天理教伝道史には、一村がこぞって入信した村の記録がある。それも一つや二つではない。いくつもの村で全村民が入信したという。本当だろうか。村に一種のヒステリックな環境が醸し出され、流行り信心に至ったのであろうか。それとも全村が入信するだけの信仰的理由があったのであろうか。全村民入信の 事例を文献資料によって挙げてみよう。
現在の滋賀県甲賀市一帯は京都府宇治田原から天理教信仰が入り、明治20年頃から急速に信者が増える。後の甲賀、水口、湖東などの教会に発展していく所である。明治19年、甲賀谷の杉谷村に住む寺井おまつはイネの葉先で目を突き失明した。宇治田原の西野清兵衛により片目を助けられ喜び勇んで村へ帰った。近隣に布教するうち、同村の西田宗三郎が入信し、またたく間に杉谷村は2〜3軒残してみんな入信したという。また近くの市ノ瀬村に伝わると全村が入信した(天理教伝道史2)。杉谷はこの頃、人口数百人だと推定できる。市ノ瀬は少し小さく100人前後ではなかったか。2村併せて200
軒ほどのところ、ほとんどが天理教信者になった。
京都府愛宕郡下鴨村(現京都市左京区)は明治19年夏の干ばつで村人たちは困り、あと数日降雨がなければ作物が大打撃を受けるという状態だった。この時、村人たちは斯道会(後の河原町大教会)に雨乞いづとめを依頼した。斯道会では相談の上、おやしきのお許しを得て、8月24日からおつとめにかかった。3日目の26日には大雨となった。下鴨村には多くのマム
シが生息しており、村人は「天理さんが噛まれる」と心配したが誰一人マムシに噛まれることはなかったという。感激した人たちが一時的ではあるが、ほとんど全村の人がお道の話を聞いたと言う(天理教河原町大教会史1)。「話を聞いた」という記述は入信したのか微妙だ。この点を大教会史編纂関係者に聞いたところ、単に話を聞いたという軽いものではないと受け止めているとの返事だった。明治21年の統計では下鴨村には
1,500人ほどが住んでおり、雨乞いづとめを機に斯道会の講社が結ばれた。
南海大教会を興す山田作治郎が三重県尾呂志荘川瀬村で信仰を始めた頃、近村の矢ノ川に住む大江正之助も信仰に入った。以前大庄屋を勤めていた大江が信仰したので次第に周りの人も入信する。明治22年、大江は矢ノ川の村人を集め全村民揃って天理教に入信しようと相談を持ちかけた。大江は狭い村の中で宗教が分かれるのは困る。みんな揃って天理教になろうと話したところ、賛成者多く全村が天理教に改式した(『陽気』昭和28年3月号)。当時矢ノ川村は73戸で人口314人だった。
なお、明治25年矢ノ川に紀熊分教会が設立されると村内の神社は他へ合祀され寺院は廃寺になった。村中天理教になったので神社も寺院も不要とされたのであろうか。
栃木県は日光系の伝道が伸展した。明治28年には那須郡七合村谷や浅見(あざみ)に伝わった。この村の講元になったのが高野宗吉と いう大百姓だった。高野が入信すると次第に村民が入信、ついにはほとんど全村の人が入信した(天理教伝道史7)。高野
のおたすけの効能と、高野の村への影響力が大きかったのであろう。後、谷浅見分教会となるが祭典日の8日は「野良どめ」と称し農事をやめてみんな教会へ参拝した。全村天理教になったという証だ。明治24年時点で谷浅見の人口は331人だった。
上原佐助によって広められた東京の天理教は東大教会をはじめ日本橋、牛込、淺草、深川などの教会が出来、埼玉県にも伸びる。埼玉県八条村大字立野堀の高橋庄五郎は明治19年夏、
妻の身上を上原に助けられ入信。それまで熱心な成田不動尊信仰者だったが、天理教によって助けられた話を近隣に伝え歩き、教理を取り次ぐようになった。村の住民が反対する中、次第に耳を傾ける人が出来、ついには村の9割ほどの人が入信するに至った(天理教教会史資料3)。明治22年立野堀の人口は585人だった。その9割は500人を超える。本当だろうか。やがて立野堀村を中心に周辺へ広がり、明治25年立野堀出張所(現大教会)となった。
豊岡系松江分教会初代会長、稲葉善蔵は兵庫県城崎郡内川村大字結(むすぶ)の出身である。大阪に居た頃、親戚の家で天理教の話を聞き、入信の心を決めた。郷里の結村に帰って木岡儀八郎(豊岡大教会初代)の薫陶をうけ次第に信仰が進んだ。木岡と共に結村で布教し、その甲斐あって一時(明治22、3年頃?)村全部が入信したという(天理教伝道史5)。明治24年時点で結村の人口は124人。稲葉の隣家に住む岸本唯之助も後に東京布教するほど熱心だった。
その他にも、埼玉県北足立郡三 み や も と 谷本村(牛込系)は明治28年、 雨乞いづとめの結果大雨となり、一カ村が入信した(天理教牛込大教会年譜表)。当時の人口は
2,700人ほど。
また鳥取県気多郡日置谷村(山陰系)は明治26年末にほとんどの人が入信した(山陰大教会史その2)。日置谷は1,000人ほどの村だったと思われる。
本連載前回に触れたが、宮城県石巻町も 大半が信者になったとされる。全村が入信、またはそれに近い状態だったところはまだあるだろう。資料に残されていないも
のもあるかも知れない。現在の一般的感覚では一村全てが天理教になるということは考えにくい。信教の自由があり、100人の村で100人が同じ信仰をもつのは不自然であろう。しかし、百年以上昔は今と事情が違い、生活環境も異なっていた。明治時代には村落共同体の
意識がまだあった。全村入信という事実も村落共同体として秩序を護ろうとする思いがあったと考えることもできよう。紀熊分教会の矢ノ川村はまさにこの例であろう。
全村民入信の形は村の有力者が入信しその影響で全村が天理教になったものと、雨乞いづとめの結果大雨となり、感激した人たちが全村挙げて入信した事例がある。これらは一時に入信
者が増え、全村入信に至ったという点で共通している。時間をかけ、次第に入信者が増える場合は全村入信には至らない。どちらがいいかと言うことではない。歴史の事実として知っておくことが必要だろう。
(注:村の人口は角川日本地名大辞典によった) [連載の終わりに]天理教伝道の諸相を歴史の事実として捉え、 考察を加えるのは現在と将来の布教伝道に資するものでなければならない。しかしそれには不十分なものだったことをお詫びして、この連載を終える。 |