第85部 | 明治新政府のその後の動きと教派神道13派考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「明治新政府のその後の動きと教派神道13派考」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【明治新政府の動き/大日本帝国憲法発布による天皇制国家の確立】 | |
新政府の人事は薩長に掌握された。天皇制による国家統一と富国強兵化が進められた。統制色が強められた。
明治憲法第28条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定していたが、他方、その「告文」およぴ第3条において、祭祀大権の保持者としての天皇の宗教的権威の神聖不可侵性がうたわれ、「天皇を最高の祭祀者とする国家宗教」としての国家神道の公法上の地位が確立された。 |
【明治新政府の動き/教育勅語発布による裏からの天皇制国家の確立】 |
1890(明治23)年、教育勅語が発布され、国体である神権天皇制を前提とする忠君愛国の国家主義的観念を養成することが、教育の最高の理念とされた。政府は、教育勅語を単に教育の基本方針としただけではなく、明治憲法を精神面から補強するものとして、国民の間にその趣旨を周知徹底させた。その意味で、教育勅語は、国家神道の事実上の教典としての役割をも有していた。 |
【国家神道教義の公然登場】 | |
明治憲法とそれに続く教育勅語により、国体を国家神道教義によってイデオロギー化することが思想的且つ国家制度的にも確定した。これにより、神である天皇が統治する日本の神聖性を論うことが国体教義となり、その根拠はもっぱら記紀神話に依拠して説明された。国家神道の説く国体の教義の奥義には、1・神権天皇制を核とする国体、2・世界における「神国日本」の絶対的優越性の主張、3・全世界を指導する聖なる使命意識および神に率いられた日本民族、という選民意識があった。各国はそれぞれ多少なりともこうした自民族優越イデオロギーを詠う面が有るが、日本型国家神道はそれなりの体系を有していたが故に強烈な自意識を形成していくことになった。やがて、この日本民族選良意識が排外的民族主義ないし軍国主義の土壌となって、やがて大陸ないし東南アジア諸国へ侵略戦争を開始し、それら全てを天皇の名による「聖戦」として美化していくことになった。
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国家神道教義による国民教化と国民の精神に対する統制支配の実態を確認する。 1、宗教政策 宗教政策においては、超越的国家神道による各宗教宗派を統制するという形で、国民の精神支配政策が導入された。各宗教の上に国家神道が君臨する宗教体制が構築され、「建前としての信教の自由」が僅かに保障されるという按配であった。 これにより、「国体」の原理にとって異端的な宗教は厳しい取締りを受け、不敬罪や治安推持法によって容赦なく弾圧された。この種の宗教弾圧事件としては、大本教事件(1921年,1935年)、ほんみち事件(1928年,1938年)、ひとのみち事件(1936年)、新興仏教青年同盟事件(1936年)、日本灯台社事件(1939年)、ホーリネス教会事件(1942年)、創価教育学会事件(1943年)などが挙げられる。 そして,戦時体制が強化されるに伴い、大半の宗教は自ら国家神道に従属し、国策奉仕と戦争協力によって国家神道を補完し、聖戦に向かう役割を担わせられた。 2、教育政策 教育政策においては、1890年に教育勅語が発布され、以後の教育の基本方針として絶対化された。教育勅語はその冒頭で、「朕惟フニ、我力皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠二、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」と述べ、国家の淵源を皇祖皇宗に求め、次に「我力臣民、克ク忠二、克ク孝二、億兆心ヲーニシテ世々蕨ノ美ヲ済セルハ、此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実二此二存ス」と述べ、臣民の忠孝を称揚し、その精神の涵養を教育の目的とした。更に、「一旦緩急アレハ、義勇公二奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と述べ、戦争政策への挺身を求めていた。 教育勅語は天皇・皇后の「御真影」と共に各学校に下賜され、1891年の文部省令「小学校祝日大祭日儀式規程」では、祝祭日における「御真影」への最敬礼、教育勅語奉読等の国家神道的儀式が定められた。又、初等義務教育では、修身・国吏を中心に「国体」の教義の普及徹底が図られ、記紀神話が教えられた。このようにして、教育勅語精神が、学校教育を媒介として国民の精神構造に浸透せしめられていった。 