第86部 | 1890年 | 明治23年 | 本席の「三年千日お指図」時代始まる |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「1890(明治23)年、本席の三年千日お指図時代始まる」を確認しておく。この年のお指図の全解は【別章/明治23年お指図】に記す。「神一條(神一条) 資料2 」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【別席制度】 | |
1890(明治23).1.13日、別席制度が確立し、試験が始まる。 「初席の伺い」に対するお指図は次の通り。
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【2.16日、本田分教会地所買受けお指図】 | |
2.16日、お指図。「本田分教会地所買受けの事、井筒、堀田、中川、寺田、今川、山本、桑原の7名より願い(芦津分教会)」。
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【3月6日(陰暦正月16日)、上田ナライトお指図】 | |
3月6日(陰暦正月16日)午前9時、上田ナライト心いずむにつき暫く本人の言う通りにしておいて宜しきや、又十分話しを聞かしたもので御座りますや伺い。
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【3.6日、教祖の御衣物御守のお指図】 | |||
3.17日(陰暦正月27日)、証拠お守りは、教祖のお召しになられた赤衣を小さく裁って出されていたが、ご在世の頃の赤衣を出し尽くしてしまった。これからどうするかを伺った時のお指図。(「御守はこれまで教祖の御衣物を御守に用い来たりしに、皆出して了いになり、この後は如何に致して宜しきや伺いお指図」)
押して「ご霊前に供えますや、本席へお召し更え下されませと御頼み申しますや、どちらでありますや願い」。即ち、「赤衣を供えるのは、御休息所の教祖のご霊前へ供えればよいのでしょうか。それとも、教祖の代理たる役割をおつとめくださっている本席様にお願いして、着て頂けばよろしいのでしょうか」と具体的に問うと次のようにお指図している。
押して「御霊前へ赤衣物に仕立て、御召し下されませと御願い致しますにや」。
教祖存命の理に基づくお指図を下されている。 |
【6.4日、「三年千日」お指図】 |
6.4日、「三年千日」お指図。 |
【6.4日、「高安分教会の治め方につき出張の願い」お指図】 | |||||||||
明治23年6月17日午前3時半 | |||||||||
一昨15日、お指図に基き一同協議の上伺い。 第一、貧民救助の件。
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【明治23年6.18日、松村吉太郎の伺いに対するお指図】 | |
6.18日、松村吉太郎の伺いに対するお指図。
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【明治23年6.20日、「本席身上速やか成らぬに付き願い」に対するお指図】 | |
6.20日、「本席身上速やか成らぬに付き願い」に対するお指図。
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【明治23年6.20日、「本席身上御障りより清水与之助、梅谷四郎兵衛、桝井伊三郎、平野楢蔵、高井猶吉の五名願い」に対するお指図】 | |
6.20日、「本席身上御障りより清水与之助、梅谷四郎兵衛、桝井伊三郎、平野楢蔵、高井猶吉の五名願い」に対するお指図。
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【明治23年6.21日、お指図】 | ||||
6.21日午後9時15分、お指図。
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【明治23年6.29日、「普請成就し且つ本席御障りに付き願い」に対するお指図】 | |
6.29日、「普請成就し且つ本席御障りに付き願い」に対するお指図。
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【明治23年6.30日、「本席身上願い」に対するお指図】 | |
6.30日、「本席身上願い」に対するお指図。
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【明治23年8.12日、お指図】 | ||
8.12日(陰暦6.27)日午後2時50分、お指図。
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【明治23年8.12日、「本席御身上願い」に対するお指図】 | ||
8.12日(陰暦6.27)日午後8時、「本席御身上願い」に対するお指図。
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【明治23年8.29日、松村吉太郎に対するお指図】 | |
8.29日、松村吉太郎に対するお指図。
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【おさしづ如何を問うお指図】 | ||
9.3日、「おさしづを願うには、今日までは、その事情を本席へ先に申し上げて居りましたが、これからは本席へ事情申し上げずして運びて宜しきや伺い」に対するお指図。
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【明治23年9.7日、刻限お指図】 | |
9.7日午後10時30分、刻限お指図。
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【明治23年9.23日、「松村吉太郎の父の身上伺い」に対するお指図】 | |
