第94部 戦後の復元宣言

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元)年.9.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「戦後の復元宣言」以降の歩みを確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


1945(昭和20)年

 7月、創価教育学会二代会長の戸田会長が出獄。


 8.15日、【本部】終戦の詔書について諭達第15号公布 。いざひのきしん隊は順次下山、教会に復帰。


【復元】

 1945(昭和20).8.15日、中山正善二代真柱は、終戦即日、諭達第15号を発布した。名古屋の教務支庁に勤務していた中山慶一に、これから本当の教祖の教えに戻すのでその準備に取り掛かるよう指示し、天皇家の先祖を祀る応法神道からの転換を図った。1970年に中山慶一表統領は、神道連合会退会を宣言して、神道ではないことを、内外に知らせた。


【天理教教規改訂】

 天理教教規第1条「天理教は天啓により中山みき天保9年10月26日に創始す」、第2条「天理教は天理王命を信奉す。天理大神とも奉称す」とあるのを、第1条「天理教は、天保9年10月26日天啓により中山みきこれを始める」、第2条「天理教は親神天理王命を信奉すと変更した。


 10.4日、連合国軍最高司令部(GHQ)は、ポツダム宣言第6項及び第10項「日本における信教の自由の確立」に基づく「政治的社会的およぴ宗教的自由に対する制限除去」の覚書を発し、治安維持法などと共に「宗教団体法」の廃止を命じた。


 10.9日、ほんみち派の大西愛治郎、その他側近幹部が大阪拘置所より釈放された。


 10.10日、ほんみち派の団野徳一、桑原幸作が共産党幹部(徳田球一、志賀義雄ら)と共に東京の府中刑務所より出所した。


 10.17日、大本教第二次不敬事件の被告が敗戦による大赦令で無効になった。なお、1947.10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。大本教は愛善苑と改称し、活動を再開させた。


【真柱が復元宣言】
 10.26日、秋季大祭に真座のかぐら、昭和9年と同じ十二下りの手踊りを復元させた。この時、真柱が、「来年の正月26日に、教祖60年祭を迎える。そのスローガンは『復元』である。本来の天理の道の姿に戻る」との声明を発した。この動きを天理教内では「復元」と呼称している。
 10.29日、おじばで、復元教義講習会が開かれた。この時、「復元」をテーマに、目標にして行うという宣言を行った。教義はみかぐらうた、おふでさき、おさしずに基づき、儀礼はかんろだいつとめのみとする方向を打ち出す。国家神道体制に合わせた明治経典の廃止。連合軍の占領政策との兼ね合いもあり、それ以上の復元はできなかった。

(私論.私見) 【天理教の復元考】

 天理教は、終戦と同時に「本来の天理の道の姿に戻る」として復元宣言したが、恐らく、その「復元」は困難な道のりとなる。なぜなら、復元するには「本来の御教え」が確立していなければならぬのに、「本来の御教え」の断片だけが集積されているに過ぎず、真正の「本来の御教え」が構築されていない以上、辿り着くのが容易でないのは自明だからである。事実、復元はそのように歩み始め、いつの間にか云われなくなる。結果的に、戦前の教義は記紀神話と整合させ、戦後の教義は記紀神話と決別した代わりにユダヤ-キリスト教の聖書的教義に準じた教理へと至り、今日はその段階にあると云えよう。

 12.15日、GHQは、「神道指令」(国家と神社神道の分離を命じ、国家神道の廃止命令)を発令し、政教分離の徹底的実施を命じた。これに基づき、政府による神社への保証、支援などを禁止する措置を執った(「神道指令」を通達)。これにより、国家による信仰の強制が違法となり、内務省神祇院が廃止された。同月、宗教団体法は廃止され、緊急勅令で民主主義的な宗教法人令が公布施行された。


 12.28日、昭和15年に公布された宗教団体法が勅令をもって廃止され、代わって宗教法人令が施行された。それまでの認可制を届出制に変え、宗教法人の設立、規則変更、解散などを自由に行なえるようにし即日施行した。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 8.15日、昭和天皇が大東亜戦争終戦の詔勅放送、ポツダム宣言受諾し無条件降伏&終戦。

 10.26日、秋季大祭に真座のかぐら・十二下りのてをどりを復元。


 10.29日、第12回教義講習会(復元講習会)開催(31日まで)。「今後のつとめ方」(2代真柱様)、「戦後の本教復興問題」 (諸井慶五郎)、「革新の経過と今後の動向」(中山為信) ほか。


 11月、信者詰所寮、海軍より返還。


 12.28日、新宗教法人令公布により旧法規廃止。


  (宗教界の動き)
 神道指令(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)により、神社と行政機関の接点が全て廃止される。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1946(昭和21)年

 1.1日、天皇陛下が人間宣言勅語。これにより天皇制神道に基づく建国(肇国)説話(国生み神話、天孫降臨神話、神武天皇御東征神話)が放棄され、天皇は、自ら現人神としての神格を否定した。


 1.5日、教会本部初会議 おつとめ復元、別席再開、宗教教育の徹底、教規改正。


 1.11日、宗教団体法の撤廃により別席を復活再開。


 1.26日、教祖60年祭執行。2.18日までを年祭期間とし、毎日つとめを勤める。


 1.27日、天理高等女学校で「おうた」発表会(「やまさかや」のち 「おうた1番」とされる)。


 2.5日、2代真柱様夫人、中山せつ出直し(享年37歳)。


 2.6日、ほんみち派がお席(三日制)を再開する。


 2.28日、「ほんみち」が、届出制に基き宗教法人としての資格を取得する。「宗教法人天理本道」が設立された。


 2月、神祇院官制をはじめ神社関係の全法令が廃止され、国家神道は制度上完全に解体された。


 3.8日、天理本道で、大西舜子が教主、正憲が管主に就任した。


 3.11日、大西らが、大審院より免訴の判決を言い渡される。


 4.1日、天理本道の月並祭で、戦後初の役員任命が行われ、165名が就任した。


 4.18日、天理教本部が新教規発表。願書などにおける管長の呼称を真柱、教庁を教務庁、教 区事務所を教務支庁と改称。総務長に直属して道友社が 設けられ、『天理時報』『みちのとも』の編集、養徳社で 出版していた教内の出版を行うことになる。

 「第一章 総則 第一条 天理教は天啓に依り中山みき天保九年十月二十六日に創始す。第二条 天理教は天理王命を信奉す。天理王命は元の神実の神にして親神又は天理大神とも奉称す」。

 天理教教義及び史料集成部より「復元」を発行。


 4月、天理教教義及史料集成部より『復元』創刊。


 4月、天理教校新発足。


 5.18日、全教一斉ひのきしんデー復活。


 5.26日、松村吉太郎(本部員)による「泥海古記指掌」の印刷・配布。


 7.26日、諭達第16号公布。戦後における全教の奮起について。


 9.17日、海外引揚者らの職業補導および授産のため「天理ふし ん社」ミシン部を開設。12.1日、男子の授産のために木工部開設。翌年、洗濯部、 紙漉部開設。26年、株式会社天理ふしん社発足。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 11.3日、日本国憲法公布(翌年5月3日施行)。

  (宗教界の動き)
 昭和天皇はいわゆる人間宣言を発布。これは天皇の「神格否定」として解釈された。
 神祇院官制など、すべての神社関係法令が廃止された。皇室令も全廃され、宮中祭祀は天皇の私的行為となった。

