| 第90部 | 1918 | 大正7 | 「ナライト事件」 |

更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.13日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「ナライト事件」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
| 1918(大正7)年 |
| 【北大教会初代会長の茨木基敬父子が正式に免職処分される】 | |
| 2.15日(1.16日?)、本部の集団的通牒で茨木基敬・基忠への免職辞令が発令され、北大教会初代会長の茨木基敬が長男の基忠と共に正式に免職された。この日をもって絶縁処分となった。この処分を下したのは、当時の最高実力者であった高安大教会初代会長の松村吉太郎。明治30年に発生した飯田岩次郎免職事件(いわゆる水屋敷事件)が尾を引いていた。天理教機関誌「道の友」大正7年2月号の松村吉太郎の「茨木父子免職の顛末」によれば、茨木基敬の天啓を封じ込める為に本部が休職を命じたのが大正6年。その際、北大教会教会長を継いでいた基敬の息子の基忠と同教会役員一同が自発的に「今後、基敬の天啓を信じない」とする詫び状を本部に提出している。但し、基敬の天啓が続き、基忠らがこれに従った為、「詫び状を無視し、引き続き天啓の降下を一層盛んに宣伝するをもって本部としても取締り上捨ておくべからざる場合に立ち至った」としている。大正6.12.5日、松村とその配下の者が北大教会信徒詰所内の茨木基敬宅へ出向き、暫くの談じあいをしている。その後、松村、梅谷、諸井が出向き、茨木父子と面会、談じあいしたが平行線をたどった。その後、茨木父子の免職処分が決定された。北大教会の後任には山中彦七が就任することになった。
本件につき、次のように解説されている。
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| 天理教本部員・茨木基敬が天啓を取り次ぎ始め、本部は彼を一方的に罷免し放逐した。「茨木基敬が本部を去った翌日、ナライトの病気が革っている」との説があるが、どういう意味だろうか不明である。この後のナライトはいわば「押し込め」一直線の道に向かうのを見るばかりとなる。 |
| 【北大教会の土地建物その他全部の引継登記】 | |
3.22日、北大教会の土地建物其他全部の引継登記を茨木家から本部に完了。茨木基敬父子を本部から放逐後、後任を誰にするか(山中彦七に決まる)、教内でも大きな北大教会の建物をどうするかについて議論があった。「道の八十年」p308
が次のように記している。
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| モリジロウ「私の『茨木基敬』考…その3」(2022年8月26日)を参照する。 北大教会は大正初期に於いて部内も多く規模の大きい大教会であった。その大教会が茨木事件がきっかけで混乱した。茨木父子が天理教教会本部から独立しすれば分派ということになるが、茨木父子は分派を避けようとした。本部は、北大教会内の部内教会に本部の直属教会としての存続案を出し、茨木父子放逐後、大教会は山中彦七に引き継がれ、北大教会の有力教会は大正14年に本部の許しを得て本部直属になっている。(天理教事典教会史編「府内大教会」の項) 北大教会から分離した教会は麹町大教会、豊岡大教会、生野大教会、岡山大教会、府内大教会、青野原分教会、細川分教会、栗太分教会、淀分教会、名張分教会、鐸姫分教会、尾道分教会等々である。分派しなかったのは直前の「朝日神社/井出クニ事件」の例に似ている。「井出クニ」は教祖30年祭の時に教祖殿に現れて、引きずり出されて、播州へ帰ってからも別教団も立てず、我が天啓信仰を貫いている。茨木事件後、茨木基敬は富雄へ移った。今日でも我が天啓信仰を貫いている。 |
| 【ナライト押し込め事件】 |
| 3.23日、ナライトが再び胃腸の病となり、身上お障りで「おさづけ」不能に陥る。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。度々本部員会議が開かれ、平癒のお願いもされが、お運びに出ていただけない状態が続く。この間、さづけの理を待ち望む者が多数となり、その上、別科(修養科の前身)の生徒の卒業を目前にしていた。 ナライトはその後、病気が全快した。御供の紙を折ったり、針仕事や庭木の手入れなどをして静かに暮らし、昭和12年1月12日に出直した(享年75歳)。 |
| 【ナライト押し込め事件考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「ナライト押し込め事件」につき、芹沢光治良著「死の扉の前で」(新潮社、昭和53年)(P75〜76)は次のように記している。
芹沢光治良著「死の扉の前で」(P200〜203)は次のように記している。
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芹沢光治良「死の扉の前で 二代真柱(正善)と上田ナライト」(74頁16行-79頁2行)。
