山本藤四郎

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【山本藤四郎(やまもと とうしろう】
 嘉永3年、生まれ。
 昭和3年、出直し(享年79歳)。
 嘉永3年、生まれ。
 父の眼病をお助け頂いて入信。
 以来、笠村周辺をはじめ、山辺郡の奥地から宇陀郡にわたり布教に励む。
 明治28年、上之郷出張所を設立。初代会長になる。
 明治29年、城法三代会長に就任。
 稿本天理教教祖伝逸話篇62「これより東」。

【山本藤四郎逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇62「これより東」。
 明治11年12月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、3里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治13年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。




(私論.私見)