述べたから、ここには之に向つて再度の説明を省くのであるが、従来の宗教中男女両性観を発表した宗教も数ある中に、真に男女両性の地位を正当に説明した宗教は天理教が始めてである。この点に於て今日迄やゝもすれば誤られたる両性観の為に、その女権を束縛せられて来た婦人にとつては大なる味方を得たものと云はなければならない。将来女権が拡張して男権と同一の程度に進んだ時、顧みてその恩人は誰なるかを顧みれば必らずや天理教(天理教は神の最後の意志教である)にあることを発見する時があると思はれる。(現に婦人の地位が日と共に向上しつゝあるは天理教によつて発表したと同一の理想を神が実地に実現しつゝあるのである) |
第二十章 天理教と一夫一婦主義 |
男女同権主義と相並んで定められたる両性界の憲法は一夫一婦主義である。即ち、男一人に女一人と云ふ天然自然の法則によつて立てたる主義が天理教の一夫一婦主義である。この二大主義普及の結果は今日迄両性間の反目となつた凡ての問題は円満に解決せられるのである。例へば婦人参政権運動の如きは云ふ迄もなく、家庭に於ける男女の葛藤の如きは自然に消滅するのである。且つその上更に進んで両性の道徳性が向上進化するに連れて今日の如く或る夫婦は多子に苦しんでゐるのに、或る夫婦は無子に苦しんでゐると云ふ不公平なく凡ての夫婦が一人の女子に一人の男子を楽しむ様になるのである。これが天理教信仰によつて両性界に来る変化である。 |
第二十一章 天理教と絶対個人主義 |
凡そ社会の第一の単位は個人である。第二の単位は家庭である。第三の単位は市町村である。天理教は即ちこの個人もしくば家庭もしくば市町村に社会の第一、第二、第三の単位としての自覚を喚起せしむる宗教である。云ひ換へれば、個人もしくば家庭もしくば市町村に共同生活の一員もしくば団体としての自覚を喚起せしむるにあるのである。それでこの道は一名限り一軒限り一村限りの信仰とも云ふ。然るに個人主義とは如何なる主義なるかを知らざる一部の天理教徒は個人主義と利己主義とを混同して、頻りに天理教は個人主義の宗教にあらずと弁護してゐる。けれどもこの弁護は誤つてゐる。抑も個人主義と利己主義との区別は個人主義とは社会の一員としての権利義務の自覚の下に行はるゝ人生上の主義にして、利己主義とは社会の一員としての責任を欠いた盲目的の個人的欲望の満足をもつて理想とせる主義である。即ち前者は自由を求むる代りに義務と責任との明かな自覚があるが、後者にあるものは我がままと無責任とがある計りである。元より両者の間に何らの共通点はないのである。従つて天理教は明きらかに利己主義の宗教ではないが確かに個人主義の宗教であると断言するに躊躇しない。元より天理教の個人主義と今日の個人主義との内容が同一であるか否かの問題はこれからの研究問題であるが、天理教が個人主義の宗教でないと云ふこと云ひ換へれば社会の一員としての義務もしくば責任を教ゆる宗教でないと云ふことは全く根拠のない空言である。 天理教祖の個人主義は基督の個人主義と同様に全世界全人類を自己に包有した絶対個人主義の更に一層徹底したものであつた。彼女には自己以外に世界なく世界以外に自己がなかつた。即ち全世界の悩み、全世界の悦は彼女の悩み、彼女の悦であり、彼女の悩み、彼女の悦は全世界の悩み、全世界の悦びであつた。この世界即自己、自己即世界の生活が彼女の個人主義であつた。この点に於て彼女の個人主義は人道主義的個人主義とか世界主義的個人主義とか絶対個人主義とか命名くべきものである。けれども彼女の個人主義のこれ等個人主義と異る処は等しく人道主義的個人主義、世界主義的個人主義、絶対個人主義であつても、後者は単なる冷かなる智的活動(理想)であり、前者は即ち熱き情意的活動(愛)であつた。更に之を今日普通の個人主義と比較する時は今日の個人主義は義務よりも権利に重きを置く傾きがある。けれども天理教の個人主義はそれと全然反対に権利よりも先づ義務を重んずるのである。否な寧ろ義務を認めて権利を認めないのである。ここに天理教の徹底個人主義の真面目がある。之を要するに天理教は個人主義の宗教でないと云ふ説は当らない。天理教は個人主義も個人主義も真に生粋な個人主義である。而かも天理教部内の人々が之を否定し去らん としつゝあるは個人主義と利己主義との明かな区別を知らないからである。之を要するに全人類が一人残らず個人主義者、真の意味の個人主義者たらざる中はこの社会はまだ真に明かな自覚生活に入つたものでないことを。これは個人主義、真の意味の個人主義を理解した者の当然肯く処の事実である。 |
