更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大東亜戦争時の戦時協力」を確認しておく。
2007.11.30日 れんだいこ拝 |
1940(昭和15).1.26日、「天理教教典衍義(えんぎ)」刊行。その後、1940(昭和15).3.18−22日まで「教典衍義」の教義講習会が行われた。
2.29日、大本教第二次不敬事件で、京都地裁判決。全員有罪。直ちに控訴する。10.16日、大阪控訴院で第1回公判行われる。
【国会で天理教撲滅の論陣が張られる】 |
3.4日、衆議院決算委員会で天理教の大逆不敬罪事件につき、今井新造委員が発言。3.5日、衆議院決算委員会で天理教の大逆不敬罪事件につき、今井新造委員が天理教の監督責任について発言。3.6日、衆議院決算委員会で天理教の大逆不敬罪事件につき、今井新造委員が発言 第3回会議。3.19日、衆議院決算委員会で天理教の大逆不敬罪事件につき、今井新造委員が発言 第4回会議。翌昭和16.1.31日、衆議院予算委員会第1回。3.30日、衆議院予算委員会第2回、3.22日、衆議院予算委員会第3回。
昭和13年〜16年の間、今井新造・衆議院議員の4カ年にわたる天理教討伐会議論戦集「天理教審判」印刷配布。今井議員は昭和16年までしつこく天理教撲滅の論陣を張った。その要点を揚げると、1)「泥海古記」は国体にそぐわない。2)20万人以上の法律によらざる殆ど無学に等しい無教養な宣教師がいる。3)「甘露台」とか「御筆先」とか「泥海古記」を唯一の教義として流布することに専念している。(以上、昭和14年第74回帝国議会)。4)公認宗教になりたいばかりに忠君愛国とか同胞愛とかを並べて「教典」を作っているが、本当にやっていることは大逆不敬の「泥海古記」を基に教えを説いている。5)「泥海古記」は廃棄したというが、支部まで浸透していない。「明治教典は装飾品に過ぎない。6)天理教管長の責任を追及せよ。7)内務省は「泥海古記」の内容をよく調べて断固たる処分を。(以上、昭和15年第75回帝国議会)。8)多年大逆不敬、国体破壊の思想を宣伝した責任を追及せよ。9)「ひのきしん」は、私有財産没収、共産主義の実行である。(昭和16年5月1日発行の「天理教審判」に記載)(「泥海古記(元初まりの話)をめぐる弾圧の歴史」参照) |
4.1日、宗教団体法実施。集談所を布教所と改称。
4.25日、株式会社天理時報社創設。
9.18日、諭達第9号公布。
10.28日、天理教一宇会設立。教師会、婦人会、青年会、奉公健児団合流(昭和21.4月まで)。諭達第10号公布。
11.10日、紀元2600年式典宮城外苑にて挙行される。これまで肇国奉公隊など頻り。
11.16日、詰所名改称。第1漁り第86寮となる。
革新講習会が第1次〜第3次まで行われる。
ほんみちが、大阪府泉北郡高石町羽衣(高石市羽衣)に土地を入手し、大阪市内と竹ノ内の教団施設の移転を行った。
(当時の国内社会事情) |
1940年、[内閣情報局設立]される。[日本出版協会設立ーー出版用紙割当権]。大政翼賛会。
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(宗教界の動き) |
11月、皇紀(紀元)二千六百年記念式典。全国の神社で奉祝臨時祭が行われた。新たに浦安の舞が創作された。 |
神社局が神祇院に昇格。 |
1940(昭和15).4月、宗教団体法施行。 |
7月、長春(新京)に建国神廟創建。
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救世軍弾圧。皇学館大学設立。 |
大本教不敬罪事件出口仁三郎無期懲役判決→42控訴審有罪→45上告棄却。ひとのみち不敬罪事件御木徳近懲役4年判決。大川周明「回教世界」創刊。 |
1940(昭和15)年、井出クニが、結核性骨髄炎のため、右脚切断の診断を受けた芹沢光治良の弟を治す。 |
