山田長造

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「山田長造」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【山田長造(やまだ ちょうぞう)】
 大正10年9月、出直し(享年65歳)。
 明治8年、河内国の山田長造20歳の時、長患いの病よりおぢばに帰り約10日間滞在後、全快の御守護を頂いて入信。布教に励む。山田は、「俺の信仰は高井(猶吉)より早い」、「高井と結城は一の信者や」と云つていた(復元第11号34頁)。
 明治12年、刑部村に敬神組が結成される。講元は村の青年団長格の松田音次郎。
 明治23年、川口集談所を開設、所長に小山弥三七・西成初代会長が就任。川口集談所は高安に所属。
 明治25年、西成が教会設立。
 大正10年9月、出直し(享年65歳)。
 58「今日は、河内から」。
 松田音次郎、山田長造、松永好松、日下岩蔵。

 58「今日は、河内から」。
 明治10年頃のこと。当時20才の河内国の山田長造は、長患いのため数年間病床に呻吟していた。ところが、ある日、綿を買い集めに来た商人から、大和の庄屋敷には、不思議な神様が居られると聞き、病床の中で、一心に念じておすがりしていると、不思議にも気分がよくなって来た。湯呑みで水を頂くにも、祈念して頂くと、気分が一段とよくなり、数日のうちに起きられるようになった。この不思議な御守護に感激した長造は、ぜひ一度、庄屋敷へお詣りして、生神様にお礼申し上げたいと思い立った。家族は、時期尚早と反対したが、当人のたっての思いから、弟与三吉を同行させて、二本の松葉杖にすがって出発した。ところが、自宅のある刑部村から一里程の、南柏原へ来ると、杖は一本で歩けるようになった。更に、大和へ入って竜田まで来ると、残りの一本も要らないようになった。そこで、弟を家へかえして、一人でお屋敷へたどりついた。そして、取次から、「あんたは、河内から来られたのやろう。神様は、朝から、『今日は、河内から訪ねて来る人があるで』と、仰せになっていたが、あんたの事やなあ。神様は、待っていられるで」と聞かされて、大層驚き、「本当に、生神様のおいでになる所やなあ」と、感じ入った。かくて、教祖にお目通りして、数々のやさしいお言葉を頂き、約一週間滞在の上、すっきり御守護頂いたので、お暇に上がると、「又、直ぐ帰って来るのやで」と、お言葉を下さった。こうして、かえりは信貴山越えで、陽気に伊勢音頭を歌いながら、元気にかえらせて頂いた、という。





(私論.私見)

天理教人名辞典 山田長造 やまだちょうぞう

山田長造 やまだちょうぞう 安政4年(1857)10月13日、河内国曙川村刑部(現、大阪府八尾市刑部)に山田佐助の長男として生まれた。 明治10年(1877)頃、悪性の病を患い5年間病床に呻吟していた。 ある人から大和の ...