第82部 1887年 明治20年 伊蔵、本席に定まる

 

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「伊蔵、本席に定まる」を確認しておく。「伊蔵、本席に定まる」前後事情は、植田英蔵氏の「飯降伊蔵伝」(善本社、1996.11.26日初版)の106Pから114Pが詳しい。これを参照する。「別章【明治20年お指図】」。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【天理教撲滅講演会と破仏講演会】
 この頃、天理教撲滅講演会が各地の寺院で開かれていた。前年にも教興寺で開かれており、教祖御昇天直後に動きが慌しくなった。3月、河内国刑部村にて天理教撲滅演説会。これに対し、お道の高弟の橋本、中野、平野、守屋秀雄、松村吉太郎、松村亀次郎らが対抗して破仏講演会で切り返した。

【伊蔵のお指図】
 みき教祖出直し後、伊蔵のお指図が「お道」の指針として登場することになった。お指図には、みき同様の突如の神がかりで為される「刻限お指図」、「お道」の舵取りに指針を打ち出す「神示お指図」、信者などの伺いを神に取り次いで神がかりになって教示する「尋ね事情お指図」の三通りがある。

(私論.私見)

 お指図は、教理的には教祖のお筆先に代わる、それに準じたもの、但しそれ以上のものにはなり得ないものとして受け取るべきであろう。

【みさと氏のお指図考】
 みさと氏の「天理と刻限」「天理教学の展開を求めて 」は、お指図について次のように解説している。
 教祖ひながたの道は出発点であり、その後に進むべき方向を見失って迷うことのないように、教祖存命同様に「おさしづ」を通して道の順序が指し示され、逆境の時代を連れて通られたのです。本席亡きあと昭和20年に至るまで応法の時代は続きましたが、『見ゑん事』を預言しておいて『先で見ゑたら』神の証拠となることは、原典『おふでさき』にもしるされているところです。重ねて申せば、20年間にわたる『おさしづ』は、応法の道を選ばざるを得なかった逆境の時代を無事に連れて通るために、教祖存命同様の理によって、刻限と伺いを通して神意を啓示された原典であります。その中には、個人の通り方のみならず、道全体(とくに鏡やしき・ぢば)のあり方を厳しく仕込み、来るべき刻限を予告されているお言葉が数々下されているのです。

【明治20年2.17日、「扉を開く」お指図】
 2.17日、お指図。
 すっきりろくぢにふみならすで、さあさぁ扉を開いて/\、一列ろくぢ、さあろくぢに踏みだす。

【明治20年2.18日、「親の命を二十五年先の命を縮めて」お指図】
 2.18日、お指図。
 これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だんだんに理が渡そう。
 子供可愛い故、親の命を二十五年先の命を縮めて、今から助けするのやで。しっかり見ていよ。

【教祖の葬儀】
 「ひとことはなし その2」の75P「教祖御帰幽の時の御模様」は次のように記している。

 「廿六日教祖御帰幽より二月一日葬祭の当日迄六日間遺骸を棺に容れ蓋を放ち置きたるに毫末も臭気なきのみか、御面色は生時に於けるが如く、笑を帯び安眠せらる有様なりし」。

 2.23日(陰暦2.1日)、教祖の葬祭が教会本部にて執り行われる。斎主を守屋神社(村屋坐弥富都比売神社)祠官の守屋秀雄、副斎主・笠松古輝。天理教の儀式に雅楽が取り入れられた最初と云われている。奉楽奉仕者は春日大社や神道本局など教外の人が主だった。おくり名は「真道弥広言知女命」(まみちいやひろことしりめのみこと)。全国から5万余の道人が寄り集まり、近郷近在の民家は皆旅館と変わり、お屋敷から頭光寺山(勾田村善福寺墓地)にかけて人々々で身動きさえできかねたと、伝えられている。(村上道昭氏の「教祖を身近に 連載 第23回教祖の御遺骸」参照)火葬後、善福寺に埋葬される。
 1892(明治25)年、現在の豊田山に土地を購入し、6月に墓地設置許可を得て、7月に着工。ひのきしんにより12月初旬に竣工した。12.13日(旧暦10.25日)、十数万人の参列のもと改葬を行ったという。神戸の御影山から兵神分教会部内の手によって運ばれた御影石に刻んで墓標とした。神号は1926(昭和元)年の教祖40年祭のときまで祝詞で使われていたが、大正時代から昭和初期の「復元」の動きを受けてか1936(昭和11)年の教祖50年祭以降は用いられなくなった。墓標は墓前の目立つ位置に建てられていたが、1975(昭和50)年の教祖90年祭のときに垣の奥に移設された。しかしながら、墓標の撤去はされていない。「ここにアンビバレンツな思いが伺われる」とある。

【教理派と応法派の対立】
 教祖の葬儀が執り行われた後、今後のお道の継承と運動の進め方を廻って、伊蔵を代表とする教理派と、真柱・真之亮を代表とする応法派の対立が露わになった。

【伊蔵の刻限話し始まる】
 教祖がお隠れになって一ヶ月近く後の2.23日夜、伊蔵に非常な障りあり、その時次のお指図が為されている。
 どうしてもどうしてもいかんなれど、いかんと云えば赤衣にならしてしまう。