 この年、山田金次が天理神乃口明場所系から造反し、神和教会を打ち出している。江上寿胤が「ひょうたんの木甘露台」を名乗り天理神乃口明場所系から造反し、おうかんみちを打ち出している。佐田ヤエが天理神乃口明場所系から造反し、聖正道教団を打ち出している。松木天村が天理教本部から造反し、神光苑を打ち出している。

 この年、戸田城聖により創価教育学会が再建される。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1947(昭和22)年

 4月、本部神殿の「信徒参拝心得」を「よろづよ8首」に改める。


 4月、【本部】新制天理中学校発足。


 4.18日、本部神殿の「信徒参拝心得」を、みかぐらうたの 「よろづよ八首」に改める。松村吉太郞筆、後日その複製を各大教会に頒布。


 4.20日、堀越儀郎、柏木庫治が参議院議員に当選。


 8.18日、全教一斉路傍講演デー復活。


 8月、青年会より『あらきとうりょう』創刊。


 12.27日、新教規成立。教義及び祭儀面は真柱が、行政面は教務総長が司るこ ととなる。教務総長は一般教師より公選。集会の延長・ 強化されたものとして教議会を開設。初代教務総長に諸井慶五郎就任。


 12.31日、天理教教規変更。

 「第一章 総則 第一条 天理教は天保九年十月二十六日天啓に依り中山みきこれを創める。第二条 天理教は親神天理王命を信奉す」。

 神道ではないとの観点から天理大神が削除された。


【井出くに出直し(亨年満85歳)】

 1947(昭和22)年、9.6日、井出くにが三木町高木で出直し(亨年満85歳)。葬儀は翌日、仏式で取り行われ、芹沢も参列した。遺体は特別許可で山の麓に埋葬された。大本教開祖・出口なおの奥津城を参考にして作られたという。宗教法人朝日神社の手続きを取る。

