第86部 1890年 明治23年 本席の「三年千日お指図」時代始まる

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「1890(明治23)年、本席の三年千日お指図時代始まる」を確認しておく。この年のお指図の全解は【別章/明治23年お指図】に記す。「神一條(神一条) 資料2 」。 

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【別席制度】  
 1890(明治23).1.13日、別席制度が確立し、試験が始まる。

 「初席の伺い」に対するお指図は次の通り。
 概要「さあさあ尋ねる事情、土壌いうは一時取調べ。取締り中に何か諭しやい、分からん事情は分けてやる。忙(いそが)しい忙(せわ)しいと云うて、これ分からんなりに通り来た。十分の理はささやかである。一寸の理はやれやれたんのうの理運ぶ理もあり、一時これをこうして新人の理が難しい。貰うたとて、じいと納(なお)してある者もある。貰わん先心の理に合うて一つの理がある。これは生涯の楽しみの理もある。世論諭して心の理もある。ただ授けだけ貰うた、これで良いという者も有る。分からん者さづけ、世界十分通るところの理によって、一夜の間にも授ける者もある。三年五年貰いたいと信心の者もある。うっとうしい難しい喪のもる。心の宝を求めて居て、世上の理を通る。これは不憫じゃな。何時渡すやら知れん」。

【2.16日、本田分教会地所買受けお指図】 
 2.16日、お指図。「本田分教会地所買受けの事、井筒、堀田、中川、寺田、今川、山本、桑原の7名より願い(芦津分教会)」。
 「さあさぁ地所尋ねるところ/\、前々伝えたる所、詳しく伝えたる通り。悟りが違ってはどうもならんで。大層は要らん。小さい所から掛かる。小さい所から大きい成るが理。大きい事すれば皆勇むであろう。それでは日々の事情が重なる。よう聞き分け。頭から大きい事情は望まん。小さい所から掛かるなら、生涯の理が治まる。小さき事情によって天然の理という。小さきもの大きく成るが理。よく聞き分け」。

【3月6日(陰暦正月16日)、上田ナライトお指図】 
 3月6日(陰暦正月16日)午前9時、上田ナライト心いずむにつき暫く本人の言う通りにしておいて宜しきや、又十分話しを聞かしたもので御座りますや伺い。
 さあさぁ日々の処いずむ。一つの心というは、心の理でいずむ。どういう理でいずむと思うやろう。これまで話しを聞いて、幾年何年の理も聞いてある。楽しみやろう。前々生涯の理も諭しある。そばそばの心、はたはたの理、神一条の道は心に分かりあって分かりない。内々の事情という。今暫くの処じいとさしておくがよい。もう今の間に勇んで出て来る日がある。この理をよう聞き分けておけ。

【3.6日、教祖の御衣物御守のお指図】

 3.17日(陰暦正月27日)、証拠お守りは、教祖のお召しになられた赤衣を小さく裁って出されていたが、ご在世の頃の赤衣を出し尽くしてしまった。これからどうするかを伺った時のお指図。(「御守はこれまで教祖の御衣物を御守に用い来たりしに、皆出して了いになり、この後は如何に致して宜しきや伺いお指図」)

 概要「さあさあ尋ねるところ、守りいついつ続かさにゃならん。赤衣という、いついつ続かんなれど、そうせいでもいと、何尺何寸買うてそうすればよかろうと思うなれど、赤き着物に仕立てて供え、これをお召し更え下されと願うて、それを以っていついつ変わらん道と云う」。

 押して「ご霊前に供えますや、本席へお召し更え下されませと御頼み申しますや、どちらでありますや願い」。即ち、「赤衣を供えるのは、御休息所の教祖のご霊前へ供えればよいのでしょうか。それとも、教祖の代理たる役割をおつとめくださっている本席様にお願いして、着て頂けばよろしいのでしょうか」と具体的に問うと次のようにお指図している。

