第83部 1888年 明治21年 神道天理教会設置の動き

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「神道天理教会設置の動き」を確認しておく。「伊蔵、本席に定まる」前後事情は、植田英蔵氏の「飯降伊蔵伝」(善本社、1996.11.26日初版)の106Pから114Pが詳しい。これを参照する。「別章【明治21年お指図」。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【本席と真柱の問答】

 みきの後継者として本席の地位に立つことになった伊蔵が為さねばならぬことは、お道における真柱・真之亮との地位の調整であり、道人もこのことを気懸かりしていた。そうした手前いつまでも無視することはできなかった。本席は、真之亮に対し厳しく宣言した。「大工としったは神一条。裏は鍛冶屋、表は大工で神一条」。神意はこうである。「以降、事務的な管理処理など奥向きのことは真柱(鍛冶屋)の仕事であっても、教えの代表者は私(大工)だ。私によって神の声を聞け」云々。これを大学に例えるならば、「真柱は理事長、伊蔵は学長」という立場である。だが、親戚連合の中には、「大工上がりのあんな人をなぜ中心にせねばならぬのか。中山家の者こそがつまり真之亮が全部たばねるべきではないか」との声もあった。


【応法派の台頭】

 こうした経過を見せつつも、お道内には国家や地方庁の公認を得て、教会本部を設立しようとする動きが活発になった。教祖の教えを頑なに引き継ごうとする原理主義は国家の方針に反する流れであり、この道も相当に困難が予想されていた。こうした事情から、応法派がいわば国家の力を背景として勢いを増していった。応法派は、拝み祈祷派と教会本部設立派と親戚連合派との合体によって成立していた。


【松村吉太郎と本席の問答】
 1888(明治21)年1.8日、真之亮の従兄の松村吉太郎が本席へねじこんできた(自伝の「道の八十年」では「少し身上にお障りを頂いたのでお伺いした」とある)。そして、本席に対して個条書きの詰問状をだした。これに対して、伊蔵はきっばりと宣言した。
 さあさぁ尋ねる一条/\、十分一つ聞き分けば十分よし。神一条の道、一寸難しいようなものや。一寸も難しいことはないで。神一条の道、こういうところ一寸も聞かしていない。天理王命と云うは50年前より誠の理である。ここに一つのところ、天理王命と云う原因は、元ない人間をこしらえた神一条である。この道は50年前から始まった。元を聞き分けて貰いたい。どこそこで誰それと云うたものでない。ほんなんでもない百姓家の者、なんも知らん女一人、何でもない者や。それが最後の教えを説くと云うところの理を聞き分け。どこへ見に行ったでなし。何習うたやなし。女のところへ入り込んで理を広めるところ、よう聞き分けてくれ。内々へも伝へ。身の内貸し物や借り物や。心通り、皆な世界に映してある。世界のところ、何べんも生まれ代わり、出代わり、心通り皆な映してある。銘々あんなみならと思うて、銘々たんのうの心を定め、どんな事も皆な世上に移してある。何ほど宝ありても、身の内より悩めば、これほど不自由はあろうまい。自由自在心にある。この理弁え、叉々内々のところ、銘々のところにも、すみやかの日がある。銘々ほんと思うたことあれば尋ねに出よ。

 神意はこうである。「この道は、ほんなんでもない、百姓の女、中山みきでも神一条の心を定めたから神の社となったのだ。私は大工あがりの住み込みだが、教祖の教えを聞き分けて、神一条の心を定めたから本席ときまったのだ、よく考えろ」、というものだった。


 明治21年1月30日(陰暦12月18日)
 松村吉太郎、おぢばへ参詣三度お指図。
 さあさぁ尋ねる処一つ/\の理、さあさぁ尋ねる処、さあさぁもう一度、二度諭し、内々の処、余の儀済んだら、又余の儀/\段々に聞くと、これだけ異ると思う。一寸一つ/\身の速やか、心速やか、この理をよう聞き分け。これだけことこと身の速やか、心の速やか一寸渡すに難しい。内々速やかなれば、大きな理を渡したい。内々段々一寸指図、内々一寸心得えぬという処尋ね出よ。
 明治21年1月31日午前9時
 松村吉太郎、おぢばへ参詣四度お指図。
 さあさぁ一つの事情定め。内々の事情もある。幾重家内何人ある、皆な借りもの。幾名何人家内一人でも、一名一人でもよう聞き分け。よう聞き分けば、分からんであろうまい。今までこれだけ尽すのにと思うはいかん。一名でも一人でも理を分かれば渡そ/\。これを生涯と定め。さあさぁ渡そ。さあさぁ受け取れ/\。さあさぁ授け/\、どういう授け/\、神水として、清水の水の授け。

