第85部 明治新政府のその後の動きと教派神道13派考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【明治新政府の動き/大日本帝国憲法発布による天皇制国家の確立】

 新政府の人事は薩長に掌握された。天皇制による国家統一と富国強兵化が進められた。統制色が強められた。

 1889(明治22).2.11日、明治憲法(大日本帝国憲法)が、翌明治23年には教育勅語が発布された。国家神道路線から外れる宗教.思想の弾圧政策が強化された。天理教に対する官憲の迫害干渉が強められた。

 明治憲法は、第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」、第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬す」と規定し、統治権の淵源に天皇を据え、主権が天皇にあることを明らかにした。教育勅語も、「父母に孝に、兄弟に友に夫婦相和し、朋友相信じ、忝倹おのれを持し、博愛州に及ぼし」、「もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と宣べ、皇室賛美を補完した。

 明治憲法の基本原理は、いわゆる「国体」の原理を天皇制に求め、「我国の建国以来、天皇は、天孫降臨の際に天照大神が下した天壌無窮の神勅に基づいて我国を統治する地位にあり、臣民は、本来的にこの天皇の統治に無条件に隷従すべく運命づけられている」としていた。こうして、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)を頂点として再編した国家神道イデオロギーが天皇主権を支えるイデオロギー的支柱となった。天皇主権による天皇の日本統治の正統性は、世界支配までを胚胎するイデオロギー、秩序観を宣明しており、これが後々の大東亜戦争の聖戦イデオロギーに化していくことになる。 

 こうした国家神道の歩みの強化が「八紘一宇」となる。「豊葦原」、「瑞穂」の国の国家観、国産み神話、天孫降臨神話、神武天皇御東征神話、天皇の万世一系観、これらが大日本帝国憲法に結実していくことになる。これが国体観を生み出すことになる。あたかも、ヨーロッパのユダヤーキリスト教的帝国主義の世界支配に対抗する為にアマテラス帝国主義で対抗せんとして神惟の道を採用したかの如くであった。

 明治体制の根本思想は、欧米文明の精神的基盤であるユダヤ教、キリスト教に対抗せんとして、天皇信仰を国の基盤に据えた。伊藤博文の枢密院での所信表明は次の通り。

 「欧州では宗教というものが国家の機軸を為しているが、わが国の場合、どの宗教も力が弱く、国家の機軸足りえるものが無い。従って、わが国においては機軸とすべきものは皇室しかない」。

 明治憲法第28条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定していたが、他方、その「告文」およぴ第3条において、祭祀大権の保持者としての天皇の宗教的権威の神聖不可侵性がうたわれ、「天皇を最高の祭祀者とする国家宗教」としての国家神道の公法上の地位が確立された。

 従って、旧憲法にいう「信教の自由」は、国家神道と両立する限度においてのみ認められたものであって,天皇の祖先が神々であり、天皇自身も神の子孫として神格を有することを否定することは許されず、結局、宗教の本質からいって、このような限界は、信教の自由そのものを否定するに等しかった。


【明治新政府の動き/教育勅語発布による裏からの天皇制国家の確立】
 1890(明治23)年、教育勅語が発布され、国体である神権天皇制を前提とする忠君愛国の国家主義的観念を養成することが、教育の最高の理念とされた。政府は、教育勅語を単に教育の基本方針としただけではなく、明治憲法を精神面から補強するものとして、国民の間にその趣旨を周知徹底させた。その意味で、教育勅語は、国家神道の事実上の教典としての役割をも有していた。

【国家神道教義の公然登場】

 明治憲法とそれに続く教育勅語により、国体を国家神道教義によってイデオロギー化することが思想的且つ国家制度的にも確定した。これにより、神である天皇が統治する日本の神聖性を論うことが国体教義となり、その根拠はもっぱら記紀神話に依拠して説明された。国家神道の説く国体の教義の奥義には、1・神権天皇制を核とする国体、2・世界における「神国日本」の絶対的優越性の主張、3・全世界を指導する聖なる使命意識および神に率いられた日本民族、という選民意識があった。各国はそれぞれ多少なりともこうした自民族優越イデオロギーを詠う面が有るが、日本型国家神道はそれなりの体系を有していたが故に強烈な自意識を形成していくことになった。やがて、この日本民族選良意識が排外的民族主義ないし軍国主義の土壌となって、やがて大陸ないし東南アジア諸国へ侵略戦争を開始し、それら全てを天皇の名による「聖戦」として美化していくことになった。

