1873(明治6)年頃、亮・助・衞門廃止により右衛門を名乗ることができなくなり、仲田は佐右衛門から儀三郎へ、辻は忠右衛門から忠作へと改名した。教祖(おやさま)や周囲の人々は「さよみさん」、「ちよみさん」と呼んでいたといわれる。 |
この頃、仲田儀三郎が、お屋敷から派遣される一のお助け人として働いていた。教祖は常々、「佐右衛門さんは、私の一の子供や」と仰せられていたと伝えられている。 |
「人間の勝手」(昭和三年四月発行「教祖とその高弟逸話集」(天理教赤心社)より)。
「ある時教祖は、高弟の仲田さんに向かって、『出来んことを人がせよと云ったら、どう言うか』と訊ねられた。すると仲田さんは、『そりゃ出来んと言います』と答えた。教祖は、『そしたら神様がせよと仰ったらどうする?』と訊かれた。仲田さんはたちどころに、『神様が仰るなら、そりゃ勿論やります』と言った。教祖は笑いながら、『そうしたら、それは人間の勝手というものやなあ』と仰せられた」。 |
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1874(明治7)年の「かぐら面」のお迎えの時、秀司や飯降伊蔵などと共に教祖のお伴をして前川家に行っている。 |
1874(明治7).陰暦10月、「大和神社問答事件」が起こった。教祖は、仲田儀三郎、松尾市平衛の両人に対して「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と述べて大和神社へ遣わし、教義問答を仕掛けている。これによると、仲田が教内随一の理論家でもあったことが分かる。翌日、大和神社の神職が石上神宮の神職5人連れで教祖を訪問し、教祖との間で問答が行われた。これがあって、奈良県庁の社寺掛から呼び出しを受けることになる。 |
この頃、仲田儀三郎は取次人としての役割を果たしていた。「教祖伝逸話篇36、定めた心」に増りんの取次記録が遺されている。 |
1874(明治7).12.23(陰暦11.15)日、奈良県社寺係の命で、伏見宮文秀女王のおられる「山村御殿」へお出ましになることになった。教祖は呼び出しに応じ、辻忠作、仲田儀三郎、松尾市平衛、柳本村の佐藤某、畑村の大東重平衛の5名が供をした。山村御殿では役人の要請に応えて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。これ以後県庁はお屋敷へ参拝人が出入りしないように厳重な取り締まりを始めた。 |
1874(明治7).翌12.25(陰暦11.17)日、奈良中教院より、信仰差し止めの通知と辻、仲田、松尾の三名の呼び出し状が届いた。この頃、奈良中教院は興福寺金堂へ移転していたが、そこへ三名が出向くと、「転輪王という神はない」、「繰り返すが天理王という神などない。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら中教院を世話せよ」、「二度と再び、あの婆さんの教えを説いてはいかん」と、信仰差し止めの旨を勧告された。その足でお屋敷へやって来て、幣帛、鏡、みす等の祭具を没収するという事件が起った。これから後、県庁は、お屋敷へ参拝人が出入りしないよう、取締りは一層厳重を極めるようになった。これを「中教院事件の節」と云う。 |
翌26日、教祖は「赤衣」を召されることになり、「一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井」と4人に直々さづけの理を渡された。 |
1874(明治7).12.26(陰暦11.18)日、教祖は赤衣を召された。これ以後教祖は赤衣を脱ぐことは一切なく常に赤衣をお召しになられることになった。使いこなした赤衣は細かく裁断されて「証拠守り」とし、より来る信者に手渡されていくことになった。教祖は、更にその赤衣を召された同じ日に、「一に、息は仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざい手踊り辻、四に、しっくりかんろだい手踊り桝井」と、四名の者に、直々「おさづけの理」
をお渡しになられた。これが、「身上たすけ」の為に「おさづけの理」を渡された始まりである。「一に、息は仲田」とあることからして、この時点では、仲田儀三郎が一の高弟として「お道」の束ね役の立場にあったことが判明する。 |
1875(明治8).6月、「かんろだいのぢば定め」が行われ同席。稿本教祖伝は次のように記している。
「教祖は、前日に、『明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように』と仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた処、皆な、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止った。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなった。こうして、明治八年六月二十九日、陰暦の五月二十六日に、かんろだいのぢばが、初めて明らかに示された。時刻は昼頃であった」。 |
これによれば、教祖のかんろ台のぢば定め後、「こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助」順に確認歩きしていることになる。仲田が、教祖、こかんの次に歩いていることで、この時点での教内の立ち位置が分かろう。 |
1876(明治9)年、大和国川東村小坂の松田利平の願いによって、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、村田幸右衛門、堀内与助等の人々が、雨乞いの願いによりかぐらつとめを執行した。その時、雨は降らなかったけれど旱魃に拘らず、田の収穫は例年以上であって、人々は神の恩寵を感謝して止まなかった。また、「雨降らぬ時ほど人の田に水をの心を定めなさい」と教祖がおっしゃっていたと山本利雄が山本利三郎さんの話として伝えているのは、この時の事である。この頃、仲田儀三郎が「教祖の一の弟子」として取次の立場であった。 |
