山澤為造

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【山澤為造(やまざわ ためぞう)履歴】
 1857(安政4)年1.12日、大和国山辺郡新泉村(現・奈良県天理市新泉町)生まれ。山澤良治郎の二男。
 1936(昭和11)年7.20日、出直し(享年80歳)。 

 明治11年、身上のお手引きを頂き、父に勧められてお屋敷へ帰り快方に向かう。
 明治16年、父の出直しを機にお屋敷への入り込みを決意する。
 明治20年、初代真柱の姉の梶本ひさと結婚。
 初代真柱出直し後、大正4年から同14年まで管長職務摂行者を務める。
 1936(昭和11)年7.20日、出直し(享年80歳)。

【山澤為造「山沢為造略履歴」】
 「山澤為造略履歴(その一) 」。
 ※復元第22号(昭和29年2月発行)の「山澤為造略履歴」。これは「若い時代を顧みて」と内容が被るが、より詳しく記述されている。旧字・旧仮名遣いは適宜読みやすいように改めるか、読みを記すようにしている。
 この度お許しを頂き、貴重な紙面を拝借しまして、祖父の手記を載せさせて頂く事に相成りました。この手記は、祖父が出直す前年、即ち、昭和十一年の十一月頃から、翌年の二月頃迄の間に、書簡箋二冊に自らペンで書き記しておいたもので、今回載せさせて頂きます分は、その最初の一部であります。続いてこの後の分も載せさせて頂きたいと思って居りますが(※1)、これらが資料として何らかの役に立ち得ますれば幸甚と思い、私的な個所のあるのも顧みず載せさせて頂いた様な次第であります。(秀信記)
 安政四年丁巳(ひのとみ※2)年一月十二日生れ(初午※3の日と聞き及び候)。父は***二男にして兄は***正月より寺子屋へ行き、読書習字を学ぶ。先生の都合によって十二才の年の六月に寺子屋を引取り終りて、それより父なり兄に百姓を見習い働きをなしつゝ夜分に読書をなし、或る先生の処へ習いに行き勉強をなす事を好み居り。然るにこの頃は現今と違って学校というて無之為(これなきため)に朋友(ほうゆう、友達。友人)に於ても勉強等する者少く、然れども自分に於ては有利にならざる遊びは致さず、昼は働き夜分に勉強致す事に志し居る為に、親等も大層安心して喜びくれられ候。(つづく)

※1‥続編は復元誌上において公開されていません。
※2「丁(ひのと)」‥十干(※5)の第四番目。五行(※6)説によって五行の火に十干の丁(てい)を配したもの。
  「巳(み)」‥十二支の第六番目。年月日に用いるほか、方角では南南東、時刻では午前一〇時ごろ、また、その前後二時間。
※3「初午(はつうま)」‥二月の最初の午の日。この日、稲荷社で初午祭りがある。
※5「十干(じっかん)」‥五行を兄(え)と弟(と)に分けたもの。甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)。
※6「五行(ごぎょう)」‥古代中国の思想で、万物を生じ、万象を変化させるという木、火、土、金、水の五つの元素。▲日常生活に不可欠な五つの物質であるが、転じてこれらによって象徴される気、また、その働きの意となり、いわゆる「五行説」として展開する。
 「山澤為造略履歴(その二) 」。
 明治五・六年頃に隣村に於て小学校の設立ありて、その校長堀川先生の処へ夜分に本を習いに通い少々勉強致し居り、明治十年十一月に学校教員志望につき、堺県師範学校へ入学す。同十一年六月、病発致し(脚気に神経痛となり)養生の為自宅へ帰り(当時お地場へ永らく無沙汰致し居り)、ついては柳本村渡辺某医師にかゝり診断の上服薬致し居り、凡そ六ヶ月程御厄介に相成(あいな)り、医師の仰せ下さるには「永らくの間種々考え心配も致し来りしにもう一つよろしくない」との事にて、すなわち薬の功験無之為(これなきため)に父親の曰(いわ)くには「永らく薬を用いてもよろしからず、仍而(よって)、庄屋敷の天理王様へ参拝して御願い致せ」との話なり。為造曰く、「私はよう詣りません」と答う。父曰く、「なぜ詣らんのか」と。為造曰く「左様(そう)であります、以前幼少の時、即ち七・八才頃より親に連れられ、又折々兄弟共に永らく参拝して信仰して居りましたけれども、永らく御無沙汰致して居りますから体裁わるて傍々(はたはた)の御方へ対しても恥ずかしくもあり申訳ありませんから」と答う。又父申されるには「左様な事言うて居ってはよろしくない、ここまで永らく医師にかゝって薬も飲みいろ/\の事をして養生もし、この上は仕方がないよって神様に縋(すが)って御願いして、助けて貰うより外に道はないやないか、よって左様な事言わずして参拝して確(しっ)かり信仰をして早く御助け頂く様」と勧めくれられしより、同十一年十月二十六日の御命日に改めて参拝す。

 この時勤め場所の入口に村田幸右衛門さんが空風呂(蒸風呂の事)を炊いて居られ、元より同人なり外の先生方のお名前なりお顔は知って居りますし、又幸右衛門様に於ても、新泉の良助の忰(せがれ)と申せばお解り下されてある故、為造曰く、「大豆越村の山中叔父様参拝下されて居りますか」とお尋ね致すれば、村田様には「見えてあります」との事で、為造曰く「一寸お呼び下されたい」と申せば、真ぐに「承知しました」との事で山中叔父(山中忠七)を呼びに行って下され、叔父様その場へ御越し下されての話に「よう参拝した、これより親様の方へ案内する」というて、親様即ち神様の御居間へ案内してくれられて、神様へ申し上げてくれられるには、「神様新泉の良助の忰引き出しになりました」との事、為造自分に於ては何の事か解らず変に思うて居ったような次第なり。(この頃は表門の横の方の十畳一間の所に御住居下されてある)(つづく)
 「山澤為造略履歴(その三)」。
 神様(御教祖様)の仰せ下さるには、『ようこそ帰って来なされた』とのお言葉であって、叔父より為造の身上の悪い容体の事申し上げてくれられしにより神様(教祖様。これよりは神様を教祖様と書く事にする。併し御生前中はもっとも神様と唱えて居ったのである。ついてはそれで御返事もなし下されて、又御話も御聞かせ下されたのである)より、この時、身上は神様より貸し物、自分に於ては借りものである。ついては御守護下されてある事を一通り御きかし下されて御息を掛けて頂き御菓子も頂戴させて頂き、それより勤め場所の方へ引きとらせて頂きました。その勤め場所の方に辻忠作様(元は忠右衛門)居られし故、元よりお顔知り合いの事故挨拶をなし又身上の悪い事をお話し申し上げれば、辻様の仰せ下さるには、これから確かり信仰して下されとの事、ついては直ぐに朝夕のお勤めのお言葉唱え方なり、御手振りの勤めの仕方を教えて頂き、その上御話し下さるに、御宅の御祭りしてある神様へお灯明を上げて、御願いしてこの勤めなされとの話下さる。(以下略す)