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「天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」。
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4月、後の二代真柱が天理中学校に入学した。
| 【初代真柱夫人たまえがナライトの後継で「おさづけのお運び」】 |
| 7月11日、本部員会議を招集し、初代真柱夫人たまえ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻。管長公未亡人と呼ばれていた)がナライトの後を継いで「おさづけのお運び」をすることが決定された。この時の「おさづけの継承」は、「おさしづ」時代の終焉を象徴し、それまでのように「おさしづ」に基づくものではなく「本部員会議」によった。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなかった。ナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった。これにより、本部におけるナライトの公的な役割は終わった。 中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトと続いてきた天理教の霊統は大正七年の段階で途切れた。これにより天啓制が否定され、本部員会議の決定事項こそ「ぢばの声」となった。ここに中山家制天理教が完成したことになる(「天理教の世俗化が決定した」と受け取る説もある)。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。これらの背景で、茨木基敬お機械様が本部員を罷免され地場を追われ「離れ座敷」に移られた。 |
| 【天理教青年会創立】 |
| 10.25日、既に明治43年に発足した婦人会の十年後、天理教青年会が創立された。初代会長に山沢為造(60歳)が就任した。桝井伊三郎、喜多治郎吉、中山為信氏が青年会理事に任命された。 |
【本部】この頃、毎年春秋大祭とおせち期間中、本部境内に提灯が立てられていた。
| (お道の教勢、動勢) |
| 6.22日、諸井国三郎が出直し(亨年79歳)。1840(天保11)年、7.20日、遠江国山名郡広岡村下貫名(現・静岡県袋井市広岡)生まれ。1882(明治15)、諸井家に寄留していた吉本八十次が、織物教師・井上マンの歯痛をお助けしたのがきっかけで匂いがかかる。1883(明治15)年、子供の病から夫婦で信心の心を定め、この年初参拝。1888(明治20)年、7.14日、本席よりおさづけ。山名分教会(現大教会)初代会長。葬儀で、先妻の娘婿で二代会長の清麿と、後妻の娘婿の戸主の慶五郎が、互いに譲らず喪主が二人並び立つと言う、異例な継母継子騒動が勃発し「教統問題」が起きている。 |
| 6.27日、松田音次郎が出直し(亨年75歳)。弘化1年(1844)2月1日、河内国若江郡刑部村‐(現・大阪府八尾市刑部)生まれ。明治10年(1877)、長患いをご守護頂いた同村・山田長造(稿本天理教教祖伝逸話篇58「今日は河内から」)のみかぐらうたに感銘したのが入信のきっかけとなる。『稿本天理教教祖伝』では明治13年(1880)入信。 |
| 【諭達第9号】 |
| 9.5日、諭達第9号。シベリア出兵にあたり戦時協力につとめる。 |
| (当時の国内社会事情) |
| 第三期国定教科書( 公民道徳・国際協調) 。大学令。ロシア革命でトルコ系ロシア人渡来。 |
| (宗教界の動き) |
| 満州社寺規則制定。 |
| 日本ハリスト正教会独立。東女大( 新教6派)。 |
| 官幣大社男山八幡宮を石清水八幡宮と改称。吉野宮吉野神宮に改称。 |
| この年、大本教で、なおの死去によりすみが二代教主となる。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1919(大正8)年 |
1.25日、【本部】婦人会役員会で天理女学校設立を決議。
1.27日、 【本部】天理中学校新設運動場で天理教青年会発会式。5会場で記念の大講演会。
4.27日、【本部】天理教婦人会第7回総会。 (この年から4月は婦人会(従来は10月27日)、10月は 青年会の総会開催(昭和9年まで)となる。
7.20日、諭達第10号。大戦後の民力を涵養すべく思想善導の講演会を開く。
8.2日、諭達第11号。文部大臣の訓令を受け食料問題の解決につとめる。
10.27日、【本部】天理中学校北側大運動場で天理教青年会第1回総会。参加者約8000人。山辺郡長、 丹波市署長、三島区長らも参列。3会場で記念講演会。
| (お道の教勢、動勢) |