 「さあさあこれまで住んで居る。何処へも行ってはせんで。何処へも行ってはせんで。日々の道を見て思案してくれねばならん」。

 押して「御霊前へ赤衣物に仕立て、御召し下されませと御願い致しますにや」。
 「さあさあちぉんと仕立てお召し更えが出来ましたと云うて、夏なれば単衣(ひとえ)、寒くなれば袷(あわせ)、それぞれ旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで。同んなじ事やで、姿がないばかりやで。前々生涯の理も諭しある。そばそばの心、はたはたの理、神一条の道は心に分かりあって分かりない。内々の事情という。(中略)もう今の間に勇んで出て来る日がある。この理をよう聞き分けておけ」。

 教祖存命の理に基づくお指図を下されている。


【6.4日、「三年千日」お指図】
 6.4日、「三年千日」お指図。

【6.4日、「高安分教会の治め方につき出張の願い」お指図】
  明治23年6月17日午前3時半
 一昨15日、お指図に基き一同協議の上伺い。
 第一、貧民救助の件。
 さあさぁ第一条を以て尋ねる事情、さあさぁよき所/\、まあまぁそれぞれに見分けるが第一の理。成らん事せいと言うた処がどうもならん。成らんところから尽して果てた者が何ぼあるか分からん。どうせこうせいとは言わん。これだけ第一という。
 第二、志紀分教会出願中につき、梅谷四郎兵衞、清水与之助両人総代として志紀分教会山本利三郎へ出張の願い、又、高安分教会の治め方につき出張の願い。
 さあさぁ互い/\の事情が第一という。何でもない処からむさくるしい事が出る。心おきのう運んでやれ。なれど十分成らん事情はとんと計り難ない。成らん事に成らん心を運んで居る。親里/\親の理を以て運ばんによって世界が助からん。この理を諭しおく。
 第三、各自それぞれ身上の事情御願いせざるも、これをする事に御許しの願い。
 さあさぁ悟りの開いた者は尋ねでもよい。悟りが分からんから尋ねにゃならん。助け一条の理は渡してある。話し一条は諭しある。何度聞いても分からん者理はどんならん。今一時どうであろうという理は、又一つ深きの理がある。少しの事は尋ねるまでやないで。この事は前々に十分諭し、人間は借りものの事情、心に発散でければ尋ねるまでやない。借り物/\と言うては居れど、借り物の理が分からん。そこでその日/\の事情、どうなりとその日/\に付けておく。すっきりならんとは言わんで。もう何箇年経つと思うか、考えてみよ。いつまでも諭しゃせんで。
 第四、第二の押して願い。
 さあさぁ一人づつでよいで。造作をせいとは言わん。量高い事は要らんで。治まるところは一つや。そんな事思うからどんならん。そんな事するより、一日も早く運んでやるがよい。
 続いて本席身上お助け下さるよう願い。
 さあさぁ又一つ話しやで。繰り返やし/\くどい話しするで。さあさぁくどい話しとんと分からん。何かのところも始め掛ける。古い話しから始め掛けるで。初め/\第一初め。不思議普請をするなれど誰に頼みは掛けん。皆な寄り合うてできたるなら人も勇めば神も勇む。不思議普請をするからは頼みもせん。ようようの事始め掛けた。世界雨が降る、難儀や、えらい年やなあと言う。こいら一つの理を思い、よう聞き分け。怪しい話しやなれど、皆なちゃんと寄せて締めて見よ。これからどんな普請せんならんかも知れん。本普請はいつの事やと思う。不思議の中で小言はこれ嫌い、陽気遊びのようなが神が勇む。余儀なきのところだけ済めばよい。するするでは初めの理が失う。神の書置きも反古(ほご)になる。よう聞き分け。人間心なら人間の理を以てする。心揃うたら手を打つがよい。心に得心が行かねば、三日三夜猶予してあるから、又々尋ね出るがよい。
 同日、再び願い。
 さあさぁ段々の指図を以て一つの思案すれば一つの理も分かる。言いとうても分からん。諭した時だけは良い。日が経てば皆な名々の心の理がどんならん。小さい事のように思うなよ。こんな事という理は大きな理や。一点から皆な始まる。最初は皆な分からん。一点打つ時はどんな理か分からん。一代暮れた十分の破損をせんならん。仕掛けたらこっちが砕ける。一点打った印はどうでも違わん。心幾重の一点もあるなと思わんならん。一点の理は年限の理で分けて来た。十分に尋ねてみて皆さんどうじゃと言う。又事情が分かり話しが分かるなら、又尋ねさえすれば罪論もなく、妬みやいもなきものや。なれど中にうっとしい日ができる。世界中皆な兄弟という。まして一鍋の物喰べながら、あちらでぼしゃ/\、遠くの話しといえども、何やらどうもならん。世界を混ぜ返やすようなもの。一日の日でも心タンノウの理は受け取る。金銭の心は受け取りはない。心だけ金銭、何程の金を持って来て、今日からと言うても受け取るものやない。これだけよう聞き分け。
 同時に重ねて伺い。
 さあさぁ席というは元は大工や。十二下りの止めはどういう事か分からんではあろうまい。何がどれだけのコウノウあるものでもない。心の理で、今一時は大工一条のこと聞き分け。最初は不都合な理や。最初の理余儀なきの理から、心の理が添うからどうもならん。道理に違うか、残念の理を解きせん事は又治まらん。さあ分かったか。分かりなくば分かるところまで尋ね。無理にどうせいとは言わんで。
 又々願い。
 さあさぁ皆な心の間違い、唱え損い心取り替えたら直ぐの理。これから唱え損いないようにせよ。よう聞き分け。皆な幾何人居る。大工一の仕事、一鍋の道理にするがよい。
 又押して願い。
 さあさぁ何遍でも悟りがつかん。これだけの諭しさえ分からねば、間の理は大抵分からん。十分のものなら三つ分かれば、十分の守護さして居るのや。一つの事情運んで済んだら了いのもの。人間の心を混ぜ、どうこう理を立て、余儀なくあっちではぼしゃ/\。一つの理を考えみよ。尽しながら残念な事やなあ、こんな事かい、と言う。この理が日々腹へ入り込む差し込む。どうもならん。日限なら半月余り、二十日前からの事、身の中に理が発して居る。あっちも仮り家、こちらも仮り家、皆な日陰出したようなものや。長らえてのなじみ程結構なものはない。何処で会うてもどうやこうやと言う。古い者を人情から考えてみよ。一点理から仮初にも思われん理が分からん。十のものなら三つや。子供であるから大抵は皆な日々働いて居る。年限の理で分かる。何時身のところに迫りても、踏ん張って居る。通行の理ができんようになるから諭す。難しい事は一つもない。仮り家普請日覆いのようなものや。初めの理はそのまゝ治め。後々のところは談示一日の日によって、又日々家内一鍋という。この理をよう聞き分けねばどんならん。

