梅谷四郎兵衛&タネ

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「梅谷四郎兵衛&タネ」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【梅谷四郎兵衛(うめたに しろべえ)】
 1847(弘化4)年7.7日、河内国古市郡東坂田村(後に西浦村東阪田、現在は大阪府羽曳野市東阪田)に、梅谷久兵衛門・小きんの三男勝蔵として生まれた。
 1919(大正8)年5.29日、出直し(享年73歳)。

 1847(弘化4)年7.7日、河内国古市郡東坂田村(後に西浦村東阪田、現在は大阪府羽曳野市東阪田)に、梅谷久兵衛門・小きんの三男勝蔵として生まれた。
 1860(万延元)年、14歳の時、親戚筋の「左官四郎」浦田小兵衛の養嗣子となり、四郎兵衛を名乗る。 勝蔵から四郎兵衛に改名。
 1871(明治4).5月、上野たねと結婚。長男、二男の出直しが続いた後、明治10年に三男梅次郎が生まれた。同年末、養父の出直し後、事情により浦田の家を出て梅谷に復籍、分家する。
 明治12年、薩摩堀東之町の妻の実家跡に転居。翌年、長女たか(後の春野タカ)が生まれた。
 以前から内障眼(そこひ)を患う実兄梅谷浅七に薬を送るなど心を掛けていたが、明治14年、弟子巽徳松の父親と話を聞き参詣を決意。
 1881(明治14)年、佐官業の弟子の巽徳松の父親から雑談中に大和の生き神様の話を聞き、同年2.20日、初参拝、即日入信、入信直後からおぢばへ伏せ込む。
 10日後、7、8名を連れておぢばに帰り、3度目は同行者30名に上る。
 5.14日、かんろ台の「石出しひのきしん」に勤める。
 同年、中山眞之亮の後見役山澤良治郎の依頼により、教会設置の伝手(つて)を求めたが頓挫。直後また、依頼により阿弥陀池和光寺へ手続書を提出する。
 同年、明心講(明心組、船場大教会の前身)の講名を拝戴、講元となった。
 明治15年、毎日つとめのとき初めて「おつとめ」に出る。
 明治16年、「御休息所」の「壁塗りひのきしん」を勤める。同年、教祖(おやさま)御休息所お移り直後、赤衣を授けられる。この年に四男秀太郎(後、喜多治郎吉の養子)出生。
 明治15年10月と19年2月の教祖御苦労のときは、差し入れに行っている。
 明治17年、中山眞之亮もまじえて協議がなされ、5月に四郎兵衛を社長として心学道話講究所天輪王社を大阪府に願い出た。梅谷宅に標札をあげて、順慶町で参拝所普請に掛かったが、別に教会設置の動きが起こって、おぢばに教会創立事務所が置かれ、頓挫。
 明治18年、教会創立事務所では選挙制や月給制度が協議されるようになり、四郎兵衛は参加を拒んで、おぢば参拝も1年ほど控えた。参拝所普請は四郎兵衛の手で再開、明治18年末に飯降伊蔵を迎え上棟を祝った。
 明治20.5.16日、本席より「息のさづけ」を授けられる。
 同年6月、四郎兵衛は入信後も左官の仕事を続けていたが、弟子の巽に譲って転居。家族に洋家具商を営ませたが翌年2月、廃業する。この頃、筆1本が買えず、母と子が泣いたこともある。
 明治21年、教祖1年祭中止直後の教会設立協議に参加し、眞之亮の上京の際は、留守役を頼まれて4月から「おやしき」に寄留している。教会本部設置とともに会計兼派出係に任じられ、その後、本部建築係や別席の「取次」(とりつぎ)なども勤めている。
 明治22年1.15日、船場分教会設置の許しを得て、初代会長となった。天輪王社を解消、跡地で増改築を行なう。
 同年10月に開筵式執行。以後、分教会に住み込んだ。
 同年12.23日、妻たねも「おさづけの理」を拝戴。(明治22年2月から約1年、梅次郎は材木屋へ奉公に出た、とある) 
 明治28年、詰所普請に掛った。
 明治29年、それまで月のうち10日間本部に勤めていたが、分教会の月次祭前後以外はすべて本部に勤めることにした。
 明治30年、詰所に移り住む。
 明治32年5.31日、22歳の三男・梅次郎に分会長を譲った(2代会長)。2代会長は、米国布教やロンドン布教を推進している。
 明治40年7月、京都と和歌山の教会組合長。
 明治41年12月、本部員。
 1916(大正5)年12月、本部会計主任。
 1918(大正7)年4月、2代真柱教育委員。
 大正7年8.14日、たねが出直し。
 大正8年5.29日、四郎兵衛も出直した(享年73歳)。
 〔参考文献〕『船場大教会史』。『梅谷文書』。高野友治『先人素描』(道友社新書)。道友社編『先人の遺した教話(一)一静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛」。