【教組の一年祭執行】
 3月、教祖1年祭の取りかかりにあわただしく動き始めた。この当時、神道部属の六等教会になっていたので、教祖の葬祭は大神(オオミワ)教会で執り行われた。これに倣い一年祭も大神教会に願い出た。教会の教長あるいは役員の方々がその日は不在であったため断られた。止むなく櫟本にある和爾下(ワニシタ)神社へ行って、斎官にお願いしたら快く引き受けて下さった。ところが一年祭当日を迎えたら、その日になって、朝、大神教会から、「当方でしたいからその一年祭は待ってくれ」という申し出があった。当日の朝のことであり、しかも前もって願い出て断られていたので拒否した。すると、「もうどうなってもいいな!」という捨てぜりふを残して出て行った云々。

 3.8日(陰暦正月26日)、教組の一年祭を迎え執行された。信者は津々浦々に広がり、各地からおぢばに駆けつけてきた。その数約4万、近隣の村々の宿屋から民家まで信者で一杯になった。午前5時、かぐらづとめが勤められ、12下りも終わった。これから年祭祭典に取り掛かろうとしたとき大神教会の詰員から横槍が入った。斎主・巽久延、副斎主・前川菊太郎、典礼・橋本清、喪主・真之亮、神饌係・平野樽蔵、手長長・鴻田忠三郎、後取(しどり)・山本利三郎、高井猶吉、他に祭官数名で祭式を挙行し、斎主の斎文奏上が始まった。

 そこへ、櫟本警察分署長ら8名が踏み込んできた。「人が集まることへの公許を得ていないので中止せよ」、「その筋に願い出てつとめなさい」との命が為された。為に、祭典執行を断念し、一年祭は執行できなかった(それでも年祭は、曲がりなりにも何とか勤め終えられた、との記述もある)。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「思出の一端(その九)」が教組一年祭の様子を次のように証言している。これを転載しておく。
 思出の一端(その九)

 かようにして兎に角十五日間は終りました。さて愈々帰宅を許されることになりましたが、幸い櫟本に梶本の家がありましたので、そこに立ち寄って休憩の上にしようと考えましたが之は許してくれませず、止むなく警察署から直ぐに御屋敷に御帰り下さることになりました。その時も出迎えの方は大分来て居て下されましたが、警察署からは四人の巡査が附いて参りまして、御屋敷の門の内へは、これ等の人々を入れませんでした。その後も警察の干渉は相変らず酷(きびし)くって、御教祖様は申すに及ばず、前管長様を始め大勢の信徒さん方も一方(ひとかた)ならん御苦労をお舐め下されたので御座いますが、御承知のように御教祖様は「一列の子供可愛いゝ上から、親の命を二十五年縮めて」「世界を六地に踏みならす為」に、とう/\御昇天遊ばされたので御座います。御教祖様が御昇天遊ばされた当時の人々の失望落胆は如何(いか)ばかりだったことか、今更思出すも涙の種であります。しかもなおその翌年の一年祭の当時におきましても、警察が靴履(くつばき)の儘で上って参りまして、祭典を中止させたので御座います。その時の人々の嗟嘆(なげき)は如何ばかりだったでしょう。御昇天遊ばされても相変らず眼の見えない御教祖様の御魂(みたま)だけでも御慰め申上げて満足して頂こうと思った人々の心持も、祭典中止の乱暴な仕打ちによって、散々蹂躙(じゅうりん)されたのであります。しかし、熱心な先生方及び信徒さん達は、これによって意気が沮喪(そそう)するどころか、却って更に勇気をお出し下され種々(いろ/\)と御骨折りの結果御道はだん/\と拡がってまいりました。又一方天理教会が設けられ更に一派独立ということにまでなったので御座います。誠に只今の御道は結講になりました。御教祖様の御予言通りに、元は御道の邪魔としていた巡査も今では反対に保護をして呉れるようになり、又日本なみならず支那()を始め諸外国にまでも御道が拡(ひろ)まって来たので御座います。何と御教祖様の御遺徳は絶大なものではありませんか。(つづく)


【明治21年3.9日、「教祖1年祭の節」についての伺いに対するお指図】
 3.9日(陰暦正月27日)のお指図。「陰暦正月二十六日、教祖の一周年祭式の際に警官出張して、集合の人を退出せしめ、真之亮始め四五十名の姓名を帳簿に記し、家族の者以外は門前へ警官付添い追出さしめたる」につき、教祖1年祭の節につき伺った。
 さあさあ難しい/\道や。難しいと云うて難しい中、一つの理一つ/\洗うで。いかとも云うでない。前々に知らしてある。すっきり洗いきる。難しいと云えば難しい。どんな道も連れて通ってある。何でも洗い切る。今のところすっきり止めたと思えば、すつきり掃除。これまですっきり掃除すると云うてある。節から節からの芽が出てある。こんな中から芽が出る。一寸の芽は一寸取れる、すっきり取れる。すっきり掃除。内から内へどっちもこっちも案じることは要らんで。
 (追て伺い)さあさぁ分からん/\/\。いつまでも分からんから分からん。どんな事も聞いておかにゃならん。十分の道と云えば、世界から付けに来る。世界からろくじと云う道をつき来たる。濁った/\道でどうもならん。一つところより吹いたる枝/\、一寸吹いたる芽は今度は折れん。十分枝が吹くと。どんな事も聞いておけ。
 