第二十二章 天理教と人道主義 |
天にあつては天体がその軌道を誤らず地にあつては万物がその時節を誤らざるものは天理即ち自然の法則(自然律)があるからである。それが人間界に表はれたものが人道もし くば人生律である。従つて天理と云ふも人道と云ふも悠久無限の大自然の法則(神意)を全体的に観ると部分的に見ると普通的に見ると特殊的に観るとの相違によつて生ずる名称にしてその内容は全然同一である。 天理教は即ちこの大宇宙を支配する大自然律大宇宙律であるが、之を世界より云へば天理、之を人間より云へば人道となるのである。従つて天理教は一名これを人道教と云ふことができる。この天理教主義の生活を称して天理主義とも人道主義とも云ふ。人道と云ふ言葉は勿論今日に始まつた言葉ではない。それは今日の宗教と云ふ言葉の生れない以前長い間宗教と云ふ代名詞に使はれて来た言葉である。勿論今日に於てはその職名を宗教に譲つてその権利を自ら握つて居るが、恐らくこの人道と云ふ言葉は人類の存する限り残る言葉の一つであらう。 人道(人生律、人間律)とは云ふ迄もなく人間として生くべき道である。それは時代によつて必らずしも一様ではないが、たとひ旧道が廃れて新道が興つても道なき処に長き旅行を続くることの困難なると同様に、眼に見えざる精神の道即ち人道がなくては一日も安全に生活することはできない。普通人道と云へば直ちに人間相互の愛を連想するが、之を広義に解釈すれば、凡ゆる心理上の法則即ちこの広義の人道に入るべきものである。何故なれば人間は生理上の法則を無視して肉体の健康を保つことはできないと共に、心理上の法則を度外視して健全なる精神状態を継続することはできないからである。かくの如く一面に於ては自分以外の個体もしくば団体の健全なる発達を図ると共に、他の一方に於て自分一身の健全なる発達を図るのが真の意味の人道主義である。 天理教では皆な人の行くべき道を、一、理(神)を立てゝ身が立つ。二、人を助けて我が身助かる、の二筋に分けて説いてあるが、その実は二筋の道がある訳ではない。之を約めて行けば畢竟、「誠(真実)一つが天の理(また人の道と云つても可)」と云ふ真実一條の道に帰するのである。釈迦は大乗一実の道を伝へる為の方便として二乗と説き三乗と説いた。ミキ子が誠(真実)一條の道を、一、理(神)を立てゝ身が立つ、日の寄進。二、人を助けて我が身助かる、互ひ助け合ひ、の二條に説き、朝起き、正直、働きの三條に説いたのも誠(真実)一條の道を全人類に理 解せしめんとする方便に外ならない。この点に於て天理教の人道主義はその実真実主義に外ならないのである。 古来儒教では人道を具体的に説明して、君には忠、親には孝、兄弟には友、夫婦には貞、朋友には信、他人には礼、自分自身には温良恭倹譲と説いて来たけれども、忠と云ひ孝と云ひ仁と云ひ義と云ひ礼と云ひ知と云ひ信と云ふも畢竟対象によつてその名を異にする迄であつて、その実は誠一つの別名に外ならないのである。けれども天理教で云ふ処の人道主義は至つて単純である。曰く「神には敬、人には愛」と。之で凡てを尽して居る。人生の事は凡てこの二つに帰せざるはない。 |
二十三章 天理教と最高自然主義 |
人生上の自然主義は一時本能満足主義と同一の誤解の中に葬られて了つた。天理教主義も自然主義は自然主義であつても、動物や野蕃人のもつてゐる原始的自然を実現せんとするものではない。凡ゆる生物の達し得る限りの最高自然即ち神の大自然、神の最高自然を実現せんとするのである。従つて天理教の自然主義は動物的自然主義や原始的自然主義とは全く反対の傾向をもつた自然主義である。
蓋しこの世界には上は神より、下は動植鉱物に至る迄無限の階級がある。その中に比較的最も高き自然を占めて居るのが人間である。けれども等しく人間と云つても、亜弗利加の黒人種と欧羅巴の白人種との間には文明の程度が異つて居る。云ひ換へれば人間的自然の階級が異つて居る。これは英国人、米国人、日本人同士の間に於ても同一である。即ち等し く日本人と云つても都会人と田舎人とは文明の程度を異にし上流社会と下流社会とは文明の程度を異にして居る。 その間にあつて最も高き自然を占めてゐるのは中山ミキ子である。彼女のもつて居た自然はまだ人類の達し得ざる最高自然であつた。(もし彼女のもつてゐた自然が既に過去の何人かに握られた自然であつたならば、神が殊更彼女を立てゝ新しき典型人とはしなかつたであらう)その自然は神に次ぐ最高自然であつた。