第83部 | 1888年 | 明治21年 | 神道天理教会設置の動き |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「神道天理教会設置の動き」を確認しておく。「伊蔵、本席に定まる」前後事情は、植田英蔵氏の「飯降伊蔵伝」(善本社、1996.11.26日初版)の106Pから114Pが詳しい。これを参照する。「別章【明治21年お指図】」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【本席と真柱の問答】 |
みきの後継者として本席の地位に立つことになった伊蔵が為さねばならぬことは、お道における真柱・真之亮との地位の調整であり、道人もこのことを気懸かりしていた。そうした手前いつまでも無視することはできなかった。本席は、真之亮に対し厳しく宣言した。「大工としったは神一条。裏は鍛冶屋、表は大工で神一条」。神意はこうである。「以降、事務的な管理処理など奥向きのことは真柱(鍛冶屋)の仕事であっても、教えの代表者は私(大工)だ。私によって神の声を聞け」云々。これを大学に例えるならば、「真柱は理事長、伊蔵は学長」という立場である。だが、親戚連合の中には、「大工上がりのあんな人をなぜ中心にせねばならぬのか。中山家の者こそがつまり真之亮が全部たばねるべきではないか」との声もあった。 |
【応法派の台頭】 |
こうした経過を見せつつも、お道内には国家や地方庁の公認を得て、教会本部を設立しようとする動きが活発になった。教祖の教えを頑なに引き継ごうとする原理主義は国家の方針に反する流れであり、この道も相当に困難が予想されていた。こうした事情から、応法派がいわば国家の力を背景として勢いを増していった。応法派は、拝み祈祷派と教会本部設立派と親戚連合派との合体によって成立していた。 |
【松村吉太郎と本席の問答】 | |
1888(明治21)年1.8日、真之亮の従兄の松村吉太郎が本席へねじこんできた(自伝の「道の八十年」では「少し身上にお障りを頂いたのでお伺いした」とある)。そして、本席に対して個条書きの詰問状をだした。これに対して、伊蔵はきっばりと宣言した。
神意はこうである。「この道は、ほんなんでもない、百姓の女、中山みきでも神一条の心を定めたから神の社となったのだ。私は大工あがりの住み込みだが、教祖の教えを聞き分けて、神一条の心を定めたから本席ときまったのだ、よく考えろ」、というものだった。 |
明治21年1月30日(陰暦12月18日) | |
松村吉太郎、おぢばへ参詣三度お指図。
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明治21年1月31日午前9時 | |
松村吉太郎、おぢばへ参詣四度お指図。
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【教組の一年祭執行】 | |
3月、教祖1年祭の取りかかりにあわただしく動き始めた。この当時、神道部属の六等教会になっていたので、教祖の葬祭は大神(オオミワ)教会で執り行われた。これに倣い一年祭も大神教会に願い出た。教会の教長あるいは役員の方々がその日は不在であったため断られた。止むなく櫟本にある和爾下(ワニシタ)神社へ行って、斎官にお願いしたら快く引き受けて下さった。ところが一年祭当日を迎えたら、その日になって、朝、大神教会から、「当方でしたいからその一年祭は待ってくれ」という申し出があった。当日の朝のことであり、しかも前もって願い出て断られていたので拒否した。すると、「もうどうなってもいいな!」という捨てぜりふを残して出て行った云々。 3.8日(陰暦正月26日)、教組の一年祭を迎え執行された。信者は津々浦々に広がり、各地からおぢばに駆けつけてきた。その数約4万、近隣の村々の宿屋から民家まで信者で一杯になった。午前5時、かぐらづとめが勤められ、12下りも終わった。これから年祭祭典に取り掛かろうとしたとき大神教会の詰員から横槍が入った。斎主・巽久延、副斎主・前川菊太郎、典礼・橋本清、喪主・真之亮、神饌係・平野樽蔵、手長長・鴻田忠三郎、後取(しどり)・山本利三郎、高井猶吉、他に祭官数名で祭式を挙行し、斎主の斎文奏上が始まった。 そこへ、櫟本警察分署長ら8名が踏み込んできた。「人が集まることへの公許を得ていないので中止せよ」、「その筋に願い出てつとめなさい」との命が為された。為に、祭典執行を断念し、一年祭は執行できなかった(それでも年祭は、曲がりなりにも何とか勤め終えられた、との記述もある)。 |