明治八、九年頃、扇伺の許しが止められた。扇伺を許された人は五六十人もいたが、「心得」までの為に許されていたが、許された者が神の力を持つと高慢の理が出始めた為に取り止めることになったと云う。但し、止められたのは全員ではなく、大工の伊蔵と仲田左衛門の二人だけは止められなかった。(明治23年6月21日)お指図が次のように述べている。
さあ/\扇の伺い/\と云うは、心得までのため。これは古きの道や。わづか年限はしれてある。教会を治めているなら、世界からどうであろうと心がけていやう。おれもみやうか、今の一時むつかしい処、古き処で留め置きたる処もしばらくという。用いる者が悪いのや。面々からは出やしやうまい。それだけの心の理が分からねばどうもならん。扇の伺いは言葉では云わん。それから遂には高慢の理がでる。そこで皆なとめた事情は古き事情・・・。 |
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教祖より「一に息、仲田」と言われて「息のさづけ」を頂いている。「息のさづけ」を頂いたのは高井直吉と仲田左衛門の二人だけである。「改定正文遺韻」には次のように記されている。
「元治元年春より扇伺を熱心の人々に渡し給う。頂きたる人々は五六十人もありしと。明治八九年の頃に至りて、すっきり止め給ひ。ふしん一条は大工にまかせ、身上伺は左衛門にまかす、と御咄しあり。御二人丈は伺の御許しありといふ」(「改定正文遺韻」P34【註】)。 |
ここで注目すべきことは、「身上伺は左衛門にまかす」という文言である。つまり「身上たすけ」は仲田左衛門が任されたとある。
教祖から「一の子供」と言われ、寄り集う信者達の「おてふりの師匠」としても活躍した。いわば教祖の側近中の側近で、こかんと並ぶ「理の取次人」という最も重要な神様の御用も勤めている。「理の取次人」を担う者は神様の目に適った人物でなければならず、こかん、仲田儀三郎、飯降伊蔵のラインが列なっている。数ある教弟の中でも取次第一と云われた教理派で、伊蔵と共にみきの教えを説き続けようとした第一等の人だった。
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1876(明治10)年11月2日夕刻、辻忠作、仲田儀三郎、山澤良治郎。
「『お屋敷のお掃除をみんなでさせて頂きたいと申し上げた処』、日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで。この道は人にさせる道やないで、めい/\一人/\が自分からつとめさせて貰う道やから、人がどうのこうのと言うやないで。人間は(女の人は)自分がすると、人にもさせたくなるものやが、何ぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃいかん、時をはずして何をしても何もならん。種を蒔くときには種をまかにゃいかん。さむいあついと言うて、今忙しいからというて時をはずしたら、いい芽はでてこないで。時をはずさぬよう、よく教えてやってくれ。自分がつとめさせて貰う時でも、人にもさせようと思う心持ったらいかんで。人には借りものという事わからせてやったらつとめて貰える。なんぼさせようと思うても、借りものという事わからねばなんにもならん。めい/\が運ばして貰い、つとめさせて貰うておるうちに人はついてくるで」。 |
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1876(明治10)年11月3日朝方、辻忠作、仲田儀三郎、山澤良治郎。(願いの筋なし)
「人にあゝさせようこうさせようと思う心使うて通っていたら、我が身が立たなくなるで。人にさせる道やない、自分からさせて頂く心にならにゃいかん。自分がつとめさせて貰うから人がついてくるのやで。つとめると言うても人にするのやない、神様につとめさせて貰うのやで、神様にやで。人間はなあ、人が人をどうするこうすると言う事は出来ないのやから、なんぼさせようと思うていても動かすこと出来ん。だから自分からつとめさせてもろうて、その理をうつしてやるよりほかにないで。自分がつとめさせてもらうと言う理ほど結構なことないで」。 |
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1876(明治10)年、「明治十年 仲田儀佐ヱ門先生大阪へ行くと申されましたので、私(註/増井りん)はさようで御座りますか、さようならば、私が御案内さして頂きますから・・・」。 |
1877(明治11)年4月頃、文久、元治の頃より教祖の「講を結べ」の御言葉があり、この頃お急込みされ、これを受けて秀司を講元とする真明講が結ばれた。親神のお急込み通り人々の喜びを一つに結ぶ講ができた。その世話人として「仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衞、中尾休治郎」とあり、仲田が筆頭に記されている。
この頃から官憲の取り締まりが厳しくなり、教祖やお屋敷の人々と共に度々引致、拘留、科料などを受けた。 |
1879(明治12).6.21日、「明治十一年六月二十日 大和国、若井村の松尾市兵衞様身上に就き仲田佐右ヱ門先生、辻忠作先生、私りん三人でお助けに出さしていたゞきました」(「史料掛報」第116-118号
「仲田佐右ヱ門先生に就て」より)。 |