1940(昭和15)年、井出クニが、芹沢光治良邸で、外務省顧問・白鳥敏夫に会い、次のように諭したという。1.アメリカと戦争をしてはいけない。アメリカの方が国力が上だから敵にしてはいけない、ということではなくて、明治維新で日本が開国した時、アメリカのとった政策のおかげで、ヨーロッパの植民地にならずにすんだ恩があるから、戦争を仕掛けたら負ける。それが天の理だ。2.天皇に命を投げ出すつもりで、外交官として勇気を出して、アメリカとの戦争を止めてくれ。3.社をお祭りするのも良いが、それ以上に人間が神であることを忘れないように。1944(昭和19)年12.6日、芹沢光治良の兄に、和平の仲介を頼みにソ連に行くことを勧める(これは実現せず)。兄は帰京を1日繰り上げ濃尾地震の難を逃れた。東京への空襲が始まる戦争末期には、1.東京に空襲があることはわかりきったことであるが、信者に不安を与えるので言えない。2.”負けるが勝ち”とも言うように、日本も降参したらいい。 |
【梅鉢の教紋定まる】 |
3.31日、諭達第11号公布。
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丸に梅鉢の現在の教紋は、昭和16.3.31日制定の教規によって定められている。 |
【教会制度を大教会・分教会の2段階に整理統合】 |
4月、「みちのとも」5月号に「天理教教規」全文が掲載されている。続いて同年7・8月号に「天理教教規解説」が掲載されている。この時、宗教団体法により教派と教会は宗教団体と認められるが布教所(宣教所)は宗教団体とは認められなかった為に、海外教会を除いて5段階に分かれていた制度を「革新」の名のもとに大教会・分教会の2段階に整理統合した。当時の「みちのとも」毎号巻末に掲載されている教勢統計によると、それまで全教で232ヵ所しかなかった分教会が一挙に1万1千696ヵ所に増えている。1万ヵ所以上あった支教会・宣教所がすべて無差別に分教会に昇格したことになる。これにより、大教会までの間に、いわゆる中間教会が3つも4つも介在するような分教会もあるようになって今日に至っている。
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10.25−26日、大本第二次不敬事件で、大阪控訴院高野裁判長に「上申書」を提出。無罪の全面的な主張を展開する。12.8日、日本軍が対米・英宣戦布告。真珠湾を奇襲・マレー半島上陸するが、大本事件勃発より6年後の同日であった。
12.8日、朝夕神拝祝詞(のりと)について、公示第8号公布。(八紘一宇を追加)。革新講習会が第4次〜第17次まで行われる。
辞別(ことわ)きて曰(まお)さく八紘(あめのした)を覆いて宇(いえ)と為し給はん天(あま)つ大御業(おおみわざ)は弥(いや)益々(ますます)に伸(の)びひろごり今し大亜細亜(あじあ)の新秩序(あたらしきおさまり)成らんとするに亜米利加(あめりか)、英吉利(いぎりす)の両国(ふたくに)は敵(あだ)し心を有(も)つ国々を語らい国策(みはかりごと)を妨げ大御国を凌(しの)ぎ侮(あなど)る状(さま)の弥募(いやつの)り行くを以って今は忍ぶべきに非ずと大詔(おおみことのり)下し給いて其(し)が国々と御軍(みいくさ)を開き給う事とはなりぬ 故(か)れ大命(おおみこと)の随(まにま)に弥健(いやたけ)びに健び弥進みに進める皇軍人(すめらがいくさびと)は曰さくも更なり国内(くぬち)の人等(たち)老いも若きも心を協(あわ)せ力を尽して大御業を輔翼(たす)け奉り大御心を安め奉らんと忠実(まめ)に勤(いそほ)ぎ仕え奉る状を撫で給い恵み給いて海に陸(くが)に空に射向かう冠等(あだども)を速(すみや)けく攘(はら)い退け給い四方(よも)の海大御心に事向け和(やわ)して大君(おおきみ)の高く尊き大御稜威(おおみいつ)を天下挙(こぞ)りて仰ぎ奉らしめ給へと恐み恐みも曰す |
12.8日、真珠湾攻撃で米英に宣戦布告し、大東亜戦争に突入。諭達第12号公布。
【ひのきしんの国策化】 |
この年、修養科が改制され、朝夕の神殿ひのきしん、午後の授業でひのきしんの時間が設けられた。かく信仰教育の上でひのきしんの重要性が示された。 |
この時期、神恩感謝の勤労奉仕を意味する教団用語「ひのきしん」の意味が拡大され、政府の鼓吹する「聖戦」イデオロギーを支持する戦時体制への動員が正当化された。これを仮に「ひのきしんの国策化」と命名する。これにより、炭坑には毎日1万人を超える信者が入り、体制を底辺で支える役割を果たした。 |
