宇野善助

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「宇野善助」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【宇野善助(うの ぜんすけ)】
 天保7年、生れる。
 明治43年、出直し(75歳)。
 天保7年、生れる。
 明治14年、深谷源次郎の手引きにより入信。
 明治17年、斯道会が結成され副講元となる。
 明治22年、河原町設立。理事。
 明治24年、教会設立。越乃国初代会長。
 明治43年、出直し(75歳)。
 105「ここは喜ぶ所」。

【宇野善助逸話】
 105「ここは喜ぶ所」。
 明治15年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と7人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が、産後の患いで、もう命がないというところを救けて頂いた、お礼詣りである。夜明けの4時に家を出て、歩いたり、巨掠池では舟に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の八時頃おぢばへ着いた。翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、「何故、泣くのや」と、仰せになった。美紗は、尚も泣きじゃくりながら、「生神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました」と、申し上げた。すると、教祖は、「おぢばは、泣く所やないで。ここは喜ぶ所や」と、仰せられた。次に、教祖は、善助に向かって、「三代目は、清水やで」と、お言葉を下された。善助は、「有難うございます」とお礼申し上げたが、過分のお言葉に、身の置き所もない程恐縮した。そして、心の奥底深く、「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう」と、堅く決心したのである。




(私論.私見)