第84部 1889年 明治22年 本席のお指図が本格的に始まる

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「本席のお指図が本格的に始まる」を確認しておく。「伊蔵、本席に定まる」前後事情は、植田英蔵氏の「飯降伊蔵伝」(善本社、1996.11.26日初版)の106Pから114Pが詳しい。これを参照する。「別章【明治22年お指図】」。(神一條 資料 1 (旧掲示板)

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【本席、家移り】
 本席は、明治16年頃から22年までは中南(かんろ台の南方)に住居せられていたが、22年から南の方に小家を新築して之に住まわれ、お道の発展と共に御用場をかんろだいの東南に新築して、明治27年の正月からここに移られた。(その後、伊蔵がお屋敷へ伏せ込む時に与えられた教祖のお言葉を踏まえて明治33年に南の方に1軒家を新築して三軒三棟の理をお示しになられた云々)

【松村吉太郎が「ぢばで常詰め、河内で教会かの伺い」に対するお指図】
 1.29日、松村吉太郎が、ぢばで常詰めとしてご奉公すれば良いのか、河内で教会を設けるのかの伺い」に対するお指図。

 一代は一代の理、二代は二代の理、代々続く生涯末代の理である。さあさあ国所に一つの理を治め、地場にて尽くす二つの理を一つの心に治め、これを心の理に合わせて通れば、身上すみやかであろう。


【郡山分教会が奈良県の認可を受ける】
 2.5日、郡山分教会が奈良県の認可を受け、部属教会の地方庁認可第一号となった。

【松村吉太郎が「ぢばで常詰め、河内で教会かの再度の伺い」に対するお指図】
 2.10日、「松村吉太郎が、ぢばで常詰めとしてご奉公すれば良いのか河内で教会を設けるのかの再度伺い」に対するお指図。

 さあさあ前々に深き々の理を知らしてあるところ、神の指図も変わらん。諭しも違わんで/\。違わんから、一時一つの理はあるなれど、聞き捨てはどうもならん。聞き捨てでは何にもならん。


【河内一統高安分教会所設置の伺いに対するお指図】
 2.16日(陰暦正月17日)、平野楢蔵、山本利三郎、高井猶吉、三名河内一統高安分教会所設置のため、集会につき出張の儀伺いに対するお指図。

 さあさぁ何か取り扱い処、所々段々談示、どんな談示/\、所で談示の理を受け取るのやで。どんな事でも穏やかと/\始めた。一寸から大層な事は要らん。一寸からや。それで理も治まろう。一つ治めば又一つ穏やかと治めい。

 高安大教会史(147頁)は次のように記している。
 その頃、既に河内には誠神(せいしん)、栄続(えいぞく)、真恵(しんけい)、敬真(けいしん)、真誠(しんせい)、天心(てんしん)、天徳(てんとく)、神徳(しんとく)等の講が設けられていたが、2.16日、これら河内の講社を統一して高安分教会を設置することとなり、高安の松村家へ河内一円の講元を招集した。その集会には平野楢造、山本利三郎、高井猶吉(なおきち)氏等が、この事は松村氏からは咄(はな)しにくいから地場から出張して咄すという事で、出張せられた。その時、神様に伺われると、『所で談示の理を受け取るのやで。どんなことでも、穏やかと穏やかと、初めた。一寸から。たいそな事は要らん』とのお指図であった。そこで、右三氏は河内へ出張して、教会所設置につき河内和泉(いずみ)及び摂津の一部に散在して居る松村家と幾分因縁のある講社を集めて、教会組織をする事に決定し、同日連署の上、分教会設置の件を出願することとなったのである。

 この叙述に照応するように、明治22年2.16日付の紙谷保治郎以下87名連署による河内国高安郡教興寺村、松村吉太郎からの初代真柱宛ての教会設置願書が高安大教会史に記載されている。
 中河大教会史(8頁)は次のように記している。
 このお指図を頂いて、平野、山本、高井の三氏が集会に出席せられて、河内で教会設置の話が纏まって来たようである。そこで、その翌月、即ち3.3日に各講社の人達が集まり、分教会を設置したいが、何処へ設置したものだろうか、教興寺村に置こうか、恩智村に設置しようか、又老原村に置こうかといろいろ相談が出た。とにかく神様の御許しを頂こうとお指図を仰いだのである。

