「おやさとやかた」建築史考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年.2.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「おやさとやかた建築史考」をものしておく。「おやさとやかた構想」その他参照。

 2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.25日 れんだいこ拝


【「おやさとやかた」建築史考】
 おやさとやかた構想とは、1838(天保9)年に立教した日本の新宗教・天理教の教祖中山みきが、1881年のある時、中南の門屋にあった居間の南の窓から、竹藪や田圃ばかりの続く外の景色を眺めておられたが、ふと側の人々に向かい、
今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで。(稿本天理教教祖伝逸話篇「八町四方」)

 と述べられた御言葉に発する。一里は日本では約3.9kmに相当するので七里は27.3kmになる。天理教教会本部がある三島町から桜井市方面へ延ばせば吉野の方までと考えられる。一方、八町四方が宿屋で詰まる程には、一町が約110mなので八町で880(872)mほどになる。それで四方を囲むので単純計算で1周3500m、歩くだけで40分以上かかる距離を、5-8階建ての巨大建築で繋ごうという壮大さになる。現在では、天理教の神殿周辺から880m圏内での宿泊施設はおやさとやかた以外には見当たらない。「おやさと」とは、人間が生まれ出された“もと”であり、またそれを目指して帰るもとのふるさとの意である。
 1875年、中山みき主導により、人間創造の“もと”の地点となる「ぢば」を見出す「ぢば定め」が行われた。「ぢば(地場)」とは、場所や地点を意味する言葉であるが、天理教における「ぢば」は「親神が人間を創造された元の地点であり、天理王命(てんりおうのみこと)の神名の授けられた所」となる。「ぢば」は天理教において最も重要な信仰の対象、そして中心である。
 1915年、中山みきの孫、中山正善が天理教の管長に就任する。東京帝国大学宗教学を専攻した中山正善は天理教務者として教会本部の整備に努め、「昭和普請」として知られる神殿の新設などに尽力した。おやさとやかた構想は、中山正善・内田祥三奥村音造の3名を主として構想された。
神のやかたであるところの元のぢば、その元のぢばを取り囲む子供の住居たるおやさとやかたをめぐらしまして、ここに親も子も共々に、神も人も共々に一つ心になって、陽気ぐらしの実を、否、世界の平和の雛型を進めて行きたい。(『真柱訓話集』第15巻806頁)

 内田祥三は東京帝国大学建築学科の教授であったが、昭和7年頃に天理学園の設計を頼まれて以来、天理との縁を深くする。奥村音造は飯降伊蔵の子孫にあたる天理教の信者であり、昭和9年に東京帝国大学の建築学科を卒業するとすぐに、中山正善から仕事を依頼された内田祥三のすすめで昭和普請の建築技術部に勤める。以後、奥村音造はずっと天理教の建築に関わり、おやさとやかた構想も、奥村音造が中心に発案し、中山や内田と相談しながら決定した。
 

 「中山正善、内田祥三、奥村音造構想」に基づく建築&都市計画を「おやさとやかた計画」、「八町四方構想」と云う。奈良県天理市にある天理教の聖地「ぢば」を中心として、一辺を約900(872)mとする正方形の外周部を屋敷内とし、これに隣接する内外に学校や病院などが並立する巨大建築を廻らせ、この館(やかた)一帯を天理教が理想とする生活のモデル都市として開発しようとするものである。

 まず神殿建築が先行した。大正5年の30年祭前に神殿(現在の北礼拝場、大正2年竣工)、教祖殿(現教祖殿、大正3年竣工)、50年祭(昭和11年)前に南礼拝場(昭和9年竣工)、昭和29年からは神殿を取り囲む形の「おやさとやかた」の建築が始まり、昭和30年に真東棟が竣工している。

 おやさとやかたは、1954(昭和29)年4.26日の起工式、1955年の八町四方構想の発表、翌年に真東棟など5棟が完成。それから2013年までに26棟(約38%)、2017年時点で28棟が完成している。全棟完成時は68棟でひとつながりとなる。市内に点在する160ヶ所以上の詰所(信者の宿泊施設)なども「おやさとやかた」に収めて、互いに助け合う“陽気ぐらし”実践のモデル都市となることを目標にしている。