| 5.29日、梅谷四郎兵衛が出直し(亨年73歳)。弘化4年(1847)7月7日、河内国古市郡東坂田村(現・大阪府羽曳野市東阪田)生まれ。浦田家の養子 勝蔵から四郎兵衛に改名。浦田家から離籍、梅谷に戻る。明治14年(1881)、佐官業の弟子の父親から話を聞き初参拝。教祖より赤衣(明治16年)・本席より息のさづけ(明治20年)。船場分教会(現大教会)初代会長。妻たね、三男・梅次郎(2代会長)。(稿本天理教教祖伝逸話篇106「蔭膳」) |
| (当時の国内社会事情) |
| (宗教界の動き) |
| 朝鮮に朝鮮神宮(官幣大社)を創建した。祭神を天照大神と明治天皇にした。官国幣社9、以下60余社が造られた。 |
| 松下松蔵祖神道( 人の道) 開教。 |
| 妹尾義郎新興仏教青年同盟結成。関東学院( 新教)。 |
| ローマ教皇使節館設置。イムマヌエル綜合伝導団設立。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1920(大正9)年 |
1.6日、【本部】一般おせちが座食となる。
1.25日、諭達第12 号。平和条約公布に際し質実剛健に励み健全な思想を養う。
| 【若き本部員増野道興氏が山澤摂行者に代わって天理教校長に任ぜられる】 |
| 1月、若き本部員増野道興氏が山澤摂行者に代わって天理教校長に任ぜられた。その頃の別科生は一期二、三百人にすぎなかったが増野氏の時代になって激増し、おぢばが別科生の波に埋まるという盛況になって行く。増野氏が校長に任ぜられた六年間に、合計三万三百七十八人という別科生が、氏の息吹のもとに育った。また増野氏の別科生に対する講話がまとめられ、『講壇より』とか『教館の日』という本となって道友社から出版され、それが記録破りに売れていった。その影響のもとに、多くの人が四十年祭の奉仕に従事し、布教に挺身(ていしん)した。大正九年には教師の数は約二万七千ぐらいであったのが、大正十五年には倍の五万四千になっている。男の教師のほうがはるかに多く、二万七千の中で女の教師はわずか千三百くらいにすぎなかったが、大正十五年には女の教師が一万一千以上になり、男五人に女一人の割合になっている。 |
2.24日、天理教本部が教学部を新設した。増野道與を校長に任命し、教校の拡充強化に取り組んでいくことになった。
3.18日、 【本部】財団法人天理教教会本部となる。
4.25日、【本部】天理女学校開校式。5.1日、【本部】天理教校予習科始業式。
6月、大西の「甘露台古記」に感銘した天理教琵琶支教会の役員・堤寅吉が磐城小学校の宿直室に大西を訪ね、ほんみち最初の信者となった。
9月、別科27期生として1,306名が入学する(これまで500名以下)。
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この年、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた元やくざの大親分にして、教祖の警護的常詰めしていた)が、伝記を含む「道すがら」を出版している。「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)とある。教団草創期の雰囲気が迫力をもって描かれている。 諸井政一(1876年―1903年)の「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。 教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親 方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるもの々やうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅうが助かるやろ。そやつて、身上もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井1970、p259) 「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。(熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」) |
10.2日、【本部】中山玉千代様、分家し山澤為信と結婚。
この年末、天理教教会数が4066(4925)ケ所。この年、路傍宣伝講演会盛んになる 。
| (お道の教勢、動勢) |
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11.28日、木村八十八(後の深川大教会初代会長)が出直し。 |
| (当時の国内社会事情) |
| 10.1日、第1回国勢調査が実施される(内地の人口は5596万3053人)。 |
| 東京帝大文学部神道・法学部憲法第二講座設置。 |
| (宗教界の動き) |
| 明治神宮創建 明治帝 ( 勅祭社 )。神社規則・寺院規則・布教規則( 樺太庁)。「カトリック」誌創刊。聖心愛子会秋田。所得税法社寺等民法34条法人免税。賀川豊彦『死線をこえて』。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1921(大正10)年 |