 明治新政府は、明治維新に伴って生じた政治的・社会的混乱を克服して統一国家体制を確立するために、国家の機軸として神権天皇制を採用し、「王政復古による天皇親政」という政治形態をとったが、国家神道は、この神権天皇制を宗教的に基礎づけるというイデオロギー的役割を果たすことになった。国家神道は、明治新政府が中央集権的な統一国家体制を確立するにあたり、政府の諸施策を権威づけ、且つ天皇の宗教的権威を政治的に利用するという手法での国民的統合を早期に形成するために利用された。国家神道は、そういう歴史的過程の中で成立した極めて政治性の強い宗教であることになる。

 また、国家神道は、日本固有の民族宗教としての「神社神道」を、天皇を主宰者とする宮中祭祀としての「皇室神道」と結合させ、皇室神道を基本に中央集権的に再編成することによって成立した。ところで、民族宗教とは、宗教学上の概念であるが、それは、一般に体系的な教義と特定の創唱者をもたない祭祀儀礼を中心とする宗教で、社会集団としての共同体と宗教集団としての共同体が完全に重なり合う点に特徴がある。国家神道は、神社神道が有していたこのような民族宗教としての共同体原理を国家的規模にまで拡大し、その教義によって国民の精神生活を全面的に支配したところに特異性がある。

 こうして、国家神道が大きな役割を果たしていくことになった。国家神道の思想は、内政的には天皇帰一の家族国家観を、対外的には排外的侵略思想をそれぞれ宗教的に基礎づけるものであり、満州事変勃発から太平洋戦争に至るファシズムの最盛期における国家神道の軍事的侵略的教義の展開は、国家神道の本質の顕在化であった。

 また、国家神道は、天皇制ファシズムの台頭の時期に、国民の思想統制のための強力な武器として政治的に最大限に利用され、国家主義・全体主義の方向へ全国民を統合するうえで大きな役割を果した。ドイツのナチスの指導者達ですら、日本における「国家神道」という政治的祭儀による思想統制を最高の規範として、それを模倣しようと努力していたことは注目に値する。

 旧憲法の基本原理は「国体」の原理であり、また、国家神道は、この「国体」の原理を教義とし、天皇を祭主とする宗教であって、事実上、国教的地位を与えられていた。すなわち、旧憲法下における国家体制は、国家神道と密接不可分の関係にあり、天皇が統治権の総攬者であると同時に国家神道の祭主でもあるという、完全な「政教一致(祭政一致)」の体制であった。

 旧憲法下においては、「政教一致」により、天皇は神格化ないし絶対化され、「臣民」は天皇の意思や命令に対して無条件に服従することが強いられるとともに、国家のあらゆる意思、あらゆる作用は、究極において,天皇の神聖にして侵すべからざる意思に淵源を有するとされた。また、国家神道は、国家の国民に対するイデオロギー的支配の道具として最大限に利用され、それによって国民教化がなされるとともに国民の精神生活が全面的に統制支配されていた。

 天皇制イデオロギーの称揚根拠について、次のように捉えることが出来るようである。「いのち永遠に−教祖中山みき」p117を引用する。多少異論も有るが参考にして良い文章である。

 近代日本は、激しい西欧列強の圧力のもとにさらされていた。それは、政治的.軍事的.経済的.社会的.文化的.宗教的な一切合財の圧力である。この激しい圧力に抗し、自国の独立を守り、近代国民国家を形成するのは、それこそ至難の業であった。ほとんどの国はそれに失敗した。アジアの名だたる世界帝国(オスマントルコ帝国.ムガール帝国.清帝国)でさえ自国の独立を保てなかった。オスマントルコ帝国は次々とその領土を切り刻まれ、小アジアの一部(アナトリア)に押し込められた。ムガール帝国は、セポイの乱に敗北し、ヨーロッパの一島国たるイギリスの植民地になった。中国はかろうじて独立は保ったものの、群がる西欧列強の攻勢に拠り、虫食いのようにその領土を割譲させられた。