【明治23年6.18日、松村吉太郎の伺いに対するお指図】
 6.18日、松村吉太郎の伺いに対するお指図。
 「ながらえて年を取り、一時は大層である。経ってしもうてから、どうしようがない。この理が分かれば、何もかもすみやかと分かる。内のところ、こちらの内は、昔からやと思う心が身に障る。昔からやと思う心のけてしもうて、世上見てたんのう一つの理を定め(中略)、これだけ尽くし思うのに、何で身が悩むと思う、日々に思う心が身に障るのや、誠真実定まれば身はすみやかと云う」。

【明治23年6.20日、「本席身上速やか成らぬに付き願い」に対するお指図】
 6.20日、「本席身上速やか成らぬに付き願い」に対するお指図。
 「あちらから思う、こちらから思う。もう心が突う張る。危ないものや。そこいそこい通さにゃならん。なれどよう聞き分けるなら、どうして行かねばならん。一寸暫くの間というはどういう事である。そこで日々のところ身上に切なみ回ってしまう。そんならその者に迫ればよいようなものや。なれど一つの龍頭に皆な掛かる。日々運ぶところ突き延ばせ。世界色々心を燃やす。日々どういうものと言う理が聞き辛い。なれど難しいてならん。今日はどうもならん。明日は難しいてならん。一つの理、一つの道を治めてくれにゃどんならん。しばらくの間は指図十のものなら三つは用いにゃならん。おかしい事と思うやろう。何にもおかしいな事やないで。日々のところ、もうもうどうも聞き難い。日々これだけ理を治めて、何が違うと思うやろう。語るに語られん。言うに言われん。夢でなりとな、現(うつつ)でなりと知らせたい。心に思うまでの理で未だ一時という。たった一人の善き事も一人の理、どんな事も一人の理。この三点龍頭一つに迫る」。