1.26日、【本部】教祖40年祭の日取り発表。教祖40年祭へ向けて 「教勢倍加」打ち出し。1.27日、教会本部が、直轄教会長を集めて、来る大正15年1月に教祖40年祭を執行すると発表した。
| 【第1次大本事件】 |
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ここまで、大本教が教勢を拡大させていた。1919年には亀山城を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。また1920年には大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出し始めていた。有力信者・浅野和三郎を中心とする大日本修斎会の一派が独走し、「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱え、社会体制の変革を主張し始めていた。 出口王仁三郎は責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6人とともに大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6月パインタラにて張作霖による危機もあったが、7月に帰国している。裁判は大審院まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、免訴となる。 |
10.10日、諭達第13号公布。教祖40年祭を提唱し、教祖四十年祭に向けて信徒が奮起することを促す。
10.25日、【本部】『御教祖四十年祭』の冊子を一般教会に配布(教勢倍加をうたう)。
11.14日、本部員解任後もおぢばに留まっていた北大教会初代会長の茨木基敬がおぢばを去り、奈良県生駒郡富雄村(現在の奈良市二名平野)に移転した。茨木基敬は、本部の「離れ屋敷」としていた。
| (お道の教勢、動勢) |
| 3.22日、中川よしが出直し(亨年54歳)。3.25日、葬儀は、松村吉太郎の斎主のもと盛大に行われ、遺骨は染井墓地に葬られた。 |
| (当時の国内社会事情) |
| (宗教界の動き) |
| 鈴木大拙『Eastern Budist』→1931。第一次大戦戦没者靖国神社合祀。大本教出口「立替説」不敬罪で有罪→24控訴審有罪→27大赦。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1922(大正11)年 |
3.28日、【本部】教会長講習会開催 (松村吉太カ「現在20万の教徒を40万に、4500の教会を9000にしよう。決して不可能なことではない」)
4.1日、大阪電気軌道株式会社が「天理駅」開設。(平端ー天理間が開通し、大阪・上本町6丁目ー天理間が直通電車で65分、65銭)
7.8日、【本部】天理高等女学校設立認可(大正12年4月開校)。
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
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1922年、治安警察法第5条(女子の政治集会参加禁止)を削除する。全国水平社結成。 |
| (宗教界の動き) |
| 坂本健一「コーラン」日訳。カトリック名古屋司教区設置。谷口雅春大本教脱退。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1923(大正12)年 |
5月、【本部】天理教館、婦人会・青年会本部竣工。教館の両翼に青年会(東側)、婦人会(西側)両本部ができる。
8.1日、本部教義批判を開始していた大西愛治郎が、甥の小浦芳雄ら4名を天理教本部へ派遣し、教理問答を仕掛ける。これが口伝で教内に広まり始め、大西の下へ来訪者が相次ぎ始めた。この年の12月、名古屋の天理教信者・鈴木代蔵が全財産を整理して入信した。
9.1日、関東大震災が発生する。9.3日、【本部】関東大震災の救済事業に関する諭達第14号公布。関東大震災の救済事業に関して関東大震災の臨時救済本部を設け、義捐金を募集する。
9.14日、【本部】別科の2部授業始まる。(第31期の入学者が4000人を 超えたため。2部授業は第35期まで)
| 【教祖30年祭執行】 |
| 教祖30年祭執行。 |
30年祭の時、井出国子が世界助けを始める。概要「生前のみきの予言にもかかわらず、天理教本部は慾と高慢から、神意をたしかめることなく、存命のみきを井出国子とともに腕力で教祖殿から引きずりだして怪我をさせた」云々と批判し、邪道であると教団に通告した。
12月、非信徒で天理教研究者の田辺要蔵が、天理教同志会を出版元として飯降家に保存されていた「百日指図」を刊行した。2年後に開催される教祖40年祭に向けて、大教会長クラスの幹部信徒用に私的に出版されたものと思われる。
この年末、天理教教会数が5258ケ所。
| (お道の教勢、動勢) |