否な、「確かと聞け、口は月日が皆な借りて、心は月日皆な貸してゐる」と云ふ天啓によれば、彼女のもつてゐた自然(精神)は神と同一の内容をもつた自然をもつてゐた。これ吾人が彼女を典型人とし、雛型の道とし、その思想生活より最大の価値最高の自然を発見し捕捉せんとする所以である。然らば彼女の有した最高の自然とは何んぞや?これは彼女の人格を研究すれば直ちに分かる。私はこれをもつて天地が万物を生成化育すると同一の真実心(愛情と親切)と云ひたい。更に一言の説明を求められんか。私は答へて云はうと思ふ。曰く無限絶対の包有力(絶対の愛)と。これより以上に私は彼女の有した最高自然を説明する言葉を持たない。また持ちたくない。何故なれば私はかくの如く彼女を理解することによつて彼女の最高自然主義に絶対の意義及び価値を発見するからである。 |
第二十四章 天理教と大家族主義 |
天理教は仏教の如く出家遠離と云ふ家庭生活の破壊を教ゆる宗教ではない。何人も特別の事情のない限り家庭をもち家族団欒の中に生の目的を遂げることを教ゆる宗教である。けれども天理教の終局の目的は現在の小家族以外更に大なる家族の実現即ち世界一家の一大家族を実現するにあるのである。この大家族主義の具体化せるものが天理教の地場中心主義である。 |
第二十五章 天理教と地場中心主義 |
古来一派の宗教にして本山もしくば霊智なるものを有たない宗教は殆んどないけれども、天理教の地場は全くそれと意義を異にするのである。天理教の地場とは、所謂人間始め元の地場にして、御筆先に「この世の始まり出しは大和にて 山辺郡の庄屋敷なり」、「そのうちに中山氏と云ふ屋敷 人間始め道具見えるで」、「この道具 伊邪那岐(善兵衛)と伊邪那美(ミキ子)と国狭土(小寒子)と月読(秀司)となり」、「月日よりそれを見澄し天降り 何か万を仕込むもよふを」、「この所、何をするにもどのような事をするのも 皆な月日なり」、「どの様な事を云ふにも皆な月日 側なる者は真似をして見よ」、「この世を始めてからに今日までは 本真実を云ふたことなし」、「今日の日はどのような事も真実を 云はねばならぬ様になるから」、「この道はどふいふ事と思ふかな 甘露台の一條の事」、「この台をどう云ふ事に思ふてゐる、これは日本の一の宝や」、「これをばな何んと思ふて皆のもの このもとなるを誰も知るまい」、「この度はこの元なるの真実を どうせ世界へ皆な教しへたい」、「この元は伊邪那岐と伊邪那美と 身の内(人間)なるの本真中や」、「この処で世界中の人間は皆な その地場で始めかけたで」、「その地場で世界一列何処までも 掘れば日本の故郷なるぞや」、「人間を始めかけた証拠に 甘露台を据へて置くぞや」、「この台が皆な揃いさへしたならば どんな事をも叶はんでなし」、「今まではこの世始めた人間の 元なる地場は誰も知らんで」、「この度はこの真実を世界中へ どうぞ確つかり教しへたいから」、「それ故に甘露台をはじめたい 本元なるのところなるぞや」、「月日には世界中らを見渡せど 元始りを知りたものなし」、「この元をどうぞ世界へ教へたさ そこで月日があらはれて出た」、「確かと聞け この世始じめを真実と 云ふて話しは説いてあれども 世界には誰か知りたるものはなし」、「何を云ふてもわかりかたない その筈やこの世始めてない事をだん/\口説きばかりなるから」、「この世の始まりだしの真実を 知らしてをかん事に於ては」、「今までも助け一條とまゝ説けど 本真実を知らぬことから」、「どのよふな事でも月日云ふ事や これ真実と思うて聞くならば」、「どのよふな事もだん/\云て聞かす これを真実と思て聞き分け」、「この世の本元なると云ふのはな この所より外にあるまい」、「この話しどう云ふ事に思ふかな 何も真実聞かしたいから」、「この世を始じめ出したる真実を 皆な一列は承知せへねば」、「どの様な助けするにも人並の 様なることは云ふでないから」、「今までに見えたる事やある事は そんな事をば云ふてないぞや」、「これまでにない事計り云て聞かし 真実よりの助けするぞや」 とある所謂助け一條の中心地である。古来人類の根源地に関しては古くはエデン説以来近くはアトランチス説に至る迄皆なこれ一個疑問の中に葬られて来た。この度天理教によつて始めて人類の根源地はエデン説にあらず、アトランチス説にあらずして日本而かも大和国山辺郡庄屋敷村であつたことが明かになつた。天理教は即ちこの人類の根源地を中心として世界最後の救済教を始めたのである。かう云ふ理由により天理教の地場は二つの重要なる意義をもつてゐる。その一つは人類最初の肉の故郷であるといふことである。その二は人類最後の霊の故郷であるといふことである。この霊肉の故郷を信仰の中心地として世界一家の平和にして且つ健全なる理想の一大家庭を組織せんとするのが天理教の地場中心主義である。天理教の神人父子主義四海同胞主義はこの地場中心主義即ち全人類は十億万年の昔この地に於て造られたといふ原始的事実に即して生れたのである。 |