【明治23年6.20日、「本席身上御障りより清水与之助、梅谷四郎兵衛、桝井伊三郎、平野楢蔵、高井猶吉の五名願い」に対するお指図】
 6.20日、「本席身上御障りより清水与之助、梅谷四郎兵衛、桝井伊三郎、平野楢蔵、高井猶吉の五名願い」に対するお指図。
 「さあさぁさぁ悟り違い/\、悟り違いはもう知りつゝ、もうもぅくどう/\段々の指図。面々皆なそれぞれ談示なく、談示して勝手に運ぶなら何にも尋ねるまでやない。人間の義理に尋ねるなら要らん事。指図を外せば尋ねるまでやない。尋ねるなら指図もしよう。指図は神一条の話。(中略) 見たら分かろう。仮家普請/\日覆い同然のものという。これすっきりと分からん。何時取り払いせにゃならんや知れん。年限何箇年経つ。毀(こぼ)たそうと思えば一日の日にも毀(こぼ)たしてみせる。思うて人間心に一寸に運ばにゃなろうまいと思う。指図通り仰せ通りという。もうこれすっきり分からん。一つ分からにゃどうもならん。二つ分からにゃすっきり、三つ分からねば暗闇という」。

【明治23年6.21日、お指図】
 6.21日午後9時15分、お指図。
 「又一つには珍しい所が大和の國に出けたそうな。一寸見てこうかと言うは今までのところ、まあまぁ世界では事情掛かり一時分かるところもあれば分からんところもある。なれど人間の道というは、働くという理は話したる。隅から隅まですっきり洗い切る。どうでも洗い切らにゃならん」。
 「どうでもその道運び来たる。今日の道に人間の心ですることはその場は治まる。人間の心の事情は皆々苦情となる。その場限り、神一条の道は心の理を以てするから、入る来るも出て来るもこれまでのところ並大抵な道じゃなかった。(中略) 成程どう成るも内からするのやない。皆な世界から寄り合うて出け立つ道である。内からせねばどうするかと言うた日もある。なれど一つ越し、二つ越し、皆な越して来た。又一つ内々親族因縁の事情を以て一つ始め掛けたる。始め掛けたと言えばどういう事と思うやろう。神一条の道は皆な兄弟。いずこの理を以て親族、親族は心の結び合い、他人というはほのかな理、神一条の道は神屋敷、鏡屋敷という。何年以前始め掛け。胎内宿るまでに話したるしん。又一つ、筆に記して十分に知らしてあるところもある。この事情というは深き因縁、十分の理に治まりたるところ、又後々事情いんねんは親族なればよう聞き分け」。
 「世界の理を以て居れば、親族と言うては神の道とは言おうまい。(中略) 神一条の道には親族はない。(中略) 世上の理から見たらどれだけの理とも分かろうまい。古い事思えばたんのう、又一つ親族々、三つの立てやい筆に知らし何であろう。いつの事と思うて居たやろう。この事は十分前に経(た)ってしもうた。(中略) なれど一つ口が開けたら皆寄りて来るであろう」。 
 「扇伺いは言葉では言わん。それから遂には高慢の理が出る。そこで皆な止めた事情は古き事情」。

【明治23年6.29日、「普請成就し且つ本席御障りに付き願い」に対するお指図】
 6.29日、「普請成就し且つ本席御障りに付き願い」に対するお指図。
 「もう尽し果たした者もある。にっちも動かれん者がある。可哀そうで/\ならん。尽し果てた者があるから今日の日という。内に物が有っては邪魔になる。皆な人に救けて了え。一粒万倍の理を聞き分け。皆な種より生えて来る。天の理に凭れてするなら、怖き危なきはない。今一時一つ段々あっちも仮家、こっちも仮家、ようよぅあら/\のところでき(しゅったい)成ったところ、もうこれで一つ、これからという不思議、一時普請と言えば一日の普請でも尋ねて、これでよしやと言えば後々一つでも事情が残らんよう」。

