矢追 楢蔵

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【矢追 楢蔵(やおい ならぞう)履歴】
 明治2年、治道初代会長・矢追惣五郎、なかの長男として生れる。
 昭和4年、出直し(61歳)。

 明治2年9.28日、矢追楢蔵は、伊豆七条村(現、奈良県大和郡山市伊豆七条町)に、父惣五郎、母なかの長男として生まれた。
 楢蔵9歳のとき、近所の佐保川で遊んでいたところ、男性器を蛭にかまれて、2、3日経つとたいそう腫れた。伊豆七条村は、はやくから全村に教えが伝わっていたが下火になっていた。同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクが熱心に信仰していて、楢蔵の祖母ことに信仰をすすめた。ことはすぐその気になったが惣五郎は反対だった。祖母ことに連れられて、楢蔵がはじめて「おぢば」に帰った。教祖(おやさま)にお目にかかって、患っているところをご覧いただくと、教祖は「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」と仰せられた。以来祖母ことと母なかが交替で楢蔵を連れて、おぢばに参拝したが平癒しなかった。
 明治11年3月中旬、10歳の時、こととともに参拝したおり「男の子は、父親付きで」と聞かされ、楢蔵は父とともにおぢばに帰った。その翌々日、身上(みじょう、病)はすっきり全快した。こうして一家をあげて信仰し始めるようになった。
 子供心に感激した楢蔵は、毎夜、桝井伊三郎宅に通い、親神様の話を聴き、おつとめの「てをどり(ておどり)」をを学んだ。
 家業の農業に精出しながら、布教に励んだ。
 明治16年夏、15歳のとき、辻忠作、桝井伊三郎らとともに詰所で勤められた雨乞づとめに参加した。
 明治18年春、近村で、てをどりの手を教えたりした。
 明治21年7月20日、教導職試補。11月2日「おさづけの理」を拝戴した。
 明治26年4月13日、檜蔵は喜多治郎吉に代わって、誠心講長に就任。治道布教事務取扱所を設置した。
 教祖が現身(うつしみ)きかくされた後、遠国布教がさかんに行われ、明治26年楢藏もそれを志して、九州や信州方面に3度も赴いている。しかし、なかなかその成果が拳がらなかった。
 明治27年、近在の布教に力を入れ、28年再び熊本県に足を伸ばし、2年後に3名を連れておぢばに帰った。こうして治道大教会の道が九州に伸びた。
 明治29年6月2日、支教会に昇格、治道初代会長に就任。
 治道村伊豆七条11番屋敷から同村西垣内に移転した。楢蔵はその改築工事を留守方に任せて、再度熊本へ。こうして近在はもとより、大阪・九州方面に道が伸び、明治33年になると近県にも信者が増加した。
 明治38年、髙知部内三嶋支教会の三浦ミチと結婚。
 明治40年3月21日長男富夫誕生。
 明治42年1月28日には、分教会に昇格した。
 大正7年(1918)11月10日、妻ミチが3男4女を残して出直した(39歳)。
 これを契機として教会昇椿、移転および詰所改築の議が持ち上がり、翌大正8年1月30日教会に昇格。
 このとき部内教会41カ所で、教会は隆盛になり、大正9年、帯解に教会を移転新築した。
 大正10年、倍加運動が提唱され、楢蔵は東奔西走し、その結果、31カ所の教会を新設。
 大正14年、部内教会75カ所となり、同年4月に肥長分教会が分離した。
 昭和2年(1927)年、教規改正に伴い、治道中教会と改称した。
 昭和4年7月21日、楢蔵出直し(61歳)。

【矢追楢蔵逸話】
 教祖伝逸話篇57「男の子は、父親付きで」。
 教祖伝逸話篇57「男の子は、父親付きで」。
 明治10年夏、大和国伊豆七条村の矢追楢蔵(当時9才)は、近所の子ども二,三名仁村の西側を流れる佐保川に川遊びに行ったところ、ーの道具を蛭にかまれた。その時はさほど痛みも感じなかったが、二、三日経っと大層腫れてきた。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに両親も心配して医者にもかかり、加持祈祷もするなど種々と手をつくしたが、一向に効しは見えなかった。その頃、同村の喜多次郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとはすでに熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直くその気になったが、楢蔵の父惣五郎は百姓一点張りで、むしろ信心するものを笑っていたくらいであった。そこで、ことがわたしの還暦祝いをやめるか、信心するか、 どちらかにしてもらいたい、とまでいったので,惣五郎はやっとその気になった。11年1月(陰暦前年12月)のことである。そこで、祖母のことが楢蔵を連れておぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところをご覧いただくと、教祖は、『家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで』と、お言葉を下された。それからというものは祖母のことと母のならが三日目毎に交替で、一里半の道を楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしくご守護をいただけない。

 明治11年3月中旬(陰暦2月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、男の子は父親付きで、とお聞かせくださる。一度、惣五郎さんが連れて参りなされ、と言ってくれた。それで、家に戻ってから、 ことは、このことを惣五郎に話して、ぜひお詣りしておくれ、と言った。それで,惣五郎が、3月25日(陰暦2月22日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は最初の病みはじめのように腫れ上がったが、28日(陰暦2月25日)の朝にはすっかり全快のご守護を頂いた。家族一同の喜びは警えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も心に泌みて親神様のご守護に感激し、これが一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。




(私論.私見)