 右の事にて内に於ては神棚へ向って朝夕は無論の事、三日か五日程間あけてぼつ/\地場へ参拝して神様へ一心に御助けの御願い致し、又一方、空風呂も入れて頂き養生致し居りしにより、身上の容体は幾分か自然によろしい様であった。然れども鮮やかに御守護頂けない為に、十二年正月に辻忠作様に御願い申上げて御尋ね致し、「私身上は幾分かよろしい方に御守護頂きましたけれども、どうも鮮やかにお助け頂けないのは如何でありましょう」と御尋問致すにつき、辻様の仰せ下さるには、「それでよろしいのである」との事故、為造には御言葉を解する事不能為(あたわぬため)に、「それは如何の訳でありますか」と押して御尋ね致せば、辻先生の曰く、「汝(あなた)の身上急にお助け頂いて鮮やかなれば、直ぐ様(じきに)学校へ行きなさるやろう」との事、為造曰く、「それはそうであります」と答う。辻先生の仰せには「それであるから神様がよう学校へやらないようにして、汝の心に道の理を仕込みたいから、神様が引張って引き留めて御座るのでありますから、永びくのは結講と思うて御道の話を聞く様になされて、御道の誠心をよく定めるように」と御注意下されたのである。(為造自分には元八、九才の頃から〔文久三年か元治元年であります〕親について信仰する時分から天理王命様と申せば、この世の元の神なり、第一月日親神様であるときかせて頂いて居る事故、委細の事は幼少の事故分別ができずとも、元の神実の神様という事だけは、その頃より心に承知して居った)(つづく)
 「山澤為造略履歴(その四) 」。
 それより引続き親様に一心に御願い申し、ついては御話もきかせて頂き日を重ね月を重ねるに随い、追々とよろしき方に御守護頂き、丁度十二年の五月頃になって十の物なら半分即ち五ッ程軽めて頂き候得共(そうらえども)、残る五ッ即ち半分程は鮮やかに御助け頂けず、しかれども初めから厳しく痛む方ではなし苦しい方でもなし、たゞ少々足の歩行は普通に出来ず胸がづつない(※1)位の病気であり、処へ親なり親族の方々よりの話により、いっそう小学校の教師に出して頂ける、師範学校の伝習生という科に試験を受けて入れば、一ヶ月の勉強にて教師に出して頂けるという上より、堺師範学校へ右手続即ち御願いを致し試験を受けて入学す。

 従って五日程右伝習生の科にて授業を受けし処、突然校長様より一般生徒に対しての御話には、堺の市中には虎列刺(コレラ)が流行して来た故学校内はなおも注意せにゃならん、仍(よ)って国へ帰りたい者は帰ったら宜しかろ、又治まったら通知するという言い渡しあり。為に各生徒が帰る事になり、故に為造もその手続をして帰宅致し居り候処(そうろうところ)が、40日程経て学校より虎列刺(コレラ)治まったから帰って来(こ)よとの通知に接し、為に取敢えず三十日程無理からでも勉強すれば、下級にせよ教員となって小学校へ出られるのである故、明日より堺師範学校へ行こうと、自分の入用の書物なりそれぞれの身の拵えを致し居りしに、当日父親と兄と二人連で百姓の農に行き働き居られしに、午前十一時頃に父親が突然コレラの様に上げたり下痢して苦しまれ、これは一時の事にてそれより兄の肩に頼って内へ帰られ、私は直ぐ水をとりて足を洗い、兄と共に抱きかゝえて布団に寝かして休ませましたが、この時は御守護にて厳しい苦痛は治まりありて、少々の苦しみのみでありましたから、為造私は火鉢の鉄瓶に湯が沸いてある故、茶碗にて砂糖湯を拵えて父の側へ持って行きお上がり下されと申せば、直ぐ一口其の砂糖湯をすゝって呑まれしに、咽喉口(のどぐち)の処迄通っていてそれより腹中へゆかず(行かず)して突き返し、為に大変見て居られない程苦しまれました。しかしこれも暫くの間であって、苦しみは治まりましたが、処がそれより何一つも通らず水も湯も呑む事できず、吾が口に湧いた唾(つば)が呑み込む事も出来ざる事になられました。(つづく)

※1「づつない」‥苦しい。(「大和方言集」新藤正雄著、昭和26.10より)
 「山澤為造略履歴(その五)」。
 即ち俄然小さい唾(つば)吐く瀬戸物を買い求めて、これに唾を吐くばかりの身上になられましたから、家族一同は心配して神様に御願致すと共、親族へ通知して、これが為、為造自身は明日より堺県師範学校へ行く積りしてあるけれ共、これは捨ておき、直ぐ様御地場へ参拝して神様(この頃は元の勤め場所の上段の間に御鎮座)及び甘露台様へ一心に御願を致して、厚顔(あつかま)しくも教祖様の所へやらせて頂き、直接父の身上に付その容体を申し上げれば、御教祖様はじいとうつぶいて居られて そうして仰せ下さるには、『こちらへ連れて来なされ』との御言葉なり。故に、為造は又神様甘露台様へ御願いして、直ぐ自宅へ戻りて右の事を父に話を致して、お地場へ参拝しなさるかと尋ぬ。父申されるには、「何も食べられぬから少し苦しい位の事であるから、車に乗って是非参拝させて頂く」との事故、急に人力車を雇い、為造附添うて御地場へ参拝致し、神様へ一心に御願い申し上げて、それより御教祖親様のお居間へ出させて頂き、親様に身上の容体を申し上げて御願い致しいるところ(おるところ)、御教祖様にはこれをあがって見なされと仰せ下されて、お傍にあった加寿ていら(かすてら)を一切り父におやり下されし故、神様から下されるのである故、必ず食べさせて頂けると思って口中へ入れられしに、咽(のど)の方へ呑み込む事できず、為に大変悲しく思いつゝそれを為造が頂かして貰いました次第なり。