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「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「思出の一端(その九)」が教組一年祭の様子を次のように証言している。これを転載しておく。
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【明治21年3.9日、「教祖1年祭の節」についての伺いに対するお指図】 | ||||||||
3.9日(陰暦正月27日)のお指図。「陰暦正月二十六日、教祖の一周年祭式の際に警官出張して、集合の人を退出せしめ、真之亮始め四五十名の姓名を帳簿に記し、家族の者以外は門前へ警官付添い追出さしめたる」につき、教祖1年祭の節につき伺った。
天理教会設立の件を伺うと、次のようなお指図が為された。
と、鮮やかに教会設立請願のお許しをいただいた。更に協会設立を運ぶにつきの心得として、次のようなお指図が為された。
元のぢばという理は、元来(がんらい)独立したものである。今は一時的に便法として、ぢば以外の場所(東京)にての認可申請を許そう。元々の思惑、神意と教えを しっかり聞いて忘れぬように、と教会設立を進める上での心構えを諭された。
真之亮の上京について、次のようなお指図が為された。
前件につき、桝井伊三郎より押しての願い。
教会設置は、明治18年5月、神道本局に認可され、明治20年1.13日、教祖よりお許しをいただいていたが、政府は未認可だった。そこで「東京府へ出願」となった。 |
【飯田宅で公認化協議】 |
一年祭の中断は公許を得ていないことにあったことが歴然としていた。これによりお道の公認化を求める流れが強まった。教祖1年祭後の「3.9日お指図」を受け、神道教会設置をいよいよ本格的にさせ行くことになった。伊蔵にはもう止めることのできない成り行きになっていた。3.9日、初代真柱真之亮を中心にする「応法の理」派が、安堵村の飯田宅に密かに参集して協議に協議を重ねた。かって大阪府に再三出願して却下されている。今度は神道本局の助力を得て、一旦東京府に於いて教会本部を設置出願し、許可を得た上で奈良県へ移転することにしようと云うことになった。練り合わせが成り、いよいよ東京へ出張の上、本部を設立するの運びに掛かった。(「安堵(あんど)の水 と 東(あずま)の水」他参照) |
【明治21年3.11日、お指図】 | |
清水與之助、諸井國三郎の両人、教会本部設置願の件に付東京行伺いの3.11日、お指図。
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【「応法の理」その6、教会設置運動3】 |
3.4日、飯田宅での協議後、神道本局の稲葉管長邸を訪ねた。3.5日、神道本局管長の添書を得て、3.30日、真之亮は、東京で駄目なら二度と西へ向いて帰らんという決意で教会設立の為東京へ出発した。大阪で大神教会の添書を受け取り、3.31日、平野楢蔵、松村吉太郎を従者として出航した。4.3日、篠原教正、阿部教正、大畑教正、古川教正を訪問し、4.5日、願書を提出した。 |
【神道直轄天理教会が東京府知事に認可される】 |
4.10(4.21)日、「書面願之趣聞届候事」と、神道直轄天理教会(奉教主神は十柱大神)が、東京府知事(高崎五六)より、当時の下谷区北稲荷町42番地(後に東分教会が置かれたところである。現・東大教会所在地・台東区)で認可された。これにより、天皇の先祖を祀ったお社の前に平伏して朝夕のつとめに「天理王命のつとめ」(「悪しきを払うて、たすけ給い、天理王命」)が行われることになった。東京本部は、「奉修天理王命守護」と紙に記しためどう札を出し始めた。出願に際して本来の教義をかなり彎曲したものを提出しており、その流れが加速して行った。これにより教祖派が置き去りにされて行くことになった。 |