 彼らが負けた理由ははっきりしている。オスマントルコ帝国にもムガール帝国にも清帝国にも、トルコ国民、インド国民、中国国民という人間集団は未だいなかった。あるのはただバラバラに存在する各種の社会集団や共同体の寄せ集めだけであった。西欧の列強はそうした社会集団や共同体を分断し、各個撃破していったのである。アジアの封建国家群は持ちこたえられずに崩壊した。そして、西欧列強の格好の餌食となった。

 日本の場合にも、基本的には他のアジア諸国と同じであった。そこには、薩摩人や長州人や会津人はいた。武士や農民や職人や商人はいた。しかし、「日本国民」はいなかった。そして、彼らはその直接的な忠誠をバラバラな対象に投げかけていた。幕府も朝廷も未だ人々と直接的なつながりを持っていなかった。繰り返すが、この時点で日本国民は存在していなかったのである。従って、明治維新が成立した時、新政府が最も力を入れたのは、この日本国民の形成である。薩摩人を、長州人を、会津人を解体し、溶解し、再編して日本国民につくり変えなければならなかった。武士や農民や職人をことごとく鋳型にはめて押しつぶし、日本人という国民にしなければならなかった。

 新政府はその一点を目指し、階級性(士農工商)をぶち壊した。廃藩置県を強行した。義務教育制を施行した‐‐‐。その時、新政府が思想的根拠としたものこそ、国家神道(新たなる天皇の物語)だったのである。

 一つの神話(記紀神話)、一つの歴史物語(皇国史観)、一人の現人神(天皇)−これが、国民国家形成に向けた維新体制のスローガンである。維新新政府は、国家神道を鋳型にして、有無を言わさず日本国民をつくり上げた。新たな日本国民の誕生には、それに見合う強力な国家宗教物語が必要だったのである。

 国家神道教義による国民教化と国民の精神に対する統制支配の実態を確認する。

 1、宗教政策

 宗教政策においては、超越的国家神道による各宗教宗派を統制するという形で、国民の精神支配政策が導入された。各宗教の上に国家神道が君臨する宗教体制が構築され、「建前としての信教の自由」が僅かに保障されるという按配であった。

 これにより、「国体」の原理にとって異端的な宗教は厳しい取締りを受け、不敬罪や治安推持法によって容赦なく弾圧された。この種の宗教弾圧事件としては、大本教事件(1921年,1935年)、ほんみち事件(1928年,1938年)、ひとのみち事件(1936年)、新興仏教青年同盟事件(1936年)、日本灯台社事件(1939年)、ホーリネス教会事件(1942年)、創価教育学会事件(1943年)などが挙げられる。

 そして,戦時体制が強化されるに伴い、大半の宗教は自ら国家神道に従属し、国策奉仕と戦争協力によって国家神道を補完し、聖戦に向かう役割を担わせられた。

 2、教育政策

 教育政策においては、1890年に教育勅語が発布され、以後の教育の基本方針として絶対化された。教育勅語はその冒頭で、「朕惟フニ、我力皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠二、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」と述べ、国家の淵源を皇祖皇宗に求め、次に「我力臣民、克ク忠二、克ク孝二、億兆心ヲーニシテ世々蕨ノ美ヲ済セルハ、此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実二此二存ス」と述べ、臣民の忠孝を称揚し、その精神の涵養を教育の目的とした。更に、「一旦緩急アレハ、義勇公二奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と述べ、戦争政策への挺身を求めていた。

 教育勅語は天皇・皇后の「御真影」と共に各学校に下賜され、1891年の文部省令「小学校祝日大祭日儀式規程」では、祝祭日における「御真影」への最敬礼、教育勅語奉読等の国家神道的儀式が定められた。又、初等義務教育では、修身・国吏を中心に「国体」の教義の普及徹底が図られ、記紀神話が教えられた。このようにして、教育勅語精神が、学校教育を媒介として国民の精神構造に浸透せしめられていった。

 1935年、天皇機関説事件を契機として「国体明徴運動」が起き、それに伴い、文部省は、1937年に「国体の本義」、1941年に「臣民の道」をそれぞれ刊行し、各学校その他に配布した。それらは軍国主義的な国民強化を推進するうえで大きな役割を果した。