 父なり為造に於ては神様より直接下された、殊に御教祖様は御自分に手を御つけ下されて、そのうえ下されし結構なカステラ、即ち、御供を頂く事のできぬという事は、まだまだ吾れ/\の心が受取って頂けないのであると懺悔をしてその場を引きとらせて頂き、御勤め場所の多くの方々御座る所へ来て、それより秀司先生に御面会さして頂き、身上の容体を具(つぶさ)に申し上げ、御願い申して三日間滞在さして頂き、神様へ御願いさせて頂く手続の事を御承諾の上、(警察署への止宿届の手続は養生の為、空風呂へ入りに来てこの御宿で泊めて頂くという理由)その夜一泊さして頂き候処、翌朝も身上容体は同じ事故、信仰友達の仲田儀三郎、辻忠作、山中忠七叔父を始め、その他の居合わしていて下さる方々は大層御心配の上相談下さるには、「良助様、あなたの身上まだ一寸の食事も出来ずして、水一口も通らんというて困って下さる事は、吾れ/\じいとして見て居られませんから、今晩神様甘露台様へ三座の御願い勤め(朝夕のお勤の通りに)させて貰ったらと思います、如何でありましょう」との御厚意の思召の御話故、父は無論為造に於ても大変嬉しく感銘致し、「何卒宜しく御願い致します」と依頼旁々御答う。

 それより右御願い勤めさせて頂き度(たき)事を、先生方より秀司先生へ御願い御承諾を得て下され、それから御教祖様へ御願い致し下され、御教祖様も御嬉(よろこ)び遊ばし下されし故、御勤めの御準備を成し下されて、午後八時と思います、願い勤めに御掛り下されたのであります。(つづく)
  「山澤為造略履歴(その六) 」。
 しかし、尤(もっと)も、真夏の事にて大層暑さ厳しく、只今とは違って、御屋敷なり三島村は何れも蚊が沢山で(只今の十倍以上)その真夜中でもあるにも拘らず、恐れ多くも御教祖親様もその場へ(門の横手の十畳一間に御住居遊ばす時であって、勤め場所よりその御居間へ行く一間の畳の渡り廊下の事)御出まし下され、尚又、御本席様も(当時櫟本に御住居の飯降伊蔵様と申居り候)お列席下されて御話し下さるには、「良助さん誠に困って下されますなあ、元々から永らく心安くして居った因縁であるから、かような御願い勤め成さる時に突然引き寄せて頂きましたのである、共々に御願いさして貰います」との御言葉であったのであります。仲田儀三郎、辻忠作、山中忠七、村田幸右衛門様等を初めその他の方々も共に甘露台様に向って御願い勤め成し下され(御勤めの次第は只今の朝夕の御勤めと同じ事)、初め一同御勤め下された時は何も頂く事は出来ませなんだが、丁度二回の御勤め下されて終ると直に金平糖三粒包んである御供一服下されて頂かれましたら、水一口も通じないのに、その御供三粒すうと嘘ついたように通じさせて頂いたのである。即ち御助けの御自由用頂かれました故、父は無論為造も大変嬉しくて御礼を申し上げた次第であります。

 それより引続き三回目の御願い勤め成し下されて、又、その場で御供頂かれました処が此の時には通じないのであります。ついてはお水も通じなかったのであります。前申した如く、右三度の御願い勤め下さる中の二度目終った時に、三粒の金平糖の御供一服嘘のように通じさせて頂けたのみにて、その他の物は何一つも頂けなんだのであります。

 しかし、御助け下さる印しに、中の勤めの時に一服通じさせて頂いたので、吾れ/\の精神次第で必ず御助け頂けるものと幾分か安心も致し、神様御教祖様へ御礼申し上げると共に、一同の先生方へも御礼申してその夜休ませて頂きました処、又、その翌朝になりましても矢張(やはり)水一口も通ぜず、丁度三日の間に前申した如くであって、三座の御願い勤めして頂いた中の勤め済んだ時に、御供一服丈(だけ)頂けたのみでありました。しかれども、御守護によって身上の疲労はたいして無之為(これなきため)に、心では助けて頂けるものと確信致し居り候が、丁度四日目の時に秀司先生の仰せ下さるには、「良助さんまだ水も通らないかいなあ」と。父曰く「まだ何も通りません」と。秀司先生の仰せ下さるに、「真に困った事やなあ、良助さんすまん事やけれ共、いつ迄も水も通らないとすれば気の毒ではあるけれ共、この上は居って貰いとうても そう永らく居ってもらう事出来んなあ。御宅の方へ帰ってももらわにゃならぬ。というのは、このとおり空風呂炊いて宿屋営業の鑑札を受けて居る仍而(よって)、警察署から調べに来られたら、左もなくとも始終探偵も来るし若し来られて水も通じない病人を止宿させて居る事が分れば、鑑札取り上げられて罰金までとられにゃならぬ事になる。左様な事になれば多人数の方々もこの屋敷へ帰ってもらい、参拝してもらう事出来ない事になって、第一神様へ対し申し訳けなく、のみならず、御母上にも迷惑かける事になるから誠にお気の毒ではあるけれ共、帰ってもらわにゃならんなあ。然れ共、医師にかゝって居って此所で空風呂に入って養生して居るという事にすれば説明も出来得るし、申し訳けが立つから宜しいけれ共、水一口も通じない病人が、医師にも掛らずして、只止宿して居るという丈ではほんとうに困る事になるから、他の方であれば水も通じないというてすれば一日も居ってもらう訳には行かぬけれ共、良助さんは外の方々とは違うから三日の間居ってもらったが、何時迄もそう/\永らくという事は規則上行かぬ事になる故、この遍よく御承知下されたい」としみじみ御懇切なる思召し御説明でありました。(つづく)
 「山澤為造略履歴(その七) 」。
 (つづき)(右他の御方と違うからと仰せ下された理由を左に一寸記しおく)※1
 父良助の信仰の初めの動機は残念ながら記憶して居りませぬが、年限は最初の勤め場所御建築下された前年、小さい藁屋根の家に(俗に三五の建物という)居住下されてある、座敷は六畳一間の半床に御鎮座申して御祭りして御座った頃、即ち、元治元年の前、文久三年の事と存じます。為造は七才の頃親に連れられて参拝させて頂き、引続き御勤め場所御建築遊ばされた事を、小共ながらに拝見して居った事を記憶して居ります。今に於てもその頃の事を思い出せば、眼のさきに見えてあるように感じます。竹で屋根籠をあみ、すだちをあみ、屋根をふき、壁を塗り、種々の事其の頃の信仰の関係なり。