【明治21年4.29日、「東京に於いて御供を出す願」に対するお指図】 | |
4.29(陰暦3.19)日夜、本席に「東京に於いて御供を出す願」、「めどう札を出す事じっとする願」を伺った。本席は次のようにお指図している。
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【明治21年5.23日、「松村吉太郎の授けのこと伺い」に対するお指図】 | ||
5.23日、松村吉太郎が、東京でお授けを渡したいと云い始め、「授けのこと伺い」に対するお指図。
押して、「代理勤めは内々授けの代理なるか」の伺いに対するお指図。
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【明治21年6.3日、「本席御障り」の伺いに対するお指図】 | |
6.3日(陰暦4.24日)10時頃、「本席御障り」につき次のようなお指図している。
これは、概略「教祖が身を隠されてからのたったの一年足らずで、『天理王命だ、神道天理教会だ』というのはけしからん。かんろだいに関係のないおつとめを作るような本部は認められない。大和へ帰ってくるように」との含意が込められている。 |
【明治21年6.4日、「山本利三郎伺い」に対するお指図】 | ||
6.3日(陰暦4.24日)午後4(10?)時頃、山本利三郎伺いにつき、本席は次のようなお指図している。
世界にあわせることはないのだけれども、応法的に世上に合わせて神道天理教会本部というものを許した。しかし、今やかんろうだい一条の道に戻すために東京本部を廃止して大和へ移転xさせる。案ずることは無い、神が働く、、との指図であった。 |
【明治21年6.23日、「山沢為造ら神道派の本部を東京に置く神道式教団を作る動き」に対するお指図】 | ||
6.23日、山沢為造らの神道派が、本席がかんろだいづとめにうるさいなら、元のぢばに分教会を作り、そこでかんろだいづとめをやれば良いのではないか、本部は東京であり、ここに全国の講社を束ね、神道式の教団を作るとの態度を見せ始めたのに対するお指図。
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【明治21年7.2-3日、「本部をおじばに移転させる件について」のお指図】 | |||||
その後、再三厳しく本席様の身上に障りをつけて、いち早くのぢばへの移転を促された。お伺いすると、 7.2日のお指図。
7.3日、「教会本部をぢばへ引移(ひきうつ)りの事を押して願い」につき、次のようなお指図が為された。
7.3日、お指図。
本部をおじばに移転させる件についての重ねてのお指図。
「人間思案に迷わぬように いち早く」とと教示されたので、心を決めて手続きにかかった。
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【本部のおぢば移転の届書き伺い】 | ||
7月11日(陰暦6月3日)、本部をおぢばへ移転するにつき、奈良県庁へ届書にして宜しきや、又、願いにして宜しきや伺い。
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【別席が始まる】 | |
明治21.7.15日に「平野樽蔵身上より平野トラお授け順序願」を伺われた時から取次ぎ3名による別席が始まる。 7月、平野樽蔵伺いにつき、本席は次のようなお指図している。この時、平野は初代真柱と共に東海道をおぢばに向って歩いて帰って来て、山澤為造や初代真柱の代わりになって、概要「本席は、かんろだいに関係のないおつとめなどけしからんと云われるが、東京本部にはかんろだいがありませんので致し方ありません」と反論していた。これに対する返答である。