 なお、旧憲法には学問の自由を保障する規定はなく、学問は勅令事項とされていた。大学令第1条により、学問を担う大学は「国家二須要ナル学術」を研究教授するものとされ、天皇制神話や「国体」の批判、社会主義の研究等が抑制され、真理の探究としての学問の自由は抑圧されていた。国家主義的目的の範囲内でしか研究の自由も大学の自治も認められなかった。このような中で、学問の自由に対する国家的干渉の事件として、森戸事件(1920年)、滝川事件(1933年)、天皇機関説事件(1935年)、矢内原事件(1937年)、河合事件(1938年)、津田事件(1940年)などが起きた。

 3、軍事政策

 軍事政策においては、1882年に「軍人勅諭」が出され、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の軍人精神の規範を示すとともに、国民に対し天皇の軍隊としての絶対服従の精神を要求した。それは、「朕が国家を保護して上天の恵に応じ祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を尽すと尽さざるとに由るぞかし」と述べて、「国体」の原理を前提とするものであることを明らかにするとともに、「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」と述べて、人命軽視・滅私奉公の思想を国民に植え付けるものであった。

 1941年に東条英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」も、「国体」の観念を中心に説かれた軍人に対する訓戒であったが、それは「命令一下欣然として死地に投ぜよ」、「生死を超越し従容として悠久の大義に生くることを喜びとすべし」、「生きて虜囚の辱めをうけず」などと述べて、「国体」の教義のために殉じる「玉砕」の思想を国民に強制するものであった。

 4、治安政策

 治安政策においては、1925年に治安維持法が制定され、「国体」の教義に反する思想・言論・表現・集会・結社の自由を抑圧するうえで強大な力を発揮した。

 治安維持法第1条1項は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之二加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁鋼二処ス」と規定していたところ、「国体の変革」という構成要件が極めて抽象的であったため、拡大適用がなされて、自由主義的思想や平和主義的思想の弾圧にも利用された。その結果、国民の精神的自由が著しく脅かされた。

 1928年の改正で、刑罰が加重されて「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務二従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁鋼二処ス」と規定され、1941年の改正では、予防拘禁制が導入されて、思想統制・宗教統制が一段と厳しさを増し、戦時体制が強化されていった。

 国家神道体制における「個人の尊厳」の否定
 
 旧憲法下では、「復古神道に基く天皇制政教一致体制」が敷かれ、政治・経済・文化・思想の全域にまで強い影響力を及ぼした。戦時体制になるに及んでは、国民の「個人の尊厳」は完全に否定され、国民の基本的諸人権が国家目的のために犠牲にされて顧みられなかった。

 戦後憲法が「政教分離」の原則を採用したのはその反省からであった。戦後憲法は,旧憲法の基本原理である「国体の原理」を否定して、「人類普遍の原理」である「個人の尊厳の原理」を基本原理として採用した。「政教一致」から「政教分離」への変遷は、この基本原理の質的転換にまさしく対応するものであって、極めて本質的な憲法的意義を有するものとなっている。

【「明治期の教派神道」考】教派神道参照)

 教派神道とは通常は、明治時代に教導職が廃止されて神道の布教ができなくなった時に届出により政府公認された13の宗派のことを云う。その経過の概要は次の通り。

1875年 明治 8年

 教導職についた神官が集まり、神道事務局を設置。  

1876年 明治 9年  一派の教義を立てて1・黒住教と2・神道修成派が独立。
1882年 明治15年  教導と神官の兼職が禁止され、3・出雲大社教、4・扶桑教、5・実行教、6・神道大成教、7・神習教、8・御嶽教が独立。
1884年 明治17年  教導職が廃止。神道事務局の教導達は「神道(本局)」という名の宗派を立てる。これが後に9・神道大教となる。
1894年 明治27年  「神道」から10・神理教独立。
1896年 明治29年  11・禊教独立。
1899年 明治33年  12・金光教独立。
1907年 明治41年  13・天理教独立。

