山中忠七

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「山中忠七」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【山中忠七(やまなか ちゅうしち)】
 1827(文政10)年10.26日、大和国式上郡大豆越村(現・奈良県桜井市大豆越)生まれ。
 1902(明治35)年11.22日。出直し(享年76歳)。

 1827(文政10)年10.26日、大和国式上郡大豆越村(現・奈良県桜井市大豆越)生まれ。
 近隣に聞える田地持ちで、村の役職を務める。
 1864(文久4)年、妻そのの痔の病を助けられ入信。天理教の草創期にお屋敷と深い関りを持って活躍する。
 扇・御幣・肥・物種のさづけ。妻その扇のさづけ。妻そのは山澤良治郎の姉、娘こいそは山田伊八郎(敷島大教会)の妻。息子・彦七は天理教校初代校長、姉るいは岡本重治郎の妻。
 1902(明治35)年11.22日。出直し(享年76歳)。

【山中忠七逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」、12「肥のさづけ」、14「染物」、15「この物種は」、20「女児出産」、21「結構や、結構や」、28「道は下から」、63「目に見えん徳」、84「南半国」、185「どこい働きに」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇11「 神が引き寄せた」。
 それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところ、お言葉があった。「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」と。
 稿本天理教教祖伝逸話篇12「肥のさづけ」。
 教祖は、山中忠七に、「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで」と、お諭しになり、「嘘か真か、試してみなされ」と、仰せになった。忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ」と、疑わざるを得なかった。ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、蟲が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、蟲穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。
 稿本天理教教祖伝逸話篇14「染物」。
 ある時、教祖が、「明朝、染物をせよ」と、仰せになって、こかんが、早速、その用意に取りかかっていた。すると、ちょうど同じ夜、大豆越でも、山中忠七が、扇の伺によってこのことを知ったので、早速、妻女のそのがその用意をして、翌朝未明に起き、泥や布地を背負うてお屋敷へ帰って来た。そして、その趣きを申し上げると、教祖は、「ああそうか。不思議な事やな。ゆうべ、こかんと話をしていたところやった」と、言って、お喜び下された。こういう事が度々あった。染物は、後にかんろだいのぢばと定められた場所の艮(註、東北)にあった井戸の水で、お染めになった。教祖が、「井戸水を汲み置け」と、仰せになると、井戸水を汲んで置く。そして、布に泥土を塗って、その水に浸し、浸しては乾かし、乾かしては浸す。二、三回そうしているうちに、綺麗なビンロージ色に染まった。この井戸の水は、金気水であった。

 註一 大和には、金気井戸が多いが、他の井戸では、このように綺麗には染まらなかった。泥は、教祖が、慶応元年八月、山中家にお入り込みの時、家の東側を流れている小川に、染物によい泥がある、とお気付きになり、所望なさったので、その後、度々お屋敷へ運ばせて頂いた。この泥は、竹の葉が、竹薮などで堆積して出来たもの、という。
 二 ビンロージ色 ビンローは、インド、マライシア等に育つ植物で、ヤシの一種である。その実をビンロージ(檳榔子)と言い、鶏卵大で黄赤色に熟する。原産地では、口中でかんで嗜好品とするが、日本では、その乾かしたものを染料に使って、暗黒色を染めた。それから、暗黒色をビンロージ色という。(平凡社「世界大百科辞典」)
 稿本天理教教祖伝逸話篇15「 この物種は」。
 慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は、既にお寝みになっていたが、「神床の下に納めてある壷を、取り出せ」と、仰せになって、壷を取り出させ、それから、山中忠七をお呼びになった。そして、お聞かせ下されたのに、「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。何んにも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう」と、仰せになって、その壷を下された。そして、更に、「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで」と、お言葉を下された。そして、その翌日、このお礼を申し上げると、「これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなあ」と、お喜び下された。これは、永代の物種として、麦六升、米一斗二升、小遣銭六十貫、酒六升の目録と共に、四つの物種をお授け下されたのであった。それは、縦横とも二寸の白い紙包みであって、縦横に数条の白糸を通して、綴じてあり、その表にそれぞれ、「麦種」 「米種」 「いやく代」「酒代油種」というように、教祖御みずからの筆でお誌し下されてある。教祖が、この紙包みに糸をお通しになる時には、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながらお通しになった。お唱えにならぬと、糸が通らなかった、という。これは、お道を通って不自由するということは、決してない、という証拠をお授け下されたのである。