 天理教会設立の件を伺うと、次のようなお指図が為された。
 さあさあどんな事も俺がするのやで。善もある、悪もある。善悪分かるのやで。悪ははびからすはびからす。善より思案してみよ。50年前よりある。ない/\と云うところから付いて来てるもの。どんな道も連れて通ろう。一つ理も立てよ/\。十分の理を立つものと、一つのところに日々一つの道を付けようと思う。一つ道も連れて通る。こうして居られん。世界のところこうして居られん。同じ理や、連れて通ろう。

 と、鮮やかに教会設立請願のお許しをいただいた。更に協会設立を運ぶにつきの心得として、次のようなお指図が為された。
 ‥ぢば一つ理は、独り立ち出来てあるのやで。今一時の所を変えて。渡る川も渡る、連れて通る道も通る。‥元々の思案、神の道というものは、よう聞いて置かねばならん/\。 

 元のぢばという理は、元来(がんらい)独立したものである。今は一時的に便法として、ぢば以外の場所(東京)にての認可申請を許そう。元々の思惑、神意と教えを しっかり聞いて忘れぬように、と教会設立を進める上での心構えを諭された。
 一寸の道の処、一寸は一寸のため、軽き処より上そうと、一つ所本部/\。これまでも伝えてある。あちらも本部/\、どんと十分の所に行かんと、思案/\。その時々思案に応じて、思案の理よう聞き分け。所々、思案/\の道もある。所々で栄えてある。まあまぁあちらの所の理を尋ねる、こちらの所の理を締まる。一つの運ぶ処の理、又、人間は/\理がある。軽く/\元一つの理は難し。日々景况、皆々これだけこうしたら/\と思う。思案/\の道や。これから、どのくらい思案/\の道を通すや知れんで。一寸事情まあまぁ軽き/\/\。
 元々の所というは、十分に洗い切る。金銀の理を分かるまで洗い切る。屋敷一つの理すっきり洗い切る/\。内一つの理というは、ぢば一つ理は、独り立ちできてあるのやで。今一時の所を変えて。渡る川も渡る。連れて通る道も通る。誰々とも云わん。これこれという者寄って運んでみるが良かろうと。元々の思案、神の道というものは、よう聞いておかねばならんならん。

 真之亮の上京について、次のようなお指図が為された。
 話し話しのところは、人間はこういう時々という道も運ぶ。

 前件につき、桝井伊三郎より押しての願い。
 さあさぁ運ぶ処/\は運ぶ。まあまぁ銘々はそれぞれの道を通してある。年限相応や/\。一日/\の判然たる処、掃除/\、一寸判然たる処、掃除/\、許してあるのやで。案じる事は要らんで。しっかりして居よ/\。一日/\の処、受け取る事が出けたなあ/\。案じる事は要らん。これまでの処思て見よ。あちら向いて思案し、こちら向いて思案し、俯向いて思案し、一寸に弱い者と、十分掃除仕立てたら速やかになる。立て合いとはこの事、心次第の理もある。よく聞かしておこう。

 教会設置は、明治18年5月、神道本局に認可され、明治20年1.13日、教祖よりお許しをいただいていたが、政府は未認可だった。そこで「東京府へ出願」となった。

【飯田宅で公認化協議】
 一年祭の中断は公許を得ていないことにあったことが歴然としていた。これによりお道の公認化を求める流れが強まった。教祖1年祭後の「3.9日お指図」を受け、神道教会設置をいよいよ本格的にさせ行くことになった。伊蔵にはもう止めることのできない成り行きになっていた。3.9日、初代真柱真之亮を中心にする「応法の理」派が、安堵村の飯田宅に密かに参集して協議に協議を重ねた。かって大阪府に再三出願して却下されている。今度は神道本局の助力を得て、一旦東京府に於いて教会本部を設置出願し、許可を得た上で奈良県へ移転することにしようと云うことになった。練り合わせが成り、いよいよ東京へ出張の上、本部を設立するの運びに掛かった。(「安堵(あんど)の水 と 東(あずま)の水」他参照)

【明治21年3.11日、お指図】
 清水與之助、諸井國三郎の両人、教会本部設置願の件に付東京行伺いの3.11日、お指図。
 さあさあいずれの話しも聞かしてある。道のため先は理も段々つくは所の理、いずれの理一つの事情という。一日一日の理、身上一つの理、世界のため定め一つ運ぶ/\。天然自然いかなる道、どういう道も連れて通ろう、早くの道も連れて通ろう。幾重の道も連れて通る。