 井出くにの教え

 どの宗教を信じる人も、真(まこと)の心になり、「世界一列兄弟」の本当の天理を祈る。国、わが家、わが身を大切にする。神、仏、真(まこと)、堪忍、辛抱の五つを忘れなければ、病気もなく、家内がおさまり、金もできる。他人を神様とし信じ、また、自分を信じ、お互いを、神様として敬いあって生きれば、自分の心に神が増す。病(やまい)は金や薬では治らない。病(やまい)は、自分の真(まこと)でなくなる。肺病・肋膜は、心の持ち方ですぐに治る。私(井出)の宗教は、「天理 世界教」です。どんな宗教も、もとは月と太陽からです。人間は生まれた時に、死ぬことが決まっている。当人が好きなようにしているのだし、側の者が生死を心配する必要はない。<社(やしろ)に何を祭っているのかという問いに対し、> 神さんは風のように何処にもいるが、拝む対象がなければ困るので、社をつくった。神体は「月日のこころ」と書いて入れてある。
 井出くにの死去後、福井勘治郎、吉永清太郎が受け継ぎ、さらに吉永重雄、宮脇正一が法人代表役員として引き継いでいる。1952年に宗教法人。
 「死の扉の前で 井出くにむほん」(芹沢光治良 死の扉の前で 199頁途中から)。
 「いいや、真柱は最初会った時に、井出くにのことを話さないという誓いをさせられたからね」。
 「そうでしたね。先生、その井出くにって人は、一体どういう人ですか」。
 「この人も、その余波の一つだろうが、この人を識ったおかげで、僕は聖書を通じてキリストを理解できたが、また、天理教の教祖をすなおに理解できたし、『教祖様』を書く自信を持ったのだね……」。
 「それなのに、どうして真柱様は話すなと約束させたのでしょう」。
 「僕にも解らなかったのです。処が、『教祖様』の資料を調べているうちに、天理教の歴史に目を向けて、偶然手にはいった天理教関係の参考年表に-大正五年一月教祖三十年祭執行とあって、同八月、播州井出くにむほんと、あるのを発見して、目を見開きましたよ。このために、真柱はああ言ったのだなと、合点したが………その三十年祭前後に、天啓事件を起した水屋敷事件の茨木基敬や天理本道の大西愛次郎は、元来天理教の信者であるばかりでなく、教会長で重要な人物ですから、謀反人(むほんにん)の極印を押されるべきだが、天理教の信者でないこの婦人のむほんは、何か重大な意味がありそうで、教祖の三十年祭前後の天理教の歴史を、あれこれさぐったものです……君は天理教の歴史を勉強していませんか」。
 「いいえ…・・・不勉強で・・・・・・」。
 「三十年祭前後の四、五年間の天理教の歴史は、奇怪で変化に富んで、何か重大なことがあったようだが……君のような有能な人には、信仰上研究の価値あることだと思うがね」。
  「全然知りませんでしたが-」と、賀川氏はますます膝をのり出すので、忙しいのに、私も話の進行上やむなく話さざるを得なかった-三十年祭の二、三年前に早稲田大学の漢学者の教授で広池千九郎博士が入信すると、天理教では大袈裟(おおげさ)に本部に迎えて、天理中学校長にして、熱心に布教宣伝にあたらせたが、三十年祭が終ると、博士はいつのまにか天理教を去ったが、その理由も期日もとどめていない。三十年祭の二年前(大正三年)には、教祖殿も本部神殿も落成して、信者は勇んだと話しているが、その年の十二月三十一日に、初代真柱が四十九歳の若さで死去したね。翌四年に十一歳の嗣子正喜が真柱に襲職したが、その後見入として本部で最重要な大黒柱である松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄に、翌年まで収容された。その私文書偽造容疑が、どういうことか明瞭でないんだ。大正五年の一月に教祖の三十年祭が執行されて、八月「播州の井出くにむほん」とあるが、その前年四月一日、当時お地場で最も求道的な知識人だと評された大平良平が、「新宗教」という個人雑誌を創刊して、若い天理教人を勇気づけたものの、三十年祭が終って、井出くにのむほんとある月、八月に、十九号で廃刊した。この年本部員の増野正兵衛の息子、道興が弱年二十六歳で、異例にも本部員に抜擢(ばってき)されて、道友社の編集主任になり、天理教の機関誌「みちのとも」に、はじめて青年信徒の魂を奮起させる随想を多く発表して、自らそれを実践するために大教会長となって信仰活動を始めたが、間もなく死亡した-こうしたことを話してから、私は加えた。
 「……それで僕は、その大平良平の『新宗教』という個人雑誌を探すのに苦労したものだよ。アルバイト学生の努力と多くの費用をかけて、ようやく創刊号と五、六号と最終号を手にいれたが……それに目を通して、この人が天理教の教会組織に批判的で、三十年祭には神がおもてに現れると言い伝えられたことを、文字通り信じていた真摯(しんし)な信仰者だと、分ったけれど……最終号の廃刊の辞ともいうべき文章に、神がおもてに現れた現在、『新宗教』のような雑誌の存在理由は喪失したと、いうような言葉が目に飛びこんだ瞬間、僕は、それが、井出くにむほんの月であることを思いあわせて、目から鱗(うろこ)がおちた思いがしてね……何か起きたにちがいない-と」。
 「あの、三十年祭に神がおもでに現れるという言い伝えって、何のことですか」。
 「君のように若い人は聞かないかも知れんが、僕は少年の頃、よく聞いたものだよ。僕の父は明治二十二、三年頃の入信だが……家中皆それを信じていたね……尤も僕は三十年祭の頃には、自意識のはっきりした旧制一高生で、信仰などすてた後だし、生れた家へも帰らなかったから、天理教にどんなことが起きたか、何も知らなかったが……あの播州の井出くにが生きていたらば、むほんの顛末(てんまつ)について訊きたいと、切実に思ったものです」。
 「亡くなったんですが、その井出くにって、人-」。
 「敗戦の翌年、八十五歳で病死した。僕はその後、『教祖様』の取材で大和へ出向いた帰途、播州のその人の家へ寄ってみたんだ。その家に、親様の長女のおまささんの孫で、福井勘治郎という人が、ずっと同居していると噂を聞いたから、今も健在ならば、何か聞けるだろうと、思ったからだが……ところが、その家は 〝朝日神社″になっていて、耳の遠い老人の福井氏が神社の神主役をしていて、僕の質問に、-あんた、そんなことを知らなかったですかと、大きながら声で、だてつづけに一時間以上も話すのを、僕は仰天して聴き惚れてしまってね。無骨な人で、話も下手でしたが、その話の内容がとてつもなくて面白くもあり、吃驚しながら……」。
 「どんな話でしたか、先生、是非聞かせてください」。
 「うん」と答えたものの、どう話すか迷ったが、
 「その福井勘治郎氏は三十年祭までは、天理教本部の家付きの人間で、本部で青年勤めをしていたそうだが、本部の神殿が落成する二年前ぐらいから、信者の間に灯が消えたように信仰が燃えないので、本部でも心ある青年は何か危機感を抱くようになったと言うのです。それも、氏の考えによると、明治二十年に教祖の死後、孫の真之亮が初代真柱になり、飯降伊蔵が本席として神の啓示を『おさしづ』で伝えることで、天理教の信仰の火が日本中に盛んにひろまったけれど、明治四十年に本席が亡くなってからは、教祖の血統による真柱と神中心の本席と、二本の柱で支えて来た天理教本部は、信仰中心の柱の方を失ったわけですね。血統による真柱は、それまで信者の心が自然に本席に傾くのを、無念に思っていたが、本席の死によって、信仰が真柱たる自分を中心に一本化するものと、期待したというのです。こんなことは、君は十分知つていたね……上田ナライトさんの事件の後、本部では、真柱中心にすんなり信仰の灯を輝くようにはかったのだが、突然その若い真柱が三十年祭直前に亡くなったし、ナライトさんは狂人だと噂が流れて、福井氏のような青年達は、天理教の危機感に戦(おのの)いていたそうだ。その危機感のなかで、親神の約束どおり、三十年祭に神がおもてに現れるという希望が、若い人々の胸に蘇(よみがえ)って、秘かに心の準備をしようと、心懸けたそうだ。大平良平の『新宗教』も、増野道興の感動的活動もその準備の一つだそうだ……」。
 「それで、三十年祭に、ほんとうに神が現れたと、言うのですが」。
  「それが……三十年祭は一月二十六日に行われて、いつ神が現れるか、若い人々は期待と不安をもって毎日待望したそうだ。その頃福井家は、晩年の親様のすすめに従って、本部の鼻先で開業した福井屋という宿屋を、母親と細君が細々と営業しながら、福井氏は毎日本部に青年勤めをしていたが、八月のむし暑い夜、十二時近く奉仕から戻ると、奥の客室から、低い女の声で、『みかぐらうた』が聞えていたそうだ。その日午前中に着いた女客だと聞いて、不審にも思わなかったが、翌朝五時前に目をさますと、同じ歌声が微かに聞えていた。主(あるじ)が起きたら会いたいと言っているという細君の言葉で、座敷に出向いて挨拶すると、豊かな容姿の中年の田舎の婦人が端坐していて-福井はん、ご苦労さんやなあ……親様にたのまれて、きのう教祖殿に坐りましたぜ。親様のお言葉にまちがいない証拠を見せるためになあ………あそこに坐ったら、世界もお道も助かるように、神様のおさしずが刻々あるのやで………それがなあ、本部の人々が来なはって、引きずり出しましてなあ、袖は千切れて、えらいめにあいました。これから三昧田へ戻りたいが、お母さんはいなはるか……と優しく言うので、福井氏は退(さが)って、改めて洗顔したそうです。前日教祖殿に狂人が頑張っていて困ったという噂を聞いたことを思い出して、再び婦人の部屋をのぞくと……母親が婦人と旧知のように親しく話していて、しかも涙をこぼしでいるし、話の内容は、おまさ祖母(おばあ)さんのことや、四、五十年も前のことばかりで、驚いたことに、婦人は変貌して、話に聞く教祖になっていたと、言うのです。それからが大変で、母親はその婦人を教祖である祖母扱いをして、三昧田の教祖の生家である前川家へ歩いてお伴したが、暑い田圃路を下駄ばきで速いこと、福井氏も母親もついて行くのに息を切らせたそうで……前川家では、また、教祖が戻ったようで、誰も疑わなかったし、近所の老人達まで集って来て、昔語りをはじめた……と、福井氏は話したが………そうした有様を、とにかく福井氏はじっと観察しつづけて、三十年祭に現れると待望した神は、この人ではなかろうか、一体この人はどういうお方かと、婦人のあとをつけるようにして、播州の三木町へ来てしまったと言うのです。噂は本部にも伝わって、大平良平はじめ熱心な若者が集って来たが、婦人は問われるままに、誰にも、親神や教祖の思召(おぼしめ)しを納得の行くまで話して、神の力を示しては、すぐ本部に戻るようにすすめたけれど、福井氏は頑として本部へ帰ることをせずに、四十年以上たってしまったそうですよ」。
 「先生、井出くにのむほんと、本部で言うのは、その人が教祖殿に坐ったということでしょうか」
 と、賀川氏が吐息した。
 「坐っただけなら狂人扱いして、済ませて、むほんなんて大袈裟に年表に書かないだろうが、教祖殿でお助けでもしたのではなかろうか。その上、教祖の重要な親族の福井氏が新しい神が出現したといって出向いたし、多くの信者が播州へ行って、天理教には大きな衝撃だったろうね。そのへんのことは何も僕は知らないが-」。
 その時、家内が夕食の支度ができたからと、合図した。そんな時刻になったことも、私達は気がつかなかった。

 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 4月、国民学校が一斉に小学校と改称され、新制中学校が発足する。
 5.3日、日本国憲法施行。新憲法は、旧憲法下の国家神道体制に対する反省のうえに立って、その第20条において、信教の自由と政教分離の原則を特に厳格に定め、次いで第89条において、政教分離の原則を実効あらしめるため、特定の宗教団体に対する公金支出および公の財産の使用を禁止することを明文で規定した。

  (宗教界の動き)

 この年、新興宗教の璽光尊が戦後最初となる検挙を受けた。璽光尊は昭和21年、東京から金沢へ本拠を移したが、信者に相撲の横綱・双葉山や囲碁の呉清源などの有名人がいることでマスコミが好奇の目を向けていた。天変地異などを訴える璽光尊は社会不安を巻き起こすと当局は判断、遂に一斉検挙となる。その際に双葉山が警官を投げ飛ばすなどしてまた話題になった。結局、璽光尊こと長岡妙子は精神鑑定で無罪となり、双葉山ら信者も離れてゆき、教団そのものも全く勢力を失った。

 この年、嘉納寅三が天理教本部から造反し、日月神一条を打ち出している。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1948(昭和23)年

 昭和23年、教典草案の発表。マッカーサー率いるGHQ司令部と文部省と交渉を重ね、「天理教教典」裁定に向う。布教許可による教理の束縛を受け、キリスト教的天啓教理で迎合した。