 現在の建物は、教義研究や信者の教化教育、福祉と医療、学校教育、あるいは信者の修行、教庁などの諸施設として使用されている。本部以外の主要教会も含めて、これらすべての費用は教会、信者からの献金によって賄われている。2005(平成17)年を最後に、それ以降の新築はない。その理由として教会本部の財政問題、八町四方内部の土地確保の問題が挙げられている。
 天理教は建築と関係の深い宗教であるとされる。新宗教の建築を研究した建築評論家・建築学教授の五十嵐太郎は、「天理教の組織と活動の概念はすぐれて建築的」であるとしている。天理教は建築的なメタファーを数多く使用している。例えば、教祖を「神のやしろ」として建築物になぞらえているのを始めとして、教祖の生涯は手本とすべき「雛型」であり、天理教独自の用語には 「真柱」(教団の統理者)、「統領」(本部役員)、 「用木」(信者)等々。また陽気ぐらしの世界(天理教のユートピア)への道筋はひとつの建築物をつくることにたとえられ、「普請」と呼ばれており、おやさとやかた構想も、陽気ぐらしの雛形都市として考えられている。
 おさしづ(明治二十七年十一月十七日、夜昼のおさしづにより夜深教長外五名にて御願い)にも、「小さい事思てはならん。年限だんへ重なれば、八町四方に成る事分からん」。