第二十六章 天理教と神人親子主義 |
従来の宗教の欠点は、神は理なりと云ふ畏敬の観念のみ働いて、神は親なり と云ふ親密の愛情の裏に隠れてゐたことである。天理教は即ちこの埋もれたる愛情を掘り出して、神は親なり、人は子なりと云ふ神人親子の感情を表の理として立てんとするのである。わけて吾人神の子供として一刻たりとも忘れてはならぬことは、所謂子の用、この世は子の用をするからこの世と云ふ、の為に過去十億万年未来永劫に守護し守護せらるゝ 大恩ある親神様としてゞある。けれどもこの奸悪なる世の中は一椀の飯、一杯の水には百遍の感謝を忘れねど生みの親育ての親の大恩を感謝することを知らない。この小恩守つて大恩守らぬ悪気の世界、悪気の世の中を改善せんが為に、人間始め世界始めの元々の理を説いて聞かせ且つそれを実行せしむるのが天理教である。 |
第二十七章 天理教と四海同胞主義 |
「世界中一列は皆な兄弟や 他人と云ふて更にないぞや」。 神人親子の感情に次いで第二に呼び起さゞるべからざるものは四海同胞と云ふ観念である。今日迄種々の哲学、種々の宗教に四海同胞と云ふことは往々説いて来たけれども、どう云ふ理由で四海は同胞であるか、一列は兄弟であるかと云ふ元々の理を知らない。この度天理教によつて始めてその原始的根本的事実が闡明せられたのである。之を要するに天理教で様々の教理を説くけれども、その根本的の目的は親子兄弟の関係を明かにしたい為に外ならない。それを難しくとるから難しくなる。柔しくとればこれ程鮮明な宗教はない。要は唯孝悌の二つの道を明かにすれば良いのである。この孝道を明きらかかにしたのが即ち日の寄進主義と神霊中心主義とであり、この悌道を明かにしたのが相互扶助主義と大日本主義とである。 |
第二十八章 天理教と互立主義 |
凡て一本柱があつても一本だけでは立たん。五本十本二十本と寄せ集め組み合はせして始めて互ひに立つことができるのである。それと同じく人間も自分一人では立たない。神と人と万物との立て合ひの理によつて始めて立つのである。 然るにこの天然自然の理を知らざる世の利己主義者は人を倒しても我が身を立てやうとする。その結果は所謂人を祈らば穴二つと云ふ自縄自縛の苦しみに陥るのである。それで儒教では、「己れ達せんと欲せば先づ人を達せよ」、「己れ立たんと欲せば先づ人を立てよ」と教へて居る。天理教の互立主義も之と全くその方法を一にしてゐるのである。唯前者の互立主義と天理教の互立主義との相違は、前者は己を立つることが目的であつて人を立つることは方便に外ならないのであるが、天理教の互立主義は人を立つることが目的であつて己を立つことは結果に外ならないのである。即ち前者では利己的打算的なるに反し後者は全然利他的献身的である。ここに天理教の互立主義の特色がある。 |
第二十九章 天理教と相互扶助主義 |
天理教では互立主義と相互扶助主義とを合して「互ひ立て合ひ助け合ひ」の理と云つてゐるが、互立主義と云ひ、相互扶助主義と云ひ畢竟同一主義の別名に外ならないのである。従つて今更この主義の価値を論ずる迄もないが尚ほ念の為に一言せば、この家庭をして、この世界をして真に情味に富んだる平和の家庭、平和の世界たらしむるにはどうしてもこの主義によらざるべからずと云ふことである。何故なれば今日の所謂他倒自立と云ふが如き生存競争が何時迄も継続して行つたならば、この世界は益々改悪せらるゝとも決して改善せらるゝ時期はないからである。もし近き将来に於て天理教の互立主義相互扶助主義が徹底普及して行つたならば、互ひに軒を並べて同一の商業を営んで居ても今日の如き不正の方法をもつて客を自分の店にのみ吸収せんとせざるのみならず、進んで隣家に客を譲るの美挙に出づるのである。これは独り商人のみではない。農夫でも職人でも学者でも政治家でも他人の畔を削り、他人の顧客を奪ひ、他人の研究を害し、他人の権利を侵す様なことはなくなるのである。殊に今日の政治家に見る投票権の掠奪の如きは政治道徳の進歩に伴つて自然に消滅するのである。
