第87部 | 1896年 | 明治29年 | 教祖10年祭執行、内務省秘密訓令 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖10年祭執行、内務省秘密訓令、本席お指図と応法のせめぎあい」を確認しておく。「別章【明治29年お指図】」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
1896(明治29)年 |
【明治29.2.4日、お指図】 | |
明治29.2.4日、お指図。
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【「教祖十年祭につき仮家二十間に二十五間の願い」に対するお指図】 | ||||
明治29.2.18日、「教祖十年祭につき仮家二十間に二十五間の願い」に対するお指図。
押して
「今の御殿を雛型にして別に大きい御殿新に作る願い」。
「仮に御殿拵える願い」。
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明治29年2.29日、お指図。
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【教組10年祭執行】 | ||
1896(明治29).3.9−11日(陰暦正月旧1.25−27日)、教組10年祭が一日だけ執行された。半年前まで日露戦争が続いており、戦勝国とはいえ日本全体がたいへん疲弊をして困っていたときであった。参拝者二十数万。大阪鉄道会社の大阪―奈良便は割引切符を発売。人の多さに車両が追いつかず、歩け歩けでぢばを目指す人達が出るほどとなった。教祖1年祭の時の、警官の干渉圧制を思えば、警官が雑踏の交通整理に出るという様変わりであった。 | ||
2005.10.21日付け近愛秋季大祭神殿講話甲賀大教会役員(近愛分教会世話人)・山田 孜「先輩先生方の後に続かせていただけるように」に次のように証言されている。
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3.11日、日清戦役戦没者弔魂祭執行。
【明治29..*.**日、「仮に御殿拵える願」に対してのお指図】 | |
明治29年、「仮に御殿拵える願」に対してのお指図。(仮家普請を許された)
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【明治29.3.21日、お指図】 | |
3.21日、お指図。
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【明治29.3.24日、お指図】 | ||
3.24日、お指図。
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【明治29.3.31日、お指図】 | |
3.31日、お指図。
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【明治29.4.4日、お指図】 | ||
明治29.4.4日、お指図。
指図を棚上げして、いくら人間の知恵を出し合って会議しても、人間思案に過ぎないことを警告している。 |
【内務省秘密訓令】 | |
神道本局の傘下教会となった天理は、翌1897(明治30)年時点では公称三百万の信者を有すほどになっていた。この天理教の飛躍的な成長が、明治政府を危惧させることになった。
要するに、一つ、男女混淆による淫祀邪教。二つ、医薬妨害。三つ、寄付強制を根拠とする天理教迫害指令であった。 |
【明治29.4.21日、内務省訓令に対するお指図】 | |||
明治29.4.21日、内務省訓令に対するお指図を仰ぐ。
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【明治29.5.1日、お指図】 | |
明治29.5.1日、お指図。
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【天理教本部の内務省訓令対応会議が紛糾する】 |
5.18日、天理教本部は、内務省訓令につき連日大会議を開き、紛糾の末、次のことを決議した。おつとめに関しては、第一、朝夕の勤めでは今日より第一節「あしきをはらうて」を止め、第二節「ちょとはなし」と第三節「あしきをはろう
てたすけせきこむ かんろだい」だけにする。第二、かぐらづとめを自主規制して中止する(御面を机上に備えて神楽勤めを行うこと、鳴物も含め男子のみにて行う)。第三、守り札を神鏡に改める(神鏡を目標とする)。第四、天理王命は神道的な天理大神と改称する。第五、三味線胡弓を用いざること、第六、教理の説き方を一定すること。 本部は、2年前の明治27年8月に始まった日清戦争の際に、政府からの人夫派遣の要請について、本席に伺ったところ「要らざることやなぁ」のお指図となった。このお指図に従って協力しなかったことが、秘密訓令の一因になったとして、以降戦争協力の姿勢を強めることを申し合わせた。これより二十年祭までの十年は暗黒の時代で、「黙ってハイハイと這いつくばる、這い上がる道」だという言葉が生まれた。 |
【明治29.5.20日、お指図】 | |
先の決議に対して、明治29.5.20日、お指図。「子供可愛からどのような事情も受け取ってやろう」、「理は一つの許ししよう」とのお許しを頂く。
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【明治29.5.21日、「神なの変更」伺いに対するお指図】 | ||
明治29.5.21日、「神なの変更」伺いに対するお指図。
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【明治29.6.6日、お指図】 | |
明治29.6.6日、お指図。
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【前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表提出】 |
9月、秘密訓令の対応を廻って、教会本部理事の前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表を提出した。9月、橋本が辞表提出、12月、前川も同調した。 |
橋本清は、これまで渉外役として、特に仏教徒らとの論争に弁士として大いに活躍しており、「天理教の橋本か、橋本の天理教か」と云われる程対外的な場で重きを為していた。その橋本は、内務省訓令により監視さり、しばしば当局に呼び出され、取り調べ、尋問を受けている。時に、叱責、罵倒されることもあったとの由である。 |
【飯田岩治郎に天啓の兆候表われる】 | ||
陰暦9.21日、午前零時頃、就寝の飯田岩治郎の枕元に赤衣を着た教祖が現われ、次のように告げたと云う。
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陰暦11.6日午前2時頃、飯田岩治郎に神がかりが為されている。枕元に威儀猛々しい武者姿の大男が現われ、次のように告げて去った。
岩治郎が筆を執ると教祖の次のような「耳移し」かあった。
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(この頃の道人の教勢、動勢) |
「道の友」(現「みちのとも」)明治30.2月号記載の明治29.12月末の教勢一覧は次の通り)。信徒数313万7113人。この統計には全国各道府県ごとの信者数が明記され、その合計が313万人になっている。この統計をそのまま理解すると、教祖が現身を隠されてから明治29年末までの10年間に何十倍、いやそれ以上の伸展をみたことになる。教師数19061人。この年、秋田県を最後に、沖縄を除く全国府県に天理教会ができた。分教会17ヶ所、支教会185ヶ所、出張所484ヶ所、布教所392ヶ所。 |
12.31日、井筒梅治郎が出直し(亨年59歳)。天保9年(1838)4月28日、摂津国西成郡九条村本田(現・大阪市西区本田)生まれ。明治12年(1879)、長女たねの百いぼを種市(前田藤助)のおたすけでご守護頂く。隣家の主・中川文吉の突然の失明を種市の依頼で祈願、ご守護頂く。この年入信。翌年初参拝。神水(こうずい)のさづけ(明治20年6月)。芦津分教会(現大教会)初代会長。たね(3代会長)。たねの養子・松村五三郎(2代会長)。(稿本天理教教祖伝逸話篇「71、あの雨の中を」、「76、牡丹の花盛り」) |
(当時の国内社会事情) |
1896(明治29).4.18日、京都・奈良間に鉄道全通(現JR奈良線)。6.15日、三陸地方に大津波(死者2万7122人)。 |
(田中正造履歴) |
1896(明治29)年、56歳の時、渡良瀬川大洪水。鉱毒水が広がり被害民大会が開かれる。被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問する。 |
(宗教界の動き) |
「神祇官興復決議」が衆貴両院をはじめて通過したが、不平等条約の条約改正を前にして実現しなかった。 |
神社庁版「古事類苑」。アストン日本書紀英訳。古社寺保存規則(勅令)。 |
仏シトー会( トラピスト) 北海道。セブンスデー・アドベンチスト教団設立。日本聖公会北海道・大阪・九州教区設置。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1896(明治29)年、この年第1回オリンピック開催。 |
(私論.私見)