【「兵神分教会建築及神祀るに付き願い」に対するお指図】
 3.1日、お指図。「兵神分教会建築及神祀るに付き願い」お指図。

 さあさぁ尋ねるところ普請一条、方角どちらとも言わん。向もどちらとも言わん。大き小さいこれ言わん。大層重うからならん。皆心を寄せた理を受け取る。理が分かる。念を入れ、念を入れることは要らん。寄り来る心これでこそ皆ほんになあ。これだけを聞かしておく。


【「河内の講社グループ(松村、平野、山本、高井)らが分教会設置願い」お指図】
 3.3日(陰暦2.2日)、河内の講社グループ(松村、平野、山本、高井)らが分教会設置願いを本部に願い出る。高安分教会は第6号指令で許しを得、松村吉三郎(23歳)が会長に就任する。

 明治22.3.3日(陰暦2.2日)、河内国講社中より分教会設置願い。
 さぁさぁ尋ねる処/\、さぁさぁ定めて理を立てば一つの理は治まる。一つ立てば二つは直ぐに治まる。皆んな一つよう聞き分けねばならんで。皆聞き分けねばならん。二つ一つの理を聞き分けたら皆んな治まる。さあさあ一つの心聞き分けるなら皆な治まる。銘々に一つ一つの心あっては治まらん。皆な一つに。

 押して、分教会所を教興寺か、又は恩智か、又は老原に致すべきや願い。
 さぁさぁどちらどうとも、これ論ずる理でない。なれど元紋型なき処から成り立ち来る処、いんねんの事情である。さあさぁ元々一つ一つの事情を聞き分けて運ぶなら、皆んな治まり来る。これだけ諭しておく。

【明治22.4.18日、「今んまにかんろだいを建てにゃならん」お指図】
 4.18日午後10時、刻限御話。次のようにお指図している。石造りのかんろだいは没収されて、その後、教祖ご在世中は小石が積まれていたが、明治21年、飯降伊蔵によって板張り二段のかんろだいが据えられていた。
 さあさぁさぁさぁうんうんうん、さあさぁさぁ話し掛ける/\、どういう事を話し掛ける。これまでの処というものは、皆んな一つ/\寄せて運んだ処、皆な寄り合うて始めた処、又これよりどんと一つの道改める。改めると言えば皆が案じる。皆々変わる/\と言えば皆な案じる。案じる事はないで。道が変わると言えば案じる。さあさあ今になって今の事を言うやない。所々には一つ/\の名を下ろし/\。さあさあいついつまでの事情、往還道を待ち兼ねる。何か一つの治め方、一つの事情、元一つの事情から始め掛ける。初まりという、国々何処の国々、初まり/\前より一つ。さあさぁ遠く/\こんな処から、何処からどういう道が付くとも分からん。世界の中の所から、どんな所より道が付くやら。偉い事や。この道というは、後々の事も言わん。日々の処どんな所へも入り込む。さあさぁ皆な始め来たる処、あちらに一つの社や、こちらに一つの講や。皆々難しい処より始めた。心の理によって一つの名を揚げた。一つこうのう始め掛けたら、よう聞いておけ。何処にどういう道が始まるとも分からん。さあさぁ天理教会やと言うてこちらにも始め出した。応法世界の道、これは一寸の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。 元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろだいと言うて口説き口説き詰めたる。さあさぁこれよりは速やか道から、今んまにかんろだいを建てにゃならん、建てんならんという道が今にあるという。