恋の競争、知力の競争、名誉の競争、財産の競争、地位の競争、門閥の競争、美貌の競争、体力の競争は全然地を払つて湮滅する。客は我が身の生活を助ける為に買はずして商人の生活を助ける為に買ふ。従つて商人の要求する代価以上にやるとも以下に値切ることはない。商人も亦自己の営利の為に売らずして客の便利の為に競ふて安価にして善良なる品物を売るのである。かくの如くにして相互扶助主義は今日の自己中心の世界を全然一掃して理想の世界と化するのである。 |
第三十章 天理教と日の寄進主義 |
日の寄進の意義に関しては既に本論の中にその一斑を尽したから、ここに改めて同一説明を繰り返す必要を認めない。ここに一言云ひ添へてをきたいことはこの主義に対する批評である。古来、日の寄進の意義の実際に行はれて来たのは、親の子供を育つる愛と、夫婦間の真情、兄弟姉妹の間の親切と、朋友間の信義、及び一部慈善家の同情の一部に過ぎない。それ以外の広い世界に於ては無報酬の労働と云ふことは認めたくも認むることができなかつた。然るに天理教の日の寄進主義は吾らが日々結好に通らして戴いて居る御恩報じとして無報酬で労働するのである。神に対して御恩報じとして無報酬で労働するとは凡て神の用は子(人)の用、子の用は神の用であると云ふ点より人の為に無報酬で労働するのである。これが天理教の日の寄進主義である。 ここに一つの疑問は、もしこの意義を何処迄も実行して行つたならば自分の生活は如何にして支ゆべきかの問題が来る。勿論今日の世界にこの主義をどこ迄も実行して行つたなら或は餓死するかも知らない。けれども天理教普及の結果は他人の恩を無報酬で受くることはやがて自分の負債を重ねることであると云ふ自覚を有してゐるから、こっちより何らの要求を提出せずとも、先方で自然に報酬を出す様になるのである。且つ社会一般の組織がそれに準じて変更して来るから、吾人はそれによつて餓死する憂はないのである。唯現在の所は吾人の力の及ぶ範囲に於て日の寄進をするのである。例へば月給取りである。今日の月給取りはできるだけ多大の月給を国家もしくば団体もしくば個人より貪らうとするのであるが日の寄進主義者はそうではない。でき得る限りの最小限度に満足するのである。この他人の負担をでき得る限り軽減せんとする所に天理教の日の寄進主義の精神がある。 日の寄進の種類にとつては元より制限はない。苟くも人類社会を益する所のことは如何なる事をなすも可である。けれども等しく人類社会に貢献する事業を選択するならば、比較的大なる価値を有する事業を選択することはより小なる価値を有する事業を選択するよりも自己並びに社会を益することが大である。こう云ふ理由により自己の能力に適応した範囲に於て最も高尚なる職業、最も偉大なる職業を選択することは自己並びに社会に対する義務である。之を要するに現実の社会の欠陥は自分に厚くして他に薄きことである。けれどもこれを天理教より云へば自分は最小限度の要求によつて満足し、他人に最大限度の満足を与へなければならない。云ひ換へれば身を殺しても仁をなさなければならない。この社会改造の理想を引提げて表はれたのが天理教の日の寄進主義である。こう云ふ理由によりこの主義が一人でも一軒でも一村でも多く普及することはやがてこの世界をそれだけ理想化したのである。 |
第三十一章 天理教と大日本主義 |
古来政治的にもしくば宗教的に世界統一を企つた者も数多くあつた。けれどもその一人としてそれに成功したものはなかつた。と云ふのは彼らの企つた事業は何れも或る政治的野心もしくば宗教的野心に基く人為的のものであつたからである。天理教の大日本主義は、それと全然反対に日本は世界始めの根源地であると云ふ原始的事実に基いて立てたる神の世界統一の理想である。天理教の大日本主義、地場中心主義をもつて天理教の宗教的統一主義とすれば、大日本主義はその政治的統一主義であるについては本書の序論並びに天理教の国家観の中に略述したから今更めて述ぶる必要はないと思はれる。けれども念の為に日本と外国との原始的関係並びにその将来に就て教祖の説話を約言すれば、日本民族(大和民族とも云ふ)は一番最初大和に生み下ろした人間であるから兄姉である。その他の国民は漸次大和以外の地に生み下ろした人間であるから弟妹である。最初の内は大和以外に生み下ろされた人間も日本を根拠地として生活していたが、段々生長発達するに連れて日本だけでは土地が狭隘になつた。