第87部 1896年 明治29年 教祖10年祭執行、内務省秘密訓令

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖10年祭執行、内務省秘密訓令、本席お指図と応法のせめぎあい」を確認しておく。「別章【明治29年お指図】」。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


1896(明治29)年

【明治29.2.4日、お指図】
 明治29.2.4日、お指図。
 「存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という」。

【「教祖十年祭につき仮家二十間に二十五間の願い」に対するお指図】
 明治29.2.18日、「教祖十年祭につき仮家二十間に二十五間の願い」に対するお指図。
 「さあさぁ尋ねる事情/\、もう程のう日柄のところも追々の事情になりたる。まあ仮家という、一寸の事情仮家/\。仮家一つとすれば、なかなか大層。あちらもこちらもすれば事易くできる、治まる。思い立ったるところ大層大きな事はずいぶん大層でなろまい。まああちらへこちらへという事情にすれば、事易い事情にしてくれ。皆んな真っこと思い過ぎて大層になりてならん。建家でさえ仮家と言うたる。未だほんの仮家の仮家、これからこれという縄張りでもよい/\。よぎせん事情はせにゃならん。大望は受け取り難くい。何するも仮家、未だ未だ仮家、一棟に一つすれば大層であろ。あれからあれと印し打て。縄張りでもよい。又天災雨思う処これは受け取る。大きい事したさかいにどうという事はない。ずいぶんこれまで話し通り、仮家/\縄張りでも仮家。天災思うなら、あちらこちら一つ治めてくれ。どうせこうせ堅く指図ない程に。その心持って掛かりてくれるよう」。

 押して
 「さあさぁ成るよう/\軽く/\、とかく軽くして、そうして皆んな一つの心を治めたい/\。その日/\の心だけではどうもならん。将来の心を治めてくれ。世上一つの理がある。世界いかなる事情、前々より知らしたる。その日が来る。心の理を繋いでくれ。さあと言うたらさあ。順序治めてくれ。何ぼ賢うても人間思案はその場だけより治まらん。とかく一つの心で成程という。あちらの事情こちらの事情はどうもむさくろしてならん」。

 「今の御殿を雛型にして別に大きい御殿新に作る願い」。
 「さあさぁ事情は、もう追々の話も替わりて出るやろ、後々とんと心を治め。あちらもこちらもというは切りがない。これして又これというが真の切りなし。一日の日目出度いなあと、ちゃんと治まりてこそ、端々までも治まる。又々事情集まりて来るやろ。その時又々の指図に及ぶによって、しっかり聞き分けてくれ」。

 「仮に御殿拵える願い」。
 「さあさぁ仮家に準じたもの、ほんのあれかいなあと、めどう印さえあればよい。仮御殿というような事情は、どうも許さん。皆んな重々仲良く治まりたら受け取る。皆な繋ぎ合い/\、心一つの理より受け取るところはないで/\」。

 明治29年2.29日、お指図。
 「さあさぁ二十六日は夜に出て昼に納まる理。その理は一つ」。

【教組10年祭執行】
 1896(明治29).3.9−11日(陰暦正月旧1.25−27日)、教組10年祭が一日だけ執行された。半年前まで日露戦争が続いており、戦勝国とはいえ日本全体がたいへん疲弊をして困っていたときであった。参拝者二十数万。大阪鉄道会社の大阪―奈良便は割引切符を発売。人の多さに車両が追いつかず、歩け歩けでぢばを目指す人達が出るほどとなった。教祖1年祭の時の、警官の干渉圧制を思えば、警官が雑踏の交通整理に出るという様変わりであった。
 2005.10.21日付け近愛秋季大祭神殿講話甲賀大教会役員(近愛分教会世話人)・山田 孜「先輩先生方の後に続かせていただけるように」に次のように証言されている。
 「この十年祭頃がいちばん教勢が伸びたときであります。当時の言葉で言うと、天馬空を翔るが如き勢いで伸びました。当時の講の講金(会費)を納めた信者が三百十四万。明治30年頃の日本の人口は四千万ですから、八%の方が天理教を信仰していたということになります。明治二十年に教祖が身をお隠し下された頃には四、五万人の信者ですから、八年の間に百倍も増えた――それほどの勢いで十年祭がつとめられた」。
 「もう十年祭寸前は皆かまど返し、一切を投げ出して教会へ住み込む。薬も何も受け付けない。神様だけに頼って救かっていく。だから医者からは医薬妨害として訴えられ、僧侶からも妨害がありまして、その後天理教を取り締まらなければならないということになって、いわゆる秘密訓令が出される。それから二十年祭までの十年は暗黒の時代で、黙ってハイハイと這いつくばる、這い上がる道だという言葉が生まれたのであります」。

