【山中忠七逸話】 |
稿本天理教教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」、12「肥のさづけ」、14「染物」、15「この物種は」、20「女児出産」、21「結構や、結構や」、28「道は下から」、63「目に見えん徳」、84「南半国」、185「どこい働きに」。 |
稿本天理教教祖伝逸話篇11「 神が引き寄せた」。
それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところ、お言葉があった。「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」と。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇12「肥のさづけ」。
教祖は、山中忠七に、「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで」と、お諭しになり、「嘘か真か、試してみなされ」と、仰せになった。忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ」と、疑わざるを得なかった。ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、蟲が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、蟲穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇14「染物」。
ある時、教祖が、「明朝、染物をせよ」と、仰せになって、こかんが、早速、その用意に取りかかっていた。すると、ちょうど同じ夜、大豆越でも、山中忠七が、扇の伺によってこのことを知ったので、早速、妻女のそのがその用意をして、翌朝未明に起き、泥や布地を背負うてお屋敷へ帰って来た。そして、その趣きを申し上げると、教祖は、「ああそうか。不思議な事やな。ゆうべ、こかんと話をしていたところやった」と、言って、お喜び下された。こういう事が度々あった。染物は、後にかんろだいのぢばと定められた場所の艮(註、東北)にあった井戸の水で、お染めになった。教祖が、「井戸水を汲み置け」と、仰せになると、井戸水を汲んで置く。そして、布に泥土を塗って、その水に浸し、浸しては乾かし、乾かしては浸す。二、三回そうしているうちに、綺麗なビンロージ色に染まった。この井戸の水は、金気水であった。
註一 大和には、金気井戸が多いが、他の井戸では、このように綺麗には染まらなかった。泥は、教祖が、慶応元年八月、山中家にお入り込みの時、家の東側を流れている小川に、染物によい泥がある、とお気付きになり、所望なさったので、その後、度々お屋敷へ運ばせて頂いた。この泥は、竹の葉が、竹薮などで堆積して出来たもの、という。
二 ビンロージ色 ビンローは、インド、マライシア等に育つ植物で、ヤシの一種である。その実をビンロージ(檳榔子)と言い、鶏卵大で黄赤色に熟する。原産地では、口中でかんで嗜好品とするが、日本では、その乾かしたものを染料に使って、暗黒色を染めた。それから、暗黒色をビンロージ色という。(平凡社「世界大百科辞典」) |
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稿本天理教教祖伝逸話篇15「 この物種は」。
慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は、既にお寝みになっていたが、「神床の下に納めてある壷を、取り出せ」と、仰せになって、壷を取り出させ、それから、山中忠七をお呼びになった。そして、お聞かせ下されたのに、「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。何んにも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう」と、仰せになって、その壷を下された。そして、更に、「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで」と、お言葉を下された。そして、その翌日、このお礼を申し上げると、「これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなあ」と、お喜び下された。これは、永代の物種として、麦六升、米一斗二升、小遣銭六十貫、酒六升の目録と共に、四つの物種をお授け下されたのであった。それは、縦横とも二寸の白い紙包みであって、縦横に数条の白糸を通して、綴じてあり、その表にそれぞれ、「麦種」 「米種」 「いやく代」「酒代油種」というように、教祖御みずからの筆でお誌し下されてある。教祖が、この紙包みに糸をお通しになる時には、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながらお通しになった。お唱えにならぬと、糸が通らなかった、という。これは、お道を通って不自由するということは、決してない、という証拠をお授け下されたのである。
註 六十貫は、当時の米二石七斗、昭和五十年現在の貨幣九四五〇〇円にあたる。
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稿本天理教教祖伝逸話篇20「 女児出産」。
慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり」と、仰せになった。忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨夜もお屋敷で泊めてもらった程であったが、このお言葉を頂いて、「さようでございますか」と、申し上げたものの、半信半疑でいた。が、出産の知らせに来た息子 の彦七に会うて、初めてその真実なることを知ると共に、尚その産児が女子であったので、今更の如く教祖のお言葉に恐れ入った。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇21「結構や、結構や」。
慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後のことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざまを見よ。阿呆な奴や」 と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心から親神様にお礼申し上げた。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇28「道は下から」。
山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう」 と、申し上げた。すると、教祖は、「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう」と、お説き聞かせになった。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」。
教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と、仰せになった。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」 と、お答え申し上げた。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇84「南半国」。
山中こいそが、倉橋村出屋鋪の、山田伊八郎へ嫁入りする時、父の忠七が、この件を教祖にお伺いすると、「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す 。なれども、本人の心次第や」と、お言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こいそは、「神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂きまする」と言うて、明治十四年五月三十日(陰暦五月三日)に嫁入った。すると、この山田家の分家に山本いさという人があって、五年余りも足腰が立たず寝たままであった。こいそは、神様を拝んでは、お水を頂かせる、というふうにしておたすけさせて頂いていたところ、翌年、山中忠七が来た時に、ふしぎなたすけを頂き、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、一人歩きが出来るようになった。又、同村に、田中ならぎくという娘があって、目が潰れて、七年余り盲目であった。これも、こいそが、神様を拝んでは、神様のお水で目を洗うていたところ、間もなく御守護を頂いた。それで、近村では、いざりの足が立った、盲も目が開いた、と言って、大層な評判になって、こいそを尋ねて来る者が、次から次へと出て来た。 |
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稿本天理教教祖伝逸話篇185「どこい働きに」。
明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘(つ)もみ上げる力見て、思やんせよ」と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付き米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は晴らさずには置かん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事」と、お聞かせ下された。 |
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