 「さあ/\皆始め来たる処、あちらに一つの社や、こちらに一つの講や」は、船場、山名を代表とした講元たちの公認運動として出来た講社組織の事を指している。

【明治22.4.22日、お指図】
 4.22日、お指図。

 何が故にならんと思う。さあさあなるも理、ならんも理。先になるも一つの理、さあさあ心得ん々。みんな心の理である。

 一手一つの、すみやかの理があれば、すみやかと治まる。いついつまでの理に治まる。そこ一つ。さあさあしっかりと理を治めにゃなろうまい。

【明治22.6.17日、松村吉太郎の「父の身上」伺いに対するお指図】
 6.17日、松村吉太郎の「父の身上」伺いに対するお指図。

 身の不足聞き分け。一つには聞き分けさせたい、その事情一時ではない。安心、事情道一つと云う、なるにならんという道やあろうまい。


【松村の十三ヶ条の誓文】
 7−8月、松村の祖母タミ、父栄次郎がそれぞれ身上という節を見せられ、二人の病勢がいよいよ募り、危険が迫ってきたこの頃、松村は悲壮な決心で、十三ヶ条の誓文をしたためる。本文を神前に供え、その写し文は常に氏の懐中に収められ、その実行を怠ることがなかったと伝えられている。これを確認しておく。
両親は月日の名代なれば、月日に仕える礼をもって仕えること。
家内はもちろん、他人へも我が力の及ぶ限り、相互助け合いの精神をもってする。
日々の勤めは、米を買って日々生活する貧乏人の如き、どんと落ち切りたる者の心になって、人に迷う事なく、人の上に立つ事なく(中略)兄弟はもちろん、いかなる人もその人の心に応じて交わり、いかなる人も人は神なりと思って、その言に迷う事なく仕える。
朝は早く起き、夜は遅く寝て、たすけ一条のため、慈悲善根の道を修めるに怠る事なく、終日終夜をもってこの道に従事する。
誠の精神をもって日々家事を治め、一時通る道すがらにより難儀不自由はもちろん首に袋をかけるような処まで落ち切る道を通らされても、決して神をうらむ事なく、心に不足を思う事なく、(中略)千金を積み重ねても貧のため誠を変えることなし。
今後は、神一条の道に心を寄せ、決して神の御話を疑う事なく、神の道を貫徹するには刑場についても変える事なく(中略)心は神一条の精神をもって貫徹すること。
神の道において、我が精神にこれなりと定めた上は他よりいかなる事を言っても徹頭徹尾身命を投げうってこれに抗って貫徹すること。
仇は恩をもって報じ、人の悪しきは先ず我が悪しきと思うこと。
禍福は皆我が行ないにより来ると知るべし、故に後悔あるときは、これに代わる善を行なう。
10

艱難より来る安楽でなければ甘んじる事なく、天然のたのしみを楽しみて、自ら求めて楽しむことなし。

11 正直にして人を疑うことなく、人に欺かれても、人を欺く事なし。
12 心は活発で憂鬱になることなく、百事(どんなことも)理(神)を恐れて人を恐れる事なし。
13 我は神一条の道に専念して、全家の和合を謀り、全家愛心をもって第一の基とする。

 この誓文の決死の実行にもかかわらず、祖母、父が出直すことになる。教会設置の方は翌明治二十三年六月十日付で大阪府からの認可がようやく下ることになる。更に、明治四十一年十一月二十七日の一派独立の認可となる。


【明治22.7.26日、「本席身上御障りに付き願い」に対するお指図】
 7.26日午後9時、お指図。「本席身上御障りに付き願い」。
 身の内という。刻限刻限の理分かり難い。夜々と言うてあれども話出けん。刻限刻限とんとどんならん。そこで身のところで知らす。悟り一つ第一、刻限筆に付けておいて聞き分け。何彼(なにか)のところ分かりた通り何彼のところ治め/\。世界ではあんな者一寸に抑えると言うて居る者がある。そこで前々一日の日と知らしてある。何時にどういう事あるやら分からん。その場に運んでから言うては後の間や。そこで先に知らすのやで。