【「応法の理」その6、教会設置運動3】

 3.4日、飯田宅での協議後、神道本局の稲葉管長邸を訪ねた。3.5日、神道本局管長の添書を得て、3.30日、真之亮は、東京で駄目なら二度と西へ向いて帰らんという決意で教会設立の為東京へ出発した。大阪で大神教会の添書を受け取り、3.31日、平野楢蔵、松村吉太郎を従者として出航した。4.3日、篠原教正、阿部教正、大畑教正、古川教正を訪問し、4.5日、願書を提出した。

 ほぼ一ヵ月後の4.7日、手続きに手間取ったが、教会設立願書を、東京府庁、東京府知事宛てに出願した。この事業を松村吉太郎が推し進めていくことになる。(3.14日、清水、諸井の二人がお屋敷を出発、航路で横浜に到着し、直ちに上京、本局の篠原教正に面談した。3.20日、古川教正に面談した。続いて、内海教正に面談した。この間、真之亮は、守屋秀雄を仲介役、松村吉太郎(中山たまへといとこ関係、のち高安大教会長)を交渉役として大神教会の添書を得るため奔走した)


【神道直轄天理教会が東京府知事に認可される】

 4.10(4.21)日、「書面願之趣聞届候事」と、神道直轄天理教会(奉教主神は十柱大神)が、東京府知事(高崎五六)より、当時の下谷区北稲荷町42番地(後に東分教会が置かれたところである。現・東大教会所在地・台東区)で認可された。これにより、天皇の先祖を祀ったお社の前に平伏して朝夕のつとめに「天理王命のつとめ」(「悪しきを払うて、たすけ給い、天理王命」)が行われることになった。東京本部は、「奉修天理王命守護」と紙に記しためどう札を出し始めた。出願に際して本来の教義をかなり彎曲したものを提出しており、その流れが加速して行った。これにより教祖派が置き去りにされて行くことになった。

 4.12日、紅葉館で、主客25名の認可祝賀会を催す。神道側は、稲葉管長、古川教正、篠森教正ら16名。お道は、真柱、松村、清水、上原、諸井、平野ら。

 4.24日、稲荷町で教会本部の仮開えん式が盛大に行われた。参拝者1700余名。但し、神意(思召)上、信仰上、いずれ教会本部は「元のぢば」に移転せねばならないことになった。


【明治21年4.29日、「東京に於いて御供を出す願」に対するお指図】
 4.29(陰暦3.19)日夜、本席に「東京に於いて御供を出す願」、「めどう札を出す事じっとする願」を伺った。本席は次のようにお指図している。
 さあさあ一時尋ねる尋ねる。さあ尋ねる事情、よう聞き分けてくれ。めどう札暫くのところ出せんという。めどう、神の名がめどうか。何と云うて呼び出すか。さあさあ分からんから尋ねる尋ねる。めどう無くば呼び出すまい。

【明治21年5.23日、「松村吉太郎の授けのこと伺い」に対するお指図】
 5.23日、松村吉太郎が、東京でお授けを渡したいと云い始め、「授けのこと伺い」に対するお指図。
 さあさあ尋ねるところ、一寸分かるまい。一名一人授けのところ、内々しんしん、ところところ、あちらこちらで違い、だいとして叉一つ代理勤めさそう。

 押して、「代理勤めは内々授けの代理なるか」の伺いに対するお指図。
 さあさあ代理に授けはないで。代理つとめ、内々しんに一つの授け。日々内々のところ、段々それぞれどうもならん。代理一人心差し支えないよう。三遍心に心やで。一人他へ移す。

【明治21年6.3日、「本席御障り」の伺いに対するお指図】
 6.3日(陰暦4.24日)10時頃、「本席御障り」につき次のようなお指図している。
 これまで急ぎ立てる理、早くかんろだい。珍し事言い掛け、又始め掛け。かんろだい一条、世界に有る事は云わん。これから神の云うようにする事、段々聞かす。だんだん経ち来たる、判然分かり難ない。これから天理運ばねばならん。世界事情、世界ある道は要らんで。せいでもよいものや。通るに通られん。世上理に迫る。一寸一つの指図、いついつまで一つ事情、事情はかんろだい。早く成る成らんではない。連れて通る。世上の理、世界の理、この事は五十年以来一年理を見て、どういう分かり、古き者を迎い取り、一寸心に掛かる。一つの理治まる神一条。

 これは、概略「教祖が身を隠されてからのたったの一年足らずで、『天理王命だ、神道天理教会だ』というのはけしからん。かんろだいに関係のないおつとめを作るような本部は認められない。大和へ帰ってくるように」との含意が込められている。


