背は五尺三寸(※1)位、色白痩せ型の人で、なかなか厳格活発な人柄であった。とても博学で村でも一番の物知りであり、又所謂やり手で近郷近在を抑えていられ、村長もつとめ、なかなかの資産家であった。酒は殆んどたしなまず、煙草は普通にいけた。上述の通り山中忠七先生に縁づいた長姉そのの身上のわづらいを助けて頂いてから同先生の匂掛けで、「それは結構な神様や、わしも参らしてもらおう」と、元治元年一月、三十四才にして身上も事情もなくて信仰に入られたが、最初は忠七先生の信仰を嘲笑うて、「そんな所へ行ったところで何になるか」と言っておられた(忠七先生のお咄)ということである。
夫人のぶさんは穴師の村井家の出で、丸顔で小柄な賢いなかなか根性のしっかりした、針仕事始め何でもよく出来る人であった。夫の良次郎先生がなかなかの丁寧者で幾分気むつかしい所があった所へ、自分も奇麗ずきであったので、家の中など百姓家に似合わぬ蜘蛛の巣一つ張ってない位きちんと奇麗にしてあった。良次郎先生は又百姓を上手に奇麗に丹念にする人であった。その為田植えでもきちんと一直線に植えるし、溝でも畑のうねでも真直にせんと気のすまぬほうであったが、どちらかと言えば百姓のような仕事はきらいで、村役などよくつとめていられ、そこでお屋敷へひき寄せられてからは、そのおつとめがとても楽しみであったと見えてよくつとめられるし、家のほうは三人の息子達(良藏、為造、音吉)が一町八反の田地を百姓するし、家内がしっかりしているし、何の心配も後顧の憂(※2)もなくつとめられたのである。それからお屋敷へ入り込まれたのは、明治十五年春、本席様夫婦が入り込まれて間もなくであったと思う。
何しろ元治元年以来の道の元老として草創時代からその右に出る人のない識者として、お屋敷内元老中の元老として本席と共に事大小となく参画され、又食物(じきもつ)のおさづけを頂いておられたが、明治十六年六月十九日僅か五十三才で出直されたのは、寔(まこと)に惜しいことであった。
「清水由松傳稿本」92~93ページより
※1…一尺は約30.3㎝、一寸は約3.03㎝で、計算すると約160.59㎝となる。
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