 註 六十貫は、当時の米二石七斗、昭和五十年現在の貨幣九四五〇〇円にあたる。
 稿本天理教教祖伝逸話篇20「 女児出産」。
 慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり」と、仰せになった。忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨夜もお屋敷で泊めてもらった程であったが、このお言葉を頂いて、「さようでございますか」と、申し上げたものの、半信半疑でいた。が、出産の知らせに来た息子 の彦七に会うて、初めてその真実なることを知ると共に、尚その産児が女子であったので、今更の如く教祖のお言葉に恐れ入った。
 稿本天理教教祖伝逸話篇21「結構や、結構や」。
 慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後のことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざまを見よ。阿呆な奴や」 と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心から親神様にお礼申し上げた。
 稿本天理教教祖伝逸話篇28「道は下から」。
 山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう」 と、申し上げた。すると、教祖は、「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう」と、お説き聞かせになった。
 稿本天理教教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」。
 教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と、仰せになった。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」 と、お答え申し上げた。
 稿本天理教教祖伝逸話篇84「南半国」。
 山中こいそが、倉橋村出屋鋪の、山田伊八郎へ嫁入りする時、父の忠七が、この件を教祖にお伺いすると、「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す 。なれども、本人の心次第や」と、お言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こいそは、「神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂きまする」と言うて、明治十四年五月三十日(陰暦五月三日)に嫁入った。すると、この山田家の分家に山本いさという人があって、五年余りも足腰が立たず寝たままであった。こいそは、神様を拝んでは、お水を頂かせる、というふうにしておたすけさせて頂いていたところ、翌年、山中忠七が来た時に、ふしぎなたすけを頂き、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、一人歩きが出来るようになった。又、同村に、田中ならぎくという娘があって、目が潰れて、七年余り盲目であった。これも、こいそが、神様を拝んでは、神様のお水で目を洗うていたところ、間もなく御守護を頂いた。それで、近村では、いざりの足が立った、盲も目が開いた、と言って、大層な評判になって、こいそを尋ねて来る者が、次から次へと出て来た。
 稿本天理教教祖伝逸話篇185「どこい働きに」。
 明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘(つ)もみ上げる力見て、思やんせよ」と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付き米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は晴らさずには置かん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事」と、お聞かせ下された。

 「山中忠七先生について(その一)」。
 ※次に紹介させて頂くお話は、兵神大教会三代会長である清水由松さん(山澤良助さんの実弟清次郎さんの四男、明治三十三年清水家に養子に入る。明治三十四年より本席邸詰青年として本席様出直しまで勤める)の自叙伝「清水由松傳稿本」という書籍より、山中忠七先生について語られている部分を引用させて頂いたものです。山田伊八郎さんについても触れられておりますが、歴史上の出来事に対する捉え方が「山田伊八郎伝」とはかなり異なる(誤った解釈では?と思える)箇所もあります。しかし、私がそう思うからと言ってその部分を削除するのは、良くないと思っております。敷島の系統の歴史から学ばせて頂いた事(おさしづ隠匿問題など)に対して、それを生かせていない事になると思うからです。そういう事を踏まえた上でお読み下さい。

 先生は元治元年一月夫人おそのさんの、産後と痔のわづらいをお助け頂いて入信した人で、織田村の木下清蔵(※1)という人から匂をかけてもらったと聞いている。何しろあざやかに不思議なお助けを頂き、教祖様から直き直きお話も聞かしてもらい、爾来非常に熱心し、元治元年最初のつとめ場所の建築にも穴師の纒向山のにあった持山の木をきって献納し、夫婦ともども「よろづ伺いのさづけ」を頂き、忠七さんは「扇の伺」と「肥のさづけ」とを頂いておられる。家は代々豪農で、身体は頑健、横に巾の広い朝は早くから起きて人の倍も働く人であった。煙草はのまなかったが酒は三度の御飯より好きなほうで、とても質素倹約で無駄を一切せぬような人であった。家内の身上をお助け頂いてからは、おやしきへ日参し、その度毎に米一升づつ袋へ入れてさげて詣られた。そしてその往き帰りの道中では、古い縄ぎれ、古草履古わらじを拾って帰って何かの用にされた。私の実父の話では、木屑棒ぎれその他何でもかでも見のがさずに拾って帰った人である。こうして日参している内に、教祖様にだんだんと結構な理をきかしてもらい、親戚の山沢良助(新泉)、岡本重治郎(永原)、藤本清治郎(坂平)、上田平治(大西)、等に匂がけして皆熱心な道の信仰に入らせた。