【明治21年6.4日、「山本利三郎伺い」に対するお指図】
 6.3日(陰暦4.24日)午後4(10?)時頃、山本利三郎伺いにつき、本席は次のようなお指図している。
 一ツ事情分かりがたない。刻限理持って話する。これまで急き立てたる理、早く甘露台珍しいこと云いかけ、又始めかけ。甘露台一条、世界にあることは云わん。これから神の云う様にすること段々聞かす。段々たちきたる(年限が)はんぜん理、分かりがたない。これから天理運ばねばならん。 世界事情、世界ある道はいらんせいでもよいものや、通るに通られん。(人間思案の心では)世上理に迫る。一寸一ツ指図いついつまでの事情、事情は甘露台早くなるならんではない、連れて通る。世上理、世界の理、この事は五十年以来一年理をみてどう云ふ分かり。古き者を向かひ取り一寸心に掛かる、一ツ理、神一条大切な理と云うは、古きものや、新しきものや一人ではない皆いんねん(寄せて守護する)。古きもの失ふ理うしなふよふ、この理聞かねばならん。皆な追々すみすみ心を以て甘露台理を聞かす、又々刻限まちて知らそ。
 一つ事情分かり難ない。今まあ刻限以て知らそう。今又話、かんろうだい(甘露台)珍しいこと言うで。だんだん始め掛け。だんだん道分からんから遅れてある。世上の道皆な世界にある。世界にあるものなら要らんものや。なれども長い道やで。一寸許してあるのや。これから神一條やで。實なるところ甘露台。早や早や取り決め取り締まれ。難しいようにあるけれど、神が皆な働く。何でもない。なれどもなかの道である。一寸許したもの、これまでのところ迎い取りたる者もあるで。一人ではない。古きの理を失えば、皆自然と理を失うで。甘露う台一條の道通れ。甘露台一條の話、又々刻限以ちて知らそうと、又々と。

 世界にあわせることはないのだけれども、応法的に世上に合わせて神道天理教会本部というものを許した。しかし、今やかんろうだい一条の道に戻すために東京本部を廃止して大和へ移転xさせる。案ずることは無い、神が働く、、との指図であった。

【明治21年6.23日、「山沢為造ら神道派の本部を東京に置く神道式教団を作る動き」に対するお指図】
 6.23日、山沢為造らの神道派が、本席がかんろだいづとめにうるさいなら、元のぢばに分教会を作り、そこでかんろだいづとめをやれば良いのではないか、本部は東京であり、ここに全国の講社を束ね、神道式の教団を作るとの態度を見せ始めたのに対するお指図。
 甘露台一ツ人間定めてある、何でも一日の日ある。楽しみあるということを治めてもらいたい。
 神一条を胸に治め、世界の道運ぶが良い。何にも心配要らん。神の引き受け心おきのう。それぞれ手を繋ぎ合うて、大きい心を持っていよ。なるならん、いかなる日あるなら、決心を結べよ。世界の理は運ぶ一つの理。心おきのう。気を勇むなら、一つの理ある。

【明治21年7.2-3日、「本部をおじばに移転させる件について」のお指図】
 その後、再三厳しく本席様の身上に障りをつけて、いち早くのぢばへの移転を促された。お伺いすると、

 7.2日のお指図。
 遠く遠くの理は、一寸世界の理。神の理は、さあさあ一時ならん。一時の間にも、一時急ぐ々ところは急がねばならん。急がいでも々良い事を急いでならん。

 7.3日、「教会本部をぢばへ引移(ひきうつ)りの事を押して願い」につき、次のようなお指図が為された。
 さあさあ談示の理を尋ねる各。さあさあ談示の理を尋ねるから、一つの理を諭す。世上の気休めの理を、所を替えて一寸理を治めた。世上には心休めの理、ぢばには一寸理を治める。ぢばの理と世界の理とはころっと大きな違い。世界で所を替えて本部/\と云うて、今上(かみ)も云うて居れども、あちらにも本部と云うて居れども、何にも分からん。ぢばに一つの理があればこそ世界は治まる。ぢばがありて世界治まる。さあさあ心定めよ。何かのところ一つ所で一寸出さにゃならん。さあさあ一寸難しいであろう。どんな道もある。心胆心澄ます誠の道があれば早く早く。

 7.3日、お指図。
 さあさあぢばの一つ一つの理急ぐ。何を急ぐ。いささかなるところ、理を始めよう。何の思案も要らん。思案は要らん。前々の理を一つ、かんろうだい一つの理、何にも要らん。神一条の理治めば何にも要らん。
 本部本部、あちらも本部、替わる出ける残る理と、かんろうだい一つ、何にも分からんでない。出掛けたらミニャならん。第一の理が分からん。大層であろう/\。よう聞け、何でも道を出さねばならん。先ず々このぢば・かんろうだい一つ、何でもかんでも運ばにゃならん。どんな道、世界の道、ほんの気休めである。発端の道、何か急いで取り掛かれ/\。