それで食物を箱に入れて大和以外に生れた人間を連れ出してカラ(外国)迄行つた時、食物が絶えて箱が空になつたからそれで外国のことをカラと云ふ。それで仕方がないからそれ等の人間の食物として四足(獣類)を与へた。日本の人間には始めより鳥(二足)と魚とを与へてある。四足を与へてない。四足は外国人の食するものである。それだから四足を食ふ人間を穢多非人と云つて普通の人間の交りを許さなかつた。近頃唐人が日本の地に入り込むに従つて段々日本人の間にも四足を食ふ者ができたから穢多非人を嫌はない様になつた。けれども元はそうではなかつたでと。これが教祖の説いた日本人と外国人との関係である。 こう云ふ訳で日本は一本の木に譬へて云つたなら根である。外国は枝である。人は西洋は偉いと云つてゐるけれども、枝先と云ふものは早く開けて根の開けることは遅いものである。けれどもどんな大きな枝も根には叶はぬ。皆な根へ/\と折れて来て根を養ふものである。それと同じく外国は偉い/\と云ふけれども皆な日本を養ふ肥料である。「日本見よ、小さい様に思たれど、根があらはれば恐れ入るぞや、枝先は大きく見えてあかんもの、かまへば折れる先を見てゐよ。この先は唐と日本の睨み合ひ嫉み合ひ、その度毎に外国は敗けて日本の強いことが訳つて来る。だん/\と何事にても日本には知らん事をばないと云ふ様に、これまでは唐やと云ふてはびかりてこれも月日が教へ来るで。この度は月日元へと立ち帰り、木の根確つかり皆なあらわすで」。 教祖はまた日本を扇の要に譬へた。蓋し将来世界を統一するものは日本であることを意味するのである。それで、今迄は唐や日本と云ふたれど、これから先は日本ばかりや。これが天理教祖の所謂大日本主義である。之によつて観れば、日本はそれ自身を呼んで大日本と云つて来たが、真の意味の大日本は旧日本にはなかつた。文字通りの大日本はどうしても世界を統一した新日本にあるのである。これらは元より教祖が日本に関する予言の一部分に過ぎないが不思議にも教祖の予言は年と共に実現せられつゝあるのである。この点より日本人が天理教を知るといふ事は最も焦眉の急である。之を要するに畢竟政治的理想の上より云つても今日の如く各国が分立して各々覇を世界に争ふと云ふことは決して喜ばしき現象ではない。否、最も悲しむべき現象である。将来この予言の如く日本が世界の統治権を握るに至つたならば、世界は始めて枕を高うして平和の夢を貪ることができるであらう。凡て神の言葉にはどれ一つ必然でないと云ふものはない。どれ一つ無徒だと云ふものはない。今日の日本人は余りに天理教を軽蔑してゐる。もしこの無神経状態が今後三十年続いたなら日本は自国の宗教を外国から説明して貰ふ様になる。聊か失言を呈して日本国民の反省を促してをく。 |
第三十二章 天理教と神霊中心主義 |
古来中心説に凡そ四つの重なる誤謬があつた。その一は地球中心説である。その二は人間中心説である。その三は男子中心説である。その四は自己中心説である。中に於て直接吾人の生活と直接の関係にあるのは後の三中心説即ち人間中心説、男子中心説、自己中心説である。第一の地球中心説の誤謬は小学の児童でも知つて居る。けれども第二、第三、第四の三中心説は往々有識の士の間に於てさへ誤解せられて居る。天理教は即ちこの三中心説の最初の否定者である。第一の人間中心説の誤謬は、地球中心説と同様に全世界は凡て人間を中心として活動してゐると云ふことである。けれども一歩を進めて然らばこの世界は人間の意志によつて創造せられ、人間の意志によつて活動しつゝありや否やを研究する時は、この世界を動かすものは人間力にあらずして明かに人間以上の或る大きな力によつて動きつゝあることを発見するであらう。それを科学者は自然力と云ひ、宗教家は神力と云つて居る。天理教の神霊中心主義は即ちこの大宇宙を恰かも自己の肉体の如く動かしつゝある神意を中心として生活せんとするのである。