| 5.1日、松尾はる(ハル)が出直し(亨年89歳)。天保6年(1835)9月15日、(大和国平群郡若井村(現・奈良県生駒郡平群町若井)生まれ。慶応2年(1866)、入信。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』 18「理の歌」 25「七十五日の断食」 26「麻と絹と木綿の話」 27「目出度い日」) |
| 10.17日、深谷源治郎本部員・河原町大教会長が出直し(亨年81歳)。天保14年(1843)2月17日、京都市東山区古川町三条下る進之町)生まれ。明治14年(1881)、富川久吉の手引きで入信。おさづけ(明治20年9月9日)。河原町分教会(現大教会)初代・3代会長。妻・ハナ。 |
| 11.25日、仲野秀信が出直し(亨年72歳)。嘉永5年(1852)、大和国添下郡小泉村(現・奈良県大和郡山市小泉町)生まれ。明治18年(1885)、梶本松治郎に頼まれ眞之亮の柔剣術の指導に当たる。明治19年(1886)、教祖と力比べで神の存在を見せられ心を定め信仰する。天理中学校開校時に柔道・剣術・体操の教師となる。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』174「そっちで力をゆるめたら」) |
| この年、関根豊松が麹町分教会理事、及び大森町支教会の二代会長に就任している。 |
| (当時の国内社会事情) |
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1923年、[各府県に特別高等課設置]される。国民精神作興の詔勅。 |
| (宗教界の動き) |
| この年、国民精神作興に関する詔が出されたが、教化団の活動などを通じて、「国民精神」、「皇国精神」作興運動が展開される。満州事変以後は国体明徴運動となり、国家神道の教説にも一層の増幅がはかられた。各地でも昇格県社が増加し、供進金も飛躍的に拡大された。協賛金方式による神社の巨大工事が相次いで敢行された。八絋一宇」、「祭政一致」などのスローガンが唱えられ、歴史や修身の授業は国家神道の教義に近似して行った。 |
| 本願寺僧有志宗門改革運動。神仏道教会所規則。 |
| 山室軍平日本救世軍。 |
| カトリック広島司教区設置。本聖公会東京・神戸教区設置。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1924(大正13)年 |
2月、【本部】新別席場竣工(6棟、現在の修養科鳴物教室)
1924(大正13).2.2日、天理教本部が、大西愛治郎の教師資格を剥奪した。3月末、大西は岩城小学校教員を退職し、信仰活動に専念することになった。この頃、大西の下へ投ずる天理教信者が続出し始めた。
2月、大本教の出口王仁三郎が、責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6名とともに密かに大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6.21日、パインタラにて銃殺の瀬戸際に立たされるが窮地を脱する。7月、帰国。責付を取り消され、再び大阪刑務所北区支所に収容される。11.1日、保釈許可となり帰綾。12.15日、再び「霊界物語」の口述を始める。
4.26日、【本部】本部の専用電話開通(親里の敷地が広がったため、各 詰所・学校・本部員住宅などを結ぶ)
5.20日、【本部】教祖四十祭の拡張工事にともない、本部前広場地上げの土持ちひのきしん始まる。南屋敷といわれた飯降本家、分家、永尾家(三軒三棟)が移転する。
上田ナライト宅も後の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。
7.27日、【本部】中山こかん様50年祭。
8月末、木下直進堂から「御筆先」が刊行されている。
10.26日、秋季大祭。管長職務摂行者・山沢為蔵が制服着用の教会長ら約3000名を従え、神殿に向う。
10.27日、【本部】真柱中山正善様(19歳)が青年会長に就任する。
11月、【本部】教祖40年祭の日取り決定。混雑を避けるため、大 正15年1月15, 20, 25日の3回に分けて行うことを決める。
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
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1924年、逓信省放送用私設無線電話監督事務処理細則制定される。 |
| (宗教界の動き) |
| 田中逸平メッカ訪問。関西の神道系新宗教の徳光教を受けついで、禅僧出身の御木徳一とその子徳近がひとのみち教団を開教した。信者100万。ひとのみちは,天照大神信仰に立ち、「教育勅語」を教典として、実利的な生活訓を説いたが、不敬罪で弾圧され禁止されることになる。 |
| (当時の対外事情) |
| 1924年4月、アメリカ議会で移民禁止のいわゆる「排日移民法案」が可決され、7.1日より施行される。新規の移民は一切禁止となる。ハワイにおいては、この頃はまた、プランテーションで働く日系人が減り、彼らがホノルルなど都市部に集中してくる時期でもある。 |