 本部をおじばに移転させる件についての重ねてのお指図。
 さあさあこれこれよう聞き分け。小さいものと大きなものと。小さい事は一人でもできるものである。大きな事と云うものは、一寸理を聞いても、この理は大き成るものである、という指図しておく。

 「人間思案に迷わぬように いち早く」とと教示されたので、心を決めて手続きにかかった。

【本部のおぢば移転の届書き伺い】
 7月11日(陰暦6月3日)、本部をおぢばへ移転するにつき、奈良県庁へ届書にして宜しきや、又、願いにして宜しきや伺い。
 さあさぁ尋ねる処、どれから行くのも同じ事。皆なの者世上から理に押され/\、そこで神一条の道聞き分けてくれ。何でもない処から段々道をつけて来てある処、前々より皆な伝えてある。そこで往還道は通り難くい、細い道は通りよい。皆なこの度の処、本部の方へ掛け合え/\。どうでもこうでも神一条見せねばならん、見にゃならん/\。この度皆な世界から押されるから、一寸細い道を許したもの。どうでもこうでも一つの道通らにゃならん。そこで早く/\道を運んで了え。
 信徒総代の伺い。
 さあさぁ運ぶ事情には、一つの事情、そうと一つ事情、運ぶ処には談じにゃなろまい。そこで早く、談示を取りて掛かるがよかろう。

【別席が始まる】

 明治21.7.15日に「平野樽蔵身上より平野トラお授け順序願」を伺われた時から取次ぎ3名による別席が始まる。

 7月、平野樽蔵伺いにつき、本席は次のようなお指図している。この時、平野は初代真柱と共に東海道をおぢばに向って歩いて帰って来て、山澤為造や初代真柱の代わりになって、概要「本席は、かんろだいに関係のないおつとめなどけしからんと云われるが、東京本部にはかんろだいがありませんので致し方ありません」と反論していた。これに対する返答である。
 さあさあ身の障り身の障り。第一、一つ一つ、皆んな一つ聞き分け。尋ね出る理がある。今一時は世界中という。どちらやろどちらやろ、一時始める始める、いつの事やと思うて居る。あちらの国に一つ、あちらの所に一つと、どうもこれまで聞かしてあるある。遅れ来てあるところところ々、年が明けたら、ろくぢと云うてある。なれども、皆な案じてどうもならん。扉を開いて、世界をろくぢに踏み均すと云うてある。扉を開いて、世界をろくぢに踏み均らしに廻りて居る。なれども皆んな、案じてどんならん。筆に記した通ねり、皆出て来るのやで。連れてあるのや。皆心定めて居るなれども、心に一寸掛かれば案じてどんならん。これ皆んなよう聞いておけ。扉を開いてろくぢに踏み均す、と云うてした通りに、皆な踏み均す。
 明治21.9.21日お指図により、別席は三度受けることになる。明治21.12.25日お指図により三度の別席は三ヶ月に三度運ぶことになる。こうして、明治22年頃から別席を運ぶようになるが、本席は一日3名と定めていた。が、その後6名となり、明治22.10.17日お指図により「一日一席9度」となっていくことになった。更に、盛んになることによって、「一日一席9度」を本部の先生が代行するようになった。こうして、一日に幾十名もの席が運ばれるようになった。当初は、お授けは本席直々のものであったが、「お書き下げ」が代行することになった。

【「天理教会所移転届」を奈良県知事宛に提出】
 本席の叱正により「天理王命のつとめ」は廃止され、天理教会本部も大和へ移転するよう命ぜられた。

 7.22日、東京で認可を得た勢いのまま「天理教会所移転届」を奈良県知事宛に提出した。この願書は、初代真柱を筆頭に信徒総代として、市川栄吉(後の城法大二代)増田甚七氏(後の郡山大二代)、飯田岩治郎氏(後の平安大初代)という土地の知名度の高い三人の素封家の名で出願している。

【「天理教会本部がお屋敷に移転されることについて」のお指図】
 7.23日、天理教会本部がいよいよお屋敷に移転されることについてのお指図。
 さあさあ願いの事情、諭すところの事情、先ず先ず今まで運び来たるところ、神一条の理は未だ々いかん。さあさあ神一条の理は一夜の間にも入り込むなら、どうしようとままや。朝あちら向いて居るを、こちら向けるのはなんでもない。前々より聞かしてある。どこへ頼むやないというてある。軽き々の道許したるところ、神一条の道派なかなか分からん々。かんろうだいの道は分かろまい。世上にては、世上の道を知らそ。世上で矢来をしたようなものや。さあ矢来も十年二十年したなら破損が廻るやろ。あちらに一本抜ける、こちらに一本抜きに来る。判然とした指図やで。まあこれで安心と云う。安心という間が隙間やで。隙間より腐るもの。さあさあ矢来も五年十年二十年すれば破損が廻る。一本二本抜く、抜きに来る。よう聞いておかねばならん。