【明治23年6.30日、「本席身上願い」に対するお指図】
 6.30日、「本席身上願い」に対するお指図。
 「更(か)わる/\何かのところも色々の指図、どんな指図もしてある。前々指図、これとこれと決算してみれば皆な分かる。皆な写してあるやろう、纏(まと)めてあるやろう。なれど失うて了うようなもの。同じ事で同じ事をして居る」。

【明治23年8.12日、お指図】
 8.12日(陰暦6.27)日午後2時50分、お指図。
 「前々生涯の理も諭しある。そばそばの心、はたはたの理、神一条の道は心に分かりあって分かりない。内々の事情という。(中略) もう今の間に勇んで出て来る日がある。この理をよう聞き分けて置け」。
 「真実/\台これ談示できる。どんなことも話しよう、聞きよう。三才童子一つの理をもち今日の指図、今日のことを知らす。明日の指図といえば明日のことを知らす、三年先の事を知らす、生涯と云へば生涯の理をすっきり指図する人。人間心出そう、出すまい。なれどもほこり聞かし、気兼ねをしたりしては、心たん神入り込むことができん」。

【明治23年8.12日、「本席御身上願い」に対するお指図】
 8.12日(陰暦6.27)日午後8時、「本席御身上願い」に対するお指図。
 「さあさぁ尋ね返やす。又指図せにゃなろうまい、幾重指図せにゃなろうまい。分からんか/\。さあさぁ身の障り/\、歌のように聞くようではしょうもない。どのくらい刻限聞かしてある/\。その場だけ/\理はないと思う。なかなかいつにこうであって、思て居る者もある。歌のように思て居ては、ばったりより仕方がないで。さあさぁ尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。前々一寸指図、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。夜という柔らかい事、指図何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。小人三才、一寸些かな事である。尋ね尚分からん、よう聞き分けにゃ分からん」。
 「さあさぁ身の障り/\、尋ねる話、その場に書き取りその場だけ、生涯のもの。聞く時後の心どうもならん。その場の結構は分かるけれども、後の結構は分からん。身の障り/\、幾日でも、どんなに休んでも、そのまゝ三才子供、放っておく事も放っておけよまい」。

【明治23年8.29日、松村吉太郎に対するお指図】
 8.29日、松村吉太郎に対するお指図。
 「親一つの理、どういう道を通りたなぁ、古き道の重なり、この理を思案すれば身上はすぐと治まる」。

【おさしづ如何を問うお指図】
 9.3日、「おさしづを願うには、今日までは、その事情を本席へ先に申し上げて居りましたが、これからは本席へ事情申し上げずして運びて宜しきや伺い」に対するお指図。
 「今と言う今は応法の道であるから、心に応法と心胆の理を分けねばならん」。
 「席の事情、人間と人間との事情にて、人間の理があろうかと、そう疑いあってはどうもならん。真実がない。ついで/\の事情はすっきり受け取らんで。何遍/\の事情にも諭してある。当座/\はよいなれど、直ぐ忘れて了う。成ると成らんの指図はどうもなろうまい。濁りに濁りて、又濁りて何度も読み返やさんならんやろう。よう聞き分け。もうどんならん、どうでもどんならん、と。(中略)西と諭す、東と悟りてはどうもならん」。

【明治23年9.7日、刻限お指図】
 9.7日午後10時30分、刻限お指図。
 「世上の道と言えば怖き道もある。いつのいつに何年という日を切ってある。その日は通り難いと説いてある。刻限は違わん。刻限の話は多くの中で聞かさんよう。諭せず、見せず聞かさず、よう事情聞き分け。(中略) 見分け聞き分けの理が難しいという。刻限の話は外々へは言うやない。刻限の話は見て言うやない、聞いて言うやない。明日日柄どんな事があるや知れん。どんな事があっても案じなきよう」。