 1.5日、本部年頭会議、別席の「誓いの言葉」を決める。


 1月、天理本道が教理誌「道しるべ」を発刊し、16号まで続いた。


 3.20日、真柱、小森おあい様と結婚。


 3月、ほんみち派のお席が3日制から9日制に切り替えられる。


 4.4日、教祖・中山みき150歳の誕生日を迎える。


 4月、新制天理高校発足。


 「ほんみち」開祖の大西愛治郎氏の次女の玉が、中山みき(天理教教祖)の生まれ変わりと位置づけられていたが、自前の教義を打ち出し始め、 教団幹部と対立。この為独立して「ほんぶしん」と名乗った。当初は大阪、のち長野に本部を置いたが、1969(昭和44)年に現在地の岡山県岡山市神埼に移転した。


 10.1日、信者詰所の番号による称号(第1〜第87寮)を廃止し「○○大教会信者詰所」に戻す。


 10.26日、『おふでさき』(付註釈)、『おさしづ』巻1を下付。 「天理教教典稿案」発表。


 11.30日、財団法人天理教一れつ会発足。天理教いちれつ会創設の趣旨を貫徹するために同会を子弟教養と学校経営に分離することとなり、手続き上、新たに扶育財団として新設。従来の財団を学校運営財団と して、財団法人天理語学専門学校と改称。


 (お道の教勢、動勢)
 1948年、韓国人信者は「天鏡修養院」という社会団体として韓国政府に登録した。当時の韓国で天理教の名前を使うと迫害されため、そこから逃る為の工夫であった。 このように独立後の韓国おいて、天理教の体制が再建された。韓国天理教は「天鏡修養院」を中心に各地で信者を増やしていった。

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 この年、北村サヨ率いる天照皇大神宮教が、踊る宗教として知られつつあった。

 璽光尊に続いてマスコミのバッシングを受けたのがおひかりさまこと日本観音教(教主・岡田茂吉)で、これが現在の真光系教団に繋がる。手かざしの霊波で病気を治すとして、この時点で信者20万人を集めていた。岡田は高村光太郎と高校時代の同級生で、一時大本教に入信したが昭和10年に脱退、その後手かざしの霊波療法能力を得て、戦後に爆発的に信者を増加させた。昭和23年暮れ、大規模な査察が日本観音教に入り、脱税額は1200万円であるとした。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1949(昭和24)年  天理教教典公刊/天理大学開学

 1月、教典講習会各地で開催。


【天理大学開学】
 4.1日、天理大学開学。

 4.18日、教祖御誕生慶祝旬間中、18日、26日を除き、毎日朝づとめの時間にかぐら・てをどりを勤める。


 4.19日、第1回天理教全国体育大会開催(24日まで)。


 5.10日、養徳社より『陽気』創刊。


 5.27日、天理教婦人会長に中山おあい様就任。


【天理教本部が「天理教教典」を出版】
 10.26日、諭達第1号公布、『天理教教典』公刊。【本部】真柱継承選定委員会が、中山善衞を継承者に推戴。

 教会本部が「天理教教典」を刊行する。全十章からなり、前後各五章の前篇、後篇を、それぞれ内容によって教理篇、信仰篇としている。キリスト教的な唯一絶対創造支配神に相当する天理王命観を打ち出した。「親神を天理王命と称えて祈念し祭る。その守護の理はこれに神名を配して説き分けられている。くにとこたちのみこと、おもたりのみこと、くにさづちのみこと、つきよみのみこと云々」。 「元始まりこふき」が第三章に「元の理」として解説されている。


 この時、2代真柱は次のように述べている。
 「この教典は、占領軍のGHQの占領体制に合わせて作らなくてはならない教典であるから、その教典の使用年限は十年と区切っておく」。

 八島英雄氏は次のように解説している。
 「占領が十年続いていてもその時には編纂し直す。占領がなければもうこの教典は廃止する、という形で十年という約束でこの教典は発足した」。

 11.1日、教師階級廃止(従来の神道色を廃し、教師一本立てとする)。


 11.27日、第26回青年会総会で組織変更。年齢は40歳以下、従来の会長制を廃し委員長制とする。


【芹沢光治良が「教祖様」執筆開始】
 1949(昭和24)年より、芹沢光治良氏が「教祖様」を執筆、 天理時報社の天理時報に昭和32年にかけて連載される。

 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 3.5日、日本観音教(教主・岡田茂吉)が、未納の1000万円分を理由に岡田教主の家などが差し押さえられた。日本観音教はその後、世界メシヤ教と改名する。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1950(昭和25)年

 1月初旬、天理本道が、教団施設の本格的な増改築を開始した。


 4.20日、天理教婦人会創立40周年記念第32回総会。


 7.26日、天理プール竣工式。


 10.18日、天理図書館開館20周年記念式並びに朝鮮学会発会式。


 (お道の教勢、動勢)
 1950.6.25日、韓国戦争 日、韓国戦争 (日本で言う朝鮮戦争)が勃発した 。この韓国戦争間に、天鏡修養院は大理教連合会と改称された 。この韓国戦争間に、韓国人信者は天理教という名前を表に出して活動を始めることになった。

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 5.29日、世界メシヤ教の岡田教主が、農地の不正取得にからみ贈賄の疑いをかけられ逮捕された。脱税の口止めとして静岡銀行の行員に支払った金が贈賄に問われたのだった。昭和29年、岡田は高裁で無罪判決を受けているが、教団がこの一連の検挙で大きな打撃を受けた。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1951(昭和26)年

 1月、大西(71歳)が病床に就き、教壇指導が大西舜子教主、正憲管主に委ねられた。


 4.17日、雛型かんろだい据え替えの儀。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 4.3日、宗教法人令廃止に伴う宗教法人法(昭和二十六年四月三日法律第百二十六号)が制定され即日施行された。「宗教活動をしやすくする等、信教の自由を尊重する目的で、宗教団体に法人格を与えること(4条)に関する法律」と評されているが、宗教団体を規定するモデルを西欧世界のユダヤーキリスト教的宗教観に則っている為に、日本の在地土着系宗教を包摂しきれていない。
 この年、創価教育学会が折伏大行進を宣言して、政治進出と一体化した布教攻勢を展開して全国的に進出した。その教義は、日蓮正宗教学と牧口の哲学〈価値論〉の結合で、同宗総本山富士大石寺の本尊(板曼陀羅)の功徳を説き、正法の広宣流布によって王仏冥合の理想世界を実現し、国の手で本門の戒壇を建立するとした。同会は、第三代会長に池田大作を迎えることにより、飛躍的に勢力を伸張させていくことになる。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1952(昭和27)年

 1.1日、海外伝道部を布教部内に設置する。


 4.1日、天理大学、外国語学部を増設。


 4.13日頃、アメリカ・ハワイよりおぢばがえり帰参者相次ぐ。


 4.18日、『天理教原典集』出版、下付。


 5.26日、新教規、規程施行。詰番を内統領、教務総長を表統領、総務を常詰と改称。教務庁を教会本部に吸収。春秋霊祭日は3月27日、9 月27日に変更など。


 7.31日、ブラジル伝道庁設立。


 1952(昭和27)年、宗教法人天理教が設立される。


【全教会講習会(第十四回教義講習会)開催】

 10.30日より三日間、全国1万5千余の教会長が、教会本部、教祖殿前に参集。教祖70年際執行打ち出しの全教会講習会(第十四回教義講習会)が開催された。講習会の主たる目的は、昭和31.1月に予定されている教祖70年際に向けての「おやさとやかた」一期工事の完遂にあった。 「三年千日と心定めて、1万5千余の教会長を芯に、全国の信徒が結集した寄金」は数十億に及んだと云われている。「教祖年際への心定めである。旬に蒔かねば芽が生えぬ。果たす理が効く。果たさにゃぁ、助からん」。