 3.11日、日清戦役戦没者弔魂祭執行。


【明治29..*.**日、「仮に御殿拵える願」に対してのお指図】

 明治29年、「仮に御殿拵える願」に対してのお指図。(仮家普請を許された)

 「さあさあ仮家に準じたもの。ほんのあれかいなぁと、めどう印さえあれば良い。仮御殿やというような事情は、どうも許さん。皆重々仲良く治まりたら受け取る。皆繋ぎ合い皆繋ぎ合い、心一つの理により、受け取る処はないでないで」。

【明治29.3.21日、お指図】
 3.21日、お指図。
 「十年後一つの理分からんから指図は邪魔になる。(中略) 腐りた指図も起きて来る日があろ」。

【明治29.3.24日、お指図】
 3.24日、お指図。
 「人間と人間とどうこう言うなら指図は要らんものや」。
 「もう指図止めようかと思うて居る。用いん指図なら、したとて何の役にも立とまい。指図は人間心ですると思う心が違う。心が合わんから疑わんならん」。

【明治29.3.31日、お指図】
 3.31日、お指図。
 「話しを楽しませ/\、長い道中連れて通りて、三十年来寒い晩にあたるものもなかった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越して来た」。

【明治29.4.4日、お指図】
 明治29.4.4日、お指図。
 「さんげだけでは受け取れん。それを運んでこそさんげという」。
 「この道は会議から成り立った道か。会議するから遅れる。出て居る者も明日日に早く呼び取ってしまえ。このまま送れば、びっくりするような事でける」。

 指図を棚上げして、いくら人間の知恵を出し合って会議しても、人間思案に過ぎないことを警告している。

【内務省秘密訓令】

 神道本局の傘下教会となった天理は、翌1897(明治30)年時点では公称三百万の信者を有すほどになっていた。この天理教の飛躍的な成長が、明治政府を危惧させることになった。

 4.6日、内務省秘密訓令甲第12号(天理教弾圧指令)が発せられた。これにより、国家神道路線から外れる宗教.思想の弾圧政策が強化され、天理教に対する官憲の迫害干渉が強められた。天理教の日清戦争に対する非協力ぶりが問題となり、言いがかりをつけてでも潰してしまえというものであった。これにより天理教の弾圧強化が指令された。天理教は淫祀邪教であるから、何かと難癖つけて潰してしまえという内務省訓令が警察の元締めである内務省から各警察に発令された。内務省訓令は次の通り。

 「近来天理教の信徒を一堂に集め、男女混交ややもすればすなわち風俗を乱れるの所為に出で、或いは神水神符を付与して愚昧を狂惑し、遂に医薬を廃せしめ、もしくはみだりに寄付を為さしむる等、その弊害漸次蔓延の傾向有り、これを今日に制圧するは最も必要の事に候条、将来は一層警察の視察を厳密にし、時宜に依っては公然会場に臨み、もしくは陰密の手段を以て非行を抉摘し、その刑法警察令に触れるものは直ちに相当の処分をなし、又そのしからざるものは、必要によりては祈祷説教を差し止め、もしくは制限する等臨機適宜の方法を用いて、その取締りを厳重にして、殊に金銭募集の方法については最も注意を周密にし、且つその状況は時々報告すべし。なお、神仏各宗派にして禁厭祈祷、風紀並びに寄付金に関し天理教会に譲らざる弊害あるものも可有り。これまた同様の取締りを為すべし。明治29.4.6日 内務大臣芳川顕正」。