 この時のことを、当時20才だった伊蔵の長女よしえが、後年次のように語っている。
 あの通り苦しんで衰弱されると、とても三、四日の命も難しい。どうした訳か、真柱様はこられず、もしもそのうちに父様が亡くなったら後に残った家族の者らはどうしよう。今更いちの本へは恥ずかしくて帰ることもできず、いっそのこと親子四人手に手をとって、河内の国(大坂)の方へでも行って、例え乞食するとも二度と大和の土地は踏まんとこうといって、母子で抱き合い泣き泣き語りおうた。かく申し上げますと、いかにも弱い精神のようでありますが、長の年月、教祖様を頼りとして、唯、言葉一つの理を命の綱とも頼んで来た、その教祖様は、今はこの世の方ではございません。教祖様のお隠れになったあとのお屋敷というものは、人間心ばっかりやった。続く不幸の昨日今日、実に、その時の私どもの心の苦しみは一通りではなかった。口ではとてもいうことができん。この時の有様をくわしくいえば、人を憎むようになるさかい云わんとくが、それはそれは、苦しいものやった、泣くに泣けないと云うような風でした。
 父様があの通り身上が迫っては、とても二日の日も保つまい。あれほど神様がお呼びになっても、どうした訳か真柱様は来られず、もしもそのうちに父様が出直さはったら、後に残った家族の者らはどうしようか、教祖様は『一つの世帯、一つの家内と定めて伏せ込んだ』とおっしゃろったけど、今の状態では案じられる。今更いちの本へ帰ることなんぞはできず、いっそのこと、親子四人(伊蔵の妻おさと、よしゑ、まさゑ、政甚)で河内の国の方へでも行って、乞食をしようとも大和の土地は踏まんとこうと云うて母子泣き泣き語り合うたのやった。こういうと、如何にも弱い精神やと思うやろうが、教祖様の御昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、永の年月、教祖様唯お一人を頼りとして、又お言葉を信じて連れて通って貰うたのに、その教祖様はこの世のお方ではなく、そんな時にこの有り様やから、とてもとても苦しみは一通りや二通りではなかったのや。口ではとても云うことができん。この時の有り様を詳しく云えば、人を恨むさかいに云わんとくが、それはそれは苦しいものやったのや。(「復元」第3号所載の「永尾芳枝祖母口述記」)
 (つづき)それから数年を経て、明治廿年旧二月十七日から父が御本席とならせて頂くについて、父の身上が今か後かのような重態に陥ることが再三ございました。忘れもいたしません、同月の廿三日の晩、仲田のおかぢさんがお越し下されたので、暫く留守を頼んで、父には隣のさんぞう≠ウんのところへお風呂をもらいに行くというて、母が私を連れて家を出たのであります。お風呂を入れてもらうというのは口実でありまして、母が私を連れ出しましたのは、私に「乞食になる」決心をさせる為でございました。「父もあんなに身上がせまっているから、今日中にもむつかしいやろう。神様でもなくなられたことを思えば、明朝まで一晩保(も)とうまい。もしかの場合には、晩のうちに頭光寺(づこうじ)へ親子四人で葬って、葬祭を済ませた其の足で河内の方面へ乞食に行こう。櫟本へは二度と帰れないから、河内へ四人揃うて乞食に出かける精神になってくれないか」と母から頼まれたので御座います。(中略) 何故二度と櫟本へ帰れないというたかと申しますれば、次のような事情があったのでございます。これより先、お道一条の精神を定めて櫟本からお屋敷へ越して参ります時、近所の人達からいろ/\なだめられ、「乞食する覚悟があれば行きなさい。あんなところへ行って何が見込みがありますか」と止められましたが、その中を押し切って参ったからでございます。(中略) 勿論私は母の説に心よく承知いたしましたので、直ぐ父のところへもどりました。今当時の母の心を察しますと、どんなにか悲壮な決心であったゞろうかと、涙ぐましい気持ちがいたします。こうしたことどもは、なか/\忘れられないもので、年限たつにつれて御教祖様は申すに及ばず、両親の苦労なすったことがはっきり感じさせて頂くようになりました。神様のお言葉に『年限のうちは、どんな道も通らにゃならん、通さにゃならん』又『事情は修理肥といふておくから、これわからねば風のたよりにつたへてゐるも同じ事、ほんにあれだけつくせばこふのふなくばならん。(中略) つくしたゞけはどこからなりとでゝくるほどに、さあつくしぞんにならんで』と仰せられてありますが、大正二年一月廿七日から数年の間、一寸したことがもとで、云うに云えない泣くに泣けないような事情が起ったことがございます。これは私の一生を通じて最も苦しかった道中であろうと思います。こうした苦しいどん底にあって思い出すのは御教祖様の御道すがら、又そのお言葉で御座います。『日々麦御飯にトミソガラ(醤油の実)を食べて暮して居っても、人様につきあう時には鯉の焼物で日々食べて暮して居るような顔つきで、人を大切にせにゃいかんで』と聞かせて頂いて居りますので、自分がどんな苦しい道を通って居りましても、日々の生活に困窮して居りましても、出来るだけ人様に満足を与えようと力めることが出来ました。こうして自分自身が苦労の道を実際に通らして頂きますと、一層御教祖様や親達の御苦労下されたことが心の底に染み透るように感ずるので御座います。(「聞かせて頂いたままに(その七)」)。