【明治22.7.31日、お指図】
 7.31日、お指図。
 なれど世界の道理上から思案すれば分からんであらうまい。どんな事を定めるも神一条の道をもって定める。どうもならんから世上道理上の道は応法の道として一寸通してあるのやで。神一条の道をどうでも聞きわけにやならん。ながらへての道のところ分かりにくい。よう聞き分けてくれ/\。 どんな事もさあ世界ありながら どんならんよぎなきの道でない/\。よう聞き分けてくれ/\。さあ世界の道はどこでもつけられる。世界の道をもってあちらにもこちらにも本部やにせの本部やと云うている理聞かしたい。どんな事でも聞かしてある一日も早く理を見せたい。
 年が明けたらお陰や/\。国会が開ける。何にも分からず、開けたらというて居る。忙しなる事はその日来にゃ分からん。

【明治22.8.21日、お指図】
 8.21日、お指図。
 ころりと道を立て替えて、世界これだけの道を始め掛け。神一条世界一つの道 只一ツの道を始め掛け 段々因縁、因縁の理を持って始めかける理という十分理を聞き分けてくれねばならん。(中略) 神一条の道はまだまだ治まっていない。神一条の道を通りていると思うたらころりと間違うで。年限ただ不思議や/\思う丈(だ)け何も分かりゃせん。 又一ツ一人の小人定め一ツの理であろう。

【明治22.9.17日、お指図】
 9.17日のお指図。
 皆なよう聞いておけ。もうしばらくのところ、神一条の道にしてしまう 日々取扱い成程これでこそ神屋敷、天の理いついつまでも残るという。そこでもう一寸前々よりも伝え話し刻限の理が分かりがたない。これからは皆な心を継ぎ合い、人間の心で定めた理は道も続かん、何かのこと頼みおく。

【明治22.9.23日、刻限お指図】
 9.23日の刻限お指図。
 元の親の理に、人間生まれるところ、人間生まれ代々続く。そうしてどうじゃ人間生まれるをびや許し。

【飯降家と上田家が縁戚になる】

 明治22年秋、長女のよしゑが園原の上田嘉助の次男(上田ナライトの弟)の楢次郎の元へ嫁ぐ。この時次のようにお指図している。

 行くのでもなければやるのでもないで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行きてもじきに帰るのやで。

 事実、嫁入り後二、三ヶ月すると、おじばが忙しくなり御用に帰って来られた。その後、永尾家(教祖の母の実家)を立てられることになった。

【明治22.10.7日、「本席身上の障りに付き願い」に対するお指図】
 10.7日、お指図。「本席身上の障りに付き願い」。
 いかなる道も通りたやろう。安心なる道の理を聞き分けて通らねばならん。問えば一つの理を諭する。明らかな道を諭する。聞き分ける道が明らかという。指図なくしていかなる道も通れるか、通れんか。分かり掛けたら分かるやろう。指図なくして未だ/\通ることはできん。何処から入れど何処へ出れど、一つの理もない。よって刻限の理を以て一つの理を諭しおく。

【明治22.10.9日、「高井猶吉身の障り伺い」に対する刻限指図】
 10.9日午前1時40分、お指図。「高井猶吉身の障りよりの刻限御話」。 
 人が障りがあればあれはほこりやと言う。どうも情けない。日々の理が辛い。
 皆な楽しみばかりの道と思う。何処にどういう事、早く前々以て刻限伝えたる処、もうこれ何かのふしがなければ何かの事も聞き流し。早く聞き取って何かの処刻限という。刻限の理は違うという事はない。一つの節がなければ聞き分けができん。身上から一つの事情を尋ねる。尋ねるで知らす。刻限は違わんというだけで、その心がなければ何にもならん。まあ一寸には誰それとは言わん。何処にどういう事あるとも知れん。刻限の理というは違うという事はない。刻限の理を何ぼ知らせども、どうもならん。
 日々入る出るという理を聞き分けてくれ。どういう事を始め掛ける。刻限の理何か尋ねる。これまでの理を見て、何かの事見せにゃならん。今のところでは前々の古き諭というは、今は改めて席と言う。席は十分と思う。皆な面々の理にある。席というものは尋ねに行くだけや。尋ねたらそこい/\の理は諭して下さるだけや。席と言えば皆な下のように思うなれども、ひながたと思えばなかなかの理がある。

