先生は山沢良次郎先生の次男で、安政五年六月十二日生れ。温厚篤実親孝心で家業に丹精され、品行方正全く定規のようなかたであった。従って百姓仕事も丁寧懇切で苟(いやしく)もおろそかにされることなく、余計なことは一切語られず、寧ろ無口といわれる程で、おとなしく内に深くたたえるといった御気性であった。
学校は堺師範学校の二年生まで行って脚気(かっけ)の為中途退学された。その時良次郎先生から教祖様に伺われると、学校をやめて家へ呼び戻せとあった。御本人としてはもっともっと学問がしたかったのであるが、親神様は一時も早く道にひき寄せて道の為御恩報じに働かせようとの思召であった。このことは先生御自身からも、私の実父からも度々聞いた話である。そこで教祖様の仰せ通り学問をやめて家に帰り、家業の百姓をやる傍らひまひまに、お屋敷へお参りしてお手振りを習い、人にも教えておられた。父親の良次郎先生がお屋敷に入込んでおつとめ下された間、百姓しながら毎月御命日にはお屋敷へ参拝された。
明治十六年、二十六才の時、良次郎先生がお出直しなされてからは、亡き父親に代って、お屋敷へ始終運ばれるようになったが、当時は猶お年が若いし、古い先生方が沢山おられたので、とかく遠慮がちに低く低く通っておられた。そこで明治二十年正月、教祖様御昇天の折もお側へは、よう寄せてもらわれずに、何やら桜井へ買物に荷車ひいて行っておられた。それから教祖様御昇天を吉祥にして三十才の春から本部へ詰めきりになられ、家の百姓は兄の良藏さん夫婦にまかせて、一切をお屋敷づとめに奉げられた。実家では弟の音吉さんは、十五、六才の頃から長柄の靑木へ養子に行って良藏さん夫婦きりであった。嫁おうめさんはなかなか良く出来た親孝心の人で、家業の百姓もまめまめしくするし、家計もよくしまって、夫さんが人がようていろいろなことで負債を拵えても、その中をやりきって行ったが、弟の為造先生も随分兄夫婦を助けられた。夫婦とも個人だけの信仰で、進んでお助けにどこまでも出てゆく熱心さはなかったが、家では朝夕のおつとめもつとめ、お手振りにもあちこち行っておられたが、良藏さんは、「わし等無学な何も出来んものが、庄屋敷へ行っても何も役に立たへん」と口癖に言うては、月々の御命日に御詣りされる位が関の山であった。
為造先生はお屋敷第一につとめていられたが、三十近くになってもまだ良縁がない。そこで教祖様にお伺いすると、『親孝心せ』と仰言るだけである。友達はそれぞれ結婚して皆なもう子供があるのに自分だけこんなでは、いつ家を持てるか分らんし、いつ迄独身でゆくのやろうかと考えたものやと、よく述懐しておられた。
一方初代真柱様の直ぐ上の姉おひささんは、教祖様が飯田岩次郎さんの嫁にと仰言っていたが、将来むほんするその精神をお見定めなされて早くから話をとりやめられた。爾来独身でお側に仕えていられたが、その為もはや婚期を過してしまっておられた。そこでお二人の精神見定めて、神様がお結びなされたのである。おひささんは頬にほうそうのあとがあり、余り丈夫なからだでなく、又美人とは言えなかったが、為造先生は何の不足も思わず、神様の思召通りに有難くおうけして結婚されたのが明治二十年教祖様御昇天后間もなくのことで、為造先生が三十才、おひさ様は二十五才であった。その結婚式も本部炊事場の床ねん(板間)で、里芋とこんにゃくに、茶呑茶碗の三々九度で、これ以上簡単な式はなかった。そしてまだ住(すま)う家もなく、祝言后間もなくお屋敷の乾(西北)の隅に二間に五間十坪の家を建ててもらって住みつかれた。初代真柱様も余り金をお出し下さらず、兄の良藏さんが借金して出され、百五十円程で出来上がったものである。
尚戸籍面では為造先生が母の出里穴師の村井家へ養子として入籍されている。これは当時長男は徴兵されなかったので、その適令前に徴兵のがれに入籍されただけで、結婚されたのではなく、全くおひささんとは初婚であった。
翌廿一年二月には長女のおさよさんが生れ、ひきつづいてみきのさん、おさわさんが生れた。三人目のおさわさんが生れたとき、先生は丁度本部につとめておられたが、そのしらせを聞いて返事もされなかったと、私の実父が話していた。余り女の子ばかりが生れるので、さすがの先生もまたかと思われたのであろう。その次に生れたのが后に現真柱様の姉君玉千代さんの入婿となられた御分家為信先生である。(明治廿五年七月二十日生)
お屋敷へ常詰となられてからの為造先生は、明治廿一年本部員となり、明治廿六七年頃には真柱様お宅の会計となり、言うに言えぬ苦労をされ、その后詰所でおつとめになり、奈良その他重要な支庁長や、本部の会計をつとめられ、大正三年十二月三十一日初代真柱様お出直し后、翌四年一月二十一日天理教管長職務摂行者となられたのが五十八才の時であった。そして同十四年四月二十三日現真柱様が立派に就職される迄満十年間よくその重責を果され、昭和十一年七月十九日八十一才急性肺炎で出直しされた。明治二十年教祖様御昇天以来五十年間終始一貫して、本部の重要な事には一切相談にのり、又関係されて今日の本教をあらしめられた元勲である。
「清水由松傳稿本」93~97ページより
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