之を例へて云へば神は太陽である。人間は地球である。万有は地球以外の天体である。地球及びその他の諸天体も凡て皆な太陽を中心として自転しつゝあるが如く人間と万有とは神を中心として生活しつゝあるのである、またしなければならぬものである。云ひ換へれば神の思想を中心として生活しなければならぬものである。然るに人間は先天的に自由意志を授けられた結果、自分の生活を律するに神意をもつて律せずに、自己の意志によつて律せんとするのである。その結果は遂にやがて疾病不幸と云ふ一種の変態に陥るのである。この神霊中心主義を最も明瞭に説明したものが貸物借物の理である。この理に従ふと人間の肉体及び肉体の生活に必要なる物質は人間の意志によつて支配せられつゝある ものではなく、神の意志によつて支配せられつゝあることを知るのである。例へば寿命である。自分は百歳迄生きたいと思つても、神の意志に合せざる時は四十五十で寿命を失ふかも知らない。失つたからとて苦情を申込む訳に行かない。何故なれば自分の肉体も生命も動産も不動産も凡て皆な神意を顕現する為に貸し与へられたものであるからである。それで天啓の声に、神が貸さなかつたなら一夜の宿を貸すものもない、と。全くそうである。 かくの如くこの世界の事一つとして神意の顕現でないものはない。然らばその神意とは何んぞや。これは歴代の救世主もしくば予言者によつて説明せられて来た。この度天理教祖によつて紹介せられたものは即ち神の最後の理想である。畢竟現代並びに将来の人類がこの世界に於て真に幸福なる生活を送らんとせば、どうしてもこの神の最後の理想を中心として生活するより外ないのである。この神の最後の理想をもつて自己の理想とするのが天理教の神霊中心主義である。生の奥義はこれ以上にない。 |
結論 甘露台の建設 |
以上述べたる所は天理教々理より観たる人生の意義及び価値の一斑に過ぎないが、将来この天理教主義が全人類の精神深く且つ高く広く強く徹底して行つた暁に吾人の眼の前に実現されて来る世界はこう云ふ世界である。ここ地球上には一人の貪婪者もなければ一人の吝嗇者もなく、一人の邪愛者もなければ一人の憎悪者もなく、一人の怨恨者もなければ一人の憤怒者もなく、一人の強欲者もなければ一人の高慢者もなく、一人の不義者もなければ一人の姦通者もなく、一人の虚偽者もなければ一人の虚飾者もなく、一人の虚栄者もなければ一人の虚礼者もなく、一人の放火者もなければ一人の殺人者もなく、一人の讒誣者もなければ一人の中傷者もなく、一人の 猜疑者もなければ一人の嫉妬者もなく、一人の懶惰者もなければ一人の偸安者もなく、一人の暴飲者もなければ一人の暴食者もなく、一人の投機者もなければ一人の賭博者もなく、一人の窃盗もなければ一人の強盗もなく、凡てが同情と親切とに充ち/\た神子親子、四海同胞の甘露台世界が文字通りに実現せられるのである。 その時来らば全世界に警察もなければ裁判所もなく、監獄もなければ軍隊もなく、病院もなければ武器製造所もなく、妓楼もなければ賭博場もない。あるものは学校と教会と官庁と農家と商館と工場とがある計り。無用の建築物と無用の人間(警察官、裁判官、弁護 士、医者、軍人、武器製造者、芸娼妓)とは全然この世界より一掃せられるのである。かくの如く人間界が改善せられる結果、自然界も亦改善せられて地震なく、噴火なく、大風なく、洪水なく、海嘯なく、昼の微風と夜の微雨、厳冬もなければ酷暑もなく、百姓は蓑笠要らず、雨が多ければ神に返し少なければ貰ひ、何処へ行くにも小遣銭要らず、提灯要らず、傘要らず、鎖さ ぬ(戸を鎖さぬ)御代にするが一條の時代が来る。こう云ふ時代の到来は非天理教徒より観れば或は一種の妄想のやうに思ふかも知らないけれども、この自然も人生も凡て皆な神の守護の下にあることを知る者には何ら不可能な事実ではないのである。 御筆先に、「この先は神楽勤めの手をつけて、皆んな揃ふて勤め待つなり。皆な揃うて早く勤めをするならば、側が勇めば神が勇むる。一列に神の心がいづむなら、ものゝ蔬気(そき、青物農作物)も皆ないづむなり。蔬気のいづむところは気の毒や、いづまん様に早く勇めよ。蔬気が勇み出るよと思ふなら、神楽勤めや手踊をせよ」 とある如く、吾人は農作物の色を見てその農夫の信仰状態を知り、庭木の勢を見てその主人の精神状態を知る。従つて人間社会の改造の結果、自然界も亦改造せらるべき事は疑ふべからざる事実である。 天理教ではこの旧世界より新世界に更生することを二世の立替と云つてゐる。二世の立替とは教祖出現迄の旧世界を一世の世界と見、教祖出現以後を二世の世界と見て、第一世(旧世界)より第二世(新世界)に向つて更生することを意味するのである。之を要するに、この世界に警察があるのは人の心に警察があるからである。この世界に裁判所があるのは人の心に裁判所があるからである。この世界に監獄署があるのは人の心に監獄署があるからである。この世界に病院のあるのは人の心に病気があるからである。従つて人心より警察、裁判所、監獄、病院を一掃して了つたならば、この世界より警察、裁判所、監獄、病院の一掃せられることは当然である。