【天理教普請史考】
 教祖時代
1864 元治1 9.13日、つとめ場所、手斧始め。同10月26日:つとめ場所、棟上げ。同12月中旬、つとめ場所、落成。北の上段の間の北側に南面して神床が設けられた。
1873 明治6 中山みき、飯降伊蔵に命じて簡素なかんろだいの模型を作成。
1875 明治8 6.29日、ぢば定め。
1881 明治14 5.5日、滝本村の山でかんろだいの石見。同5月上旬、かんろだいの石出し。同9月下旬:かんろだい2段目までできる。
1882 明治15 5.12日、かんろだいの石、奈良警察署長の上村行業に没収される。6.1日、泥酔の警官が乱暴。お社、祖先霊璽を焼く。
1887 明治20 2.18日、中山みき神あがり。
 教祖没後の明治の造営
1888 明治21 7.24日、神殿を建築開始?。同年、神殿落成。
11.28日、鎮座祭。つとめ場所に拡張増築する形で、かんろだい(板張り)を屋内に取り入れた。神殿の南側に北面して神床が設けられた。同11.29日、神道直轄天理教会本部開筵式。同11.30日、秋季大祭。
1906 明治39 5.28日、神殿ふしんにつき、おさしづ。
1908 明治41 11.27日、天理教、一派独立認可。
1909 明治42 2.19日、独立奉告祭。
1910 明治43 5.28日、仮神殿手斧はじめ
1911 明治44 4.24日、仮神殿(現会議所)に遷座。親神、教祖、祖霊を奉遷。大正普請の始まり。4.25日、遷座奉告祭。
5月、つとめ場所を鑵子山に移築。神殿用地の整地作業。10.27日、起工式。
 大正普請
1912 大正1 6.1日、かんろだい地搗き。10.8日、立柱。11.28日、上棟式。
1913 大正2 12.25日、神殿と北礼拝場(教堂とも。現存)が竣工。
1914 大正3 4.24日、教祖殿(現祖霊殿)遷座。祖霊殿(現豊田山舎)竣工。神殿の遷座祭。8.27日、祖霊殿に一般教信徒の霊を合祀。
1915 大正4 4.25日、神殿新築落成奉告祭。神殿の南側に北面して神床が設けられた。
 昭和(戦前)普請
1930 昭和5 7.26日、天理教本部直属教会長会議が開催され、教祖五十年祭(昭和11年1月)、立教百年祭(昭和12年10月)執行の公示とともに教祖殿改修と神殿増築の発表が行われた。この普請を「昭和普請」と呼ぶ。これに必要な用材を高知大教会が一手に引き受けた。
1931 昭和6 *. 1日、建築委員会、設置。6.26日、神殿・教祖殿起工。
1932 昭和7 9.26日、教祖殿・御用場上棟式・
1933 昭和8 8.26日、礼拝殿・立柱式。10.24日、教祖遷座祭。翌25日、新築落成奉告祭。翌26日、親様、仮神殿に遷座。
1934 昭和9 2.20日、新築祖霊殿に遷座。3.26日、神殿・礼拝場の上棟式。10.15日、雛形かんろだいを据える。10.24日、神殿遷座祭。神床は撤廃される。10.25日、神殿と南礼拝場の増築落成奉告祭。
*.12日、新築の教務支庁や教会の神殿はおぢばを向いて拝礼できるように建築することを決定。イスラム教のモスクにならった可能性が指摘されている。
1937 昭和12 内田祥三氏の設計で天理高校が建てられた。当時の計画ではこの隣側に同じ意匠の建物を2棟、向かい側に3棟、合計6棟を建築する予定だったが、戦争の影響で中止になった。この建物の屋根に千鳥破風が付いているが、その後のおやさとやかたの千鳥破風の原点はこの建物の意匠にある。
 昭和(戦後)普請
1951 昭和26 4.17日、雛形かんろだい据え替え。
1953 昭和28 4.18日、おやさとやかた計画を発表。
1954 昭和29 4.26日、おやさとやかた起工式。
山辺郡丹波市町を中心に磯城郡、式上群、添上群の町村が合併し、天理市が発足した。
1955 昭和30 10.26日、真東棟(地上6階、地下1階)。教義及び資料集成部、天理教音案研究会、天理教校本課。
10.26日、東左第一棟(地上5階、地下1階)別席場。
10.26日、東左第二棟(地上5階、地下1階)別席場。
10.26日、東左第三棟(地上5階、地下1階)別席場、修養科棟。
10.26日、東左第四棟(地上5階、地下2階)別席場、修養科棟。
1962 昭和37 10.25日、東左第五棟(地上5階、地下2階)別席場、修養科棟。
1964 昭和39 8.24日、雛形かんろだい据え替え。祖霊殿移転。
1965 昭和40 10.25日、南左第四棟(地上5階、地下2階)天理大学
11.25日、西右第二棟(地上8階、地下1階)天理よろづ相談所病院憩いの家。
11.25日、西右第三棟(地上8階、地下1階)天理よろづ相談所病院憩いの家。
1967 昭和42 11.25日、南左第三棟(地上5階、地下2階)天理大学
1969 昭和44 9.1日、南左第二棟(地上5階、地下2階)天理小学校。
1970 昭和45 10.25日、西左第四棟(地上8階、地下1階)郡山大教会詰所、中河大教会詰所。
1972 昭和47 12.30日、東右第一棟(地上5階、地下1階)天理教校專修科。
1975 昭和50 5.24日、雛形かんろだい据え替え。
6.29日、南左第一棟(地上5階、地下2階)天理教教庁。
9.29日、北左第四棟(地上7階、地下2階)嶽東大教会詰所、鹿島大教会詰所。
10.15日、西左第三棟(地上8階、地下1階)高知大教会詰所。
1976 昭和51 9.2日、北礼拝場放火。
1977 昭和52 10.26日、教祖100年祭(1986年)にむけて東西礼拝場の建設を発表。
1978 昭和53 3.26日、東西礼拝場ふしん委員会設置。
1979 昭和54 4.2日、東右第四棟(地上5階、地下2階)教会長任命講習会および資格認定講習会。
1980 昭和55 3.27日、西左第五棟(地上8階、地下1階)敷島大教会詰所。
1981 昭和56 12.1日、西右第五棟(地上8階、地下2階)南海大教会詰所。
西礼拝場。
1983 4.1日、西右第四棟(地上8階、地下2階)憩いの家。
1984 昭和59 東礼拝場竣工。四方正面が実現。設計施工は竹中工務店。
10.24日、雛形かんろだい据え替え。
1985 昭和60 8.31日、南右第三棟(地上7階、地下2階)高安大教会詰所。
1988 昭和63 天理・三島神社、遷座。
1992 昭和67 5.25日、真南棟(地上6階)。学校本部、一れつ会、少年会本部、学生担当委員会、学生会。
1993 昭和68 10.25日、(地上8階、地下1階)天理教校学園高等学校。
 平成普請
2000 平成12 6.26日、雛形かんろだい転倒。7.24日、雛形かんろだい据え替え。
11.30日、南右第一棟(地上5階、地下2階)天理参考館。
2005 平成17 10.25日、南右第二棟(地上5階、地下2階)天理教基礎講座、研修室、展示コーナー、映像ホール、陽気ホール、南右第二棟企画課。
2015 平成27 10.24日、雛形かんろだい据え替え。
2017 平成29 7.26日、雛形かんろだい転倒。8.24日、雛形かんろだい据え替え。






(私論.私見)