 講師として、山名系の諸井慶五郎が「親と子」と題して教義の講習を行った際、次のように述べた。

 「理の親子には どのような姿があるか。これを具体的に申しますならば、上級教会と部属教会、教会長と信徒、救けた人と救けられた人ということになりましょう。‥これが天理教の真髄であります」。

 「導いた人を理の親と呼んで、理の親への孝行こそ天理教の真髄だ」と全天理教の会長に説いた。山田清治朗も講師として説いたが、諸井慶五郎の内容と教義の根幹が異なっていた。講習会最終日、中山正善二代真柱が閉講の挨拶にて次のように述べた。

 人とか自分ではなく、自分がこの人を導いている、この人をたすけておると言うような二つの見方であるのではなく、たすけ一条のひとつの心が二つの面に現れる、同時にその事柄は一つにおさまるのであります。たすけは一条であります。自分がたすける人であり、あの人はたすけをされる人と言うような二つの立場を考えるのでは、理を頂けないのであります。

 (私論.私見)
 二代真柱は、「たすけ一条の道は教祖の道以外にはない。たすけの親は教祖以外にはおられない」とする立場から諸井講話を牽制したことになる。「理の親、理の子問題」は理論と実践の乖離として今日なお併行している。

 11.1日、諭達第1号発布。


 この年、すみの死去により、愛善苑と改称していた大本教の三代教主に直日が就任した。 大本と改称し、前年施行された宗教法人法に則り、宗教法人となる。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1953(昭和28)年

 1.26日、年祭活動の第1歩として、総出ひのきしん開始。おやしき整備土持ひのきしん、以後、毎月26日祭典後 に勤められる。


 1.27日、天理青年決起大会開催、青年会長に中山善衞様 就任。


 1月、教会長資格検定講習会を年9回行うことに決定。


 4.18日、真柱が、年祭活動の一環として親里ふしん、八 町四方構想を発表。


 4.21日、天理教青年会第29回総会(中山善衞新会長就任記念)。


 5.1日、おやしき整備始まる。


 10.29日、第1回帰参海外教会長教師講習会(教会本部主催) 真柱よりお仕込み、受講者30数名のうち本島より20 余名受講。


 10月、天理本道が、1100畳敷きの神拝殿を完成した。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 敗戦により中止された伊勢神宮の「式年正遷宮」が行われた。
 11.30日、霊友会が、赤い羽根募金の100万円をピンはねしたとの疑いで、教主の小谷喜美が共犯として逮捕された。昭和27年10月の共同募金に際して、女性信者80万人が街頭で参加したが、集まった1000万円のうち110万円を横領したという疑惑で、昭和28年10/20には霊友会の関連団体が捜索され2人が逮捕、その自供から小谷の関与が疑われたのだった。小谷教主の身の回りの世話をしていた女中が、教主らに虐待を受けたと訴え出たのを奇貨として内偵を開始、今回の逮捕劇となった。この捜索の際には土蔵の金庫から1000万円や大判、小判が続々と発見され、教団の資金力の凄さが見せつけられた。小谷は直接、指示を出した訳ではなかったが、2人の犯行を知っていたという理由から共犯にされ、入院中の病院から連行された。霊友会はこの時点で信者200万人、先にバッシングを受けた日本観音教改め世界メシヤ教の勢いが止まる中、昭和28年時点では日本では最大級の信者を擁し、信者の増加も最大規模の新興宗教となっていた。霊友会本部は港区板倉町にあり、毎月8のつく供養日には信者2万人が集まるなどしていた。本部周辺には屋台も立ち並ぶという。

 この霊友会検挙では法相経験者である時の木村篤太郎保安庁長官が事件もみ消しに動いたなどと騒ぎになった。その後も霊友会は昭和35年頃まで新興宗教では最大の勢力を誇っていたが、信者の多くは次々に分派して更なる新教団を旗揚げして、創価学会にその地位を譲る事になる。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1954(昭和29)年

 1.9日、おやさとふしん青年会ひのきしん隊発足。


 1.26日、ハワイ伝道庁設立。


【「おやさとやかた普請」&「おぢばがえりこどもひのきしん」が始まる】
 4.26日、【本部】おやさとやかた(別席場)起工式。
 この年、人間創造の元の地点「ぢば」を囲むように建て巡らされる「おやさとやかた普請」が始まる。これに合わせて、「おやさとやかた普請」に例え一荷の土でも運んで、親神様への感謝の心を行いに表そうとして「おぢばがえり子供ひのきしん」(現在の子供おぢばがえり)が始まる。

 天理教は伝統的に集い共感する場造りの場としての建物をとても重視しており、且つ神殿礼拝場をはじめ多くが信者の方の労働奉仕“ひのきしん”によって普請されている。この共同作業は信者の一体感を高める役割も果たす。
 「おやさとやかた普請」は、日本最大の宗教都市である奈良県天理市の天理教聖地に建築され続けている建物群の普請を云う。天理教の教祖(おやさま)予言の「八町四方は神のやかたと成るのやで」の具現化に着手したことになる。「おやさとやかた」は、天理教が世界の中心と定める“ぢば/甘露台”を据える教会本部(神殿)を中心にして、“八町四方”を囲う正方形の施設を構想している。八町はおよそ872m。それで四方を囲むと単純計算で1周3500m(全長3.5km)。歩くだけで40分以上かかる距離を5-8階建ての巨大建築で繋ごうという超弩級!の壮大な大建築構想である。神殿礼拝場は度肝を抜かれる3157畳の大広間で大空間の祈りの場となっている。神殿は幾つもの千鳥破風を置いた屋根、高欄が付いた外回廊、窓枠などに施された朱のアクセントカラー等々ひと目でそれと判別できる強烈な個性を放っている。その外周に信者のための宿泊施設にして修養の場である「詰所」や、病院、天理大学、天理小学校、資料館など様々な建物が数ヶ所に散らばって林立している。

 計画が始動したのは教祖の没後(天理教的に言うと“お隠れ”)70年近くが過ぎた1954年。翌年に真東棟など5棟が完成。徐々に増え続けて2017年時点で28棟。最終的には68棟でひと繋がりとなる。市内に点在する160ヶ所以上の詰所などを「おやさとやかた」に収めて、互いに助け合う“陽気ぐらし”実践のモデル都市となることを目標にしている。天理は信者の熱い気持ちによって築かれた宗教都市で、奈良県の隠れた名所になっている。

 5.26日、英文『天理教教典』出版。


 7.24日、「おぢばがえりこどもひのきしん」始まる。


 10.30日、【本部】第15回教義講習会(11月1日まで)。


 この年、谷喜三が天理神乃口明場所系から造反し、月日教おうかんみち教会を打ち出している。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 この年、山辺郡丹波市町を中心に磯城郡、式上郡、添上郡の町村が合併し、天理市が発足した。

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1955(昭和30)年

 1.26日、おやさとふしん現場に『おやさとふしん』の大のぼり 掲揚。


 5.22日、婦人会本島支部第1回総会。大教会、婦人会本部より中山おあい婦人会長、中山玉千代先生、松村まち先生お入り込み、参加者800余名。式典にて婦人会歌斉唱は子供達の手になる本島鼓笛バンド の伴奏で唱和。鼓笛演奏の最も古い記録。