【明治20年2.24日、「神の自由自在」お指図】
 2.24日午後7時、お指図。
 さあさあ分からん々、何にも分からん。115才、90才、これも分からん。25年不足、どうであろう。これも分からん。どうしても、こうしても、すうきり分からん。故に25年を縮め、助けを急ぎ、扉を開いて世界をろくぢに踏み均しに出た。神でのうてこの自由自在は出けようまい。止めるに止められまい。神は一寸も違うた事は云わん。よう聞き分けてくれ。これから先というは、何を聞いても、どのような事を見ても、皆楽しみばかり。楽しみや。よう聞き分け。追々刻限話をする。

【明治20年2.25日、お指図】
 2.25日、お指図。
 第一をびや助け、さあ三日目三粒を三つ、三三九つを百層倍。これをかんろだいへ供え、本づとめをして元のぢばなる事を伝え、をびや許しを出す。

【明治20年3.4日、お指図】
 3.4日、刻限お指図。伊蔵の「刻限のお話し」があり、常の態度と全く打って変わって何か巨大な力に圧倒されたように、大声でワッと二声叫ばれて次のように陳べられた。
 さぁさぁ身の内にどんな障りがついても、これはと云うことがありても案じるではない。神が入り込み、皆な為すことや。

 「おいおい刻限話をする」の諭し通り、折々に伊蔵に神が入り込み、刻限話とお伺いに対するお指図を下していくことになる。

【伊蔵が身上に伏せる】
 こうした最中の3.11日(陰暦2.17日)、伊蔵が身上に倒れた。みきの後継者として重大な責任を感じて悶々としていた伊蔵に異変が現われた。伊蔵は、以前媒酌した菊地安太郎の慶事に招かれ、その際の酒宴の席で急に悪寒を発し退席、これ以降、床に就くことになった。この時の病状が次のように語られている。
 「それから原因不明の高熱となり、全身から汗が流れ始めた。奇怪なことに、その汗は普通の汗ではなかった。妙に粘つき、まるで飴のように糸を引くというものだった。体を手拭いで拭いても次から次へとその粘ついた汗が吹き出して来た。しかも両目はカッ―と見開き、眉は吊りあがり、口を食い縛り唇は醜く歪んでいる。その苦しみようは直視し難いものだった。異常なのは汗だけではなかった。それにも増して奇奇怪怪な病状を呈した。寝ている伊蔵の右の肋骨がひとりでに一本ずつ、次々とブキブキと音を立てて折れ始めた。その都度、激しく痙攣しながら苦悶の表情を浮かべる。右の肋骨が全部折れると、今度は同じようにして左の肋骨が全て折れた。全部の肋骨が折れ終ると、やがてコツコツと音がしてひとりでに一本ずつ嵌まっていった。側についていた人にもその音が聞こえたと云うから尋常ではない。伊蔵の後日談によれば、肋骨が一本ずつ折れる間は、骨と骨との間に煮え湯が沸きたつようなもの凄い激痛であったと云う」(「天理の霊能者」80P参照)。

 伊蔵の熱が激しく、玉のような汗が拭う間もなく流れ出て苦しむようになった。床に就くようになり、その間刻限話しが為されたが身上はますます深まった。切々とみきの教えである神一条の信仰の大切さを説きつつ「真之亮を呼べ、直ぐ真柱を呼んで来い」と指図した。しかし、どういうわけか、真之亮は伊蔵を無視する態度を取り続けた。

 伊蔵の異変は熱ばかりでなく、あばら骨のきしみも交えていた。次のように伝えられている。
 「あばらの骨が一本ずつ、ぶしぶしと折れていく。その次の骨が折れて行くまでに、煮え湯が沸いて、暫くじっとすると思うと、又次の骨が折れていく。こうして骨がすっかり折れてしまった。それから、又、こちこちと音がして、一本ずつはまっていった。又続いて、片一本の骨が同じく一本ずつ折れて、又一本ずつはまっていった。その時もまた体内で熱湯が煮えているように苦しくてならなんだ」。

 この過程は後に、「人は変わりても理は変わらん。綾錦の仕事場にする為に、やかたの芯の骨を入れ替えた」と諭された。

 この時期、伊蔵のお指図が次のように為されている。
 これまでは、埃の仕事場所であったで、席と改め名をつけて、綾錦の仕事場所にするで、今館の骨を入れ替えたで。
 これから先は、黒衣を着せて、5人居ても、6人居ても、どれが席やら分からぬようにして働くで、働かすで。

【明治20年3.13日、お指図】
 3.13日(陰暦2.19日)午後7時、御諭し。
 さあさぁ何も分からん。その中より始め掛ける。澄み切りた容れ物と、泥水の容れ物と、皆々渡したで。濁りたる水を、今一時に澄まそうと思うても、澄まする事がでけんで。神が何を言うやらと思うであろう。そうではない。見て居よ。一家の内でも同じ事渡してある。澄んだる容れ物には一つの印が渡してある。よう聞き分け/\。