 尚、特に慶応三年に大和一国の神職取締であった、守屋神社の神主(かんのし)守屋筑前守という御方の手続にて、京都の神祇管領たる吉田家へ許可を得る為出願あそばす時、秀司先生が京都へ御登りの時、父良助が随行せられてその用事をさせて頂かれた関係もある事故、ついては守屋の筑前様は、その母と良助の父とが兄弟であって、母は山沢より縁につかれし故、筑前様と良助とは従兄弟の関係もある事故、種々の運びもあった事と察して居ります。(理由はこれにて)

 この御言葉にて父なり為造の心には、秀司先生の仰せ下さる事は至極御尤(ごもっと)もの御言葉であると十分満足致し居り候。然るにその時の考えでは、医師に掛る事なれば自宅にて掛る。御屋敷へ詣り出させて貰って、神様にもたれて御願いさせて頂く以上は、医薬の道を頼りにせないとの決心なり。併し彼様(※2)にして出さして貰って居っても神様に心が受取ってもらえなかったならば、助けて頂く事はできぬ。又内の方へ戻ってでも神様に心が受取って貰ったならば助けて下さるやろ仍(よっ)て、秀司先生の仰せ下さる事は御尤もであるから、自宅へ帰る事に確定して帰る。身拵え致しその夕景より連れ戻りました。その時に甘露台様初め御教祖様秀司先生傍(そば、かたわら)の先生方へと御助け下さる様にと、御暇乞いの御挨拶且(か)つ御願い申し上げて北の上段の間の神様に(元の勤め場所の神殿)、内の方へ戻らせて頂く事の種々申し上げ御願い致し候。この時その場へ山中忠七氏(為造の叔父)、御教祖様に直接頂いて来てくれられた金平糖の御供(九服位と記憶す)、これを頂いて帰れというて父に渡し下されし故、その場で一心に御願いしてその御供一服頂かれしに、そこですうと通じました故に、大変心が大丈夫になり、嬉しく、有難く、御礼申し上げて人力車を雇うて実家へ連れ戻りました。

 丁度無事に内へ連れ戻りましたが、実に不思議な事には、御地場で丸三日間おいて貰って居る間に水一口も通らないのに、前申した如く二回に御供二服通じさせて頂いたのに、自宅へ戻りて一夜たち翌日朝になっても未だ何一ッも通ぜず。然るに身上の衰弱は割合に無之(これなく)元気もあり、然れ共、食事は四日間も何一ッも通らなんだのでありますから本人は無論、家族一同は大変心配致し居り候処へ、その日午前九時頃辻忠作先生が御尋ね旁々(かたがた)御見舞の為御足労下されての御話しには、「未だ食事はいけませぬか、附いては医師に御かゝりに成りましたか」との御尋ね下され、これに対し内の者の云わく「まだ何も通じませぬし医師には掛って居りませぬ」と事実御答え申しました。(つづく)

※1‥原文は縦書の為め、右左という表記となる。
※2「彼様」‥斯様(かよう)の誤字と思われる。
  「斯様」‥このよう。(小学館「現代国語例解辞典」より)
 山澤為造略履歴(その八) 」。
 然らば辻先生の仰せに「それでは宜しい、第一家内中神様のお話を御きゝ下されて、家内中心揃えて精神を御定め下されて、確(しっ)かり神様に御願い下され度い」との御話なり。ついては真夏の事にて百姓は田地に水が大切の事故、兄の良蔵は汚れた藁(わら)ぞうりをはいて鍬をかたげて水見舞に出かけましたが、辻先生の眼にかゝりて仰せ下さるには「おい兄さん」とお呼び下されて「お父親(とう)さんが身上わるくて水も通らず、何一つも食べる事出来ずして困って御座るのに、田の水見舞に行くとは何事でありますか。田ぐらいは放(ほっ)ておきなさい。こちらへ上って家内中共に神様の御話を確かりときいて、皆一手一ッの心を定めて、早く御助け下さる様御願いして下され」との御言葉でありましたので、さすがの兄もその鍬をおろし土足を洗って上へのぼり、家内中打揃(うちそろ)ってかな輪(※1)に並んで真(しん)からお話を聞かして頂くと共に、家内相談致しましたのであります。第一為造自心(※2)に於ては、明日より堺の師範学校へ行こうと身拵えして居るその日の事でありましたから、第一に私の事を御知らせ下されたのであるから、右父の身上に付いて御地場へ翔(か)けつけて御願い申した時に、学校へ行く事と学文(※3)を勉強するという事を止めて、御道の勉強をして、今の間は百姓して及ぶ限り御道の講社を結成させて頂き、御道の御奉公させて頂くという心定めをして神様へ御誓い申し上げたのであります。ついては第一父の一身上に付、今日限り内の働きしてもらう事は一切止めて、内には聊(いささ)かもあてにせず、御地場で御道の勤め働きをさせて頂くという決心を定めて、それより神様に御願い勤めをさせて頂き、辻忠作先生に御授けをして頂きました。然らば少し時間を経て其の夕景から初めて御饌水(※4)を通じさせて頂き、引続きところ天・お粥を頂ける様になってすうきりとお助け頂き、家内中打揃って御礼勤めをさせて頂きました。ついてはその翌日父は為造附添うて、ぼつ/\と歩行して御地場へ出させて頂き、神様甘露台様へ御礼申し上げ、それより御教祖様の御居間へ出させて頂き、結講に助けて頂いた事、具(つぶさ)に御礼申し上げました。然らばその場で直ぐと御教祖様御召し下されてある単衣の赤衣をお脱ぎあそばして、父にこれを着なされと仰せになって御下げ頂き、その場で父は自分の着物の上へ着せて頂かれ、引続き為造も着せて頂き、直ぐと脱いでたとんで(※5)始末して頂きました。それより秀司先生及び、居合して居て下されてある先生方にと、それぞれ御礼申しました。皆様も大層御喜び下されて、その日夕景迄あそばして貰って、実家へ戻りて赤衣様は内の神棚へ納め、神様の目標として御祭りさせて頂きました。それより引続いて、父は平素の如く全快にと助けて頂き、毎日弁当持参して御地場へ出させて頂き、専務に勤めさせてもらはりました。