 それから教祖様は娘のこいそさんを秀司先生の嫁に貰いうけると仰言ったが、当時のおやしきは殆んど食うに事かく貧乏のどん底時代であった。それがためいくら神様の仰せでも、そんな困難な所へは親として娘が可愛想でやれんと、とうとうおことわりして家内の妹の息子栄蔵(芝村)が小学校の先生をしている所へ嫁がせた。その頃は小学校の先生といえば社会的にもあがめられ、生活も俸給で楽にゆけるので、これならと思ってめあわしたのである。ところが栄蔵さんは酒のみで品行が悪く、とうとう不縁になり、後に敷島の初代会長(※註・二代会長の誤り)となった倉橋村の山田伊八郎さんに再縁させた。伊八郎さんは仏教の熱心者で、寺の一番の旦那であった。熱心に忠七さんが匂掛けしてもなかなか聞かなかったが、庄屋敷の神様は結講だからと無理強いにおやしきへ連れて詣り、教祖様にお目にかからせた。それから始めて伊八郎さんも道の信仰に入れて頂いた。その後伊八郎さんは身上にかかり、又家にも事情が出来て、不思議なお助けに浴し、爾来信心した仏教もやめてお道の布教に熱心するようになって、沢山の信徒も結成された。これが心勇講であり、後の敷島大教会である。そして□□吉三郎さんが村の顔役であったのでこの人を講元に立てて講を組織したのである。(※註・この辺りの話も「山田伊八郎伝」と異なる見解)

 教祖様は山田さんが入信以来なかなか熱心に運ぶので、『大和の南半国道をやろう』と仰言ったと聞いている。本席様はよく「明治十六年教祖様の御休息所の建築の時、山田はんが持山の桧の木を伐って献納してくれたのや」と仰言った。尚そのお話につづいて「わしが休息所の建築の時、丹波市警察署へ拘留されて、その材木どこからあげてもうたかと責められたんや。それで山田伊八郎から買いましたというとなあ、そんなら早速調べるというて、山田はんを呼び出された。山田はんは、お前飯降伊蔵に材木売ったかときかれて、はいこれこれで売り渡しましたと受取を見せたので、警察も案に相違してどうしようもあらへん。実はこんなこともあろうかと思うて、山田はんに受取をわたしといたんや。それでわしも無事釈放された」とよくおきかせ下された。(つづく)

※1‥「山中忠七傳」(昭和40年10月発行、山中忠正・山中忠昭編)の11頁には、芝村の清兵衛という人が匂をかけたとある。高野友治さんの「先人素描」は「清水由松傳稿本」と同じ。
 「山中忠七先生について(その二) 」。
 (つづき)~こんな訳で心勇講を結成する時も、前述の通り土地の顔役であった□□はんに、山田さんから頼んで講元の名前をもってもろうたのであって、実際は山田さんが講元とならねばならん所を、おとなしい温厚な人であった為、譲ったのである(※註・この辺りも「山田伊八郎伝」と異なる見解)。そして明治二十三年三月十七日□□さんを会長として敷島分教会の設置のお許を得たのである。その後□□さんはおやしきへ入れてもらい、平野さんと特に心易くなり、道の草創時代につくして本部員にもしてもらい、教会設置の折に敷島の初代会長となられたが、早く明治二十八年十一月二十四日出直してしまい、息子は会長を継ぐつもりでいたが、極道のため見込なく、その整理に増野正兵衛先生が入られた。その時、会長の候補者が山田伊八郎さん始め、峯畑為吉、加見兵四郎さんなど沢山あって、どの人を会長にして良いか大変迷われた揚句、正式におさしづを仰ぐのでなく、人間として又先輩としての本席様に伺われたのである。すると教祖様の休息所建築の折のお話が出た。そこで増野先生も「そういう元つくした理があるならそれで結講で御座います」と早速山田伊八郎さんを後継者と決定してお許しを頂かれた。この話は私が本席様から直接に聞かして頂いた間違いのない話である。

 その後□□さんの息子は、いろいろ山田はんを苦しめ、時には抜刀しておどかしたりしたが、後に自決して果て、その未亡人はおやしきで生涯つとめさしてもらい孫養子福太郎さんが集成部に入れてもらって現在に及んでいる。(※「山田伊八郎伝」によると、庄作さんは昭和9年8月58歳の時から、さんげの為か、別科53期生に入学、その後敷島詰所のひのきしんをつとめ、二年後に詰所において出直した、とある。)