【明治20年3.14日、お指図】
 3.14日(陰暦2月20日)午後8時、身の内の事御諭し。
 取り直せ/\。何をこうと思い、あれをどうやと思い、末一つを案じる。何にも案じる事は要らん。取り直せ/\/\。身の内のところ、さあつとめせねばならん、どうやろうと思う。何にもつとめも要らん、じいと見て居るがよい。先々より聞かしてもある。今息切れたという事もある、と、いうまでもあるとの事、心配は要らん。我が身で我が難儀をして居るのや。起きたらどうせねばならん、これもあゝせねばならん、と思い。何にも思う事は要らん。長々の道筋苦労を掛けたる事、皆な受け取りてある。どんと心を落ち着いて、喰いたい物を何なりと喰べて、じいと寝て居たらよい。じいと寝て居れば何処も悪いではない。何も心配は要らぬ。見て居るがよい。

【明治20年3.15日、お指図】
 3.15日、刻限お指図。
 さあさあ急がしい/\。掃除や/\。あちらに一寸、こちらにもそんな事あるかいな、と、思うている。違うで。さあ掃除や。箒が要るで。たくさん要るで。使うてみて使いよいは、いつまでも使うで。使うてみて、使う勝手の悪いのは一度きりやで。隅から隅まですっきり掃除や。

 こうした刻限話が次から次と発せられたが、身上は重くなるばかりであった。


【明治20年3.16日、お指図】
 3.16日(旧2.22日)午後2時、刻限お指図。
 さあさぁこの世に機械が悩んで居る。米も沢山、水車も沢山ある。ありながら、どうも機械が揃いない。それで、どうも白米にする事ができん。機械が揃いなけねば、一人の機械も使う事でけん。それぞれへ身の内障りつけてある。水も沢山、どうで白米にせん事には喰べさす事ができん。こゝをよう聞き分けて、タンノウしてくれねばならん。
 午後3時、御諭し。
 さあさぁ古い道具もある、中年の道具もある。それぞれ道具の破損中や。何も案じる事は要らん。
 午後8時、刻限御話し。
 さあさぁ始め掛けた/\。六年の間、六年以前より道筋、どのような事もあったであろう。何でや。天理王命の旗をあちらこちらに立て、何と変わるもの。一人も寄せつけなんだ日もあった。又黒衣を着せた日もあった。実が誠か、誠が実か。見えねば分かるまい。そこで得心が行ったやろう。
 午後11時、刻限御話し。
 さあさぁ変わる/\。今まで弱き者が強くなる、今まで強き者が弱くなる。目に見えねば分かろうまい、離れては分かろうまい。傍にありても敵うまい。月が代わればころっと変わる。弱い者が強くなる、強い者が弱くなる。そこで分かる、という事を知らしておく。

【明治20年3.17日、お指図】
 3.17日午後3時、お指図。
 治めるで/\。いかなる事も今までや、どういう事も今までや。世界からでけて来る事なら是非はあるまい。扉を開いて出て居る。見ても聞いても案じるでない。皆な神の働きやで。
 同日午後4時、お指図。
 さあさぁ治めにゃならん/\。何処(どこ)も彼(かしこ)も皆なすっきりと治める。どのような事も、見るも聞くも皆な治める。どのような指図聞くも、神の指図聞くと思わねばならんで。
 同日午後7時、刻限お指図。
 さあさあ今までというは、仕事場は、ほこりだらけでどうもこうもならん。難しい難しい。何も分からん。何も分からんではない。分かってはある。なれどもほこりだらけや。さあさあこれからは錦綿の仕事場、錦を仕立てるで。

【明治20年3.18日、お指図】
 3.18日、御話し(午前に一座のつとめを願い、つとめ済み次第)
 さあさぁ抑えた/\。しいかり踏み止めた/\。
 同日夜、刻限御話し。
 さあさぁどんどんどんと車に積んで引き出すような話しやで。早いで/\。さあさぁ何事と思うやない。大きな石をどんどん引き出す。あゝ/\/\こうであったか。難しい事言い掛ける。聞いたるまで分からんで、胸にしっかりと持って居よ。聞いたるまでは刻限十分外すな。あちらより一本、こちらより一本。あちら幾本、こちらより幾本。それをちゃんと寄せて仕上げる。

【明治20年3.19日、お指図】
 3.19日午前1時20分、刻限お指図。
 さあさぁしっかり聞かねば分からん/\。分からん事は尋ね/\。尋ねにゃ分からんで。今までの長(の)道中(に)、道の事情によりて(は)、まこと(に)難渋な事もあり、情ないと思う事もあり(た)。その中(で)内々一度二度より、ほんに面白いというような事がなかったで/\。さあさぁようよぅようよぅの処(の)道なれど、どうも一つ(神の思惑通リのつとめをすること)が分からんによって、残念/\と言うて口説き詰め(て来た)。このまゝでは、悧巧な子供もあり又鈍な子供もあり、このまゝでは楽しみがない。仕事場と言うてあれども、言うて持ち込んだ。それ故に、やりたいものが沢山/\にありながら一寸かくれた。残念/\と言うのは、渡さにゃならんものが渡さなんだが残念/\。西から東へ、東から西へ、北から南へ、さあさぁ尋ねに行かねば分からん事情。これから先の道は言うまでやない。
 同日午前5時、刻限お指図。
 さあさぁ多く/\のその中に、今の道ほど偉い道、今の道ほど堅い道はない。さあさあ今の話しは皆な今までの言い残りやで。今まではこの結構なる道を、まこと結構と思うて聞く者がない。今までというは聞いたる者もあり、その場限りの者もあり、聞かぬ者もあり、そこで日が延びたのやで。世界では、どうやろうかこうやろうか、ぶっ潰れるであろうか、いや、そうではあろまいか。これではどうもならん、あれではどうもならん。もうやめようか、もう一つ行こうか、さあどうもならん。さあどうしよう。これ皆な名々の心からやでな。