 9.27日、天理教音楽研究会発足。中山善衛真柱継承者が、天理教音楽研究会を創設した。

 あらゆる音楽を通じて親神様の思召しを更に深く求め、それを未だ知らざる人達に伝えることができたら、ここに我々の音楽研究会の果たす役割は大きいのである。

 10.26日、秋季大祭を午前8時より執行。


 10.26日、おやさとやかた第1期工事完了、別席場使い初め (本島より800余名の帰参者)。


 この年、深沢まつ枝が天理神乃口明場所系から造反し、月日大還道を打ち出している。山田そめが天理神乃口明場所系から造反し、月日三世の道を打ち出している。昭和20-30年代にかけて天理神之口明場所系からの分派分立が頻出している。天啓者待望、終末論的性格も確認することはできず、むしろ神秘的、呪術的な癒しを執り行う霊能者的人物の輩出とその制度化が特徴である。その背景には日々の悩み事や病気を霊能者によって解決してほしいという広範な民衆の希求が横たわっていた。


1956(昭和31)年

 1.5日、16年ぶりにおせち復活。


 1.26日、教祖70年祭執行 (2月18日まで、期間中、本島より8,828名帰参、海外帰参 者82名帰参、初席者258名、中席者98名、満席者108名、 証拠守り162名、をびや許し27名)。「おやさとやかた」の一期工事も見事に完成。


 『おふでさき』を部属教会へ下付。


 2.18日、『天理教教祖伝稿案』刊行(みちのとも4月号に発表)。


 3.8日、第16回教義講習会第1次講習(17日まで、教会本部)。


 3.8日、午後2時のサイレンが開始される。午後2時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7.7日からサイレンが現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている。


 4.1日、おやさとふしん青年会ひのきしん隊新発足。


 4.25日、山田耕筰作曲、天理教讃頌譜「おやさま」発表会(のちに「おうた2番」と呼ばれる)。


 7.8日、天理大学柔道部、全日本学生柔道優勝大会で初優勝。


【天理教本部が「稿本天理教教組伝」を出版】

 10.26日、教祖七十年祭に合わせて、天理教本部が策定していた「天理教教祖伝稿案」を「稿本天理教教祖伝」として刊行する。その「はしがき」には次のように記されている。「教祖の御言行、御逸話などについては、今後続いてその蒐集(しゅうしゅう)につとめさせて頂き、逸話篇ともいうべきものを、別冊として不日(ふじつ)まとめさせて頂きたいと思って居る」。これにつき、1976(昭和51)年1.26日、教祖九十年祭に合わせて「稿本・天理教教祖伝逸話篇」が刊行された。


 12.9日、天理高校の天理スクールバンド、全日本吹奏楽 コンクールで初優勝


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 この年、霊友会から戦前に分派して戦後に教勢を拡大した立正佼成会が、読売新聞の反佼成会キャンペーンを受けて信者の増加が頭打ちになっている。読売の記事は女性教祖の前歴を水商売と書きたてるなどセンセーションなもので、社会党の猪俣浩三衆院議員も国会で攻撃に立ち、4.30日、庭野鹿蔵(日敬)が衆院法務委に参考人招致されている。反論の場が教団雑誌でしか与えられなかった佼成会の受けた打撃は大きかった。9.22日、入会強要と脱会妨害が人権蹂躙に当たると、日弁連の後押しによる文部省の警告が出されている。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1957(昭和32)年

【「三信条」発表】
 1.5日、真柱が、年頭会議で70年祭後の指針として三信条を発表。「神一条の精神」、「ひのきしんの態度」、「一手一つの和」。

 3月、修養科、おやさとやかた東左第4棟に移転。


 4月、天理大学機構改革。


 9.28日、【本部】第1回女子青年大会。


【第1次ブラジル移民出発】
 第1次ブラジル移民出発。

 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 神社本庁、生長の家(現・生長の家本流運動)、修養団などが合同で紀元節復活運動のための統一団体、「紀元節奉祝会」を結成。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1958(昭和33)年

 2.7日、【本部】中山善衞様、土佐まさ様と結婚。


 4.22日、「宗教法人審議会」が、新興宗教の法人化が相次いでいたことを受け、「宗教法人法における認証、認証の取り消し等の制度の改善方策に関する答申」と題する答申を出した。その内容は宗教団体の定義を明確にすること、宗教法人法と認定する基準を設けること、公告制度、役員制度、財産処分等の手続きなどの改善、公益事業とその他の事業の明確化、宗教法人に対する調査及び報告の取り扱いの明確化などであった。しかし、この答申は当時の宗教界の反対により、「宗教法人法」に取り入れられることはなかった。その後、1958年の答申でも宗教法人法に対する認証基準が不明確であることが指摘され、1966年には所轄庁となる各都道府県に対し、所轄の宗教法人に法の趣旨を普及徹底させ、規則を遵守させるよう指導すべきとの通達が出された。1988年にも文化庁宗務課が宗教法人法に対する認証の際に充分な審査をすべきとの通達を出した。


 7.26日、「こふきの研究」(中山正善・著)発刊される。


 11.29日、大西愛治郎が逝去()。


 この年、神出房江が天理教本部から造反し天真教を打ち出している。


 この年、深谷忠政著「教理研究 元の理」が初版発行されている。そのはしがきには、このように記されている。

  「天理教教典が出た時、"第三章元の理が無ければ、未信者にそのまま読んで貰っても、まとまっていて大変匂いがけに都合が良いのですが、あれがある為に、一般の人にそのまま教典をお渡しするわけにいかなくなる"という声を何度か聞いたことがあった」、「現在でも同様の思いをしておられる方が多いのではないかと思う」、「元の理は新しい別席のお話台本にも出てくるし、これを表に出す以上、何等か解明の手がかりがあたえられなければならぬと考えたものの、それは極めて困難なことであることを自覚せぬわけではない」。

 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1959(昭和34)年

 1.16日、【本部】中山善司様誕生。


 4.26日、【本部】教規規則及び規程を変更する。親神様、教祖の分霊を天理王命目標、教祖目標とする。信徒、教徒、教師の呼び名を廃し、信者、よふぼく、教人とする。各教会信徒詰所を信者詰所とする。その他。

 「第一章 総則 第一条 月日のやしろと仰ぐ中山みきの啓示により、天保9年10月26日、元のぢばに始まる。第二条 天理教は天理王命を信奉する」。

 従前は、「天啓により中山みきが天理教を始めた」と書かれていたのを「中山みきの啓示により」と書き換えたことになる。その意味するところは、教義の始発を「神懸かり」で捉えるのではなく「天降り」として受け止めなおしたことにある。


 第二次復元宣言。中田武彦、藤橋光春、田川勇、八島英雄ら。


 12.15日、芹沢光治良氏が「教祖様」(天理時報、角川書店)を著わす。1952年に第3章だけが「この母を見よ」と題して単行本化されていた。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 政府が皇太子の結婚式に際して神道儀礼である「賢所大前の儀」を国事とした。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1960(昭和35)年

 4.23日、真柱様、天理市名誉市民第1号となる。


 この年、浅野博が天理神乃口明場所系から造反し、甘露台を打ち出している。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1961(昭和36)年

 2.26日、本部事情運びで、お書き下げ入れの紙袋を下さるよ うになる。


 4.26日、諭達第2号公布(教祖80年祭を迎える心定めを明示)。


 5.26日、海外伝道部にアジア、アメリカ、ヨーロッパ、ア フリカ、オセアニアの5課を設置。


 12.27日、教祖80年祭準備委員としての直属教会長の会を 「かなめ会」と命名。


 (お道の教勢、動勢)
 1961(昭和36)年、天理教学の先駆者・諸井慶徳先生が46歳の若さで出直し。

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1962(昭和37)年

 1.5日、おやさとやかた西右第3棟(憩の家)の堀り方始め。


 1.19日、ほんみちで分派発生。「みろく会事情」。大西愛治郎の次女・玉が自分こそ天啓者と唱え、弥勒菩薩。岸岡悟の息子達3名、岩田源右衛門、武田健、土岐進ら同調者が1.26日月並祭クーデターを企図。防止され、みろく会を設立。ところが、みろく会内から岐阜の斉藤正吾が甘露台を唱え分派。続いて武田健も甘露台を唱え分派。みろく会はほんぶしんと改称した。