 昭和二十九年二月発行「復元22号」(天理教教義及史料集成部編)43~53ページより

※1「かな輪」‥ゞ眤粟の輪。また、鉄製の車輪。五徳
  「五徳」‥ー教で言う、温、良、恭、倹、譲の五つの徳目。火鉢や炉の中に立てて、釜、鉄瓶、やかんなどを載せる道具。三脚または四脚。かなわ。(以上、小学館「現代国語例解辞典」より)
※4「神饌(しんせん)」‥神前に供える酒食。(小学館「現代国語例解辞典」より)
 「御饌水」‥辞書に見当たらないが、神前に供えた御水の事と思われる。
※5「たとむ」‥たたむ、閉じる。タタムのタがタ行転訛。(「大和方言集」新藤正雄著より)

【山澤秀信「おさしづ春秋『山澤為造』」】
 「おさしづ春秋「山澤為造」(その一) 」。
※みちのとも昭和31年8月号に、現本部員 山澤秀信先生が山澤為造先生について書かれた文章があります。全文を紹介すると、これまで紹介させて頂いたものと重複しますので、「山澤為造略履歴」の続きとなる部分(父良助氏の身上から、為造先生が道一条となった件)よりの紹介とさせて頂きます。
 三、一代より二代、二代より三代

 後日教祖には、『神様はなあ、親に因縁つけて子の出て来るのを神が待ちうけていると仰言りますねで、それで一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって末代の理になるのやで、人々の心の理によって一代の者もあれば、二代三代の者もある。又末代のものもある。理が続いて悪因縁の者でも白因縁になるねで』(※1)と、父親の身上を台として子供をひきよせたことをお教え下さると共に、二代或は三代として信仰をすすめる者の、心がまえをおさとし下さったということである。

 或る時教祖は、お側へ寄せて頂いた為造に、『為造さん、あんたは弟さんですなあ、神様はなあ、弟さんは、尚もほしいとおっしゃりますねで』(※2)とおきかせ下さり、又或る時は、『神様は因縁のものを寄せて守護して下さるねで、寄り合うている者の、心の合うたもの同志一緒になって、この屋敷で暮すねでとおっしゃりますねで』(※3)ともおきかせ下さった。(つづく)

※1、稿本天理教教祖伝逸話篇90「一代より二代」参照
※2、稿本天理教教祖伝逸話篇69「弟さんは、尚もほしい」参照
※3、稿本天理教教祖伝逸話篇96「心の合うたもの」参照
 「おさしづ春秋「山澤為造」(その二) 」。
 四、お屋敷への伏せ込み

 為造は前記した通り良助の二男で、下には、弟もあって、どちらかといえば気楽な立場であった。勉強をして先生になろうと考えたのも、一つにはそうした気易さから出ているのかもしれないが、今又、神様はこの身の振り方の自由な弟を、なおもほしいとおっしゃったのである。そして親の後をうけて末代の理を積むようにと、おさとし下されたのである。

 その後も、明治十六年の春頃、為造が左の耳を腫らし、痛みのはげしさに堪えかねて、前川喜三郎先生を通して教祖にお伺いしてもらったところ、教祖には、
『伏せ込み/\という。伏せ込みがいつのことのように思うている、つい見えてくるで、これをようききわけ』と仰せられ、『神が一度言うておいた事は、千に一ッも違わんで、言うておいた通りの道になってくるねで』ともおきかせ下さったという。(※1)

 これをきいた為造は、神様のこのお言葉をよく胸におさめ、どうでも親の後をうけて信仰をつづけさしてもらわねばならぬと、なおも固く心に誓い、友達づき合いにしても、善悪のわきまえもなく、かえってこちらの心を乱す様な者とは、深くつき合わないようにし、親にも心配をかけず、信仰を第一の楽しみとして通らしてもらおうと決心したという。

 明治十六年旧五月十五日、父良助は五十三才を一期にこの世を去った。為造は『親に因縁つけて子の出て来るのを神が待ちうけている』と仰せ頂いたお言葉を思い出し、『伏せ込み/\という』ともおっしゃって下さっているのであるから、父亡き今は、一日も早く***、父の後を継がしてもらわねばいけない。現在は公然と参拝も出来ない暗闇同然の道ではあるが、『神が一度言うておいた事は、千に一ッも違わんで。言うておいた通りの道になってくるねで』とおっしゃって下さる以上は、必ず晴天の道になるにちがいない。岡田与之助先生もお屋敷に伏せ込んで、中山家の農事の手伝いをして居られることでもあるし、教祖がお仕込み下さるのは、夜分のことが多いのであるから、自分も昼間は百姓仕事の手伝いなりとさして頂いて、伏せ込まして頂きたいと、このことを鴻田忠三郎先生を通してお伺い申上げた。すると教祖には、『これより向う三年の間は、兄さんを神と思うて働きなされ、そうすればこちらへ来て働いた理に受け取るから』とおおせ下さり(※1)、更には『先を短こう思うたら急がんならん。けれども先を長う思えば急くこといらん』とも『早いが早いにならん。おそいがおそいにならん』とも仰せ下さった。(※2)

 即ち、そんなに急いで伏せ込むことはいらんと仰せ下さったのであるが、このお言葉は一面、話の出かけていた為造の結婚について、急くことはないとお教え頂いたものとも考えられる。因(ちな)みに、為造はそれより三年後の明治二十年閏(※3)四月八日に、梶本ひさと結婚している。(つづく)