 この間伊蔵は真柱を呼び続けていたが、来なかった。伊蔵の身上障りはさし迫るばかりで、一向に回復しなかった。

 同日、午後12時、刻限御話し。
 さあさぁ思案/\、今一時直ぐ、早く/\。これから段々刻限話し。さあさぁもうその場踏んで、後はあちらこちら聞きに来るよう、いつまでも同じ事をする。たゞこうきという。それぞれのところより刻限、赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ、さあさぁ段々早や/\。たゞ仕事場、それと言うは、元々より聞き込み足らん。今に聞いてる者もある。これを聞いておけ。一度二度何にもならん。又つとめ一度二度、大抵方はよい。元の方は言うてる場何やら分からん。これまでというは、日々守りをつくというは、幾度も早く守りの指図あれども聞き遁がし。これは磨き立て、掃除を行き届き。さあさぁ何を尋ね聞いてくれ。あちら静か、何でも理に適う事なら何時にても尋ね変え、二度三度も尋ね。一言聞きて名々の事を忘れ。

【明治20年3.20日、お指図】
 3.20日(陰暦2.26日)午前4時、「真柱代理伺い」に対して、次のような神示お指図がなされた。
 幾重の話聞く。大工というて知ったは神一条、仕事場は神一条、北は鍛冶屋、南は大工で、神一条。さあさぁ尋ねるところ事情知らす。又々心で知らしおく。どうでも皆その日来るなら、働きも十貫目渡るもあり、二十貫目渡す者も皆心次第。これ心尽せし程、目札を付けて渡す。さあさぁ付けるとも。刻限事情を知らす。大勢ではざわ付く。誰が筆執れは言わん。さあさぁ一人ではよいのやで。大層せいとは言わん。神の指図言わん。
 同日午後1時30分、刻限お指図。
 一寸正月二十六日、これまで話してある。さあさぁ事を始め。二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。さあさぁ今一時世界も分からず、世界も不思議や。それぞれの道一寸付け掛けた。
 同日午後4時、刻限御話し。
 さあさぁ刻限、さあさぁ騒がし。刻限一寸なりと言うておく。どうでもこんな事なら、もうちいと早く思案、四五年前に纏まりついてある。今はどうで、明日はあなた道の思案、不思議な道である。今一寸話しておく。
 同日午後7時、刻限御話し。
 さあさぁさぁさぁ所々国々、さあさぁ行き亙る。月々段々これまでの道。十分手広い道もそろそろ印しを打ち掛ける。さあさぁいつとは分かるまい。さあさぁ今に印打ち掛ける。何処から何処まで危ない道、さあさぁ何処の何処までも治まる。さあさぁ一寸話しておかねばならん。いつまで諭しても聞くばかりでは忘れる。どうせこうせとは言わん。今と言うたる事は一つ心ない。用心に取り掛かり、真の夜闇がどうもならん。休んである場で取次ぐ。その心に乗りて指図する。暫くの間は、どうよこうよ、こういう事はすっきり止めおくがよい。
 同日午後9時、刻限御話し。
 さあさぁ道からよう聞け。要らんところへ目を付け、成る程というはそれぞれ善し。さあこうやどうや皆な神がして居るのや。願うてでけん、願わずでける。さあさぁどんな事をしても適わん。名々のために何も構わず、いずれの地面、彼処の地面構わず、誰が真の思案。
 同日夜10時の刻限お指図
 それぞれ聞いて一寸問い、組替え楽し道なるや。こうなる願の道、言う事ももうとっと楽しむ内々、刻限成る成らん、道何をして居るやら、こういうようなことも言い。聞き分け、よう聞き分け。刻限延ばし、さあさぁ思案。五十年目に、目で見て改心。日送りして言い、話しておく。