| (当時の海外事情) |
| 1925(大正14)年 |
1月、ほんみち派が、磐城村竹之内に600坪の土地を手当し、「天理研究所」を設立、「天理研究会」を発足させた。これに対し、天理教本部は、信徒を足止めし、「天理研究会」と天理教の関係の否定を喧伝した。
2.11日、【本部】天理教学生連盟結成(のちの天理教学生会)。
| 2.17日、天理外国語学校設立許可。四十年祭の前年に当り、天理外国語学校の設置が青年会事業として立案され、認可された。当時としては珍しい男女共学制を採用していた。 |
3.2日、【本部】婦人会により天理教託児所開設。
3.26日、中山正善管長が月次祭に初めて祭主を務める。
4.1日、【本部】天理尋常小学校開設。
4.10日、【本部】教義及史料集成部創設。
4.23日、二代真柱・中山正善が成人に達し、管長就職奉告祭。諭達1号公布。「世界六踏論」を宣べる。
この頃、本部員本部在籍者から神様、祖霊を引き上げる。(「天理教罪悪史」)。
5.17日、六踏園調布農場開設(東本)。
6月、【本部】東講堂竣工。
8月、【本部】天理図書館設立。
11月、奈良県丹波市町(現在の天理市)の天祐社から「非売品」、「門外漢に禁ず」として「泥海古記」が刊行された。同書の序には次のように述べられている。
| 御本席より河原町初代会長深谷大先生が頂き、その高弟たちに分かちた、原本をそのまま印刷したもので金の力で容易くも求めることのできない、実に大切な我が御道の生命とする極めて尊い宝典であります故よく研究して待つ大の家宝として保存せられんことを |
12月、【本部】天理教教庁印刷所竣工。
大正14年時点で、満州、朝鮮に百数ヶ所の教会が設置され、数百名の教師が活躍していた。
この年、中山たまへ真柱夫人の命により、各直属教会から派遣のひのきしん青年の雅楽修得が促された。
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
| 3月、治安維持法(国体および私有財産制度への批判禁止、最高懲役一〇年)成立、公布される。国体を変革せんとする者は有期刑に処せられることになった。昭和3年、死刑になる。活動フィルム検閲規則制定される。 |
| (宗教界の動き) |
| 1925(大正14)年、6.10日、井出クニが渡仏する芹沢光治良夫婦を神戸に見送る。 |
| この年、大本教がパリに進出、中国大陸では紅卍会と共同戦線を張り、機関紙として人類愛善新聞を発行、北京に世界宗教連合会を設立、海外での活動が盛んな一方、国内でも千数百の支部、6千名の布教師を抱えていた。王仁三郎は自らを天皇のような至高の存在になぞらえ、白馬にまたがって教団の土地を巡視してまわり、周囲には近侍として多くの女性を置くなどしていた。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1926(大正15、昭和元)年 |
| 【教祖40年祭執行】 |
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1.15日、20日、25日、教祖40年祭が三日間(15, 20, 25日の3回)に分けて執行された。かぐら面新調。参拝帰参者65万人を超す。 |
| 甲賀は、それまでの教会数が三百五十くらいのところ四十年祭の当日までに六百五十余りまで増大している。 |
2.8日、【本部】年祭終了にあたり諭達第2号公布。教祖四十年祭終了後の巡回講習会開催。
| 【松村吉太郎の警告】 | |||
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松村吉太郎が、「道の八十年」334P−336Pで次のように述べている。「第八回青年会総会でのスピーチ」の一節。
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3.30日、2代真柱が天津教会ご参拝【京城年譜】。
4月、真柱・中山正善が東京帝国大学文学部に入学。直後、朝鮮、中国、満州に巡教に出かけている。真柱としては、初めての海外巡教であった。その後も、頻繁に海外を訪れることになった。
4.10日、2代真柱が関東教会ご宿泊【京城年譜】。
4.11日、2代真柱が沙河口教会はじめ在大連教会ご参拝【京城年譜】。
5.27日、【本部】本席飯降伊蔵20年祭。
この頃、天理研究所が落成し、天理研究所の存在は、天理教内に全国的な規模で知れ渡り、教教が日増しに進展していき、約4千の信徒数を数えるに至った。
7.27日、【本部】教会長第1次講習会。
8.10日、真柱が中国大陸、朝鮮半島方面巡教視察。
8.13日、真柱が京城支教会にお入り込み。
8.31日、【本部】天理教外国語学校校舎落成。
9月、【本部】外語校舎内に天理図書館開設へ。11.10日、天理図書館を開設。
11.11日、【本部】満洲宣教所設立。
11月、本部より「おさしづ」公刊(昭和5.10月完了)。