 要するに、一つ、男女混淆による淫祀邪教。二つ、医薬妨害。三つ、寄付強制を根拠とする天理教迫害指令であった。

【明治29.4.21日、内務省訓令に対するお指図】
 明治29.4.21日、内務省訓令に対するお指図を仰ぐ。
 「さぁさぁ(政府から)いかなことも言うて来る/\。皆にこれまで十分伝えたる。どんなことしようと思うて成るやない。今一時尋ぬるところ、どういうこともある/\。(中略)水が浸く、山が崩れる、大雨や/\、幾所がないなれど、跡はすっきりする。今一時、どうなろうと思う。心さえしっかりしていれば、働きをするわい/\。反対する者も可愛い我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも(お指図を)用いねば反対同様のもの。これまでほんの言葉/\で指図してある。これはというようなものは、指図が指図やないと云う」。
 「世界の反対は言うまでやない。道の中の反対、道の中の反対は、肥をするところを流してしまうようなもの。こんなところにこんなことがあったかと鮮やか分かる程に/\。必ず/\悔やむやない。悔やむだけ心をつなげ」。
 「山が崩れる。水が浸く。雨風や。何処へ駆け付く所もないというようなもの。泥水すっきり流してしまう。泥水の間はどんな思案してもどうもならん。心一つの理を繋げ/\。いかんと云えば、はいと言え。ならんと云えば、はいと言え。どんな事も見ておるほどに」。

 4.31日、天籟居士著「神道天理教大意」発行。
【明治29.5.1日、お指図】
 明治29.5.1日、お指図。
 「医者の手余り捨てもの助けるが神の助けと云う」。

【天理教本部の内務省訓令対応会議が紛糾する】
 5.18日、天理教本部は、内務省訓令につき連日大会議を開き、紛糾の末、次のことを決議した。おつとめに関しては、第一、朝夕の勤めでは今日より第一節「あしきをはらうて」を止め、第二節「ちょとはなし」と第三節「あしきをはろう てたすけせきこむ かんろだい」だけにする。第二、かぐらづとめを自主規制して中止する(御面を机上に備えて神楽勤めを行うこと、鳴物も含め男子のみにて行う)。第三、守り札を神鏡に改める(神鏡を目標とする)。第四、天理王命は神道的な天理大神と改称する。第五、三味線胡弓を用いざること、第六、教理の説き方を一定すること。

 本部は、2年前の明治27年8月に始まった日清戦争の際に、政府からの人夫派遣の要請について、本席に伺ったところ「要らざることやなぁ」のお指図となった。このお指図に従って協力しなかったことが、秘密訓令の一因になったとして、以降戦争協力の姿勢を強めることを申し合わせた。これより二十年祭までの十年は暗黒の時代で、「黙ってハイハイと這いつくばる、這い上がる道」だという言葉が生まれた。

【明治29.5.20日、お指図】
 先の決議に対して、明治29.5.20日、お指図。「子供可愛からどのような事情も受け取ってやろう」、「理は一つの許ししよう」とのお許しを頂く。
 「これは一つの節と思うてくれ。これより小そうなると思うたら、いかんで」。

【明治29.5.21日、「神なの変更」伺いに対するお指図】
 明治29.5.21日、「神なの変更」伺いに対するお指図。
 「さあさあ万事変わりた事で、当惑しているやろ。暗い道になりたると思う。暗いところは暗いだけの理に許してやる。これだけ話したら皆な分かるやろ。そうして、一つ話しがある。皆な兄弟集まりた。今が一つの理の台であるほどに/\。真実より、恐い道葉ないほどに。(中略)並んでいる顔、いついつ兄弟治めるなら、明るい道は今にあるほどに/\。皆な一つの心の理を以って、一つのものも分けてやるという心定めるなら、なるほどと云う理はあるほどに/\」。
 「さあさあ叉一つ話しておく。(中略) 大道でけがはしなよと諭したる。細い道はけがはせん。皆な仲良くが神の道。ねたみ合いは、世界にもすうはない/\。思い思いになってきた。今日限り前刻話してある。一つのものは分け合うて/\、叉そちらへも分け合うて、楽しんで通る一つの理。(中略) これは一つの節と思うてくれ。これより小そうなると思うたらいかんで。一つの節/\。ならんところはあちらへ廻り、こちらへ廻り、心さえつなぎ合うたら実に一つの理はあるほどに/\」。