 8.5日、天理高校柔道部、第11回全国高校柔道大会で初優勝、 戦後初の全国制覇をとげる。翌年も連続優勝。


 8.30日、【本部】教祖80年祭地方講習会始まる(11月23日まで)。


 9.5日、【本部】真柱夫人、中山おあい出直し(享年43歳)。


 芹沢光治良氏が「人間の運命」を刊行する。1968(昭和43)年まで逐次刊行された。次郎の実兄一郎が信仰する天理教の2代目教祖(井出クニがモデル)が登場し、病気を治したり、予言者めいた事を言ったりする。


 この年、ほんみちの創始者大西愛治郎の娘大西玉(中山みきの再生とされる)がほんみち天理三輪講系から造反し、ほんぶしんを打ち出している。


 (お道の教勢、動勢)
 1962年、革命政府のジョン・イルクォ国務総理はいわゆる「行覚書」を発表し、社会の5大悪として、密輸、賭博、酒、ヤクザ類、似宗教団体の剔抉が含まれていた。天理教を類似宗団体に包含して弾圧を始めた。

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1963(昭和38)年

 1.27日、天理教婦人会第5代会長に中山まさ就任。


 4.28日、教祖80年祭おやさと講習会始まる(以後、第28次10月10日まで) 。


 4月、天理准看護婦養成所発足。


 10.18日、天理図書館の書庫増築落成披露式。


 10.26日、『おさしづ』改修版第1巻刊行 (11月26日より全教会に交付始まる、全7巻、41年まで)。


 11.26日、おやさとやかた西右第2棟(憩の家)の堀り方始め。


 11.27日、初代真柱中山真之亮様50年祭 『稿本中山眞之亮伝』刊行。


 この年、 本部第1〜4母屋、おやさとやかた東棟外側に竣工。のち新築・新設の信者詰所に母屋番号がふられる。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1964(昭和39)年

 2.25日、祖霊殿拡張移築総出ひのきしん第1回(27日まで、 170名参加)。


 8.8日、教祖80年祭第2次地方講習会始まる(11月22日まで)。


 8.10日、天理教学生会結成総会。


 8.11日、新制度による学生生徒修養会開始。


 8.24日、雛型かんろだい据え替えの儀。


 9.15日、豊田山舎完成(旧祖霊殿を移築)、納骨受付開始。


 10.6日、おやさとやかた南左第4棟(現在の天理大学)ふしん始まる。


 11.26日、新炊事場を炊事本部、黒門を南門と命名。


 11.28日、新任教会長夫妻対象秋季講習会(30日まで)。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 創価学会が、国会と地方議会の議席を拡大し、宗教政党として公明党を結成する。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1965(昭和40)年

 1.26日、教祖80年祭後継者決起大会。

【教祖80年祭執行】
 1966(昭和41).1月、教祖80年祭執行。真柱が、仲田武彦、藤橋光春・水口大教会会長、田川勇・生野大教会会長、八島英雄らに修養科の教育改善を命ず。

 2.10日、 炊事本部から全詰所に配食開始。


 4.18日、おやさとやかた西右第3棟を信者宿泊所として使い初め。


 5.26日、よのもと会会則決定(総裁に真柱様、会長に中山善 衞様就任。「よふぼく」で組織。


 8.1日、第1回前期学生生徒修養会開催(15日まで、1,301人 が参加)。


【よのもと会発足工】
 よのもと会発足。

【天理総合駅完成】
 9.1日、天理総合駅(国鉄・近鉄)完成祝賀出発式。

 9.13日、おやさとやかた南左第4棟(天理大学校舎)使い初 め式。


【おやさとやかた南と西に竣工】
 11.25日、おやさとやかた西右第2・3棟(現在の憩の家)建 築工事終了(おやさとやかた南と西に竣工)。

 12.5日、いちれつ会館(旧奈良県庁舎)竣工式。


 この年、斎藤正吾がほんみち天理三輪講系から造反し、ほんみち(岐阜)を打ち出している。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 9.1日前、天理総合駅(国鉄・近鉄)完成。12.16日、名阪国道天理–亀山間完成。この年 【本部】布留川を暗渠にして真南通り開通。

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1966(昭和41)年

 1.1日、天理高校吹奏楽部、アメリカのローズパレード に出場(本島より片山治人・窪田勝次・井上哲の3人出場)。


 1.22日、仮西礼拝場使用開始(1,000畳敷の鉄筋構造)。

 1月、教祖八十年祭にあわせて、お指図全7巻が新たに公刊され、全教会に配布された。

【教祖八十年祭】
 1.26日、教祖八十年祭執行 (2月18日までの年祭期間、毎日おつとめを勤める。帰参者200万人)。

 4.1日、財団法人天理よろづ相談所「憩の家」が開所され披露式。
 10.26日、立教129年よのもと会総会に約20万人が参加。 中山善衞会長より「1人が3年に3人のよふぼくを」の心定め発表(よのもと会旗誘導に本島鼓隊出演)。
 10.26日、天理教少年会誕生。

 この年、天理大学で第1回雅楽定期演奏会を開催した。


 (お道の教勢、動勢)
 この年、高松大教会が、香川大教会から分離昇級。高松市西春日町に移転、落成奉告祭を執行した。昭和50年4月、おぢばの田部町に詰所の開所式を真柱を迎えて執行した。

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1967(昭和42)年

 1.5日、真柱が年頭会議で「横の布教」と「縦の伝道」の用語を初使用。


 4.6日、天理高等看護学院、天理衛生検査技師学校開設。


 4.21日、天理教青年会第43回総会(本島鼓隊がパレード出演)。


 7.25日、こどもおぢばがえり期間中、本部中庭で少年会 結成式(26日を除く8月4日までの毎日、直属など281の 教会に少年会本部から団旗が授与)。


 10.16日、おやさとやかた南左第3棟(天理大学校舎)完成。


 10.26日、英文『みかぐらうた』『稿本天理教教祖伝』出版。


【中山正善二代真柱出直し、長男の中山善衛が三代真柱に就任】

 11.14日、中山正善二代真柱出直し(享年63歳)。2代真柱の長男の中山善衛が三代真柱に就任。

 中山正善二代真柱は大正14年に東大に入学。文学部宗教学科卒で、東大の姉崎正治(雅号・嘲風)の弟子である。近代的な宗教学を修め、側近にも知識人を集めた人である。ご母堂様といわれた母・中山たまへ(中山みきの直系の孫、中山秀司の一人娘)からは、「なにものも恐れるな」ということを繰り返し教えられた。「私は子供の頃から、他人の頭をたたいて育ってきた」という腕白少年であった。