【教派神道】

 教派神道宗派の概要は次の通り。

 神道大教(稲葉正邦/天神地祇)
 昭和15年までは単に「神道局」と称していた。明治政府主導で作られた機関で稲葉正邦が創始者的地位に立つ。造化三神、いざなぎ・いざなみ、天照大神・須佐之男神、歴代の天皇などを祀り、惟神の道を広め、道義の実践を主旨とする。
 黒住教(黒住宗忠/天照大神)
 教祖は、黒住宗忠(1780.11.26-1850.2.25)。宗忠は1828年の冬至の日、日出の太陽を見た時に天照大神と一体となる神秘体験(天命直授)をし、それから病気治療のまじないや講釈を始めた。幕末には三条実美らに支持され、明治維新後も天照大神信仰を基本にすることから他宗派に比べると比較的順調に公認されたが、当時は天照大神との合一体験については説くことを禁じられ、道徳修養を中心とした平易な教えで布教した。慢心で人を見下したり、人の悪事を見て自分の悪心を増すことなどを戒め、他人の姿には自分の心が鏡として映っているということを説く。現在の信者は推定約30万人。
 神道修成派(新田邦光/天照大神、イザナギ神、造化三神)
 教祖は、新田邦光(1829.12.5-1902.11.25)。邦光は源氏の名家新田一族の末裔で、嘉永元年(1848)頃から宗教活動を開始、明治6年修成講社を設立、明治9年に神道修成派と称した。教祖が武家の出身であるため儒教色の強い神道で、人の心は純粋・至善であるとし、その神性の発揮を旨とする。現在の信者は約4万人。
 出雲大社(おおやしろ)教(千家尊福/大国主神)
 創始者は千家尊福(1845.8.6-1918.1.3)。伊勢神宮と並ぶ神道の中心的存在である出雲大社が布教活動をするために設立した一派。神道事務局に造化三神と天照大神の他に大国主神も祀るべきだとする立場から伊勢神宮側と対立、これが独立の原因となる。人は「ひ(霊)」「と(止)」であって霊的な存在であり、祖先からの霊の再生更新の過程で心の救い・魂の救いがあるとする。この為「幸魂奇魂守給幸給(さきみたま・くしみたま・まもりたまえ・さきわえたまえ)」と念じ、現身のあるべき姿を実践すべきであると説く。
 扶桑教(宍野半/造化三神)
 創始者は宍野半(しんのなかば、1844.9.9−1884.5.13)。発端は天文年間の山岳信仰家・長谷川角行に仮託されている。半は薩摩の出身で、政府の役人を経て静岡県の浅間神社の神官となり、ほか幾つもの神社の神官を兼務しながら、富士講の結集を進め、明治6年、富士一山講社を設立、明治8年、神道事務局・扶桑教会となり、明治15年、独立して扶桑教となる。大祖参神(富士仙元大神)を崇拝し、富士山に登って心身を清め、天を拝して神の道を体感するとしている。信者数4万人。
 実行教(柴田花守/造化三神の住む富士山)
 創始者は柴田花守(はなもり、1809.5.8−1890.7.11)。扶桑教と同じく長谷川角行に発端するとされている。柴田が不二道の第10世となり、これを明治11年に実行社に改組、明治15年、神道実行派として独立した。富士信仰を中核として復古神道的な色彩の教えであるとされる。信者数11万人。
 神道大成教(平山省斎/造化三神他)
 平山省斎(せいさい、1815.2.19−1890.5.22)が創始。省斎は幕府の外交官として活動したが明治維新後は徳川慶喜に従って静岡に移り、塾を開いた。その頃から宗教活動を開始、教導となり氷川神社、日枝神社の神官を歴任、明治12年、大成教会を旗上げ、明治15年、神道大成派として独立した。大成とは神道の諸派を集めるという意味で、結果的に色々な教会が雑居した一派となった。信者数6万人。
 神習教(芳村正秉/造化三神他)
 芳村正秉(まさもち、1839.9.19−1915.1.21)が創始。正秉は大中臣氏の末裔で武士の子。少年期に家を出て各地で儒学・皇学・漢学を学び、尊皇攘夷に身を投じて幕府に追われ、鞍馬山に逃げ込む。維新後、教部省に入るが神仏合同布教に反対して辞任、神宮司廳に務める傍ら行に励む。神道が一種の学芸になっていることを憂え、富士山、御獄山などで修行を行ない、明治13年、神習講を結成。明治15年、神習教として独立した。信者28万人。
 「 Wikipedia/林実利」によると、林実利(はやしじつかが)は、幕末から明治時代中期の金峯山修験本宗の修験道の行者。1843年、苗木藩領であった美濃国恵那郡坂下村の高部(現岐阜県中津川市坂下町)の百姓の子として生まれる。成長後、御嶽講(御嶽教)に入信する。木曽の御嶽山の黒沢口登山道の千本松で行なわれる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加、登山した際に龍神より託宣を受ける。1870年〜74年、実利行者は大台ヶ原の牛石付近に小屋をつくり、そこを拠点として修行に励む。深仙宿、大台ヶ原、怒田宿、那智山での厳しい修行は通算16年間に及ぶ。宮家からも信仰されるようになり、有栖川宮より直々に役小角に次ぐ優れた山伏を意味する、「大峯山二代行者実利師」という名号を賜る。1884年4月21日、那智滝の絶頂から座禅を組んだまま滝壺に捨身入定(享年42歳)。