1935年、天皇機関説事件を契機として「国体明徴運動」が起き、それに伴い、文部省は、1937年に「国体の本義」、1941年に「臣民の道」をそれぞれ刊行し、各学校その他に配布した。それらは軍国主義的な国民強化を推進するうえで大きな役割を果した。 なお、旧憲法には学問の自由を保障する規定はなく、学問は勅令事項とされていた。大学令第1条により、学問を担う大学は「国家二須要ナル学術」を研究教授するものとされ、天皇制神話や「国体」の批判、社会主義の研究等が抑制され、真理の探究としての学問の自由は抑圧されていた。国家主義的目的の範囲内でしか研究の自由も大学の自治も認められなかった。このような中で、学問の自由に対する国家的干渉の事件として、森戸事件(1920年)、滝川事件(1933年)、天皇機関説事件(1935年)、矢内原事件(1937年)、河合事件(1938年)、津田事件(1940年)などが起きた。 3、軍事政策 軍事政策においては、1882年に「軍人勅諭」が出され、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の軍人精神の規範を示すとともに、国民に対し天皇の軍隊としての絶対服従の精神を要求した。それは、「朕が国家を保護して上天の恵に応じ祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を尽すと尽さざるとに由るぞかし」と述べて、「国体」の原理を前提とするものであることを明らかにするとともに、「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」と述べて、人命軽視・滅私奉公の思想を国民に植え付けるものであった。 1941年に東条英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」も、「国体」の観念を中心に説かれた軍人に対する訓戒であったが、それは「命令一下欣然として死地に投ぜよ」、「生死を超越し従容として悠久の大義に生くることを喜びとすべし」、「生きて虜囚の辱めをうけず」などと述べて、「国体」の教義のために殉じる「玉砕」の思想を国民に強制するものであった。 4、治安政策 治安政策においては、1925年に治安維持法が制定され、「国体」の教義に反する思想・言論・表現・集会・結社の自由を抑圧するうえで強大な力を発揮した。 治安維持法第1条1項は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之二加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁鋼二処ス」と規定していたところ、「国体の変革」という構成要件が極めて抽象的であったため、拡大適用がなされて、自由主義的思想や平和主義的思想の弾圧にも利用された。その結果、国民の精神的自由が著しく脅かされた。 1928年の改正で、刑罰が加重されて「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁鋼二処ス」と規定され、1941年の改正では、予防拘禁制が導入されて、思想統制・宗教統制が一段と厳しさを増し、戦時体制が強化されていった。 国家神道体制における「個人の尊厳」の否定 旧憲法下では、「復古神道に基く天皇制政教一致体制」が敷かれ、政治・経済・文化・思想の全域にまで強い影響力を及ぼした。戦時体制になるに及んでは、国民の「個人の尊厳」は完全に否定され、国民の基本的諸人権が国家目的のために犠牲にされて顧みられなかった。 戦後憲法が「政教分離」の原則を採用したのはその反省からであった。戦後憲法は,旧憲法の基本原理である「国体の原理」を否定して、「人類普遍の原理」である「個人の尊厳の原理」を基本原理として採用した。「政教一致」から「政教分離」への変遷は、この基本原理の質的転換にまさしく対応するものであって、極めて本質的な憲法的意義を有するものとなっている。 |
【「明治期の教派神道」考】(「教派神道」参照) | ||||||||||||||||||||||||
教派神道とは通常は、明治時代に教導職が廃止されて神道の布教ができなくなった時に届出により政府公認された13の宗派のことを云う。その経過の概要は次の通り。
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【教派神道】 | |||||||||||||||||||||||||||
教派神道宗派の概要は次の通り。
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「教派神道13派」後のその他有力な教派は次の通り。
(参考文献) 弘文堂「新宗教・教団人物事典」、学研「古神道の本」、新人物往来社「よみがえる異端の神々」、神宮館「生活の中の神事」田島諸介著 講談社「日本語大辞典」、三省堂「電子ブック版・大辞林」 |
(私論.私見)