【明治20年3.22日、お指図】
 3.22日(陰暦2.28日)午前2時、刻限お指図。
 さあさぁ放っておけ/\。誰彼を仇と言うのやない。大風/\、大風は何処にあるとも知れんもの。大風というものは、どのようの大きな物でも倒(こ)ける潰れる。大風やで。風は神や。風が借り物のうては、箱に物を入れて蓋を閉め切りた如く、腐ろうより仕様のないもの。風がそよそよあるので、半日や一日は送れるで。人の言う事を腹を立てるところでは、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう心澄み切る教えやで。今までの修理肥で作り上げた米が、百石貰ろたら、百石だけある間は喰て居らるゝ。今度ない世界を始めたる親に凭(もた)れて居れば生涯末代の授けやで。これは米に諭して一寸話しておく。
 同日午前3時、刻限お指図。
 外の事、どういう事を運び付け難ない。どうこうと思わぬ。どういう事も言うに及ばぬ。どうでもこうでも、一寸の匂い難しく言い掛ける。又それぞれのところ、何と一寸摘もんたところに早く行かんで。
 同日午前4時頃、刻限お指図。
 何よの事も何から何のこと聞き遁(のが)しする故に堪えるに堪えられん。聞き遁さず、百度二百度三百度やない。堪えるに堪えられん。名々それぞれ早く、何の願い、大抵の事はそれよりそれへ伝え。伝えるだけはせねばならん。いつまでも/\書いた如く、こういう事が聞いては伝え。出る前に伝え。

 このようにお指図が為される中、伊蔵の苦しむ様子をみて、遂に辻忠作、桝井伊三郎がたまりかねて真柱を呼びに行き、相同席となったのが25日である。

【明治20年3.23日、お指図】
 3月23日(陰暦2月29日)午前7時、御諭し。
 さあさぁ待ち兼ねた/\。東京/\長崎と言うてある日が来た。理あれども一つが分からん故に、やるものもちゃんとしてありながら渡す事ができなんだ。これが残念。さあさぁ東京長崎いかなる道、名々の道通らぬよう。いずれ/\刻限を見てやるものある、渡したいものもある。なれど渡すに渡せん。今は言うだけ渡しておく。

 (教祖の御言葉にて御聞かせ、右二件は、東京上原、大阪井筒両人をめどうとしての御話しと悟ります)
 同日午後3時、御諭し。
 何にも外事は言うではない。どうしよう、こうしようと思えども、どうもならん。一寸匂いを掛ければ情ない事、煩い事と思う。どうも道のつけようがない。難しい。運びのつけようがない。是非ない事。

【明治20年3.24日、お指図】
 3月24日(陰暦2月30日)午後10時、今日までの御話しの中に、確かなる事もあり、又案じる事もある故に、飯降伊蔵御障りの次第を先生方相談の上願い。
 身の内のところ、よう尋ねてくれた。再度尋ねてくれるところ受け取りて居る。余の事は言わんで。尋ねる一条、尋ねくれるも余儀なき場や。もうこれまでや。刻限も十分経ち切り、早く/\何事も諭さにゃならん。
 山田伊八郎身上願い(咳にて三晩咳き通すにつき伺い)。
 さあもう十分日が詰み切ってある。もうはじけんばかり。もうせえつうが来たるから、この間から角目/\の話し聞いて居る者もあり、すうきり知らん者もある。よって知らん者には聞かしてくれるよう。見れば否や、思えば否や、言えばそのまゝ見える道に成りてある。さあさぁ家内それぞれのところ、さあこれはどういう事や知らん、どういう道になろう。さあいよいよ綾や錦仕事に成りてある道、さあどんと心落し付けてくれにゃならん。さあ筆先の角目/\、又これまでに聞かしてある話しの角目、よう思案してくれにゃならん。 

【伊蔵が本席に定まる】
 3月25日(陰暦3月1日)、刻限御話し。
 さあさぁさぁ一日身につき、三段の芽吹く治まりおく。今すっきり片づけ。すっきりもうよき。もうか知らん、どうや知らん。分からん者すうきりという事、今の話し筆につけおけ。
 3.25日午後5.30分、刻限お指図。
 さあさぁあちらこちら、摘まんだような事を聞いて居た分には分からんで。これしっかり聞き分けねば分からん。神というものは難儀さそう困らそうという神は出て居んで。今に始まった事でない。こゝまでほんに成る程と思うた日もあろうがな。それ国々から先々まで、受け取りたるところもある。それ故渡すものが渡されなんだが残念情なさ、残念の中の残念という。今に神が今に降る、出ると言うたところが承知でけまい。紋形の分からんところから、神がこの屋敷に伏せ込んだ。さあこの元を分かれば、さあ知らそう。承知がでけば知らそう。承知がでけねばそのまゝや。さあ返答はどうじゃ。無理にどうせと言わん。

 内の者答えて「いかにも承知しました」と申しあぐれば、
 さあさぁしっかりと聞き分け。今までは大工と言うて、仕事場をあちらへ持って行き、こちらへ持って行た。それではどうも仕事場だけよりでけぬ。そこで十年二十年の間に心を受け取りた。その中に長い者もあり、短い者もある。心の働きを見て、心の尽したるを受け取りてあるから、やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡したところが、今までの昵懇の中である故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは天のあたゑで、それに区別がある。この通りに、受け取りてあるものがある。それを渡すには、どうも今のところの仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このまゝでは残念/\。さあさあ錦と改めて、神の社に貰い受けたで、さあさあ本席と承知がでけたか/\さあ一体承知か、返答せい。

 真之亮より、「おじい(飯降伊蔵)の身を天に差し上げ、飯降家の妻子の面倒を私引き受け、本席と承知」の旨申上ぐれば、引続いて、
 さあさあ、人は代わっても理は代わらん。理は一つやで。これからは、別火別鍋。
 一寸頼みおくと言うは、席と定めたるといえども、今一時にどうせいと言うでない。三人五人十人同じ同席という。その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである。それから伝える話しもある。
 この御言葉と共に、それまで続いていた伊蔵の身上の苦しみも楽になり、ここにいよいよ「本席」と定まり、教祖の代理を勤めることになった。