 「 Wikipedia/神習教」によれば、神習教は、美作国(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の神道家・芳村正秉(よしむらまさもち)が1857年に立教し明治初期の神官教導職分離の時期に組織した神道教派で教派神道十三派の一つ。東京都世田谷区に法人の教庁を置く。天照大御神をはじめとして神道古典にある天津神、国津神を祀り、古事記、日本書紀ほかを教典とする。当時の神社や神道のあり方に対して問題意識を持っていた正秉が本来の神道の姿に復することを目的とする神代より脈々と流れる伝統的な神道的価値観を教義の柱としている。「大政奉還後、西郷隆盛の紹介により神祇官(後に教部省)に奉職。1873年1月27日には伊勢神宮に禰宜(ねぎ)として奉職」、「西郷の紹介により明治天皇に非公式に面会し幾度となく皇居に出向いている」。芳村正秉と西郷隆盛は深い関係にあったことが分かる。神習教の初代管長は芳村正秉(1839年-1915年)。
 御嶽教(下山応助/国常立命、大己貴命、少彦名命)
 木曾の御嶽山(おんたけさん)の信仰をベースにした一派です。江戸時代末期に覚明・普寛らが開いたものを下山応助(生没年月不明)が組織化し、明治6年、御嶽教会を設立した。当初は平山省斎の大成教と一緒に活動した後、明治15年、御嶽教として独立、それを以て応助は人前から姿を消し、初代管長は平山省斎が務めた。現在、木曾に「山の本部」、奈良に「里の本部」を置き、「おひかり祈祷祭」などを行ない、福祉活動にも力を入れている。信者58万人。
 神理教(佐野経彦/天在諸神)
 饒速日命を祖先と頂く巫部家77代目・佐野経彦(1834.2.16−1906.10.6)が創始。経彦は現在の北九州市で生まれ、九州・中国地方を歴遊し、医学を学び、又数々の執筆活動を行なった。明治8年頃から度々霊示を受け、明治10年頃から布教活動に入り、反キリスト教の立場から神道教化を主張し、明治13年に神理教会開設した。一時御嶽教の管理下に入るが、明治27年、一派独立した。現在も小倉に本部を置いており、易や五行思想等も取込み、神楽・生け花・お茶を奨励し、まじないや占いも行なっているものの、その基本思想はまだ完全には公開されていない。信者30万人。
 禊(みそぎ)教(井上正鐵/造化三神他)
 井上正鐵(まさかね、1790.8.4−1849.2.18)が天保年間に興した教派である。井上正鐵は水野南北の弟子の一人で、易・卜筮により身を立てるが、神秘体験をした事から神祇伯白川家に入門、許状を得て武州足立郡梅田神明宮で布教活動を始める。しかし幕府に睨まれ三宅島に配流。島でも教化活動を続けるが、そのまま現地で亡くなった。この後を継いだのが坂田鐵安(1820.12月−1890.3.18)で、彼も幕府から弾圧を受けるが、活動を死守した。明治5年、「とほかみ講」の名で宣布が許可される。明治9年、惟神教会禊社、明治15年、神道禊派となる。鐵安死去後、鐵安の息子の安治のもとで明治27年、禊教として独立した。昭和49年、井上正鐵を祀る井上神社の火災を機に分裂、現在安儀の禊教と安儀の長男の安弘の禊教真派に分かれている。信者は両派合わせて10万人。
 金光教(金光大神/天地金乃神)
 金光大神(1814.8.16-1883.10.10)が創始したものです。明治18年に神道金光教会、明治33年に金光教として独立しました。この頃から組織化・教義の明文化が進められ、昭和8〜10年には色々な混乱がありながらも内部の規則改正が行なわれたり財政が明らかにされたりして近代化、管長も選挙で選ばれるようになります。そして戦後にも種々の改革運動が起き、東京に布教センターを作るなど布教活動にも努め、服制も神社式を廃して独自のものにするなど、意欲的活動が続いています。信者43万人。
 天理教(中山新治朗/天理王命)
 中山みき(1798.4.18-1887.2.18)が創始。彼女はごく普通の主婦でしたが、天保9年(1838)年に山伏に祈祷を頼んだとき、加持台の女性の都合がつかなかった為、みきが代理を務めました。このとき彼女は3日間にわたって神懸かり状態になり、「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。この度世界一列を救ける為天下った。みきを神の社にもらい受けたい」とご託宣が下った。この神はやがて天理王命と名乗り、安政元年頃からみきは病気直しと安産の助けを主に布教活動を開始する。慶応3年には吉田神道からも公認されるが、明治になってから弾圧を受け、みき自身も何度も留置場に入れられる。そんな中みきが死去し、みきの孫の中山眞之亮が明治21年神道天理教会として公認を勝ち取った。その後も政府・マスコミ一体となった激しい弾圧が続き、明治41年にようやく天理教として独立が認められたが、政府の思想統制のため思うような活動はできなかった。天理教が本格的活動を始めるのは戦後で、天理教教典が編纂され、積極的な布教活動が行なわれるとともに福祉・医療・教育などにも貢献している。信者189万人。天理教は大本教と並ぶ新宗教の源流であり、ほんみち・太道教など多数の新宗教の教祖が天理教から飛び立っている。
 「教派神道13派」後のその他有力な教派は次の通り。
 丸山教(伊藤六郎兵衛)
 伊藤六郎兵衛(1829.7.15-1894.3.30)が創始。生家に伝わる「丸山講」を再興するため一派を立てたもの。祖は元禄年間の伊藤録裕とされます。富士講をベースにしており、富士一山講社の宍野半の下で活動した時期もありましたが明治18年神道丸山教会となります。信徒をいろは48組に組織して、東海・関東地区で布教活動を行ないますが当局に弾圧されて教祖死後勢いを失います。三代目の教主伊藤平質が機関誌を発行するなどして建て直し、戦後ようやく宗教法人として晴れて活動できるようになりました。信者1万5千人。
 大本教(出口ナオ)
 出口ナオ(1836.12.16-1918.11.6)と上田喜三郎(1871.7.12-1948.1.19,出口王仁三郎)が創始者。1892年の正月に突如、艮(うしとら)の金神(こんじん)が降りてきて神憑(かみが)かりになったという老女・出口ナオによって開かれた。須佐之男命の魂を持つと云う上田喜三郎こと後の出口王仁三郎は種々の修行の後「園部へ行け」との天命を受けて、園部へ行く途中、なおの三女ひさと出会い、綾部に行ってナオと出会う。ナオは自分が遭遇した神を理解できる人物として喜三郎を歓迎、両者により大本の基礎になる稲荷講社・金明霊学界が作られ急速に信者を増やしていった。その後、喜三郎はなおの五女すみと結婚、ナオと喜三郎は意見の対立がありながらも教団を率いて行く。