【梅谷四郎兵衛逸話】
 教祖伝逸話篇5「流れる水も同じこと」、19「子供が羽根を」、22「おふでさき御執筆」、82「ヨイショ」、92「夫婦揃うて」、106「蔭膳」、117「父母に連れられて」、123「人がめどか」、126「講社のめどに」、159「 神一条の屋敷」、170「天が台」、184「悟り方」、198「どんな花でもな」。
 教祖伝逸話篇5「流れる水も同じこと」。
 教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ』と、仰っしゃりました」と。
 教祖伝逸話篇19「子供が羽根を」。
 みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応3年正月にはじまり、同8月に到る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満3年かかりました。教祖は、3度まで教えて下さるので、6人のうち3人立つ、3人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。『恥かかすようなものや』と、仰っしゃったそうです。そうして、3度ずつお教え下されまして、3年かかりました。教祖は、『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや』と言うて、お教え下されました。これは、梅谷四郎兵衞が、先輩者に聞かせてもらった話である。
 教祖伝逸話篇22「 おふでさき御執筆」。
 教祖は、おふでさきについて、「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」と、仰せられた。これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。
 教祖伝逸話篇82「ヨイショ」。
 明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、「ヨイショ」と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という。
 稿本天理教教祖伝逸話篇92「 夫婦揃うて」。
 梅谷四郎兵衞が、入信して間のない頃、教祖にお目にかかると、「夫婦揃うて信心しなされや」と、仰せ下された。早速、妻のタネに、「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ」と話したところ、タネも、素直にしたごうた。そこで、先輩に教えられた通り、茶椀に水を入れ、おぢばに向かって、なむてんりわうのみことと、三遍唱えて、その水を二人で分けて飲み、お誓いのしるしとした。
 教祖伝逸話篇106「蔭膳」。 
 明治十五年十月二十九日(陰暦九月十八日)から十二日間、教祖は奈良監獄署に御苦労下された。教祖が、奈良監獄署に御苦労下されている間、梅谷四郎兵衞は、お屋敷に滞在させて頂き、初代真柱をはじめ、先輩の人々と、朝暗いうちから起きて、三里の道を差入れのために奈良へ通っていた。奈良に着く頃に、ようやく空が白みはじめ、九時頃には差入物をお届けして、お屋敷に帰らせてもらう毎日であった。ある時は、監獄署の門内へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん」と言うて威かされ、同行の三人は、泥の中へ手をついて詫びて、ようやく帰らせてもらった事もあった。お屋敷の入口では、張番の警官から咎められ、一晩に三遍も警官が替わって取り調べ、毎晩二時間ぐらいより寝る間がない、という有様であった。十一月九日(陰暦九月二十九日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、「四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」と、仰せられた。監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずはないのに、と、不思議に思えた。あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をさせて頂いていたのであった。そして、その翌十日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、というお許しを頂いた。
 教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」。
 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衞が、当時五、六才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達摩を思い出したものか、「達摩はん、達摩はん」と言った。それに恐縮した四郎兵衞は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」と、仰せられた。このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。
 教祖伝逸話篇123「人がめどか」。
 教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。「あ、教祖が」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで」と、仰せ下された。
 教祖伝逸話篇126「講社のめどに」。
 明治十六年十一月(陰暦十月)御休息所が落成し、教祖は、十一月二十五日(陰暦十月二十六日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は、道具も片付け、明日は大阪へかえろうと思って、二十六日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、「この間中は御苦労であった。教祖は、『これを、明心組の講社のめどに』下さる、とのお言葉であるから、有難く頂戴するように」とのことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、「『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやってくれ』との教祖のお言葉である」と、唐縮緬の単衣を差し出した。重ね重ねの面目に、「結構な事じゃ、ああ忝ない」と、手を出して頂戴しようとしたところで、目が覚めた。それは夢であった。こうなると目が冴えて、再び眠ることができない。とかくするうちに夜も明けた。身仕度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤衣を捧げてやって来た。「『これは、明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉である」と、昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いながら、有難く頂戴した。すると、今度は、山本が入って来た。そして、これも昨夜の夢と符節を合わす如く、「『着古しじゃけれど、子供にやってくれ』と、教祖が仰せ下された」と、赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで、有難く頂戴すると、次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、「教祖が、『子供達に上げてくれ』と、仰せられます」と、伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた。
 教祖伝逸話篇159「神一条の屋敷」。
 梅谷四郎兵衞が、ある時、教祖のお側でいろいろお話を承っていたが、ふと、ただ今、道頓堀に大変よい芝居がかかっていますがと、世間話を申し上げかけると、教祖は、その話を皆まで言わさず、『わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せになりますで』と、お誡(いまし)めになった。
 教祖伝逸話篇170「天が台」。
 梅谷四郎兵衞が、教祖にお聞かせ頂いた話に、『何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え』と。又、『人詣るにより威光増すのである。人詣るにより、守りしている人は立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである』、『社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり』、『この世の台は天が台。天のしんは月日なり。人の身上のしんは目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という』と。
 教祖伝逸話篇184「悟り方」。
 明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、『それは結構やなあ』と仰せられた。梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、子供をなくしましたのでと申し上げると、教祖は、ただ一言、『大きい方でのうて、よかったなあ』と仰せられた。
 教祖伝逸話篇198「どんな花でもな」。
 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