【明治22.10.17日、「別席が9ヶ月9回の運びとなること伺い」に対するお指図】
 10.17日、別席が9ヶ月9回の運びとなる。この時のお指図。
 さあさあ何かのところ尋ねるであろう。一つ一つ理を尋ねにゃなろうまい。さづけ一条の席よう聞け。段々遠く事情一つの理、近く一つの事情、同じ一つの理を渡す。先ず先ず暫くのところ席を縮め/\、これから縮め。最初水の花が出る。前々があって遠くの事情、一つの理通う通わんは大き。一度席に運んで、遠くのところ、一度運んでじいと置き、叉一度所々の誠治める。所々急いで々ならん。そこで縮める。遠くのところ、一度でじいと。叉に度の席許して、一度の席では分からん。叉一つこれまで三名のところ、朝一度、夜に一度、筆取り二人、取次ぎ一名、名前呼び出し一名、四人許そう。遠くのところ、一度の席はならんで。この事情改めるため、一日に三名とした。遠くのとこは二度運んで、遠くのところ三々九度一つの理を治め。胸の内発散するである。随分ひっそり。

  明治21.9.21日お指図により、別席は三度受けることになる。明治21.12.25日お指図により三度の別席は三ヶ月に三度運ぶことになる。こうして、明治22年頃から別席を運ぶようになるが、本席は一日3名と定めていた。が、その後6名となり、明治22.10.17日お指図により「一日一席9度」となっていくことになった。その後、更に盛んになることによって「一日一席9度」を本部詰め役員が代行するようになり、一日に幾十名もの席が運ばれるようになった。当初は、お授けは本席直々のものであったが、「お書き下げ」が代行されることになった。

【明治22.10.23日、刻限お指図】
 10.23日午後10時、刻限お指図。
 さあさあ始め掛けてるところから、どんなことをするのも神の道から始め掛ける。何かのところも聞き分けてくれ。内々の事情どういうことも仕掛ける。始め掛けたら切りはない。どう言うこと聞き分け。人間心の事情要らん。すっきり人間心要らん。これから先は人間心すっきり要らん。もうこれから神一条という道を立てにやならん 、立てさヽにゃならん、立てさしてみせる。成るも一つの理、成らんも一つの理というは前々に諭してある。指図通りに通るなら働き掛ける。どんな事も指図一つの理を以てするなら、どんなことも神一条の道を通るなら通してみせる。成して見せる。始め掛けたら、年々何かの事、これだけの話を伝えようと思えども、昼はあちらに話、こちらに話でどうもならん。旬々の理を聞いて話掛ける。世界の事情、内々の事情もこれ一つやってみようと思えど、出来そうな理で出来ん。思うように成らんが一つの尋ね一条。尋ねたらどんな事情も世界も内も、一つ自然にできて来るのが一つの理。神一条の道なら尋ね一つから始め掛ける。遅れるから怖わい恐ろしい事情が出る。