【中澤隼人氏の内部告発】
 この年、元集会員の中澤隼人氏が「50年後の天理教を想う」と題した冊子を全教会に発送し、教内がザワついている。
 「組織面では、世襲制によって主な人事は固定化し、明朗で公正な競争がなく、20年先の構成が大体わかるという具合である。これを動脈硬化症と呼ぶ人もあるが、青年にとっては、これは甚だ意欲をそぐ原因となるために、多くの有為な若人が、自分の能力をフルに発揮できる新天地を求めて教会の門を出てゆく。天理教は、かくして人物経済上、大変な損失を重ねている。(注:このことは将来の天理教にとって、何ものにも代えがたい一大損失である)それほどの能力も気力もないものは、安易なプチブル生活の地を求めたり、漫然と教団の中に生きているだけで、教祖の精神を喪失している。教会の後継者が少なくなりつつあるという現実は、前途の楽観を許さぬ事実である。極言すれば、天理教は、理想は高く、本部は壮大なのに逆比例して、信仰のエネルギーが低下し、人間は卑小となり、求めるものが物質的、形而下的になっているのが現状である。私は異端を待望する人間ではない。けれども、空洞をもつ大木になりつつある現状を放置する時、おそらく天理教は立教の宣言にふさわしい世界宗教として脱皮することは不可能であると思われてならない。ここに思いきった信仰と行動力を持つ異端的人物の登場を待望するのであるが、この種の人間は果たして出て来るであろうか。出て来るとしたら、どこから出て来るであろうか、本部からそういうラディカルな人間は現れないであろう。⻘年会にしても、その本部は、失敗を恐れぬ不屈の精神に欠けているから、これも期待薄である。最も有望で有効であるべき文書の面ではどうかというに、溌剌とした昭和初期の個性と自己主張の時代は去り、自由な批判精神は失われ、真柱の亜流ばかり増えている。それも真柱の打ち出す復元の教理を完全にマスターした上、自分の独創を出してゆくならよいが、顔色をうかがって書いているような感がする。書く姿勢がおかしい」。

 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 3.25日、天理市民会館完成。

  (宗教界の動き)
 「建国記念の日」が国民の祝日として制定された。靖国神社の再国営化運動が活発化した。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1968(昭和43)年

 1.30日、立教131年教義講習会第1次開催(31日まで)。


 4.1日、道友社新機構で発足。


 4.23日、おやさとやかた西左第3・4棟、ふしん開始。


 5.1日、立教131年地方講習会始まる(7月27日まで、1,188 会場で開催)。


 5.29日、青年会あらきとうりょう号海外巡回隊出発 12月29日まで。2台がユーラシア大陸30ヶ国3万 5000キロ(イギリス→カルカッタ)走破。


 10.24日、真柱・中山善衞の真柱継承報告祭執行。諭達第1号公布。 帰参者30万人。この日の別席者1万3000余人を記録。この前後に記念行事多彩。


 11.1日、昭和34年以来、本部中庭に建ててあったテント用鉄骨撤去。


 11.25日、天理教あげての盛儀として三代真柱奉告祭を記念して、全教内の雅楽同行の士三千余名が一堂に会して、教会本部が学部講師の岡正雄の指揮に合わせて一手一つに大合奏を行った。


 11.26日、内統領に板倉知広、表統領に高橋道男就任。


【ジャーナリスト青地晨の戦後の教典、稿本教祖伝論】
 天理教の二代目真柱(教主)・中山正善(19 05-1967) に二度インタビュー取材したジャーナリストの青地晨(しん)は、「天理教 百三十年目の信仰革命」 (弘文堂新社、1968年)で、第二次世界大戦後の中山正善による復元 (教典編纂)の功罪について以下のように述べている。
 「だが教典や教祖伝は、中山正善の厳しい思想統制のもとに行われた。そのために中山みきが説いた素朴で土俗的な信仰は、あまりにも合理化され、蒸留水のように味気ないものに変えられている。またそのために宗教的なパッションがうしなわれ修身教科書にも似た倫理道徳が教義として強く説かれているのである。すべての宗教は、人倫の道を説くものであろうが、それには自然の地下水のように、さまざまな爽雑物がとかしこまれている。そうした爽雑物のなかに、人びとを信仰にかりたてる不思議なパッションがひそんでいると私は思う。こうした非理性的な爽雑物をとりのぞいた蒸留水には、信仰のエネルギー源となる不可知なものに欠けるのではないか」(p .289) 。

 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1969(昭和44)年

 1.28日、第1回少年会本部講習会(のちに年頭幹部会と改称)。


 4.18日、全教にをいがけ大運動始まる(7月26日まで)。


【天理時報賎民記事事件】

 4.27日付け発行「天理時報」紙上に掲載された記事の一部の「国民は采食主義で鳥と魚は食べたが、獣肉(牛、馬、羊、豚)などは賎民以外は決して食べなかった」記事が、部落解放同盟から厳重な抗議を受ける。この批判を受け発行翌月に問題の号を回収する事態となった。発行責任者であった天理教道友社社長が罷免される。「天理時報」紙上に、「この件は、基本的人権に対する認識の欠如の現れでありまして、誠に遺憾とするところであり、深くお詫び申し上げます」なる謝罪文を掲載。この過程での交渉の責任者となった表統領・高橋道男氏が心労によってか病に倒れ出直した。9.7日、中山慶一が高橋道男表統領の出直しにより後継し新表統領に就任する。
 差別問題に対する理解不足の反省から、天理啓発委員会より「天理ろくぢ」という冊子が発行された。この事件対応に窮した高橋表統領が急死した。

 5.1日、修養科、2部制を改め、全員が午前中授業、午後ひのきしんの1部制とする。


 5.7日、憩の家病院別所分院開設(近代療養生活に適した施設 を完備し、結核患者を収容)。


 5.14日、にをいがけ運動の標語「世界は一つ一れつ兄弟 陽 気ぐらしの天理教」発表。


 7.26日、こどもおぢばがえりに「朝のおつとめ」行事始まる。


 9.1日、天理小学校、おやさとやかた南左第2棟を校舎として使い初め。


【八島英雄氏が「みちのとも」に「私の教理勉強」の連載を始める】
 中山慶一表統領が、本吾嬬分教会機関紙「ほんあづま」編集代表の八島英雄(やしまひでお)氏に「私に代わって教会長たちに、教祖の平等思想を教育するように」と依頼したところから、「みちのとも」に「私の教理勉強」の連載を始める。これが教内で非常に評判が良かったが、本部教理を随所に批判していたところから対立が時間の問題となった。

【八島英雄氏の「惟神之道とお道の教理」を廻って紛糾する】
 9.27日、天理教青年大会が武道館で開催された際のパンフレットの八島氏が執筆した「惟神之道とお道の教理、特に終戦までの国家神道と比較して」の内容に対し、本部が咎めることになり、堀越儀郎本部員、次いで主査室主任宇野晴義が八島氏の下へ来訪した。矢島氏は、立会人を付けて問答し、「八島の主張が正しい事が証明された」。この時の宇野本部員の捨てせりふは「右翼が怖くないのか」。八島氏の返答は「右翼が怖くて、教祖のひながたが通れるか」であった。

【永尾廣海が道友社社長に就任、その直後、八島氏の「私の教理勉強」の連載中止】
 10.1日、田中喜久夫道友社社長が更迭され、永尾廣海が道友社社長に就任し、直後に「みちのとも」の原稿に「高山に暮らしているも谷底に暮らしているも同じ魂」というおふでさきを引用し、「どんな者でもひながた通りに通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ」というおさしづ引用が不当であると削除され、連載が中止になった。

 10.26日、【本部】本部大祭・月次祭の午後の別席は休みとなる。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 靖国神社から宗教的要素を除き、国営化する「靖国神社法案」が出されたが、審議未了廃案となった。
 この年、創価学会がマスコミのバッシングを浴びる。藤原弘達の「創価学会を斬る」を絶版に追い込むために画策、作者や版元に圧力をかけたとして連日、マスコミは反創価学会キャンペーンを行い、翌昭和45年、創価学会側が謝罪した。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)





(私論.私見)