第82部 | 1887年 | 明治20年 | 伊蔵、本席に定まる |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「伊蔵、本席に定まる」を確認しておく。「伊蔵、本席に定まる」前後事情は、植田英蔵氏の「飯降伊蔵伝」(善本社、1996.11.26日初版)の106Pから114Pが詳しい。これを参照する。「別章【明治20年お指図】」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【天理教撲滅講演会と破仏講演会】 |
この頃、天理教撲滅講演会が各地の寺院で開かれていた。前年にも教興寺で開かれており、教祖御昇天直後に動きが慌しくなった。3月、河内国刑部村にて天理教撲滅演説会。これに対し、お道の高弟の橋本、中野、平野、守屋秀雄、松村吉太郎、松村亀次郎らが対抗して破仏講演会で切り返した。 |
【伊蔵のお指図】 |
みき教祖出直し後、伊蔵のお指図が「お道」の指針として登場することになった。お指図には、みき同様の突如の神がかりで為される「刻限お指図」、「お道」の舵取りに指針を打ち出す「神示お指図」、信者などの伺いを神に取り次いで神がかりになって教示する「尋ね事情お指図」の三通りがある。 |
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お指図は、教理的には教祖のお筆先に代わる、それに準じたもの、但しそれ以上のものにはなり得ないものとして受け取るべきであろう。 |
【みさと氏のお指図考】 | |
みさと氏の「天理と刻限」の「天理教学の展開を求めて 」は、お指図について次のように解説している。
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【明治20年2.17日、「扉を開く」お指図】 | |
2.17日、お指図。
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【明治20年2.18日、「親の命を二十五年先の命を縮めて」お指図】 | ||
2.18日、お指図。
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【教祖の葬儀】 | |
「ひとことはなし その2」の75P「教祖御帰幽の時の御模様」は次のように記している。
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2.23日(陰暦2.1日)、教祖の葬祭が教会本部にて執り行われる。斎主を守屋神社(村屋坐弥富都比売神社)祠官の守屋秀雄、副斎主・笠松古輝。天理教の儀式に雅楽が取り入れられた最初と云われている。奉楽奉仕者は春日大社や神道本局など教外の人が主だった。おくり名は「真道弥広言知女命」(まみちいやひろことしりめのみこと)。全国から5万余の道人が寄り集まり、近郷近在の民家は皆旅館と変わり、お屋敷から頭光寺山(勾田村善福寺墓地)にかけて人々々で身動きさえできかねたと、伝えられている。(村上道昭氏の「教祖を身近に 連載 第23回教祖の御遺骸」参照)火葬後、善福寺に埋葬される。 | |
1892(明治25)年、現在の豊田山に土地を購入し、6月に墓地設置許可を得て、7月に着工。ひのきしんにより12月初旬に竣工した。12.13日(旧暦10.25日)、十数万人の参列のもと改葬を行ったという。神戸の御影山から兵神分教会部内の手によって運ばれた御影石に刻んで墓標とした。神号は1926(昭和元)年の教祖40年祭のときまで祝詞で使われていたが、大正時代から昭和初期の「復元」の動きを受けてか1936(昭和11)年の教祖50年祭以降は用いられなくなった。墓標は墓前の目立つ位置に建てられていたが、1975(昭和50)年の教祖90年祭のときに垣の奥に移設された。しかしながら、墓標の撤去はされていない。「ここにアンビバレンツな思いが伺われる」とある。 |
【教理派と応法派の対立】 |
教祖の葬儀が執り行われた後、今後のお道の継承と運動の進め方を廻って、伊蔵を代表とする教理派と、真柱・真之亮を代表とする応法派の対立が露わになった。 |
【伊蔵の刻限話し始まる】 | ||||
教祖がお隠れになって一ヶ月近く後の2.23日夜、伊蔵に非常な障りあり、その時次のお指図が為されている。
この時のことを、当時20才だった伊蔵の長女よしえが、後年次のように語っている。
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【明治20年2.24日、「神の自由自在」お指図】 | |
2.24日午後7時、お指図。
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【明治20年2.25日、お指図】 | |
2.25日、お指図。
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【明治20年3.4日、お指図】 | |
3.4日、刻限お指図。伊蔵の「刻限のお話し」があり、常の態度と全く打って変わって何か巨大な力に圧倒されたように、大声でワッと二声叫ばれて次のように陳べられた。
「おいおい刻限話をする」の諭し通り、折々に伊蔵に神が入り込み、刻限話とお伺いに対するお指図を下していくことになる。 |
【伊蔵が身上に伏せる】 | ||||
こうした最中の3.11日(陰暦2.17日)、伊蔵が身上に倒れた。みきの後継者として重大な責任を感じて悶々としていた伊蔵に異変が現われた。伊蔵は、以前媒酌した菊地安太郎の慶事に招かれ、その際の酒宴の席で急に悪寒を発し退席、これ以降、床に就くことになった。この時の病状が次のように語られている。
伊蔵の熱が激しく、玉のような汗が拭う間もなく流れ出て苦しむようになった。床に就くようになり、その間刻限話しが為されたが身上はますます深まった。切々とみきの教えである神一条の信仰の大切さを説きつつ「真之亮を呼べ、直ぐ真柱を呼んで来い」と指図した。しかし、どういうわけか、真之亮は伊蔵を無視する態度を取り続けた。 伊蔵の異変は熱ばかりでなく、あばら骨のきしみも交えていた。次のように伝えられている。