【明治23年9.23日、「松村吉太郎の父の身上伺い」に対するお指図】
 9.23日、「町村吉太郎の父の身上伺い」に対するお指図。
 「さんさい心、一つの理治めて、幾日々と日を切って、実正なるか実正ならんかを、治め掛け」。

【10.13日、教祖伝編集につきお指図】
 10.13日、教祖伝編集につきお指図。
 「さあさあ尋ねるてあろう。尋ねにゃ分かりゃせん。尋ねるから一つ一つの理話そう々。どういう事から話しかける々、紋型無いところから話しかけ、ほのかの事情元々分かり難ない。前生なんと云うは、これは一々古き者何も分からん。今にそう成ろうか、何かの掛かり、前古い々、結構からついて来た。最初我がもの前々思案せにゃならん。人の心をかって日々と云う、この理日々と云う。内々一つ親族余儀なき事情。元々さっぱり分からん中、古くから始め、何年から紋型無きところから、真柱と云う。始め掛けたら、この事情分かるなら、心に浮かばそう。我がもの人を情けない道はきゃ分かりゃせん。今日の日はそこい々、今の道世界の道の理が分からん。煩(うる)さに何でも通さにゃならん。よう聞き分け。神一条の道、世上の道煩そうてならん。どんとどうもならん。道が変わる、事情が変わる。おめも恐れもするのでない。深い理、順々の理を以って尋ね聞き、誠定めかけ。姿ひながた今一時というひながたの道がある。これをよう聞き分け。最初我がもの、その時今の道明らか成った理、今は世界の道通してある。広くの道、世界の道、広くて日々の心配、どんな道があるとも分からん。どうしてこうして話し通り通らにゃならん。おうこ一つ残さにゃならん。心を浮かぶ一つそこい々。叉事情分からにゃ尋ね、尋ねば諭する。皆な揃うて身に治めてくれるよう」。

 これにより、教祖伝の編集が始まり、明治31.7.3日の「稿本教祖御伝」(カタカナ本)となり、更に明治40年の「教祖御伝」(平仮名本)と成る。

【城島分教会設置と神殿普請】
 「城島分教会設置と神殿普請」(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)139〜143ページより)。
 明治二十三年二月七日、□□吉三郎講元は城島分教会役員撰定御届書を作製、二月十一日いよいよ吉三郎他一四四名連署による城島分教会設置請願書を本部へ提出したのである。明治二十三年三月十七日(陰暦一月二十七日)教第十九号をもって城島村外山一五六番地に待望の城島分教会設置御許をいただくことができた。心勇講へ分教会所御許の願い。『さあ/\十分治まり、所変って一つ、これまでどうもならん。その日治まる事が出来ぬ。それぞれ心を揃え、こういう心を定め。許そう/\』とのおさしづによって設立お許しをいただいたのである。多くの「お山の大将」的熱心家がいただけに、心を揃えて事に当りにくいことをご案じなされ、敷島が伸び栄えさせていただくことのできる唯一の道は、『それぞれ心を揃え』一つ心にならせていただくところにあるのだとお示し下さったに違いない。いわば教会設立に当って、敷島の因縁をご教示下さったお言葉といえる。(中略)かくて(同年五月)二十六日、親神様、教祖に御鎮座いただいたのであるが、いうまでもなく借地借家の一時的なまにあわせであった為、数多い講元、信者達の参拝にも手狭さが感じられ、親神様、教祖にも申しわけないという声が高まり、神殿及び事務所等の建築機運が高まっていった。同年十月二十九日、城島分教会地所買入の願、普請の願を出した。

