第84部 | 1889年 | 明治22年 | 本席のお指図が本格的に始まる |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「本席のお指図が本格的に始まる」を確認しておく。「伊蔵、本席に定まる」前後事情は、植田英蔵氏の「飯降伊蔵伝」(善本社、1996.11.26日初版)の106Pから114Pが詳しい。これを参照する。「別章【明治22年お指図】」。(神一條 資料 1 (旧掲示板)) 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【本席、家移り】 |
本席は、明治16年頃から22年までは中南(かんろ台の南方)に住居せられていたが、22年から南の方に小家を新築して之に住まわれ、お道の発展と共に御用場をかんろだいの東南に新築して、明治27年の正月からここに移られた。(その後、伊蔵がお屋敷へ伏せ込む時に与えられた教祖のお言葉を踏まえて明治33年に南の方に1軒家を新築して三軒三棟の理をお示しになられた云々) |
【松村吉太郎が「ぢばで常詰め、河内で教会かの伺い」に対するお指図】 | |
1.29日、松村吉太郎が、ぢばで常詰めとしてご奉公すれば良いのか、河内で教会を設けるのかの伺い」に対するお指図。
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【郡山分教会が奈良県の認可を受ける】 |
2.5日、郡山分教会が奈良県の認可を受け、部属教会の地方庁認可第一号となった。 |
【松村吉太郎が「ぢばで常詰め、河内で教会かの再度の伺い」に対するお指図】 | |
2.10日、「松村吉太郎が、ぢばで常詰めとしてご奉公すれば良いのか河内で教会を設けるのかの再度伺い」に対するお指図。
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【河内一統高安分教会所設置の伺いに対するお指図】 | |
2.16日(陰暦正月17日)、平野楢蔵、山本利三郎、高井猶吉、三名河内一統高安分教会所設置のため、集会につき出張の儀伺いに対するお指図。
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高安大教会史(147頁)は次のように記している。
この叙述に照応するように、明治22年2.16日付の紙谷保治郎以下87名連署による河内国高安郡教興寺村、松村吉太郎からの初代真柱宛ての教会設置願書が高安大教会史に記載されている。 |
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中河大教会史(8頁)は次のように記している。
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【「兵神分教会建築及神祀るに付き願い」に対するお指図】 | |
3.1日、お指図。「兵神分教会建築及神祀るに付き願い」お指図。
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【「河内の講社グループ(松村、平野、山本、高井)らが分教会設置願い」お指図】 | ||
3.3日(陰暦2.2日)、河内の講社グループ(松村、平野、山本、高井)らが分教会設置願いを本部に願い出る。高安分教会は第6号指令で許しを得、松村吉三郎(23歳)が会長に就任する。 明治22.3.3日(陰暦2.2日)、河内国講社中より分教会設置願い。
押して、分教会所を教興寺か、又は恩智か、又は老原に致すべきや願い。
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【明治22.4.18日、「今んまにかんろだいを建てにゃならん」お指図】 | |
4.18日午後10時、刻限御話。次のようにお指図している。石造りのかんろだいは没収されて、その後、教祖ご在世中は小石が積まれていたが、明治21年、飯降伊蔵によって板張り二段のかんろだいが据えられていた。
「さあ/\皆始め来たる処、あちらに一つの社や、こちらに一つの講や」は、船場、山名を代表とした講元たちの公認運動として出来た講社組織の事を指している。 |
【明治22.4.22日、お指図】 | ||
4.22日、お指図。
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【明治22.6.17日、松村吉太郎の「父の身上」伺いに対するお指図】 | |
6.17日、松村吉太郎の「父の身上」伺いに対するお指図。
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【松村の十三ヶ条の誓文】 | |||||||||||||||||||||||||||
7−8月、松村の祖母タミ、父栄次郎がそれぞれ身上という節を見せられ、二人の病勢がいよいよ募り、危険が迫ってきたこの頃、松村は悲壮な決心で、十三ヶ条の誓文をしたためる。本文を神前に供え、その写し文は常に氏の懐中に収められ、その実行を怠ることがなかったと伝えられている。これを確認しておく。
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【明治22.7.26日、「本席身上御障りに付き願い」に対するお指図】 | |
7.26日午後9時、お指図。「本席身上御障りに付き願い」。
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【明治22.7.31日、お指図】 | ||
7.31日、お指図。
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【明治22.8.21日、お指図】 | |
8.21日、お指図。
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【明治22.9.17日、お指図】 | |
9.17日のお指図。
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【明治22.9.23日、刻限お指図】 | |
9.23日の刻限お指図。