【神道直轄天理教会本部を現在の教会本部所在地へ移転】
 7.23日、真之亮は、橋本清を帯同して奈良県庁へ出向き、「天理教会所移転届」を提出した。この願書は、初代真柱を筆頭に信徒総代として、市川栄吉(後の城法大二代)、増田甚七氏(後の郡山大二代)、飯田岩治郎氏(後の平安大初代)という土地の知名度の高い三人の素封家の名で出願している。こうして、天理教会本部はお屋敷に移転された。その功があって許可された。

 7.24日、天理教会本部がおぢばに帰ってきたことによりとつとめ場所が増築された。つとめ場所を南に増築、ぢばを取り込んで神殿を建てるべく着手した。10月、落成する。増築した部分に、神床が作られ、そこに社が祀られ、かんろ台を据えている場所が床の下に埋没した。それに対して、本席は、「そんなことは許さん。床を抜け。天上も抜け」と次のように指図した。

 さあさあ始まり始まり。かんろだい一条の始まり。日々の処理を以ってすれば皆治まるで。四方建物、一間四方にして、多く高くして危ないところ、じっと踏ん張りて居るところ、西へ抜ける、北東南四方抜ける理もある。高うして成る程というようにして、今のところほんのざっとして、とじれからどれへ々、一つ一つ印を打ちて、今のところ何時取り払うても惜しいないというようにして、一間四方天窓にして、まあざっとして、二つめどうとして印々云々。

 この時、「二つめどう」とも指図している。真意は、天理王命の神道式お社がどうしても避けられ為いのならそれは止むを得ないにしても、かんろだいも見えるようにしてめどうとせよというところにあった。この頃より、教会本部だけでなく、各地方の講社でも、社が祀られることとなった。

 明治21年以来天皇家の先祖を象徴するお社が祀られていた。これに関して、本席は、次のようにお指図している。
 祭り型どうもならん、神の社の教祖に、なぜきでつくった社が必要なのか。

 この祭り型によって、神社や神道と同じように思って、ご存命の教祖さまという話しをする者も出てきていた。さらに10年、20年、30年と年を経るとともに、上への忠義孝行を説く天皇神道因果応報を説く日本仏教、分をわきまえさせる神学道話など、あちこちの教えが入り混じって、教祖伝もそれにあったように作られ、語られていくようになる。


【「中台勘蔵が、天理教教会本部の奈良移転をしないで済むようにお願いした時の」お指図】
 7.31日、東京の教会本部の場所に1200円という大金を払って寄進した中台勘蔵が、天理教教会本部の奈良移転をしないで済むようにお願いした時のお指図。
 さあさぁ何か一つの事情、何か一つの理早く聞き取れ/\。これまで多く中/\、長くの道筋/\。今一つ長く一つの事情、何かの処治まろう。しいかり聞いて来れば分からんでない。このところ神一条、五十年以前からの元の理を聞いて心に治めよなら、成程の理も治まろう。天理王命と称するは一つの宗旨(御親の思惑)である。 天理王命と元一つ称するは天の月日である。元一つ始めるは女一人である。元よく聞いてくれ。

【東京の神道直轄天理教会本部は出張所となる】
 8.5日、東京の神道直轄天理教会本部は出張所となり、後に東分教会→東大教会へといたる。

【「松村吉太郎のぢばで尽くすべきか、高安の家で尽くすべきかの再度の伺い」に対するお指図】
 9.25日、「松村吉太郎のぢばで尽くすべきか、高安の家で尽くすべきか、何れにしてよいかの再度の伺い」に対するお指図。
 内々睦まじい一つの理、内々互いに一つの理治まれば、自由自在と云う。内々よう聞き分けて、実を定めるなら、一つの道と云う。さあさあ早く聞き取りて、一つの理と云う。

【「東京講社事件に付き伺い」に対するお指図】
 10.12日、「東京講社事件に付き伺い」に対するお指図。

 指図聞いて指図通り運ぶは皆な道理。指図受け、指図通り運ぶ。皆な治まる。遠くの所大層/\大層/\は一寸もするやない。大層は世界所々の理を持てば所治まる。治まらんというは、心治まらん。(中略)善いと思う人間心。段々悪なる。あゝ言われるけれど、指図の理取りよ一つでどうもなる。


【みかぐらうた本公刊】
 11.1日、みかぐらうた本が、本部より公刊された。

【神道直轄天理教会本部開筵式が盛大に挙行される】

 11.28日(陰暦10.25日夜)、鎮座祭。

 11.29日(陰暦10.26日)午前10時、初代真柱様斎主のもと神道直轄天理教会本部開筵式を盛大に祝った。開筵式を期に「みかぐらうた」が初めて本部から公刊された。前川菊太郎の名で出されたが、天理王命の神名が初めて登場した。11.30日、秋季大祭。この時、神道天理教会規約が制定された。12.1日、月次祭。