※1、稿本天理教教祖伝逸話篇120「千に一つも」参照
※2、稿本天理教教祖伝逸話篇133「先を永く」参照
※3「閏(うるう)」‥暦と季節の食い違いを調節するために日数または月数を普通の年より多くすること。また、その年や月や日。現行の太陽暦では、四年に一度、二月の終わりに一日追加して三六六日とする。旧暦の太陰太陽暦では、同じ月を二度繰り返す閏月を適宜設けて調整した。(小学館「現代国語例解辞典」より)
 「おさしづ春秋「山澤為造」(その三) 」。
 五、ひさとの結婚

 結婚という事について、明治二十一年四月二十八日のおさしづに、「山沢ひさ乳の障りに付願」というのがある。その全文は、
 『さあさぁ身上の処に一寸こゝろえん、一寸でもの(出物)いかなるところききわけ/\、段々あんじる事はいらん、身上あらふ(洗う)、なにかの処もあらふ/\、すみやかあらふ/\、屋敷の内にすむ処、今の事やない/\、すうきりあらふ、すみやかにあらいきる、ぜん/\一つのさんげさんげ、すみやかにあらふ、さんげあんじる事はいらん、心一つさだめ/\、とほからん内に、近々に小人/\のくわしく/\わかる、あんじる事はいらん』(※1)

 というので、あって、これが為造と***さしづでない事は言うまでもないが、このおさしづを頂くに至った事情、即ちひさの乳の障りという事が、二人の結婚の動機となっているのである。

 右のおさしづの外、ひさの乳に関するおさしづは、明治二十二年十二月八日(山沢ひさ身上乳の出ぬ処如何なる哉伺)と、明治二十五年七月二十九日(山沢ひさ乳の事に付事情願)にあり、一度乳を患った為に乳が出にくくなったのか、或は子供がつぎつぎに出来た為に乳が足りなくなったのか、その何れなるか判然としないが、明治二十三年八月二十四日の「山沢みきの乳不自由に付乳母の乳飲ましてよろしき哉伺」をはじめとして、「乳母の事情に付伺」「乳母雇入の願」という様に、乳母の事についてのおさしづもかなりある。

 明治十九年夏頃のこと飯降おさと様と為造の叔母上田いその両人から、結婚話が持出された。これをきいた為造は、前々から教祖より『この屋敷に因縁ある心の合うた者同志、より合うて夫婦となりて暮すねで』とおきかせ頂いているので、すべては神様のおさしづ通りにさして頂こうと心にきめていた。この事を上田いそから教祖にお伺いすることになり、委細を申上げてお伺い申すと、教祖には、『不思議な結構な縁やで』とおよろこびになりお許し下さった。そこで二人も互いに承知をしてそのつもりでいたところ、その年の暮頃より、教祖には御身上御不快となられ、翌年正月二十六日に突然御身をおかくしになった。そしてその悲嘆の中に人々に為す事も知らず、徒(いたず)らに日を重ねていたのであるが、為造とひさの結婚も、自然忘れられたような形になっていった。

 ところがその年の旧正月の中頃のこと、突然ひさの左の乳に腫物が出来、病む身となった。そこで傍々(ぼうぼう)の人が寄り合って話し合ったところ、乳は女の急所でもあり、又夫の理にかかることである。これは以前から話も出、教祖も不思議な結構な縁とお許し下さった縁談を、早く実現せよとのおさしづではなかろうかというので、神様にお願いすると共に結婚の準備が進められて行った。そして双方の親の承諾も得て話はすすみ、話がきまった以上は、一日も早い方がよいというところから、その月の二十八日と日取が定められた。ところがここに、はからずも前々日の二十六日になって、ひさの父親の梶本惣治郎様が急逝(きゅうせい。急に死ぬこと)するという不幸が突発した。為に結婚式は日延べとなり、翌閏四月八日と改めてとりきめられ、ここに為造とひさの二人は結婚する運びとなったのであるが、この結婚を促進した事情はといえば、これ***(つづく)

※1‥カッコ内の文字は、おさしづ参照。
http://www.geocities.jp/washimisu82/meiji21.htm
 「おさしづ春秋「山澤為造」(その四) 」。
 六、『親が子となり、子が親となり』

 越えて翌明治二十一年四月、二人の間には子宝が恵まれた。はじめての子供というので、掌中の玉とその可愛がりよう一通りではなかったろうと想像せられる。ところがこの何にもかえがたいいとし子が、生れて六十日も絶つかたたぬ頃、ふと身上にお障りを頂いた。どういう障りであったか、その事情については聞き及んではいないが、はじめての子供のはじめての身上は、この結婚後間もない、未だ子供を育てた経験をもたぬ親達の心を、どんなに驚かせたことであろう。そこでこれはどうした神様のお仕込みであろうかと、早速に本席様を通して神意のほどをお伺い申した。すると、

 『さあさぁさぁ小人の処、さあさぁ小人/\、さあさぁ小人/\つれてもどりた/\、一寸生れだし大へんの処、あんじる事はない、どうなるかうなる、又々のところたづねる事情きいてある、今の処一つわかる、今までの処はやくよびだせ/\、一つの処はやく名をよび出せ、まちかねてつれてもどりた、親が子となり、子が親となり、名をよびだせ、一じ名をよび出さねばわからうまい、さあさぁうまれかはりたで、名ははる、名はつけたしるしの名でよい、一じよびださにゃわからうまい』(※2)

 とのお指図があった。『さあさぁ小人々々つれてもどりた/\』と仰せられ、それも『まちかねてつれてもどりた』とのことである。***わりについては、これ迄にもいろいろお話もきき、誰は誰の生れかわりと、実在する人についての具体的なお話もきいておった事ではあるが、今度は自分達の子供について『つれてもどりた』とお話を下さっている。そして『親が子となり、子が親となり』と仰せられて、「一ド名をよび出さねばわからうまい」とて『さあ/\うまれかはりたで、名ははる』とお教え下さった。即ちこの子供は、自分達の子供と考えているが、この子の前生は***即ちお前達の親である。その親が今度お前達の子供として生れてきたのである。お前達はその奇しき因縁をさとり、親からうけた恩を忘れず、ただいとし、可愛いと大切にするだけでなく、親への恩返しとしてこの子供を育てよ、とお仕込み下さったのであった。(つづく)