 明治36年、ナオは日露戦争の敗戦を予言したが、これが見事に外れ、喜三郎改め王仁三郎を始め多くの信者が教団を去り、教団はなおの筆先を書く用紙にも事欠く困窮に陥った。しかし明治41年、王仁三郎は綾部に戻り教団を掌握して大日本修正会と改称、大成教の傘下に入って、積極的な布教活動を行なう。この為信者もかなり膨れ上がり、大教団に成長、更に皇道大本と改称する。大正7年、ナオが逝去する。王仁三郎は新聞社を買取って大々的な広報活動を続けた。この頃より政府が、その影響力を恐れ、強引な弾圧を開始する。王仁三郎ら幹部を拘引、各地の支部をダイナマイトで破壊するなど、まるで物に憑かれたかのような異常な弾圧をする。1921年と1935年の2回にわたって当局から大弾圧を受け強制的に衰微させられた。しかし、「生長の家」を創立した谷口雅春をはじめ、「世界救世教」の教祖である岡田茂吉、「三五(あなない)教」の中野与之助、「神道天行居(しんとうあまのゆきだて)」の友清歓真(ともきよのりさね)などがいずれも、かつては王仁三郎の弟子であり、大正期の大本教の青年幹部を務めた事実を知れば、大本教がまさに現代宗教の「おおもと」であったことがわかる。さらに、念写の福来友吉と並ぶ「心霊学」の大家であった浅野和三郎や、合気道の開祖として知られる植芝盛平らも王仁三郎の右腕であったと聞けば、今さらながらに「日本霊学のダム」としての大本教の巨大さを思い知らされる。