 とにかく敷島の大きい理は、山田伊八郎さんによって出来たのである。同家はもと相当な資産家であったが道の為にその殆んどを果たしてしまい(親戚の頼母子の損害もうけたが)どん底に落ちきった。嫁の親として山中忠七先生も見るに見かねて取りもどそうとされたこともあった。けれども敷島分教会も出来、夫婦とも道の為に懸命に働いているし子供も多いことなので辛棒された。おいえさんは子供が多いし、その中に盲目の妹もあったし、夫伊八郎は布教に出て留守ばかりのむつかしい家庭にあって真黒になって働き、夏は高い山田のあぜの草刈から肥かつぎまでして、風呂も焚かず昔の古家に住んで、夜暗くなってから谷川で水浴してすまし、麦飯に塩気もないおかゆを啜(すす)って、その中を夫をはげまして通りきった。何しろ前に一度不縁になっていることだし、最初教祖様のお言葉通り秀司先生にもらいうけられて、若い時に苦労しといたらあとあと何ぼう結講であったか知れないものを、親の忠七さんが娘に苦労させたくないと折角のお言葉にそむいて、これならとかたずけたところが前に述べたような始末で不縁になったのだから、今度も亦わが子可愛いにひかされてはと泣く泣く辛棒されたのである。けれども親神様のお影で敷島の道の母となって、末代の古記を残すことになった。親神様はたとえそのお言葉にそむいた者でもお見捨てなさらず、手を変え品変えて結講にお通し下さる。ほんとに有難い事である。晩年忠七さんも「おいえを秀司先生の嫁にと仰言る以前に、大豆越は親類同様にしてやろうと教祖様おきかせ下さったのに、娘可愛いばっかりに惜しいことをした」とよく述懐して居られた。教祖様の仰せ通りにして置けば、中山家の親戚として頂けたのである。おいゑさんは教祖様から「こいそ」と名前を頂いたが、嫁入先で名前をかえる当時の習慣に従い、芝村へ嫁いだ時に「いえ」とされた。この人は姉弟五人の内でも一番お道に熱心勝気で根性も亦しっかりしていた。身長五尺二寸、当時の婦人としては背が高い方で、色白の卵型の顔立ちできりよう(器量)は良かった。(つづく)
 「山中忠七先生について(その三) 」。
 (中略)~さて忠七先生の頂かれた扇の伺いというのは、その理を許された人が神様に向って座り、日の丸扇子笏板(しゃくいた)で一揖(※1)する時の様に両手でもって平伏して神意を伺う。その時伺う人の心に浮ばして下さる。それを伺った人にとりつぐのであって、伺の扇が倒れる方向によって神意をさとるものだという人があるのはどうかと思う。「よろづ伺い」は、その理をゆるされた人が扇子をもたずに神前に平伏し心に浮んだ理をとりつがれるのである。

 「肥のさづけ」は、さづけを頂いてる人が土三合 糠(ぬか)三合 灰三合をまぜあわせて神前にお供してお願すると、それが肥一駄即ち四十貫の肥になる。然しこれは自分の田畑にだけ使用することに限られているから、他人に与えても理がきかない。辻忠作先生のお話では「神さんは反四石五石米をとらすと仰言っていたが、人間心の欲があってそれだけ与を頂くだけに心が澄まんからいかんのや」と仰言っていた。大体普通の肥を置かずに収穫は相当頂けるが、藁が余り大きくならない。その上肥のさづけを置いたものは、長年にわたって出来不出来がなく、収量が平均しているから結局ずっと普通より出来が良いということである。

 忠七先生は又めどう(目標)の御幣をきってそれを記念(※2)して神様に御祭りさしてもらう理も頂いておられた。私の実父が忠七先生に「忠七さん、内の神さんのめどうないよってん(無いから)あんた御幣さんきって、一ついわいこめてもらいたい」とたのんで、忠七さんにすぐそうしてもらって、それを朝夕拝んでいたが、その後本部から「奉修天理王命」というお札を頂いて、共に神棚におまつりした。これを当時「おがみつけ」と言い、後明治四十一年秋、一派独立なってから、現在と同様御神鏡を下附される事になった。

 さて忠七先生は、晩年おやしき内に家を一軒東南隅に建てて頂き(小南の南側東寄り)そこに住居し、御供包みなどしていられたが、後老衰して大豆越の離れの上段の間に起居し、明治三十五年十一月二十二日七十六才で出直しされた。葬儀は初代真柱様斎主の下に執行され大豆越の墓地に葬られ、そのみたまは夫婦とも、中山家のみたまやへ本席夫婦と共に合祀された。