【明治22.10.23日、刻限お指図】
 10.25日午後7時、刻限お指図。
 身の障り/\身の障りから尋ね出る。尋ね出るところをちゃんと決まって了う。あゝ楽やなあというようにして了う。さあさぁ俄(にわか)に身の障り、どういう事やと思う。思惑一つを知らしたさ。一寸身の障り聞かさにゃならん。どうする事も要らん。さあさぁ身の障りや/\。さあ早う聞きたいな、見たいなと急ぐ急ぐ。身の障りどうやろうな、話し掛ける。身の障りどんな事も聞かしおく。これまでの刻限の理が取違いがあってどうもならん。聞き損ない何ぼやら分からん。席一つ身の障り、刻限かいな、あちらこちら心掛け、一時一つの諭しという。直き/\一つの話、それぞれ聞きたいという心ある。聞きたいという心があれば、心を散らさず聞こう/\という真実も出るやろう。刻限の理は一つも間違わん。違う事はない。なれども少し違うたかいな、遅れたかいなというは心に取違いあるから、段々取違い事情連れて通りた。身の障り、刻限かいな、身の障りや/\、これ聞こう、どんな話やという。よう心を鎮め。刻限を以て何時どんな事を知らすやらこれ知れん。一日の日はいついつの理に知らせ置く。これからすっきり改め更える。
 人間心はすっきり要らんで。こうすれば勝手がよいという、人間心をすっきり出せん。刻限の話は違わんで。面々思案があって、こうしたらよいと談示して尋ねる。これからは何でも彼(か)でも指図する。指図通りにすれば間違う事はない。あの者があゝ言うよって、この者がこう言うよって、と言うて居ては、すっきり間違う。

【「天理教会本部出張所」を東大教会初代となる上原佐助の東分教会に譲渡】
 10月、教会所がおぢばに移転したあと「天理教会本部出張所」として置いていたのを、後に東大教会初代となる上原佐助の東分教会に譲渡した。

 上原佐助氏は、明治14年、教祖の言葉により大阪から関東布教に出た。やがて「東京真明講社」を設立し、東京八講社の基礎を固めた。折しも、下谷区北稲荷町に天理教会所が認可され、仮開筵式が盛大に執行されるにあたり、上原はこれに全力を注いだ。教会所がおぢばに移転したあと、「天理教会本部出張所」が置かれ、この時、東分教会に譲渡された。

【明治22.11.2日、「本席身上障り願」に対する のお指図】
 11.2(陰暦10.10)日午後9時、「本席身上障り願」に対する のお指図。
 さあさぁさぁ、一寸知らし置くで/\。さあさぁどういう事を知らしおく/\。すっきり道理上を知らし置く。さあさぁ道理上/\、これから道理上、暫く道理上通らんならん。難しい。よう聞き分けおかんならん。これまでというものは細い道を通して来てあるで。細い道を連れて通りた。どうもならんから、世界一つの理によって、一寸世界往還道を付け掛けたで。そこで皆々心許す。往還道通すと、どんと油断してどうもならん。長い間、道理上の道を通れとは言わん。何年/\の切りを切りておこう。さあさぁ一二三/\の切りを切りておこう。一二三の印を打っておく。一二三の印の間、世界の道理上で通る。道理上ばかりで通す。ようこれを聞いておかねばならんで。

 さあさぁ多くの人が出て来る。一時どうもならんと言うて出て来る。諭すところ、暫く世界の道理上の理で通らにゃならん。一二三の印を打ったら、神一条の道、人間の道理上を以て世界という。人間から世界の道理上を通らんならんようにするから、どうでもこうでも、道理上の道を通らんならんように成る。皆な心で拵えてあるのや。さあ今の道、世界の往還道やで。そこで何でも彼でも、どうもならんと言うたら、道理上の道からどんな理が発しるやら分からん。油断しては踏み被ぶるで/\。そこで世界の道理上から、道理上の道を拵えるから、道理上を通らんならん。どうでも心で拵えてあるのやと思えば、どうも仕様がない。そこでどうもならんから、一二三と印打つ。段々難しいなる。早く知らそうと思えども、昼はさわ/\して騒がして諭する事が出けん。どうもならん。そこで刻限で知らす。どうでもこうでも言わにゃならん、聞かにゃならん、聞かさにゃならん。三つ理を。そこでちいとこれだけの事を知らしおくという。指図通りすれば間違う事はない。