 敗戦後、王仁三郎は愛善苑の名で教団を再興、老体を押して全国行脚して布教を続けた。彼の死後も教団はすみ、更に王仁三郎とすみの長女直日に受け継がれ、昭和27年、大本の名前に復帰した。現信者17万人。
 生長の家(谷口雅春)
 谷口雅春(1893.11.22-1985.6.17)が創始しました。雅春は兵庫県の生まれで早稲田大学を中退、大阪で紡績会社に務めますが、大本に入信、綾部で求道社としての生活を送ります。しかしやがて大本に対して不信感を抱き(大本弾圧を密かに予感した王仁三郎が大本の命脈を保つ為にわざと外に出したという説もある)、高岡、神戸、住吉村と転々する中、神の声を聞いて覚醒します。そして「生長の家」誌を発刊、ここに文書伝道を主とする新しい宗教が誕生しました。昭和9年には東京で株式会社光明思想普及会を設立、敗戦を経て、昭和21年宗教法人生長の家設立、やがて活動は政治的、右傾化していきます。昭和50年には活動拠点を長崎県に移し、龍宮住吉本宮を建立しました。なお政治活動の方は推薦した参議院議員が比例代表制により落選した後は撤退して宗教活動に専念しています。雅春の思想には神道をベースにして、仏教・キリスト教・フロイト心理学などの要素が入っていると言われます。
 PL教団(御木徳一)
 御木徳一(1871.1.27-1938.7.6)が創始しました。徳一は徳光教の金田徳光の下で教師を務め、その死の直前、「現在の教訓18条に3ヶ条追加して教えを完成する人が出るから、その人の元に行くように」と言われます。が、徳光の死後教団を辞して釣りなどをして過ごしていた徳一に神からその3ヶ条が授かり、後継者とは自分であったと確信します。そして大正14年「御獄教徳光大教会本部」の認可を受け、昭和6年には「扶桑教ひとのみち教団」となります。しかし昭和12年当局から不敬罪に問われ教団は解散させられ、徳一も獄中に長くつながれた為体を壊して死去します。その後教団は終戦まで地下活動をしますが、明治21年、徳一の長男徳近の下でPL(パーフェクト・リバティ)教団として再生、現在に至ります。信者123万人。
 まひかり(岡田良一)
 岡田良一(1901.2.27-1974.6.23,光玉)が創始しました。良一は飛行機・製塩・炭鉱・材木などを扱う実業家でしたが、空襲により全財産を失い、それを契機に救世教に身を置いていました。しかし58歳の時、5日間の昏睡状態の後、「天の時到れるなり。起て、光玉と名乗れ。厳しき世となるべし」という神の声を聞き、中華料理店の2階に33人の信者を集めて、LH陽光子友乃会を設立、昭和37年に世界真光文明教団に改組しました。良一の死後、教団は後継者を巡って分裂、法人として後継の世界真光文明教団は静岡県中伊豆に主晃一大神宮仮主座と主神大神殿を置き、ここを本拠地として信者10万人、信者の大半を継承した崇教真光は飛騨高山の位山(くらいやま)に元主晃大神宮を置き、ここを本拠地として信者50万人。

 なお街頭で手かざし祈祷の布教活動をしているのはよく真光と誤解されていますが、あちらは真光とは無関係で、同じ救世教から出た神慈秀明会です。こらちは信者44万人。

 (参考文献)
 弘文堂「新宗教・教団人物事典」、学研「古神道の本」、新人物往来社「よみがえる異端の神々」、神宮館「生活の中の神事」田島諸介著  講談社「日本語大辞典」、三省堂「電子ブック版・大辞林」





(私論.私見)