この過程は後に、「人は変わりても理は変わらん。綾錦の仕事場にする為に、やかたの芯の骨を入れ替えた」と諭された。 この時期、伊蔵のお指図が次のように為されている。
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【明治20年3.13日、お指図】 | |
3.13日(陰暦2.19日)午後7時、御諭し。
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【明治20年3.14日、お指図】 | |
3.14日(陰暦2月20日)午後8時、身の内の事御諭し。
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【明治20年3.15日、お指図】 | |
3.15日、刻限お指図。
こうした刻限話が次から次と発せられたが、身上は重くなるばかりであった。 |
【明治20年3.16日、お指図】 | |
3.16日(旧2.22日)午後2時、刻限お指図。
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午後3時、御諭し。
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午後8時、刻限御話し。
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午後11時、刻限御話し。
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【明治20年3.17日、お指図】 | |
3.17日午後3時、お指図。
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同日午後4時、お指図。
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同日午後7時、刻限お指図。
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【明治20年3.18日、お指図】 | |
3.18日、御話し(午前に一座のつとめを願い、つとめ済み次第)
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同日夜、刻限御話し。
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【明治20年3.19日、お指図】 | |
3.19日午前1時20分、刻限お指図。
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同日午前5時、刻限お指図。
この間伊蔵は真柱を呼び続けていたが、来なかった。伊蔵の身上障りはさし迫るばかりで、一向に回復しなかった。 |
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同日、午後12時、刻限御話し。
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【明治20年3.20日、お指図】 | |
3.20日(陰暦2.26日)午前4時、「真柱代理伺い」に対して、次のような神示お指図がなされた。
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同日午後1時30分、刻限お指図。
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同日午後4時、刻限御話し。
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同日午後7時、刻限御話し。
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同日午後9時、刻限御話し。
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同日夜10時の刻限お指図
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【明治20年3.22日、お指図】 | |
3.22日(陰暦2.28日)午前2時、刻限お指図。
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同日午前3時、刻限お指図。
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同日午前4時頃、刻限お指図。
このようにお指図が為される中、伊蔵の苦しむ様子をみて、遂に辻忠作、桝井伊三郎がたまりかねて真柱を呼びに行き、相同席となったのが25日である。 |
【明治20年3.23日、お指図】 | |
3月23日(陰暦2月29日)午前7時、御諭し。
(教祖の御言葉にて御聞かせ、右二件は、東京上原、大阪井筒両人をめどうとしての御話しと悟ります) |
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同日午後3時、御諭し。
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【明治20年3.24日、お指図】 | |
3月24日(陰暦2月30日)午後10時、今日までの御話しの中に、確かなる事もあり、又案じる事もある故に、飯降伊蔵御障りの次第を先生方相談の上願い。
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山田伊八郎身上願い(咳にて三晩咳き通すにつき伺い)。
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【伊蔵が本席に定まる】 | |||||
3月25日(陰暦3月1日)、刻限御話し。
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3.25日午後5.30分、刻限お指図。
内の者答えて「いかにも承知しました」と申しあぐれば、