 (中略)このお指図をいただき、吉三郎会長以下役員は早速に買入れと同時に地均らし、石垣工事の着手にかかった。伊八郎は分教会神殿建築主任を命ぜられた。この神殿建築こそ伊八郎の秘められた苦難の物語、試練の道の頂点ともいえる数々の汗と涙の話が伝えられている。(中略)〜このふしん中、伊八郎の精神的苦難をうかがうことのできるエピソードとして次のような話がある。ふしん最中の或る日、伊八郎他二人が松の大木を車に積んで汗まみれになって、やっと教会に引っぱって帰って来たところ、□□会長以下二、三の役員が、「山田、お前そんなにおべっかしてもあかんぞ、会長になろうと思うて上手すんねやろ」と、その労をねぎらうどころか、逆の言葉を投げかけた。そばに居合わせた速水”まつゑ”は、「まことにお気の毒で居たたまれない光景でした」と、その時の場面を想い出しては語ったものである。「おべっかする」とも「上手する」とも言われるほどに建築主任として教会のふしんに懸命に伏せ込みをしていた伊八郎の姿、献身ぶりを想像することができるとはいえ、当人の教会における立場を考えると、この「おべっか」と言われた話だけでも、伏せ込みつづける伊八郎の心境もさぞかし残念な思いもしただろうと推察できるのであるが、伊八郎は「大抵こらえて来たが、もこらえぶくろが切れたと言えば、それであとへ戻る。その日迄のたんのう何もならん」という神の声、お指図が伊八郎の心を支え、心曇らすことなくつとめ切れたのであろう。

【明治23年11.21日、刻限お指図】
 11.21日午後8時半、刻限お指図。
 「さあさぁやれやれやれ、まあまぁまぁ、長い事でまあまぁ長い事や。長い事にはまあまぁいついつとてもいつまでと言うた処がどんならん。出て指図又出て聞かし、又々指図通りの道やなければ通れん。変わらん/\、同んなじ心に同じ諭、いついつまで長いようでもそれ一つの事情、どんな事情とも計り難ない。そこで出て聞かしおかねばならん。何をしたのやと、騒ぎ立てるような事ではどんならん。聞かしたところが分からん。三才児(みつご)に十分のものをやったようなものや。三才児(みつご)は沢山あっても、あゝと言うて楽しむ。後は何もならん。まあおっとり四年五年の日が移る。まあ、貴方々々と世界から言う。何処にどういう印がある。印を以て目途(めど)。一代は一代の理、二代は二代の理、何時どういう事があるとも分からん。どんな事あるともこれは一つの理のように楽しむ。長い短いと言えば長い。人間というものは、その場と言えばその場は治まる。義理やと言うて、指図より外に一つの道もない。どれだけどうと言えどもどんならん。 道が直して了えばろっくと言う。道を直して心の道さえ治めば同じ事。悪い道は通りよい、いっち大きい。これも聞いておけ」。

【明治23年11.23日、お指図】
 11.23日、お指図。
 「さあさあ尋ねる事情/\身上と云う。さあさあどういうものである、いかなることである、尋ねるまでのもの。身のところどれ程自由不足なってあれども案じることはない。世上という、どんなことでも案じる。指図は案じやせん。どれだけ身のところ障りが付くも案じる事は要らん。長いゆとりは要らん。夕景までの理を諭すから内々皆んな聞いて同んなじことである。案じりゃ色を代え品を代え、何ぼでも案じんならん。実々世上内々も同んなじ事情、これから話しかける。旬々急ぐ事情、身上速やかなれば何時なりとしっかり事情を固めてくれ。未だいかんと云うは心に跨(また)がりの理があるから。段々の指図刻限と云う。指図と云う、親の代わり、親の代理という理を聞き分けるなら、見て直ぐと治まる。珍し指図をしておく。夕景までの事情を固め」。

【真之亮(24歳)がたまへ(14歳)と結婚】
 12.7(陰暦10.26)日、真之亮(24歳)が、秀司とまつえの一子にして教祖の内孫のたまへ(14歳)と結婚。1938(昭和13)年、出直し(享年62歳)。