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明治21.9.21日お指図により、別席は三度受けることになる。明治21.12.25日お指図により三度の別席は三ヶ月に三度運ぶことになる。こうして、明治22年頃から別席を運ぶようになるが、本席は一日3名と定めていた。が、その後6名となり、明治22.10.17日お指図により「一日一席9度」となっていくことになった。更に、盛んになることによって、「一日一席9度」を本部の先生が代行するようになった。こうして、一日に幾十名もの席が運ばれるようになった。当初は、お授けは本席直々のものであったが、「お書き下げ」が代行することになった。 |
【「天理教会所移転届」を奈良県知事宛に提出】 |
本席の叱正により「天理王命のつとめ」は廃止され、天理教会本部も大和へ移転するよう命ぜられた。 7.22日、東京で認可を得た勢いのまま「天理教会所移転届」を奈良県知事宛に提出した。この願書は、初代真柱を筆頭に信徒総代として、市川栄吉(後の城法大二代)増田甚七氏(後の郡山大二代)、飯田岩治郎氏(後の平安大初代)という土地の知名度の高い三人の素封家の名で出願している。 |
【「天理教会本部がお屋敷に移転されることについて」のお指図】 | |
7.23日、天理教会本部がいよいよお屋敷に移転されることについてのお指図。
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【神道直轄天理教会本部を現在の教会本部所在地へ移転】 | ||
7.23日、真之亮は、橋本清を帯同して奈良県庁へ出向き、「天理教会所移転届」を提出した。この願書は、初代真柱を筆頭に信徒総代として、市川栄吉(後の城法大二代)、増田甚七氏(後の郡山大二代)、飯田岩治郎氏(後の平安大初代)という土地の知名度の高い三人の素封家の名で出願している。こうして、天理教会本部はお屋敷に移転された。その功があって許可された。
7.24日、天理教会本部がおぢばに帰ってきたことによりとつとめ場所が増築された。つとめ場所を南に増築、ぢばを取り込んで神殿を建てるべく着手した。10月、落成する。増築した部分に、神床が作られ、そこに社が祀られ、かんろ台を据えている場所が床の下に埋没した。それに対して、本席は、「そんなことは許さん。床を抜け。天上も抜け」と次のように指図した。
この時、「二つめどう」とも指図している。真意は、天理王命の神道式お社がどうしても避けられ為いのならそれは止むを得ないにしても、かんろだいも見えるようにしてめどうとせよというところにあった。この頃より、教会本部だけでなく、各地方の講社でも、社が祀られることとなった。 明治21年以来天皇家の先祖を象徴するお社が祀られていた。これに関して、本席は、次のようにお指図している。
この祭り型によって、神社や神道と同じように思って、ご存命の教祖さまという話しをする者も出てきていた。さらに10年、20年、30年と年を経るとともに、上への忠義孝行を説く天皇神道因果応報を説く日本仏教、分をわきまえさせる神学道話など、あちこちの教えが入り混じって、教祖伝もそれにあったように作られ、語られていくようになる。 |
【「中台勘蔵が、天理教教会本部の奈良移転をしないで済むようにお願いした時の」お指図】 | |
7.31日、東京の教会本部の場所に1200円という大金を払って寄進した中台勘蔵が、天理教教会本部の奈良移転をしないで済むようにお願いした時のお指図。
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【東京の神道直轄天理教会本部は出張所となる】 |
8.5日、東京の神道直轄天理教会本部は出張所となり、後に東分教会→東大教会へといたる。 |
【「松村吉太郎のぢばで尽くすべきか、高安の家で尽くすべきかの再度の伺い」に対するお指図】 | |
9.25日、「松村吉太郎のぢばで尽くすべきか、高安の家で尽くすべきか、何れにしてよいかの再度の伺い」に対するお指図。
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【「東京講社事件に付き伺い」に対するお指図】 | |
10.12日、「東京講社事件に付き伺い」に対するお指図。