9.23日、「町村吉太郎の父の身上伺い」に対するお指図。
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【10.13日、教祖伝編集につきお指図】 | |
10.13日、教祖伝編集につきお指図。
これにより、教祖伝の編集が始まり、明治31.7.3日の「稿本教祖御伝」(カタカナ本)となり、更に明治40年の「教祖御伝」(平仮名本)と成る。 |
【城島分教会設置と神殿普請】 | |
「城島分教会設置と神殿普請」(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)139〜143ページより)。
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【明治23年11.21日、刻限お指図】 | |
11.21日午後8時半、刻限お指図。
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【明治23年11.23日、お指図】 | |
11.23日、お指図。
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【真之亮(24歳)がたまへ(14歳)と結婚】 |
12.7(陰暦10.26)日、真之亮(24歳)が、秀司とまつえの一子にして教祖の内孫のたまへ(14歳)と結婚。1938(昭和13)年、出直し(享年62歳)。 |
【明治23年12.27日、お指図】 | |
12.27日、お指図。
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(道人の教勢、動勢) |
11.13日、木村八十八(後の深川大教会の初代会長)が、東京市深川区(現在の東京都江東区)東元町にて天理教深川支教会を設置する。 24. 4、本席様 深川へお入り込み。27. 3.25 東京市本所区相生町3丁目22番地に移転。31. 3.15 第1次神殿建築落成奉告祭執行。この頃信者数7240名。42. 1.20、深川分教会と改称。部属教会数45ヶ所。43.11.23 第2次神殿建築落成奉告祭執行。大正2. 7.23、婦人会東支部深川委員部発会。9. 1.25、青年会東分会深川支会発会。9.11.28、初代会長出直し(享年80歳)。9.12.23、二代会長に木村市三郎就任49才。12. 9. 1、関東大震災のため 神殿教職舎は倒壊全焼。二代会長は御目標様奉持のため逃げ遅れ、全身火傷にて翌2日出直(享年52歳)。12.11. 5、三代会長に椿卯之助(東大教会理事長)就任 |
11.13日、山本利三郎が出直し(亨年46歳)。嘉永3年(1850)1月13日、河内国志紀郡柏原村(現・大阪府柏原市)生まれ。明治6年(1873)、相撲が原因の三年越しの病を教祖に助けられる。明治20年1月26日のおつとめで「かぐら」「てをどり」をつとめる。柏原分教会(現・中河大教会)初代会長。(稿本天理教教祖伝逸話篇33「国の掛け橋」) |
飯田岩治郎が、本部の方針に従い、それまで主宰していた積善講を解消し、後の平安大教会の前身である平安支教会を設置し、初代教会長に就任している。 |
この年、次の講が教会となった。斯道会第2号(宇治田原、西野清兵衛)、心勇講(敷島、上村吉三郎)、柏原集談所(中河、山本利三郎)、朝日組(堺、平野辰次郎)。その後、、摂津播磨真明組(端田久吉)、播磨以西各国天地組(北、茨木基敬)、大阪天恵組(大江、泉田藤吉)、正明講(南海、山田作治郎)、心実講(城法、前川喜三郎)、誠心講(治道、喜多治郎吉)。東京に牛込、深川。 |
この年、新設分教会の開えん式が相次いで行われた。6.2日、兵神、7.2日、郡山、7.2日、船場、奈良の田原(久保小三郎)、敷島(上村吉三郎)、大坂の中河(板倉槌三郎、山本利三郎)、堺(平野辰三郎)の直属分教会が創設されている。 |
この年、つとめ場所普請の際に、守目堂村の瓦屋へ瓦を注文する役を担った儀兵衛(現天理市小路町の人)が出直し。 |
兼子道仙「真理之裁判」(明治23年)が刊行されている。天理教の幹部に対するインタビューも掲載されており貴重な史料となっている。同書で幹部として最初に出てくるのが天理教会権少講義・茨木基敬である。無我居士こと太田唯吉が茨木から天理教教理を詳しく聞き出し、その内容を書き取っている。天理教教義を荒唐無稽と断罪する体裁をとっているが、説教師としてナンバーワンの茨木の当時の教理が分かる内容になっている。 |
(当時の国内社会事情) |
1890(明治23).6.5日、第一次日本共産党事件[翌1924年3月:解党]。6.9日、社会主義者の高尾平兵衛が射殺さる。7.1日、第一回総選挙。9.1日、関東大震災発生。翌2日、戒厳令施行される。9.4日、亀戸事件で、平澤計七・河合義虎らが軍隊により殺害される。9.16日、甘粕事件で、憲兵大尉甘粕正彦らが大杉栄・伊藤野枝らを殺害。10.30日、教育勅語発布される。11.29日、第一回帝国議会開会。この年、集会及政社法(集会条例1880廃止、女性の政治集会・結社参加を禁止)公布される。 |
(田中正造履歴) |
1890(明治23)年、50歳の時、第1回衆議院議員選挙に当選、以後6回連続当選。この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説。 |
(宗教界の動き) |
1890(明治23)年、11.29日、帝国憲法が施行された。帝国憲法第28条で「信教の自由」が「安寧秩序ヲ妨ゲズ」、「臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於イテ」認められた。 |
教育勅語発布。内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)により、教育勅語重視の訓令を追加した。昭和期には児童・生徒に暗唱を義務づけた。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)