1879(明治12).6月、教祖が、毎晩のお話の中で、「守りが要る、守りが要る」と仰せになった。この時、取次の任に当たっていたのが仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等であった。秀司、仲田、増井りんの三名が教祖に伺ったところ、教祖は、「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあさあ楽しめ、楽しめ。どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあさあ早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ」とお言葉を下された。りんはその夜から、明治20年、教祖が御身をかくされるまで、お側近くお守役を勤めさせて頂くことになった。 |
1879(明治12)年、後に高安大教会を創始する松村さく子病気につき地場より仲田、辻両氏来り神楽勤をなす。 |
1881(明治14).12.26日、教祖が仲田儀三郎に「心の澄んだ人の言うことは聞こゆれども、心の澄まぬ人の言うことは聞こえぬ」との御言葉を下されている。 |
1882(明治15).2月、「二月の御苦労」があり、稿本教祖伝に次のように記されている。
「そばの者が、どういう事が見えて来るのか知ら、と心配して居ると、二月になって、教祖はじめ、まるゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の人々に対して、奈良警察署から呼出しが来た。その結果、教祖には二円五十銭、その他の人々には、一円二十五銭宛の科料の言渡しがあった。この時、警官は、本官がいか程やかましく取り締るとも、その方等は聞き入れない。その方等は根限り信仰致せ。その代りには、本官も根限り止める。根比べする、と言うた」。 |
奈良警察署が「教祖はじめ、まるゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎」を呼出している。 |
1882(明治15).4.5日、梶本松治郎、仲田儀三郎、岡田与之介。(願いの筋なし)
「借りものという理心に治ったなら、どんな中でも神様はつれて通って下さるのやで。いくら口で説いたとてその心にならにゃ何にもならん。心に治まったなら無い命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持方がむつかしいのや。日々通る心の持方は自分勝手な心使い、気ずい気まゝな心使いでは御守護は頂けないで。気ずい気まゝな心使いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない、こんなことはわかっているやろ、ここの処よく思案してくれ。借りものという理心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。借りものということよくしっかり心に治めてくれ。借りものという事は、神様からこんな結構な身体を借りていると言うことをよく心に治める事やで。これがわかればそれでよいのや。よく心に治まれば、どうして御礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えて来たことを供えさせてもろうのや」。 |
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1883(明治16).11月(陰暦十月)、御休息所が落成し、教祖がお移りされた。この時、仲田儀三郎が、梅谷四郎兵衞その他高弟に対し、教祖の召し物の裾分けをしている。 |
義太夫(ぎだゆう)の心得があって、警察に連行される時でも、身ぶり手ぶりで語って周囲を笑わせた。教祖とともに拘留された事もしばしば。 |
1883(明治16)年、三島村から頼まれて行った雨乞づとめにも参加し、この時も警察に引致され、後、科料されている。 |
1884(明治17)年頃から、教祖に「ご苦労」をかけたくないとの思いから教会設置に尽力した。 |
1886(明治19).2月18日(陰暦正月15日)、教祖は89才の高齢で最後の「御苦労」を務めた。この時、一緒に拘留され、桝井と仲田は三十年振りの厳寒の中、櫟本警察分署の拷問用の雁木牢(組牢)という小さい檻に入れられた。十日間責められた。釈放された時、仲田は立つこともできず、戸板に乗せられて帰還した。釈放後も病の床に付すことになった。 |
この頃の仲田の様子が次のように伝えられている。仲田は、死の床にあ って、「教祖のお待ちくださる『こうき』をまとめてから死にたい、どうか増野はん、わしが話すから筆をとってくれないか」と、「こうき」を書きあげることに執念の人となった。増野正兵衛は、元士族で、教弟の中では、もっとも筆達者と云われていた。増野は、仲田の口述を筆記しながら、「こうき」の内容が今までのとは大きく違うことに当惑し、伊蔵の「おさしず」を仰ぐこととなった。伊蔵は、「『こうき』は、いろいろな者がまとめているが、未だ完全なものはない、急いでやってくれ」(兵神版おさしず)と指図した。こうして、明治19年4月9日、「こふき」が書きあげられることになった。 |
1886(明治19)年6.22日、ほぼ書きあげられたと同時に仲田は息を引き取った(享年56歳)。生前の仲田の気迫からすると、56才で寿命を閉じる
ような人ではなかった。「仲田版こふき」には後日談がある。仲田の死の直後、長男の岸松が、その「こうき」をよんだところ、こんな恐ろしいものがあったら大変や、どんなわざわいが及んで来るやらしれんと、父の棺の中へ埋葬してしまったと云う。
教祖は、仲田の出直しを非常に惜しまれ、「錦のきれと見立てたものやけど」と仰せられている。その後、「私は長らく道を説いてきたが、私を助けようとするものは一人もいない」と嘆いたことが伝えられている。仲田の道一条は真紅なものであったように思われ、教祖の目には「教理の仲田、至誠の飯降」の評価があったように思われる。
2008.1.2日 れんだいこ拝 |