それと同じく人間の心に厳冬(冷淡)、酷暑(邪愛)がなかつたならば、この世界にも亦厳冬酷暑はない様になるのである。 教祖は人心無形の甘露台が建設せられた暁には天理教地場、甘露台霊地にも有形の甘露台が建設せられ、その頂上の平鉢には天より甘露が降り、それを頂く時は如何なる疾病も救助せられるといふことを予言してゐる。天理教徒の朝夕の祈祷の文句の「悪しきを払ふて助け急き込む一列澄して甘露台」の一句は即ち神がこの世界を一日も早く甘露台世界化せんとする理想を歌つたものであ る。 御神楽歌七下り目に、「屋敷は神の田地じやで、蒔えたる種は皆な生える」、と。 凡て蒔えたる種は生えて花を開きやがて実を結ばなければならぬ。神の蒔えたる人種もそれが毒気に当てられて腐敗せざる限り凡て皆な実を結ばなければならぬ筈である。けれども人の魂にも毒気が来る。また荒地に蒔かれたる種と、瘠土に蒔かれたる種と、石上に蒔かれたる種と、砂漠に蒔かれたる種と、途上に蒔かれたる種と、粘土の上に蒔かれたる種とは生えることはできない。生えてもやがて枯れ失すべき運命を有してゐる。 「一寸話し、神の心の急き込みは、用木寄せるもよふばかりを。だん/\と多く立木もあるけれど、どれが用木なるや知れまい、用木も一寸のことではない程に、多く用木が欲しい事から。だん/\と多く寄せたるこの立ち木、用木になるものはないぞや。如何な木も多く寄せてはあるけれど、歪み屈みはこれは叶はん。日々に用木までは手入する、何処があしきと更に思ふな。同じ木もだん/\手入するもあり、そのままこかす木いもあるなり」。 この世界には神の予言の如く、時来らば美しき甘露台が実現するであらう。その時来らば、獅子は綿羊と共に遊び、豺狼は牝鹿と共に遊び、私欲の競争は移つて徳義の競争となる。農夫は成るべく多くの農作物を人の為につくり、職人は成るべく善良なる器具を人の為につくり、商人は成るべく安き物を人の為に売る。銀行は鎖さゞれども盗む者なく、宿屋は算せざるも走る者がない。これ等の人々は皆な精神的に救はれたる人々である。けれども人類の尽(ことごと)くがこの道によつて救はれはしない。唯努力したるもののみ救はれるのである。教祖は曾つて「世界中蚊の鳴く様な時もある。真暗闇になる時もある。恐わいとも思はなければならぬ。恐ろしいとも思はなければならぬ。なれど内等(天理教徒)は安心なものや」と云はれ、且つその時は「門前に死人の山を築く」と云ふことをも予言せられた。この意味は徳ある者は救はれ、徳なき者は救わるゝことを得ず、生ける死骸となつて帰つて行くこと を意味せられたのである。之を要するに人類の道徳が進歩すればする程、この広大無辺の世界に一人の利己主義者の足を踏むべき余地がなくなるのである。その時は今一刻/\と近づきつゝある。けれども糞に簇つた青蠅はその時を知らないでゐる。 「サア/\一寸一ツ話、さあどう云ふ事知らす、どんな事聞かすやら分らん。サア彼地でも手が鳴る、こつちでも手が鳴る。手が鳴つてから何んじやいなと云ふてはなろまい」(明治 三十二年十一月二日四時頃の刻限)。 時は近づいた。天理教信者の拍手の音が、あっちからでもこっちからでも聞えるやうになつた。今暫時経つたなら世界中隅から隅迄この拍手の音が聞える様になるであらう。教祖は、七十五年したならば日本国中は荒々と置いて、それから先は世界中隅から隅迄天理王命の名を流すと予言せられたが、日本七十五年の予言の時は既に過ぎた。来るべき時代はこの道が全世界へ宣伝せらるゝ時代である。之を要するに、今日は今旧世界より新世界へ生れんとする一大転化期に際してゐる。この転化期の宗教として生れて来たのが天理教である。従つて吾人は最早や之に向つて嘲弄したり罵詈してゐる時ではない。一日も早くこの最後の神の福音によつて新しき光明界に生れなければならない時である。云ひ換へれば、一日も早く欠陥と罪悪とに充ちた現在の自己現在の社会を改造して、光明と喜悦に充ちた理想の人格理想の社会を建設しなければならない。而かもこの目的を達するにはどうしても、この道によるより外ないのである。従つて私はこれを何にも今日既に天理教の信仰に入つた人々の為に云ふのでない。まだ天理教の何者たるを知らず、神の最後の理想、人生の帰趣を知らざる未信者に向つて特に一言書き加へて置くのである。 (大正四年十一月二十一日午前三時大和の地場にて) 天理教々理より観たる人生の意義及び価値 |
(私論.私見)