 3.25日(旧3.1日)、伊蔵55才の時、飯降伊蔵が本席に就任した。以降、伊蔵は本席と呼び改められる。本席となった伊蔵は、以来20年間という長い間、教祖の御名代としてお道を指針せしめて行くことになった。親神様の思し召しであったことが、次のように啓示されている。
 人は変わっても理は一つやで。
 神の社に貰い受ける。
 席に神が入り込めば神や。神が退けば人間や。

 このことにつき、明治31年7.14日(明治27.3.4日)のお指図は次のように陳べている。
 一寸(ちょっと)始めかけた時、どちらへ入り込むか、こちらへ入り込むか。入り込む者は沢山あったなれど、どうも一人の心に一つの理を結び込んだ。長い間なら聞いておる者も、見ておる者もあろう。又、中には聞いて居ん者もあろう。筆先にも出してある。元々の話し聞いてなるほどの理と思うだけの者貰い受けた。親子諸共伏せ込んだ理、人間心人間の思惑には成ろうまい。誰にも遠慮気兼ねはない。
 異聞は次の通り。

 3.26日(陰暦2.30日)午後10時、伊蔵のお指図。
 もうこれまでや、刻限も十分立ち切り、早く早く何事も諭さにゃならん。

 このお指図を受け、つじ忠作と桝井伊三郎が、「この期を逃したら大変なことになる。どうしてもどうしても真柱様をお呼びして来る」と云って、真柱に掛け合い、半ば強引に真柱を病床の伊蔵の前に連れて来た。伊蔵は神がかり状態で真柱に次のように迫った。
 さぁさぁ本席と承知がでけたか。さぁ一体承知か。

 真柱は、次のように返答した。
 飯降様の身上を神に差し上げる。飯降様の妻子の面倒は私が責任をもってみます。飯降様を本席として承知いたします。

 伊蔵は満足そうに頷き、次のように述べている。
 一寸頼みおくと云うは、席と定めたるといえども、今、一時にどうせいと云うでない。二人五人十人同じ。同席と云う。その内に綾錦のその上へ、絹を着せたようなものである。それから伝える話もある。
 鏡やしき、鏡ならどういう事もこういうことも皆な映る。善き事悪しき事映るであろ。

(私論.私見) 伊蔵の本席考

 かくて、伊蔵は、「ほこりの仕事場」→「綾錦の仕事場」→「本席」という流れで明治20年3.25日、本席となった。この経過は一考に価する。多士済々とまではいかないまでも結構な人材が揃いつつあったお道の中で、教祖出直し後の霊統を伊蔵が引き継いだことになる。この霊統的意味はかなり重要であるように思われる。「親神の入り込みには、親神の思いに適った心の持主でなければならない」ということであり、この観点に照らせば、中山家の家督相続者真之亮の威力を凌ぐ権威が付与されており、血脈の真之亮をして一歩引かざるを得なかったという教史が刻まれている。 


【本席の「お授け」始まる】

 3.26日零時前後の頃、本席は、参拝に来ていた西浦弥平を透視し、招き入れた後「さあさあ授けを渡す」と言葉あり、「かんろだいの授け」が渡された。これが本席のお授けが最初となった。その後、お屋敷内の道人や古い講元順の年限の理を踏まえながら、身上障りを受けた者から次々に「お授け」が為されていった。 「これから先段々に理が渡そう」との御言葉通理り、本席が「おさづけの理」を取り次いでいくことになった。

 この年、おさづけを頂いた者は次の通りである。5.6日、喜多治郎吉。5.14日、増野正兵衛。5.16日、増谷四郎兵衛。6.13日、井筒梅治郎。7.14日、諸井国三郎。9.5日、山田伊八郎。11.13日、増井りん。12.5日、小松駒吉。12.8日、村田幸助。12.21日、植田平一郎。その他山本藤四郎。以降、次第に「お授け」を願う者が増え始める。


【明治20年4.3日、お指図】
 4.3日(陰暦3月10日)、伊蔵は、檪の本にて大国屋へ清水、梅谷両人お助けの願いに対し、 次のような「お指図」を打ち出した。
 さあさぁ尋ねる事情/\、身上に迫るところ尋ねる。尋ねるからは一つ諭しよう。よう聞き分け/\。この道は、常々に真実の神様や、教祖や、と言うて、常々の心神の指図を堅くに守る事ならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所へ出て、不意に一人で難儀はさゝぬぞえ。後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に。

 二人三人寄れば皆な各話し、今までは、わしはこんな心で居た、俺はこんな心使うて来た、と皆んな名々の心通り言わしてみせる。神の自由自在、よう聞き分け/\。案じる事要らん/\。こういう指図あったと、皆々のところへ伝えてくれ。一人や二人の指図やないで。皆々伝えてくれ/\。