【明治23年12.27日、お指図】
 12.27日、お指図。
 「どんな所で住むといえども皆な与えだけのもの」。

 (道人の教勢、動勢)
 11.13日、木村八十八(後の深川大教会の初代会長)が、東京市深川区(現在の東京都江東区)東元町にて天理教深川支教会を設置する。

 24. 4、本席様 深川へお入り込み。27. 3.25 東京市本所区相生町3丁目22番地に移転。31. 3.15 第1次神殿建築落成奉告祭執行。この頃信者数7240名。42. 1.20、深川分教会と改称。部属教会数45ヶ所。43.11.23 第2次神殿建築落成奉告祭執行。大正2. 7.23、婦人会東支部深川委員部発会。9. 1.25、青年会東分会深川支会発会。9.11.28、初代会長出直し(享年80歳)。9.12.23、二代会長に木村市三郎就任49才。12. 9. 1、関東大震災のため 神殿教職舎は倒壊全焼。二代会長は御目標様奉持のため逃げ遅れ、全身火傷にて翌2日出直(享年52歳)。12.11. 5、三代会長に椿卯之助(東大教会理事長)就任
 11.13日、山本利三郎が出直し(亨年46歳)。嘉永3年(1850)1月13日、河内国志紀郡柏原村(現・大阪府柏原市)生まれ。明治6年(1873)、相撲が原因の三年越しの病を教祖に助けられる。明治20年1月26日のおつとめで「かぐら」「てをどり」をつとめる。柏原分教会(現・中河大教会)初代会長。(稿本天理教教祖伝逸話篇33「国の掛け橋」)
 飯田岩治郎が、本部の方針に従い、それまで主宰していた積善講を解消し、後の平安大教会の前身である平安支教会を設置し、初代教会長に就任している。

 この年、次の講が教会となった。斯道会第2号(宇治田原、西野清兵衛)、心勇講(敷島、上村吉三郎)、柏原集談所(中河、山本利三郎)、朝日組(堺、平野辰次郎)。その後、、摂津播磨真明組(端田久吉)、播磨以西各国天地組(北、茨木基敬)、大阪天恵組(大江、泉田藤吉)、正明講(南海、山田作治郎)、心実講(城法、前川喜三郎)、誠心講(治道、喜多治郎吉)。東京に牛込、深川。

 この年、新設分教会の開えん式が相次いで行われた。6.2日、兵神、7.2日、郡山、7.2日、船場、奈良の田原(久保小三郎)、敷島(上村吉三郎)、大坂の中河(板倉槌三郎、山本利三郎)、堺(平野辰三郎)の直属分教会が創設されている。

 この年、つとめ場所普請の際に、守目堂村の瓦屋へ瓦を注文する役を担った儀兵衛(現天理市小路町の人)が出直し。
 兼子道仙「真理之裁判」(明治23年)が刊行されている。天理教の幹部に対するインタビューも掲載されており貴重な史料となっている。同書で幹部として最初に出てくるのが天理教会権少講義・茨木基敬である。無我居士こと太田唯吉が茨木から天理教教理を詳しく聞き出し、その内容を書き取っている。天理教教義を荒唐無稽と断罪する体裁をとっているが、説教師としてナンバーワンの茨木の当時の教理が分かる内容になっている。


 (当時の国内社会事情)
 1890(明治23).6.5日、第一次日本共産党事件[翌1924年3月:解党]。6.9日、社会主義者の高尾平兵衛が射殺さる。7.1日、第一回総選挙。9.1日、関東大震災発生。翌2日、戒厳令施行される。9.4日、亀戸事件で、平澤計七・河合義虎らが軍隊により殺害される。9.16日、甘粕事件で、憲兵大尉甘粕正彦らが大杉栄・伊藤野枝らを殺害。10.30日、教育勅語発布される。11.29日、第一回帝国議会開会。この年、集会及政社法(集会条例1880廃止、女性の政治集会・結社参加を禁止)公布される。
 (田中正造履歴)
 1890(明治23)年、50歳の時、第1回衆議院議員選挙に当選、以後6回連続当選。この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説。

 (宗教界の動き)
 1890(明治23)年、11.29日、帝国憲法が施行された。帝国憲法第28条で「信教の自由」が「安寧秩序ヲ妨ゲズ」、「臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於イテ」認められた。
 育勅語発布。内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)により、教育勅語重視の訓令を追加した。昭和期には児童・生徒に暗唱を義務づけた。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)





(私論.私見)