【明治22.11.6日、刻限お指図】
 11.6日午後9時、刻限お指図。
 さあさぁ一寸話、どういう事を話す。何かの事情が急く。どうもこうもならん事情が急く。先々より余儀なき事情/\、これ刻限事情の話、刻限以て話たる事は一寸も違わんで。刻限の理というは、違うという事は一つもない。どんな事もこんな事も一つの理に止まる。刻限の事情、成程の事情、心に掛けて居れば、一つも粗相はない。話したところ、違いさいせねば一寸も粗相はない。事情によってこれなら/\と言うて運ぶ事情は受け取る事が出けん。諭した理を聞き分けるなら、何処でどうあろうが神が連れて通る。聞くところもあれば、又失うところがありてどうもならん。

【三年千日のお指図始まる】
 明治24年の教祖5年祭を前に、本席の「三年千日のお指図」が始まった。

 11.7日午後10時40分、刻限お指図。(「三年千日・おさしづ全文」)
 概要/さあさぁ一寸話仕掛けるで/\。まあ、あちらもこちらも取り混ぜ/\て、一つの理を諭そう。もうもぅ急がしい/\。日々が急がしい/\。何でも彼でも、一つ見れば一つの理がある。聞けば一つの理がある。二つの理の道理の理を、治めてくれねばならん。

 難しいことは云わん。難しいことせいとも、紋型なきことをせいとも云わん。皆な一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというようなことではどうもならん。あちらへ廻り、日々のところ、三十日と云えば、五十日向こうの守護して居ることを知らん。これ分からんようなことではどうもならん。

 長いことを通れと云えば、出けんが一つの理。世界道というは、どんな道あるやら分からん。世界の道は千筋、神の道は一条。世界の道は千筋、神の道には先の分からんようなことをせいとは云わん。ひながたの道が通れんようなことではどうもならん。どんな者もこんな者も、案ぜる道が見え掛けてはどうもなろまい。一日二日経ったらと云うたら、どんなことやと思て居たやろ。ちゃんとしてやる道は見るも同じこと。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながた直せばどうもなろうまい。僅か千日の道を通れと云うのや。三年の間や。ひながた通れば、ひながた同様の理にはこぶ。

 これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。十年あとの道は、どんなことを説いても、いか程説いても、そんなことはない、何を云うやらと云うて居たのや。国々の者やない。そこからそこの者でも分からなんだ。なれど十年経ち、二十年経ち、口に云われん、筆に書き尽せん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと云えばいこまい。二十年も十年も通れと云うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと云うのや。千日の道が難しいのや。ひながたの道より道がないで。何ほど急いだとていかせんで。ひながたの道より道ないで。


 ひながたの道がどんな日もある。ひながたの道にはいろ/\ある。誠の道も蒔いた事がある。なれども、何年経てばこうという理が、外れてはあろうまい。世界には何を言うやら大工がと。日本一の大工や。何言うて居るやらと皆笑うて居た。十のものなら八つという。後二分の処放って了うは八分という。難しい。後二分というたら僅かや。まあ何年居てくれたら、内も結構や。なれどもどうも半端である。十年の間、八年の間の苦労は容易やない。なれども、まあ後二年は何でもない。八方明けたら明らかや。もう僅か、まあ三日の辛抱さえ仕遂げたら、誰に遠慮は無い。皆貴方々々と言う。ひながたの道が出してある。ひながたそばにある。めん/\もたった三日の辛抱すればひながたの道が。以前々々は、我が/\のようにして通りて来たのや。三日の日は越せんという理はあるまい。どんな者でも、ひながた通りの道を通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ。まあたった三日や。三日は分かろうまい。今と言うたら、今の事のように思う。ひながたの道を通れば、僅か年限の間に、何と分からなんだなあ。前々は我が俺がと言うて居たなれども、どうもあんな者とも知らなんだと、世界から言うのは、まあたった三日の間や。三日の辛抱さえしたら、どんな道があるやら分からん。あちらも狭ばい、こちらも狭ばい。あちらも広め、こちらも広めに運ぶ。三日の辛抱したら、今の三つが、三日経てば何ぼに成るやら分かりゃせんで。一日々々の日が近寄る、何処から見ても出るも、ほんに見るも、ほんになあと言う日は、まあ三年の間や。三年経てば、偉い事に成るのやで。三年の道は直きや。そこで、難しい事せいとは言わん。古い型のひながた、見えてある事分からん。一年後というものは、大方成るかと思えばどんと行き、これではならんという処から、一寸道を開き掛けた。まあ/\世界から見れば往還。細道は通りよい、往還通り難くい。何を言うと思う。往還通り難くいという理聞き分けたら、三日の間や。なれども、これまで細い道を通り来た故、大き道に成るのやで。三年やそこらの事は、三日の日の事思えば直きや。三年辛抱すれば、落ちようと思うても落ちられん。たったそれだけの事が分からん。そこで皆んな一つ/\の理を寄せてくれるよう。僅か三年の間の事を、長う取るからどんな理も出る。たった三日の間や。三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせん。たった三日の間や。