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【飯降家と上田家が縁戚になる】 | |
明治22年秋、長女のよしゑが園原の上田嘉助の次男(上田ナライトの弟)の楢次郎の元へ嫁ぐ。この時次のようにお指図している。
事実、嫁入り後二、三ヶ月すると、おじばが忙しくなり御用に帰って来られた。その後、永尾家(教祖の母の実家)を立てられることになった。 |
【明治22.10.7日、「本席身上の障りに付き願い」に対するお指図】 | |
10.7日、お指図。「本席身上の障りに付き願い」。
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【明治22.10.9日、「高井猶吉身の障り伺い」に対する刻限指図】 | |||
10.9日午前1時40分、お指図。「高井猶吉身の障りよりの刻限御話」。
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【明治22.10.17日、「別席が9ヶ月9回の運びとなること伺い」に対するお指図】 | |
10.17日、別席が9ヶ月9回の運びとなる。この時のお指図。
明治21.9.21日お指図により、別席は三度受けることになる。明治21.12.25日お指図により三度の別席は三ヶ月に三度運ぶことになる。こうして、明治22年頃から別席を運ぶようになるが、本席は一日3名と定めていた。が、その後6名となり、明治22.10.17日お指図により「一日一席9度」となっていくことになった。その後、更に盛んになることによって「一日一席9度」を本部詰め役員が代行するようになり、一日に幾十名もの席が運ばれるようになった。当初は、お授けは本席直々のものであったが、「お書き下げ」が代行されることになった。 |
【明治22.10.23日、刻限お指図】 | |
10.23日午後10時、刻限お指図。
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【明治22.10.23日、刻限お指図】 | ||
10.25日午後7時、刻限お指図。
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【「天理教会本部出張所」を東大教会初代となる上原佐助の東分教会に譲渡】 |
10月、教会所がおぢばに移転したあと「天理教会本部出張所」として置いていたのを、後に東大教会初代となる上原佐助の東分教会に譲渡した。 上原佐助氏は、明治14年、教祖の言葉により大阪から関東布教に出た。やがて「東京真明講社」を設立し、東京八講社の基礎を固めた。折しも、下谷区北稲荷町に天理教会所が認可され、仮開筵式が盛大に執行されるにあたり、上原はこれに全力を注いだ。教会所がおぢばに移転したあと、「天理教会本部出張所」が置かれ、この時、東分教会に譲渡された。 |
【明治22.11.2日、「本席身上障り願」に対する のお指図】 | |
11.2(陰暦10.10)日午後9時、「本席身上障り願」に対する のお指図。
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【明治22.11.6日、刻限お指図】 | |
11.6日午後9時、刻限お指図。
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【三年千日のお指図始まる】 | ||
明治24年の教祖5年祭を前に、本席の「三年千日のお指図」が始まった。 11.7日午後10時40分、刻限お指図。(「三年千日・おさしづ全文」)
次のように拝されている。
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【明治22.12.27日、お指図】 | |
12.27日、お指図。
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(道人の、教勢、動勢) |
3.3日、松村榮治郎が出直し(亨年48歳)。天保13年(1842)10月8日、河内国高安郡教興寺村(現・大阪府八尾市教興寺)生まれ。明治4年(1871)1月、妻さくの「たちやまい」という患いを教祖に助けられ入信。妻さく(1846-1928)の妹・小東まつゑは明治2年(1869)、中山秀司に嫁ぐ。長男・吉太郎は高安分教会(現大教会)初代会長。(教祖伝逸話篇102「私が見舞いに」、190「この道は」)。 |
この頃には天理教信徒の分布は近畿一帯から東西に拡がりつつあり、この年、次の講が教会となった。大阪真明組(芦津、井筒梅治郎)、大阪明心組(船場、梅谷四郎兵衛)、神戸兵庫真明講(兵神、清水与之助)、河内国講社(高安、松村吉太郎)、近江国斯道会(河原町、深谷源次郎)、阿波国信心組(撫養、土佐卯之助)、東京真明組(東、上原佐助)。東京市に東(あずま)、日本橋の二教会。 |
6月頃、井上佐市と鈴木半次郎親子3人が「おぢば」に初参拝した。その道中、奈良の大文字旅館にて、鈴木半次郎は「たすけー条の道」に進む心定めをした。親子が「おぢば」到着後、引きつけの激しい病気により骨と皮ばかりに痩せ細った一人息子は親神の鮮やかな御守護を頂いた。これが嶽東大教会(がくとう だいきょうかい)の元一日となる。 |
11.18日、天理教会本部東京出張所廃止により東京真実講が東分教会に合併される。 |
(当時の国内社会事情) |
1889(明治22)年2.11日、大日本帝国憲法が発布される。皇室典範制定、衆議院議員選挙法などを公布。文相・森有礼刺され、翌日死亡する。5.31日、新聞日本が、ロンドンタイムスの大隈外相の条約改正案の論評を訳載、反対運動のきっかけとなる。7.1日、東海道線全通(新橋ー神戸間、片道約20時間)。12.24日、三条首相・大隈外相の免官発令、第一次山県有朋内閣成立。 |
(宗教界の動き) |
大日本帝国憲法発布。近代国家として信教の自由が「法の定める範囲内」の留保付きで条文に記載される。神社崇敬義務の範囲が議論の対象となった。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1888(明治22).7.14日、パリで国際労働者大会開催。22カ国の社会主義者組織の代表が参加、国際社会党(第2インター)成立。この年、パリ万博。エッフェル塔の建設。 |
(私論.私見)