※2‥天理教鷲三須分教会ホームページ参照
http://www.geocities.jp/washimisu82/meiji21.htm
 明治二十一年四月十六日、山沢サヨの願
 (ーー省略ーー)
 サヨ生れてより、六十日目経ちて、身上障りにつき願い。
 さあさぁさぁ小人の処、さあさぁ小人/\、さあさぁ小人/\連れて戻りた/\。一寸生れ出し大変の処、案じる事はない。どう成るこう成る、又々の処尋ねる事情をさいてある。今の処一つ分かる。今までの処早く呼び出せ/\。一つの処早く名を呼び出せ。待ち兼ねて連れて戻りた。親が子となり、子が親となり、名を呼び出せ。一時名を呼び出さねば分かろうまい。さあさぁ生れ更わりたで。名ははる。名は付けたる印の名でよい。一時呼び出さにゃ分かろうまい。
 「おさしづ春秋「山澤為造」(その五) 」。
 七、ひさが爐さづけ瓩鯊廚について

 かように子供は何も勝手に生れてきたものではなく、ほしいからと言って与えられるものとは限っていない。ほしくとも与えられない者も沢山あり、その生れ出る子供はみな夫々に、何らかの因縁あって生れてくるのであって、親々はその事情をよく考えて、子供の上にみせて頂く身上事情は、親々への仕込みと考え、よくその理のあるところを悟らねばいかんとおさとし下さったのものと考えさして頂くのであって、子供の事情から親を仕込んで下さる神意の程は、昔も今も変りはないのであり、山沢為造の戴いた***、その中に、子供のせく事情から、ひさの***あり、その事情より ひさは***、今その***の題からは、とかく的はずれではあったが、稿を結ぶことにしたい。

 明治二十四年九月八日(山沢子供せく事情よりの願)
 さあ/\一どはなし、二どはなし、三どはなし、一どきく、二どきく、きけば一つ理もある、小人事情どういふ事であらう、せく、何がせくともわからん、万事治まり内々一つはやく事情、どういふ事でせく、よくきゝわけ、ながらえての処でありて、これまでおくりきたる処、めん/\それ/\じゆんはこんでいない、これせく、つゐ/\おもふてのばし、よくきゝわけ、事情一時ともいふ、よる/\といふ、どんな理もよる。それ/\事情一時の処に治まり、めん/\つゐ/\おもへども、日々おくれたる、それでよる、それ身上から十分一時せき、何時にても一席ゆるす、身の処からたづね、十分さとし、さしづきいてじうよう治めきたる、一名二名三名、めん/\はやく事情、これまでわたしてある、はやく/\何時にても一席ゆるすによって。(※1)

 (前御指図は、ひさの御授の事と思いますけれどもと山沢為造よりの願)

 さあ/\わからん一つはたづねかやさにゃならん、おほかたさうであらうかとありてはわからん、いくたびの事情たづね、小人せく、一人かと云へば二人、だん/\せくさしづもってはこんだる処わかりてある、年限事情もては一つ理がなけにゃならん、あんしん身の処、すみやかあんしん、けふ心得よきすみやかなれば、何時にてもゆるそ、一つにはわたさにゃならうまい。(※2)(本部青年)
昭和三十一年八月号みちのとも「おさしづ春秋 山澤為造」山澤秀信著 24~29ページより
 ※1‥山沢為造子供咳く事情よりの願
 明治二十四年九月八日
 さあ/\一度話、二度話、三度話。一度聞く、二度聞く。聞けば一つ理もある。小人事情どういう事であろう。咳く。何が急くとも分からん。万事治まり内々一つ早く事情、どういう事で咳く。よく聞き分け。長らえての処でありて、これまで送り来たる処、めん/\それ/\順運んでない。これ急く。つい/\思うて延ばし。よく聞き分け。事情一時ともいう、夜々という。どんな理も夜。それ/\事情一時の処に治まり、めん/\つい/\思えども、日々遅れたる。それで夜。それ身上から十分一時急き、何時にても一席許す。身の処から尋ね、十分諭し、さしづ聞いて自由治め来たる。一名二名三名、めん/\早く事情、これまで渡してある。早く/\何時にても一席許すによって。
(TATENUI おふでさき・おさしづ・逸話篇検索より 
http://tatenui.from.tv/index.php?type=osasizu_detail&no=1398&q=一名二名三名)
 ※2‥明治二十四年九月九日
 前おさしづはひさおさづけの事と思いますけれども、と、山沢為造よりの願
さあ/\分からん一つは尋ね返やさにゃならん。大方そうであろうかとありては分からん。幾度の事情尋ね。小人咳く、一人かと言えば二人、だん/\咳く。さしづ以て運んだる処分かりてある。年限事情持てば一つ理が無けにゃならん。安心身の処、速やか安心。今日心得良き速やかなれば、何時にても許そ。一つには渡さにゃなろうまい。
(天理教鷲三須分教会ホームページより
  http://www.geocities.jp/washimisu82/meiji24.htm

【山沢為造逸話】
 教祖伝逸話篇69「 弟さんは、尚もほしい」、80「あんた方二人で」、90「一代より二代」、96「心の合うた者」、120「千に一つも」、133「先を永く」。
 教祖伝逸話篇69「弟さんは、尚もほしい」。
 明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた頃、教祖は、「心の澄んだ余計人が入用」と、お言葉を下された。余計人と仰せられたのは、与三郎は、九人兄弟の三男で、家に居ても居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別段欲もなく、殊にたんのうがよかったと言われているから、そういう点を仰せになったものと思われる。又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せてもらっていたら、「為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、『弟さんは、尚もほしい』と仰っしゃりますねで。」と、お聞かせ下された。
 教祖伝逸話篇80「あんた方二人で」。
 明治十三、四年、山沢為造が二十四、五才の頃。兄の良蔵と二人で、お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっていた教祖は、「わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り下ろしてごらん」と、仰せになって、両手を差し出された。そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお坐りになったまま、ビクともなさらない。それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方へ引き寄せられた。二人は、今更のように、「人間業ではないなあ。成る程、教祖は神のやしろに坐します」と、心に深く感銘した。
 教祖伝逸話篇90「一代より二代」。
 明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで」と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。
 教祖伝逸話篇96「心の合うた者」。
 明治十四、五年頃、教祖が、山沢為造にお聞かせ下されたお言葉に、「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで』と、仰っしゃりますねで」と。
 教祖伝逸話篇120「千に一つも」。
 明治十六年の春頃、山沢為造の左の耳が、大層腫れた時に、教祖から、「伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思うている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け」とのお言葉を聞かせて頂いた。又、「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで」と、聞かせて頂いた。それで、先に父の身上からお聞かせ頂いたお言葉を思い起こし、父の信仰を受けつがねばならぬと、堅く心に決めていたところ、母なり兄から、「早く身の決まりをつけよ」とすすめられ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、「これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然らば、こちらへ来て働いた理に受け取る」と、お聞かせ下された。
 教祖伝逸話篇133「先を永く」。
 明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん」、「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん」、「たんのうは誠」と。