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【みかぐらうた本公刊】 |
11.1日、みかぐらうた本が、本部より公刊された。 |
【神道直轄天理教会本部開筵式が盛大に挙行される】 |
11.28日(陰暦10.25日夜)、鎮座祭。 |
【上田ナライト27歳の時、結婚について伺う】 | |
ナライトは、教祖に「一身暮らし」と仰られ、一生独身を通すようにといわれていた。教祖の身の回りのご用である炊事、掃除、 針仕事、機織りなどの「守り」として、増井りんをはじめ多くの者がつとめられていたが、「一身暮らし」はこかんに続いて上田ナライトだけに仰せられていた。 11.30日、ナライト27歳の時、結婚について伺った時のお指図。
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【山名分教会(諸井国三郎会長)の直轄分教会を皮切りに続々設置される】 |
12.5日、山名分教会(諸井国三郎会長)の直轄分教会設置願いが出され許された。山名分教会が設置されると、その下に部下教会が次々と設立され、信仰の道は遠州から中部、関東、東北へ、さらには台湾へと伸び広がっていった。山名分教会の名称は、1908(明治41)年に天理教が神道から一派独立をした翌年の1909(明治42)年に山名大教会と改称した。その後、山名大教会から分割または分離した大教会は12カ所に上り、現在は、国内に392カ所の分教会、台湾に6カ所の教会があり、親神様の御守護、おやさまのお導きを戴いて、世界一れつ心澄まして互にたすけ合う陽気ぐらし世界実現に向けて更なる歩みを進めている。 |
12.11日、郡山天竜講の郡山(平野樽蔵)が続いた。山名、郡山の二教会の設置を皮切りに続々と「教会」のお許しをいただき、認可、設置されて行った。こうして、講を母胎として教会へと組織を変え、それまでの講が単独で、もしくは連合して教会になっていつた。高安、中河、大縣、古市、大鳥などの教会がそれである。翌年1.15日、大阪真明講の芦津(井筒梅治郎)、大阪明心組の船場(梅谷四郎兵衛)、神戸真明講の兵神(清水与之助)、2.18日、斯道会の河原町(深谷源次郎)、3.3日、河内の講社より中河、高安(松村吉太郎)、8.26日、撫養(土佐卯之助)、東京の東(上原佐助)が出され、次々講社が教会叉は支教会の名乗りをあげていった。 |
【奥六兵衛が天輪王明誠教団を立教】 |
この年、奥六兵衛が造反し天輪王明誠教団を立教している。 |
(道人の教勢、動勢) |
この年、郡山天龍講(郡山、平野楢蔵)、遠江国真明組(山名、諸井国三郎)が講を基として教会となった。 |
1888(明治21)年、後の天理教山名大教会三代会長/諸井慶五郎の兄の諸井政一(12歳)がおぢば参拝、入信。1903(明治36)年、出直す(享年27歳)。その15年の間、諸井は教祖直弟子の人々から教祖のお言葉など、真剣に神一条の話を聞き、聞書を書き留めた。その聞き取り態度は几帳面で、また記述が厳密で、教祖伝史料の白眉となっている。その筆録が本人没後35年を経て遺族の手で一本にまとめられた。「正文遺韻」がそれであり、その改訂版の「改訂正文遺韻145P」(諸井慶徳、天理教道友社、昭和28年2月26日初版)は版を重ねている。 |
(当時の国内社会事情) |
1888(明治21).4.25日、市制・町村制が敷かれる。4.30日、枢密院設置(議長・伊藤博文)。第一次伊藤内閣から黒田清隆内閣へ。5.9日、日本社会主義同盟結社禁止。6.18日、雑誌日本人が、高島炭鉱の惨状を告発開始、世論沸騰する。7.15日、磐梯山大噴火、444名死亡。10.27日、皇居の造営落成、宮城と改称。12月、暁民共産党事件で近藤栄蔵らが検挙される。 |
(宗教界の動き) |
官国幣社の神官を廃止し、宮司・禰宜・主典の神職を置いた。宮司は奏任官、禰宜・主典は判任官の待遇とした。 |
(当時の対外事情) |
1888(明治21).11.30日、メキシコと修好通商条約調印。最初の対等条約となる。 |
(当時の海外事情) |
1888(明治21).5.13日、ブラジルで奴隷制廃止。 6.15日、ドイツ皇帝にウィルヘルム2世即位する。 |
(私論.私見)