 こうして、三日間打ち続く盛大な祝典が執り行われた。ここにひとまず大っぴらに布教活動が可能になった。


【上田ナライト27歳の時、結婚について伺う】
 ナライトは、教祖に「一身暮らし」と仰られ、一生独身を通すようにといわれていた。教祖の身の回りのご用である炊事、掃除、 針仕事、機織りなどの「守り」として、増井りんをはじめ多くの者がつとめられていたが、「一身暮らし」はこかんに続いて上田ナライトだけに仰せられていた。

 11.30日、ナライト27歳の時、結婚について伺った時のお指図。
 一身暮らしならば、一身暮らしの理は与えよう。一身一人のあたゑはいつへどうでもこうでも与える。 なれども心の理を改めて、こうと思うなら、又それだけのあたゑは渡そう。これからは先が長い。一身暮らしのあたゑはどういう事やろと思うやろう。影は見えん、姿は見えんと思うやろ。なれども一身暮らしの理は、立てゝ貰いたいへ 。

【山名分教会(諸井国三郎会長)の直轄分教会を皮切りに続々設置される】
 12.5日、山名分教会(諸井国三郎会長)の直轄分教会設置願いが出され許された。山名分教会が設置されると、その下に部下教会が次々と設立され、信仰の道は遠州から中部、関東、東北へ、さらには台湾へと伸び広がっていった。山名分教会の名称は、1908(明治41)年に天理教が神道から一派独立をした翌年の1909(明治42)年に山名大教会と改称した。その後、山名大教会から分割または分離した大教会は12カ所に上り、現在は、国内に392カ所の分教会、台湾に6カ所の教会があり、親神様の御守護、おやさまのお導きを戴いて、世界一れつ心澄まして互にたすけ合う陽気ぐらし世界実現に向けて更なる歩みを進めている。
 12.11日、郡山天竜講の郡山(平野樽蔵)が続いた。山名、郡山の二教会の設置を皮切りに続々と「教会」のお許しをいただき、認可、設置されて行った。こうして、講を母胎として教会へと組織を変え、それまでの講が単独で、もしくは連合して教会になっていつた。高安、中河、大縣、古市、大鳥などの教会がそれである。翌年1.15日、大阪真明講の芦津(井筒梅治郎)、大阪明心組の船場(梅谷四郎兵衛)、神戸真明講の兵神(清水与之助)、2.18日、斯道会の河原町(深谷源次郎)、3.3日、河内の講社より中河、高安(松村吉太郎)、8.26日、撫養(土佐卯之助)、東京の東(上原佐助)が出され、次々講社が教会叉は支教会の名乗りをあげていった。

【奥六兵衛が天輪王明誠教団を立教】
 この年、奥六兵衛が造反し天輪王明誠教団を立教している。

 (道人の教勢、動勢)

 この年、郡山天龍講(郡山、平野楢蔵)、遠江国真明組(山名、諸井国三郎)が講を基として教会となった。

 1888(明治21)年、後の天理教山名大教会三代会長/諸井慶五郎の兄の諸井政一(12歳)がおぢば参拝、入信。1903(明治36)年、出直す(享年27歳)。その15年の間、諸井は教祖直弟子の人々から教祖のお言葉など、真剣に神一条の話を聞き、聞書を書き留めた。その聞き取り態度は几帳面で、また記述が厳密で、教祖伝史料の白眉となっている。その筆録が本人没後35年を経て遺族の手で一本にまとめられた。「正文遺韻」がそれであり、その改訂版の「改訂正文遺韻145P」(諸井慶徳、天理教道友社、昭和28年2月26日初版)は版を重ねている。

 (当時の国内社会事情)
 1888(明治21).4.25日、市制・町村制が敷かれる。4.30日、枢密院設置(議長・伊藤博文)。第一次伊藤内閣から黒田清隆内閣へ。5.9日、日本社会主義同盟結社禁止。6.18日、雑誌日本人が、高島炭鉱の惨状を告発開始、世論沸騰する。7.15日、磐梯山大噴火、444名死亡。10.27日、皇居の造営落成、宮城と改称。12月、暁民共産党事件で近藤栄蔵らが検挙される。

 (宗教界の動き)
 官国幣社の神官を廃止し、宮司・禰宜・主典の神職を置いた。宮司は奏任官、禰宜・主典は判任官の待遇とした。

 (当時の対外事情)
 1888(明治21).11.30日、メキシコと修好通商条約調印。最初の対等条約となる。

 (当時の海外事情)
 1888(明治21).5.13日、ブラジルで奴隷制廃止。

 6.15日、ドイツ皇帝にウィルヘルム2世即位する。





(私論.私見)