 次のように拝されている。
 このおさしづは、3年後に迎える教祖五年祭を目標に、教祖のひながたの道を真にひながたとして三年千日を精一杯に通るように教えられたものであり、年祭活動の元となっているものと思うのであります。

【明治22.12.27日、お指図】
 12.27日、お指図。
 教会と云う名稱という、一つ理と云うは長い道中、通るに通れんから一時路銀を渡 した様なもの。普請にたとへ足場と云う、道普請にたとへて日ぐらし同然と云うたる。 

 (道人の、教勢、動勢)
 3.3日、松村榮治郎が出直し(亨年48歳)。天保13年(1842)10月8日、河内国高安郡教興寺村(現・大阪府八尾市教興寺)生まれ。明治4年(1871)1月、妻さくの「たちやまい」という患いを教祖に助けられ入信。妻さく(1846-1928)の妹・小東まつゑは明治2年(1869)、中山秀司に嫁ぐ。長男・吉太郎は高安分教会(現大教会)初代会長。(教祖伝逸話篇102「私が見舞いに」、190「この道は」)。

 この頃には天理教信徒の分布は近畿一帯から東西に拡がりつつあり、この年、次の講が教会となった。大阪真明組(芦津、井筒梅治郎)、大阪明心組(船場、梅谷四郎兵衛)、神戸兵庫真明講(兵神、清水与之助)、河内国講社(高安、松村吉太郎)、近江国斯道会(河原町、深谷源次郎)、阿波国信心組(撫養、土佐卯之助)、東京真明組(東、上原佐助)。東京市に東(あずま)、日本橋の二教会。

 6月頃、井上佐市と鈴木半次郎親子3人が「おぢば」に初参拝した。その道中、奈良の大文字旅館にて、鈴木半次郎は「たすけー条の道」に進む心定めをした。親子が「おぢば」到着後、引きつけの激しい病気により骨と皮ばかりに痩せ細った一人息子は親神の鮮やかな御守護を頂いた。これが嶽東大教会(がくとう だいきょうかい)の元一日となる。
 11.18日、天理教会本部東京出張所廃止により東京真実講が東分教会に合併される。

 
 (当時の国内社会事情)
 1889(明治22)年2.11日、大日本帝国憲法が発布される。皇室典範制定、衆議院議員選挙法などを公布。文相・森有礼刺され、翌日死亡する。5.31日、新聞日本が、ロンドンタイムスの大隈外相の条約改正案の論評を訳載、反対運動のきっかけとなる。7.1日、東海道線全通(新橋ー神戸間、片道約20時間)。12.24日、三条首相・大隈外相の免官発令、第一次山県有朋内閣成立。

  (宗教界の動き)
 大日本帝国憲法発布。近代国家として信教の自由が「法の定める範囲内」の留保付きで条文に記載される。神社崇敬義務の範囲が議論の対象となった。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)
 1888(明治22).7.14日、パリで国際労働者大会開催。22カ国の社会主義者組織の代表が参加、国際社会党(第2インター)成立。この年、パリ万博。エッフェル塔の建設。





(私論.私見)