12.25日、大正天皇崩御(47歳)。裕仁親王践祚し年号が昭和に改元された。諒闇中おつとめの鳴物停止。
| 【廣池千九郎が造反する】 |
| この年、 法学博士(東京帝国大学)として著名であった廣池千九郎(1866〜1938)は、神道史研究の過程で現代神道の一教派である天理教に関心を抱き、1909年、学術調査のため天理教本部を訪れ、翌年に入信。天理教教育顧問・天理中学校校長を務める。初代真柱と親交を深めていたが、真柱没後本部と対立し造反した。 後に、「総合人間学」(財団法人Moralogy、モラロジー)を創立した。以来、倫理道徳の研究と、それに基づく「心の生涯学習」を提唱・推進する文部科学省所管の社会教育関係団体として、一貫して道徳性・人間性を育てる研究活動・生涯学習活動・出版活動を展開した。モラロジーの語源は、道徳を表すモラル(moral)と学を表すロジー(logy)による。人間、社会、自然のあらゆる領域を研究対象とし、人間がよりよく生きるための指針を探求し提示することを目的とした。(「廣池千九郎と諸岡長蔵」)(「廣池千九郎考」) |
| (お道の教勢、動勢) |
| 1月、関根豊松が愛町分教会の前身となる愛町宣教所を設置する。2月、教会を名古屋市中区宮前町に移転する。 |
| (当時の国内社会事情) |
| (宗教界の動き) |
| 天台宗大・豊山大(真言宗) ・宗教大(浄土宗) →大正大 3宗連合。明石順三エホバの証人灯台社創設。赤松智城宗教研究会「宗教研究」創刊。宗教制度調査会官制公布( 宗教界反発)。 |
| 1926(大正15)年、4.17日、井出くにが「みのこころゑのはなし」を発刊する。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1927(昭和2)年 |
4月中旬、2代真柱、京城支教会にお入り込み。
| 【おふでさき公刊】 |
| 4.26日、おふでさき公刊。 |
4.28日、【本部】支教会以上の教会長講習会を天理教館で開催。
9.26日、【本部】各府県に教務支庁を置くこととなる。
10月頃、大西が、「研究資料」の執筆に入る。幹部の中井銀次郎と中川喜六が分担執筆し、年末に一応の完成を見ることになる。
| 【アメリカに初の教会設立】 |
| 11.3日、アメリカ初の教会をサンフランシスコに設立(サンフランシスコ教会)。続いて同年、香川県の本島教会(初代教会長・片山好造)の系統がハワイのホノルルに教会を設立している。ハワイの布教に関しては、「天理教ハワイ伝道史」の中に詳しい。各教会が単独布教者をハワイに送り、教会設置に熱意を示した賜物であった。片山は、1927年から5年間に、福岡出身の上野作次郎ら23名の布教師をアメリカ本土、ハワイへと送り出し、13の教会を設置した。(天理教事典の「本島大教会」の項)。1931年には、ハワイの四つの大きな島(ハワイ島、カワイ島、マウイ島、オアフ島)それぞれに本島系統の教会が設立される。こうして、ハワイ布教の先頭を切ったのは本島系統であるが、周東系統(山口県)、防府系統(同)、天元系統(奈良県)、尾道系統(広島県)などが続いた。このうち、周東系統の太平洋教会(ホノルル)を開いた三国又五郎は、「ハワイ伝道の先駆者」とも呼ばれ、実質的には、最も最初期に布教活動を始めた一人である。各教会の布教競争は次第に激しくなり、1929年から38年までの約10年間に、21の教会がハワイにできている。 |
11.27日、海外伝道に関する諭達第3号公布。教庁内に海外伝道部が設置され、海外伝道規定、伝道庁規定が公布された。
11.27日、【本部】教規改正。一般教会を大教会、中教会(教会を改称)、 分教会、支教会、宣教所と改め、海外教会は単に教会と称する。
| 【本部がお指図全36冊を刊行】 |
| 11.27日、【本部】お指図1・2巻公刊。昭和6年6月26日、全33巻完了。(本部が全36?冊を刊行) |
11.28日、【本部】本部神殿でおたすけの取り次ぎ開始。
12.9日、【本部】専門学校令による天理外国語学校設立認可。
| 昭和2年頃、天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあった。この時期、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかった。好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。 |
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
| 紀元節以下祭日を休日・明治帝誕生日→明治節 11.3。7/24 芥川龍之介自殺。 |
| (宗教界の動き) |
| 1927(昭和2)年、仏教界、宗教法案に反対。宗教法案審議未了。カトリック福岡・鹿児島司教区設置。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
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(私論.私見)