【別科を廃し、修養科新設/「集会」新設】 |
この年、天理教の国会に相当する協議機関として「集会」が発足した。その構成(集会員)は都道府県単位の各教区から選ばれた教会長であり全員男性であった。 |
(お道の教勢、動勢) |
11.21日、高井猶吉が出直し(亨年81歳)。文久1年(1861)1月19日、河内国志紀郡南老原村‐(現・大阪府八尾市老原)生まれ。明治7年(1874)、姉なをの産後の患いから、その婿養子と初参拝、入信。明治20年のおつとめで、かぐら・てをどりをつとめる。教祖より息のさづけ・赤衣のお下げ(明治17年)。泉支教会(現大教会)3代会長。
この年、岡本ツエが、天理神乃口明場所系から造反し日の本神誠講を立ち上げる。
関根豊松会長の愛町宣教所が愛町分教会に昇格する。 |
(当時の国内社会事情) |
1941年、治安維持法改正(結社の解釈を拡大、予防拘禁)される。国防保安法、言論出版集会結社等臨時取締法制定される。第五期国定教科書(
皇国民・超国家主義 )。神国日本・万世一系天皇・八絋一宇聖戦のスローガン。
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日本と米英が開戦。太平洋戦争勃発。 |
(宗教界の動き) |
1941(昭和16)年、政府が、一宗祖一派の建前による仏教諸宗派の合同を促した。これにより、天台宗三派は天台宗に、真言宗八派は真言宗に一括された。 |
大日本仏教会。 |
日本基督教団( 新教34派合同)日本組合基督教会 ( 315教会・信徒4万2 千) ・14教区設置。日本基督教会( 長老派教会) 解散。日本聖公会横浜教区設置。 |
2月、ほんみちの大西教祖の次男正憲が保釈され、愛子・正憲コンビの指導で、羽衣の地で裁判闘争の継続を図った。
1942.7月、大本教第二次不敬事件の第二審大阪控訴院判決で、出口王仁三郎が不敬罪は有罪であったが、治安維持法違反について無罪に。治安維持法は全員無罪。聖師さま外不敬罪で5年有罪の判決。原告、被告ともに大審院へ控訴。不敬罪については大審院まで持ち込まれ、検察側と弁護士側の激しい応酬が繰り広げられた。結果として有罪判決。
8.7日、王仁三郎、二代澄子、出口宇知麿が保釈出所。6年8ヵ月ぶりに亀岡へ帰った。聖師は、「日本はこれから負け始める」と発言。米軍ガダルカナル島上陸(本格反攻作戦行われる)
9.10日、大阪地裁で、ほんみちの大西らに一審判決が下される。大西は無期懲役、幹部の岩田源右衛門は懲役15年、岸岡悟に同13年、小浦芳雄は同10年。直ちに控訴した。大西たちは上告。
この年、前島麗祈が天理教本部から造反し、自然真道を創派させた。
この年、前田トクが天理教本部から造反し、日月教を創派させた。
この年、上野のぶ子がほんみち天理三輪講系から造反し、天理甘露台を創派させた。
(当時の国内社会事情) |
1942年、戦時刑事特別法公布される。
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(宗教界の動き) |
官幣大社香取・鹿島神宮勅祭社。津田左右吉事件出版法違反有罪判決→44控訴時効免訴。ヴァチカンに公使派遣。 |
4月、ほんみち派の二審公判が始まる。
創価教育学会の牧口常三郎初代会長の予審尋問調書が、特別高等警察の厳秘資料である『特高月報』(昭和十八年八月分)に掲載されている。獄にあった牧口会長は、神札などの謗法払いについての予審判事の尋問に次のように答えている。
「取払ひ撤去して焼却破棄等して居るものは、国家が隣組其他夫々の機関或は機会に於て国民全体に奉斎せよと勧めて居ります処の伊勢大廟からだされる天照皇太神(大麻)を始め明治神宮、靖国神社、香取鹿島神宮等其他各地の神宮・神社の神札、守札やそれ等を祭る神棚及び日蓮正宗の御本尊以外のものを祭つた仏壇や屋敷内に祭つてある例へば荒神様とか稲荷様、不動様と謂ふ祠等一切のものを取払ひ、焼却破棄さして居ます。