真之亮より、「おじい(飯降伊蔵)の身を天に差し上げ、飯降家の妻子の面倒を私引き受け、本席と承知」の旨申上ぐれば、引続いて、
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この御言葉と共に、それまで続いていた伊蔵の身上の苦しみも楽になり、ここにいよいよ「本席」と定まり、教祖の代理を勤めることになった。 3.25日(旧3.1日)、伊蔵55才の時、飯降伊蔵が本席に就任した。以降、伊蔵は本席と呼び改められる。本席となった伊蔵は、以来20年間という長い間、教祖の御名代としてお道を指針せしめて行くことになった。親神様の思し召しであったことが、次のように啓示されている。
このことにつき、明治31年7.14日(明治27.3.4日)のお指図は次のように陳べている。
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異聞は次の通り。 3.26日(陰暦2.30日)午後10時、伊蔵のお指図。
このお指図を受け、つじ忠作と桝井伊三郎が、「この期を逃したら大変なことになる。どうしてもどうしても真柱様をお呼びして来る」と云って、真柱に掛け合い、半ば強引に真柱を病床の伊蔵の前に連れて来た。伊蔵は神がかり状態で真柱に次のように迫った。
真柱は、次のように返答した。
伊蔵は満足そうに頷き、次のように述べている。
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かくて、伊蔵は、「ほこりの仕事場」→「綾錦の仕事場」→「本席」という流れで明治20年3.25日、本席となった。この経過は一考に価する。多士済々とまではいかないまでも結構な人材が揃いつつあったお道の中で、教祖出直し後の霊統を伊蔵が引き継いだことになる。この霊統的意味はかなり重要であるように思われる。「親神の入り込みには、親神の思いに適った心の持主でなければならない」ということであり、この観点に照らせば、中山家の家督相続者真之亮の威力を凌ぐ権威が付与されており、血脈の真之亮をして一歩引かざるを得なかったという教史が刻まれている。 |
【本席の「お授け」始まる】 |
3.26日零時前後の頃、本席は、参拝に来ていた西浦弥平を透視し、招き入れた後「さあさあ授けを渡す」と言葉あり、「かんろだいの授け」が渡された。これが本席のお授けが最初となった。その後、お屋敷内の道人や古い講元順の年限の理を踏まえながら、身上障りを受けた者から次々に「お授け」が為されていった。
「これから先段々に理が渡そう」との御言葉通理り、本席が「おさづけの理」を取り次いでいくことになった。 |
【明治20年4.3日、お指図】 | |
4.3日(陰暦3月10日)、伊蔵は、檪の本にて大国屋へ清水、梅谷両人お助けの願いに対し、 次のような「お指図」を打ち出した。
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【山沢為造が真柱の真之亮の実家に当たる梶本家のひさと結婚】 |
4月、山沢為造(30歳)が、真柱の真之亮の実家に当たる梶本家のひさ(25歳)と結婚。これにより前川家、中山家、梶本家、山澤家が親族になった。更に、二代目真柱の中山正善が山澤せつと結婚することになり、山澤為造の教内の影響力が強まることになる。 |
【上田楢治郎が飯降よしえ(21歳)と結婚し、永尾家を継ぐ】 |
4.18日、上田楢治郎が飯降よしえ(21歳)と結婚し、永尾家を継ぐ。 |
【明治20年4.23日、お指図】 | |
4.23日午後4時頃、お指図。「神様よりしっかり治まりたと承り」。
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4月、天理教会本部仮開筵(かいえん)式。式典で奏楽。
【本席が四つのさづけの他に「水のさづけ」を渡す】 | |
本席は、四つのさづけの他に「水のさづけ」を渡している。これは先に三口飲んで、あと病人に飲ますもので次のように仕込まれた。 5.6日、お指図。
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【明治20年5.9日、刻限お指図】 | |
5.9日(陰暦4.17日)午後9時、刻限お指図。
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5.19日、真之亮の生家の父・梶本惣治郎が出直した(61歳)。
【明治20年8.23日、お指図】 | |
8.23日、お指図。
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【明治20年8.25日、お指図】 | |
8.25日午後11時、お指図。
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【明治20年11.16日、お指図】 | |
11.16日、お指図。
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【ひのきしん隊活動始まる】 |
この年、ウテント橋(旧大県詰所近くの布留川)の工事などでひのきしんが行われている。これ以降も、明治20年代の大阪や奈良県下各地で行われた道路開墾工事へのひのきしんから始まり、風水害、地震災害時に復旧救援活動として「ひのきしん隊」が編成されている。歴史的にも多くの信者たちが社会的に密接な関係をもち、各地の街道の開墾工事に精力的にひのきしん活動を展開している。 |
(道人の教勢、動勢) |
4月、山沢為蔵、梶本ひさ結婚。 |
4.18日、上田楢治郎、飯降よしゑ結婚(永尾家継承)。 |
5.19日、梶本惣治郎出直(61歳)。 |
(当時の国内社会事情) |
1887(明治20)年1.10日、森戸事件。東京帝大経済学部森戸辰男教授の筆禍事件。森戸、大内兵衛は新聞紙法違反で起訴され有罪。10.2日、警視庁特別高等課に労働係を新設。 |
(宗教界の動き) |
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(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)