【山沢為造が真柱の真之亮の実家に当たる梶本家のひさと結婚】

 4月、山沢為造(30歳)が、真柱の真之亮の実家に当たる梶本家のひさ(25歳)と結婚。これにより前川家、中山家、梶本家、山澤家が親族になった。更に、二代目真柱の中山正善が山澤せつと結婚することになり、山澤為造の教内の影響力が強まることになる。


【上田楢治郎が飯降よしえ(21歳)と結婚し、永尾家を継ぐ】
 4.18日、上田楢治郎が飯降よしえ(21歳)と結婚し、永尾家を継ぐ。

【明治20年4.23日、お指図】
 4.23日午後4時頃、お指図。「神様よりしっかり治まりたと承り」。
 この屋敷、四方正面、鏡屋敷である。来たいと思ても、来られん屋敷。来た者に往ねとは言わん、来ん者に来いとは言わん。この度は、洗い仕立てた上やで。ようこゝ聞かねばならん。さあ一寸言うておくで。年を切るようなことを決めるやないで。一月に三日又戻り、三日又戻り、又九日。これ聞いて、真と思て居れば真と成るで。(このお指図はナライト25才の年のことと上田嘉治郎記しおきたり)

 4月、天理教会本部仮開筵(かいえん)式。式典で奏楽。


【本席が四つのさづけの他に「水のさづけ」を渡す】
 本席は、四つのさづけの他に「水のさづけ」を渡している。これは先に三口飲んで、あと病人に飲ますもので次のように仕込まれた。

 5.6日、お指図。
 人間元初まりの時、三尺まで水中住居、この清水を与える理、又三口飲むは、三日三夜に宿し込みた、この理によって与える。

【明治20年5.9日、刻限お指図】
 5.9日(陰暦4.17日)午後9時、刻限お指図。
 さあさぁ一寸刻限話し、さあさぁどういふこと、どういふ道がつくやらわからん、忙しいどんな道がつくやらちやんとわかりてあるで、なんどきやら分からんで、多くの人数がいるで。さああっちもこっちも忙しい手がたらん、十分の道どんと大きな道をつくりやちやんとそなえをつけて、おかねばならんで、今度はめずらしい道やで、さあたのし、どういふ水が出るやら、流れるともわからん、なにもかも〜秋をあいづにどんなことも皆々この話して話ししておかねばならんで。

 5.19日、真之亮の生家の父・梶本惣治郎が出直した(61歳)。


【明治20年8.23日、お指図】
 8.23日、お指図。
 立毛(りうけい)の育つも、この世始めも同じ事、ない人間をこしらへて、始めよりものがいへたやない、一年たてば一つわかる、又一つわかれば、また一つわかるやうになって、ものいふやうになりたも同じ事。

【明治20年8.25日、お指図】
 8.25日午後11時、お指図。
 さあさあ持ち込む持ち込む、真を知らす。長い間の年限待ちかねたであろう。退屈であったであろう。あちらでもこちらでも、こんな神の道、苦労でならなんだであろう。ちゃんと話が出て来るで。どういう道も通して来たで。皆な神がしたのやで。長い道退屈であろう。あちらへ知らせ、こちらへ知らせ、こんな事とは聞いて居たなれど、こんな事とは官にも知らなんだ。この道よう忘れんと随いて来た。皆な一同へ礼を言わす日も直きに来る。どんな事も皆な神がして居たのやで。どういう事も、こういう事も、学者でも分からんで。ちょっとに分からん。どうしたらよい、こうしたらよいと、人間の心で出来る事は一つもあらせんで。人間の心で出けた事は一つもないで。皆な知らん事言う。皆な聞いてどんな風が吹くも分からんから、道が分からん道を通して来たで。これからは、ちゃんと箒目がつけてやってあるような道を通す。今までで聞いたる事もあったであろう。又外れた事もある。もう皆な掃除目つけてあるで。今や早いで。ちゃんと荒切りして了もた。成る成らんもない。天よりちゃんと、西も東も皆な抑えて了もたで。話の道はつけるで。 

【明治20年11.16日、お指図】
 11.16日、お指図。

 神一条の道は誠一条の道を分かりてくれねばならんで。心一つ定めてくれねば分からんで。


【ひのきしん隊活動始まる】
 この年、ウテント橋(旧大県詰所近くの布留川)の工事などでひのきしんが行われている。これ以降も、明治20年代の大阪や奈良県下各地で行われた道路開墾工事へのひのきしんから始まり、風水害、地震災害時に復旧救援活動として「ひのきしん隊」が編成されている。歴史的にも多くの信者たちが社会的に密接な関係をもち、各地の街道の開墾工事に精力的にひのきしん活動を展開している。

 (道人の教勢、動勢)
 4月、山沢為蔵、梶本ひさ結婚。
 4.18日、上田楢治郎、飯降よしゑ結婚(永尾家継承)。
 5.19日、梶本惣治郎出直(61歳)。

 (当時の国内社会事情)
 1887(明治20)年1.10日、森戸事件。東京帝大経済学部森戸辰男教授の筆禍事件。森戸、大内兵衛は新聞紙法違反で起訴され有罪。10.2日、警視庁特別高等課に労働係を新設。

 (宗教界の動き)
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 (当時の対外事情)


 (当時の海外事情)





(私論.私見)