就中天照皇太神宮の大麻は、最近殆ど何れの家庭でも奉斎して居りますから、一番取払ひの対象になって居ります。取払い撤去の趣旨はそれ等のものを各自が家庭内に奉斎して信仰の対象と為す事は御本尊の信仰を雑乱する事になり、謗法になりますのと一面に於ては天照皇太神宮の大麻等を家庭内に奉斎する事は前に申上げた理由から、却而不敬に当りますから撤去するものであります。勿論之等の神宮神社仏寺等へ祈願の為参拝する事も謗法でありますから、参拝しない様に、謗法の罰は重いから、それを犯さない様に指導して居るのであります」。 |
「法華経の真理から見れば日本国家も濁悪末法の社会なりや」との尋問に答えて、次のように述べている。
「釈尊の入滅後の一千年間を正法時代、其後の一千年間を像法時代と称し、此の正法像法の二千年後は所謂末法の時代で法華経が衰へ捨てられた濁悪雑乱の社会相であります」。 |
「国には内乱・革命・饑饉・疫病等の災禍が起きて滅亡するに至るであろうと仰せられてあります。斯様な事実は過去の歴史に依つても、夫れに近い国難が到来して居ります。現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法国である処から起きて居ると思ひます」。 |
(宗教界の動き) |
創価学会幹部不敬罪・治安維持法違反。亀井勝一郎『大和古寺風物誌』。聖公会ホーリネス事件千年王国論治安維持法違反有罪。浅見仙作キリスト教徒非戦論治安維持法違反。 |
政府から天理教に対し石炭増産出動の要請があり、中山正善第2代真柱(当時管長)は苦慮の末、要請に応じる決断をし、勤労報国傘下に「いざ・ひのきしん隊」を結成した。「天理教事典 第三版」31P(天理大学おやさと研究所編、2018年)は次のように記している。
「『いざ・ひのきしん隊』は男女、老若を問わず一手一つになって、ひのきしん活動に炭鉱へ出動した。三池炭鉱では、ひのきしん隊の女性たちの炭塵に黒ずんだ疲労の中を、誰もが笑顔を忘れず、『ご苦労さん』『すみません』と言葉を交わす様子を見て、炭鉱労務者の家庭婦人たちも『すみまッせん』と亭主の苦労をねぎらう気運が生まれた。そして『すみッせん』という言葉が流行した。亭主たちは『家の家内に“すみまッせん”と言われたら怒れんバイ』と一様に明るくなって一層労働意欲も旺んになったという」。 |
12.28日、大西らに二審判決。原判決が支持された。大西たちは大審院に上告。
(お道の教勢、動勢) |
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この年、諸井慶一郎(もろい・けいいちろう)生まれる。1967(昭和42)年、東京大学文学部卒業。1977(昭和52)年、山名大教会6代会長。1987(昭和62)年、本部員。1992(平成4)年、天理教校校長。2001(平成13)年、天理図書館館長。
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(宗教界の動き) |
宗教教化方策委員会制。神明奉仕の職にある者職務精励敵撃滅祈願命令。 |
1944(昭和19)年、11.23日、井出クニが芹沢光治良らにそれとなく別れを告げに来た際に、中年の男女二人を伴い、三段重ねの重箱を二組持参し、皆の前で、次のようなことを話す。1.天理教とキリスト教を一緒に研究してくれ。目に見えず、手でさわることもできないが神さんはある。2.自分(井出)は、天理教の教祖でも二代目でもない。もし、自分が神さんなら、芹沢を含め皆が神さんだ。3.信者は、病気が治ったり、お金が儲かると、親さん有り難いというものの、天地を動かす神さんがある、といことをわかろうとはしない。神さんは、天地の間にいっぱい充ちて、かすかに動いている力みたいなもの、と言える。4.天界というところがあってね、自分は、何度も見せて貰った。5.神さんの心とは、人間は一つ、互いに相手を神だとして立てあい、許しあい、拝みあう心です。人種・皮膚も色を問わず、皆同じ神さんの子供です。芹沢には、二人だけの場で、良く辛抱した、神さんが誉めている、と話し、芹沢の妻には、子供が四人とも女であって、男の子のいないのを悲しんではいけない、と諭した後、四人の子供のそれぞれの将来について予言するように話す。
東京にもう三泊する予定を急遽切り上げ、臨時列車で帰郷する。 |



(私論.私見)