【山沢為造評伝】
 「山澤為造先生について
 先生は山沢良次郎先生の次男で、安政五年六月十二日生れ。温厚篤実親孝心で家業に丹精され、品行方正全く定規のようなかたであった。従って百姓仕事も丁寧懇切で苟(いやしく)もおろそかにされることなく、余計なことは一切語られず、寧ろ無口といわれる程で、おとなしく内に深くたたえるといった御気性であった。

 学校は堺師範学校の二年生まで行って脚気(かっけ)の為中途退学された。その時良次郎先生から教祖様に伺われると、学校をやめて家へ呼び戻せとあった。御本人としてはもっともっと学問がしたかったのであるが、親神様は一時も早く道にひき寄せて道の為御恩報じに働かせようとの思召であった。このことは先生御自身からも、私の実父からも度々聞いた話である。そこで教祖様の仰せ通り学問をやめて家に帰り、家業の百姓をやる傍らひまひまに、お屋敷へお参りしてお手振りを習い、人にも教えておられた。父親の良次郎先生がお屋敷に入込んでおつとめ下された間、百姓しながら毎月御命日にはお屋敷へ参拝された。

 明治十六年、二十六才の時、良次郎先生がお出直しなされてからは、亡き父親に代って、お屋敷へ始終運ばれるようになったが、当時は猶お年が若いし、古い先生方が沢山おられたので、とかく遠慮がちに低く低く通っておられた。そこで明治二十年正月、教祖様御昇天の折もお側へは、よう寄せてもらわれずに、何やら桜井へ買物に荷車ひいて行っておられた。それから教祖様御昇天を吉祥にして三十才の春から本部へ詰めきりになられ、家の百姓は兄の良藏さん夫婦にまかせて、一切をお屋敷づとめに奉げられた。実家では弟の音吉さんは、十五、六才の頃から長柄の靑木へ養子に行って良藏さん夫婦きりであった。嫁おうめさんはなかなか良く出来た親孝心の人で、家業の百姓もまめまめしくするし、家計もよくしまって、夫さんが人がようていろいろなことで負債を拵えても、その中をやりきって行ったが、弟の為造先生も随分兄夫婦を助けられた。夫婦とも個人だけの信仰で、進んでお助けにどこまでも出てゆく熱心さはなかったが、家では朝夕のおつとめもつとめ、お手振りにもあちこち行っておられたが、良藏さんは、「わし等無学な何も出来んものが、庄屋敷へ行っても何も役に立たへん」と口癖に言うては、月々の御命日に御詣りされる位が関の山であった。
 為造先生はお屋敷第一につとめていられたが、三十近くになってもまだ良縁がない。そこで教祖様にお伺いすると、『親孝心せ』と仰言るだけである。友達はそれぞれ結婚して皆なもう子供があるのに自分だけこんなでは、いつ家を持てるか分らんし、いつ迄独身でゆくのやろうかと考えたものやと、よく述懐しておられた。
 一方初代真柱様の直ぐ上の姉おひささんは、教祖様が飯田岩次郎さんの嫁にと仰言っていたが、将来むほんするその精神をお見定めなされて早くから話をとりやめられた。爾来独身でお側に仕えていられたが、その為もはや婚期を過してしまっておられた。そこでお二人の精神見定めて、神様がお結びなされたのである。おひささんは頬にほうそうのあとがあり、余り丈夫なからだでなく、又美人とは言えなかったが、為造先生は何の不足も思わず、神様の思召通りに有難くおうけして結婚されたのが明治二十年教祖様御昇天后間もなくのことで、為造先生が三十才、おひさ様は二十五才であった。その結婚式も本部炊事場の床ねん(板間)で、里芋とこんにゃくに、茶呑茶碗の三々九度で、これ以上簡単な式はなかった。そしてまだ住(すま)う家もなく、祝言后間もなくお屋敷の乾(西北)の隅に二間に五間十坪の家を建ててもらって住みつかれた。初代真柱様も余り金をお出し下さらず、兄の良藏さんが借金して出され、百五十円程で出来上がったものである。

 尚戸籍面では為造先生が母の出里穴師の村井家へ養子として入籍されている。これは当時長男は徴兵されなかったので、その適令前に徴兵のがれに入籍されただけで、結婚されたのではなく、全くおひささんとは初婚であった。
 翌廿一年二月には長女のおさよさんが生れ、ひきつづいてみきのさん、おさわさんが生れた。三人目のおさわさんが生れたとき、先生は丁度本部につとめておられたが、そのしらせを聞いて返事もされなかったと、私の実父が話していた。余り女の子ばかりが生れるので、さすがの先生もまたかと思われたのであろう。その次に生れたのが后に現真柱様の姉君玉千代さんの入婿となられた御分家為信先生である。(明治廿五年七月二十日生)
 お屋敷へ常詰となられてからの為造先生は、明治廿一年本部員となり、明治廿六七年頃には真柱様お宅の会計となり、言うに言えぬ苦労をされ、その后詰所でおつとめになり、奈良その他重要な支庁長や、本部の会計をつとめられ、大正三年十二月三十一日初代真柱様お出直し后、翌四年一月二十一日天理教管長職務摂行者となられたのが五十八才の時であった。そして同十四年四月二十三日現真柱様が立派に就職される迄満十年間よくその重責を果され、昭和十一年七月十九日八十一才急性肺炎で出直しされた。明治二十年教祖様御昇天以来五十年間終始一貫して、本部の重要な事には一切相談にのり、又関係されて今日の本教をあらしめられた元勲である。

 「清水由松傳稿本」93~97ページより




(私論.私見)