【明治29.6.6日、お指図】
 明治29.6.6日、お指図。
 「さあさあ尋ねる事情は/\願い通り/\心だけ許しておこう」。

【前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表提出】
 9月、秘密訓令の対応を廻って、教会本部理事の前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表を提出した。9月、橋本が辞表提出、12月、前川も同調した。
 橋本清は、これまで渉外役として、特に仏教徒らとの論争に弁士として大いに活躍しており、「天理教の橋本か、橋本の天理教か」と云われる程対外的な場で重きを為していた。その橋本は、内務省訓令により監視さり、しばしば当局に呼び出され、取り調べ、尋問を受けている。時に、叱責、罵倒されることもあったとの由である。

【飯田岩治郎に天啓の兆候表われる】
 陰暦9.21日、午前零時頃、就寝の飯田岩治郎の枕元に赤衣を着た教祖が現われ、次のように告げたと云う。
 「これこれ、さぁさぁ、聞いておくれ。今日ではお前ばかり話しする者はない。21年以前のことを知っているやろ。さぁさぁ貰い受けたるで。本席と定めてあれども、人間心混ぜてくれる。残念残念。(中略)おれの苦労したのも知っているやろう。側の心もまるで世界並、別席と云うてしているけれども、これも世界並。口ではまことの教えをしているけれども心は違う。残念残念でならぬ。書いておくれ。書いておくれ」。
 陰暦11.6日午前2時頃、飯田岩治郎に神がかりが為されている。枕元に威儀猛々しい武者姿の大男が現われ、次のように告げて去った。
 「さぁさぁ使いの者が来た。その方はぼろい奴や。本部へ話をようせんそうな。その方のことなら、そんなことやろ。まあ良いわ。書いておけ書いておけ」。

 岩治郎が筆を執ると教祖の次のような「耳移し」かあった。
 「一列に早くこの剣、祭るなら、いかな守護をすると思えよ。この剣を祭らす為に札廃止。それを知らずに皆な鏡やと。鏡には少しも守護せんほどに。皆な一列に承知していよ。この剣は何と思うて皆なの者、これに親の芯であるぞや。(中略)明日からは米食べ、三歳の童子の心になれ、ことを教える」。

 11.27日、東京麻布笄町138番地に982坪余を神道本局敷地として寄付する。12.2日、神道本局が笄町へ移転する。
 (この頃の道人の教勢、動勢)
 「道の友」(現「みちのとも」)明治30.2月号記載の明治29.12月末の教勢一覧は次の通り)。信徒数313万7113人。この統計には全国各道府県ごとの信者数が明記され、その合計が313万人になっている。この統計をそのまま理解すると、教祖が現身を隠されてから明治29年末までの10年間に何十倍、いやそれ以上の伸展をみたことになる。教師数19061人。この年、秋田県を最後に、沖縄を除く全国府県に天理教会ができた。分教会17ヶ所、支教会185ヶ所、出張所484ヶ所、布教所392ヶ所。
 12.31日、井筒梅治郎が出直し(亨年59歳)。天保9年(1838)4月28日、摂津国西成郡九条村本田(現・大阪市西区本田)生まれ。明治12年(1879)、長女たねの百いぼを種市(前田藤助)のおたすけでご守護頂く。隣家の主・中川文吉の突然の失明を種市の依頼で祈願、ご守護頂く。この年入信。翌年初参拝。神水(こうずい)のさづけ(明治20年6月)。芦津分教会(現大教会)初代会長。たね(3代会長)。たねの養子・松村五三郎(2代会長)。(稿本天理教教祖伝逸話篇「71、あの雨の中を」、「76、牡丹の花盛り」)


 (当時の国内社会事情)
 1896(明治29).4.18日、京都・奈良間に鉄道全通(現JR奈良線)。6.15日、三陸地方に大津波(死者2万7122人)。
 (田中正造履歴)
 1896(明治29)年、56歳の時、渡良瀬川大洪水。鉱毒水が広がり被害民大会が開かれる。被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問する。

  (宗教界の動き)
 「神祇官興復決議」が衆貴両院をはじめて通過したが、不平等条約の条約改正を前にして実現しなかった。
 神社庁版「古事類苑」。アストン日本書紀英訳。古社寺保存規則(勅令)。
 仏シトー会( トラピスト) 北海道。セブンスデー・アドベンチスト教団設立。日本聖公会北海道・大阪・九州教区設置。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)
 1896(明治29)年、この年第1回オリンピック開催。





(私論.私見)