昭和二十八年十二月発行「清水由松傳稿本」(編者・橋本正治、芳洋史料集成部発行)90~91ページより
※1「一揖(いちゆう)」‥軽く会釈をする事。
※2「記念して」‥この場合あきらかに”祈念して~”が正しい。誤り。
祈念→神仏に願いがかなうよう祈ること。祈願。
(※1~2は「小学館現代国語例解辞典」を参照。
 「山中忠七先生について(その四) 」。
 (前略)~翁の娘”こいそ”(後の山田伊八郎妻、いゑと改める)も、よほど神に深いいんねんあった者のようで、男五人、女四人の九人兄弟姉妹の中の四人目、次女として生まれながら、親神はこの一家一族を、どうでもこうでも道のよふぼくに使うべく、お引寄せになられる動機を造られていった文久二年、入信への初一歩のお手引きに姉奈良繁、妹房江を失い、翁の一人娘として、重態の母を見守らねばならない立場に追いやられ、いや応なしに翁や兄に従って信仰に激しく進まねばおれない立場に置かされ、お導き頂いたのでありました。それだけに、”こいそ”の生涯には大きな節も多く、また結婚もさして頂き、神いんねんの深かったことが判ります。

 教祖は、明治の初め頃、翁の娘”こいそ”を秀司先生の嫁にくれないかと懇望せられ、教祖の弟様の前川半兵衛様の奥さんである、”おたき”さんが度々翁の宅へ来て縁談をされた、ということであります。ところが翁は、このくらい人に笑われている中を、そんな事したら人がどんなに笑うかしれない。こんなに年齢が違っているのに」と、承知が出来なかったのでありました。(注 ”こいそ”十七、八才の時、年齢差約三十才)

 そして、明治五年、二十二才の時、実は教祖には内緒で、母”おその”の妹”おなを”が芝村へ嫁いでいた、その息子の許へ嫁がせたのであります。お互いに近在であり、従兄妹であり、夫は教員をしていて、本当に申し分ないと思われたのでありましょう。しかしそれは浅はかな人間思案であり、大きな思惑違いでありました。嫁ぐなりひどい身上となり、やっと救けられたら、今度は夫が女狂いを始め、妾をつくるような事になり、それでも不足の一つも言わず精一杯勤めたのでありますが、遂に妾を家に引入れ、果ては妾が”こいそ”を女中扱いするようになり、近隣の人々から夫を非難する声が起ると共に、煩悶の日々を送るようになりました。

 教祖からは、早く帰れ/\、と申して頂いたのでありますが、次々と子供が産まれて、帰るに帰れない有様でした。見るに見かねた両親や山沢家の人達の相談で、無理に実家へ引取られ、六ヵ年の茨の生活も終ったのであります。ここで、翁も本人も、あらためて我が身のいんねんを思い返し、教祖の御言葉の尊さを、しみじみ味わった訳であります。そして教祖より、早く来い/\、とお召し頂くままに、明治十一年正月、”こいそ”は二十八才で教祖の御膝元にお引き寄せ頂いて、以後三年間お仕えさせて頂きました。(後略)~

 昭和四十年十月発行「山中忠七傳」(山中忠正、山中忠昭編)82~84ページより 」。

 敷島につながる。山中忠七は大和事件以降お屋敷への参拝は足が遠のいたのは事実。明治に入って復活したが、そのときは後輩の信者さんたちが成人していて、忠七の居場所はお屋敷内にはあまりなかったみたい。娘のこいそ様(のちの山田いえ天理教敷島大教会二代会長夫人)が教祖にお仕えしていた。忠七は扇の伺いをいただいている。明治16年頃だと思いますが山田伊八郎(娘婿。のちの天理教敷島大教会二代会長)が教祖から無言のお仕込みを受けていたとき、忠七も扇の伺いをしたが、なんの返答もなかったという記録が残っている。晩年の忠七はある意味閑職に追いやられていて、あまり教祖の高弟としての履歴はない。古い部類の信者が埋もれていって新しい信者(増井りん、辻忠作、高井直吉など)の活躍があったためかとも思われる。山中忠七の子孫は奈良県櫻井市に本部直轄の大和真分教会を設立している。

 つとめ場所の普請のときには、「費用一切」を申し出られたりと、やはり経済的には恵まれていた。大和神社の節のあとも、助造事件のときには教祖の随行として赴かれたりと、名前を拝見する。

【山中彦七】
 嘉永2年、山中忠七の子息として生れる。
 山中家入信後、父に代わって農業に励み、夜学へ通う。
 小学校教員から協会本部勤務となり、天理高校初代校長を務めた。
 1832(昭和7)年、出直し(享年84歳)。




(私論.私見)