【梅谷四郎兵衛評伝】
 「梅谷四郎兵衛先生について」。
 河内國西浦村阪田生れ、大阪で左官職していたが、明治十四年入信し、大阪市内で布教、神戸の増野先生は親戚であり、又清水の父も大阪を通っておぢばへ往復するので特に心易く、始終一緒に本部へ運んだ。親切熱心で真実で固まったような人、一面几帳面で気むつかしい堅いところがあり、学者でも辯者(※註・弁者)でもなかったが、教えの理に深かったことは桝井伊三郎先生と雙壁(※註・双璧)と言われ、しっくり真実咄とお指図にも言われている。本部では元老の一人として、初代真柱様の御信用もあつく何くれとなく機密に参画し、晩年には会計始め京都和歌山等の支庁長もつとめられた。そして五十五六才の時肺を病んで、本席様さへ「もうむつかしい」と仰言る位に迫ったが、その堅い信仰によって不思議なお助けを頂かれ、よく七十三才迠の寿命を保たれた。その創設になる船場大教会は、倫敦(ロンドン)布教の為経済的破綻を来し、その教会も取消されようとする迠立ちいたったが、その手堅い信仰によってよく持ちこたえ今日にいたっている。大正八年五月廿九日七十三才で出直された。(「清水由松傳稿本」127~128ページより)

【梅谷タネ】
 嘉永3年、生れ。上野早蔵、やすの長女。
 明治4年、21歳の時、梅谷四郎兵衛と結婚。明治14年、夫と共に入信。道の上に苦楽を共にする。
 大正7年、出直し(69歳)。
 107「クサはむさいもの」。
 明治15年、梅谷タネが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊であった長女タカ(註、後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせて頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが、一面に出来ていた。教祖は、早速、「どれ、どれ」と、仰せになりながら、その赤ん坊を、みずからの手にお抱き下され、そのクサをごらんになって、「かわいそうに」と、仰せ下され、自分のお坐りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しずつ指でちぎっては唾をつけて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、「オタネさん、クサは、むさいものやなあ」と、仰せられた。タネは、ハッとして、「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあった。それで、教祖に厚く御礼申し上げて、大阪へもどり、2、3日経った朝のこと、ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサが、すっきりと、浮き上がっている。あれ程、ジクジクしていたクサも、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして、見事に御守護頂き、頭の地肌には既に薄皮ができていた。

【梅谷梅次郎】
 明治10年、生まれる。梅谷四郎兵衛、たねの三男。

 明治32年、船場二代会長に就任。以後、教会の普請、海外布教などに尽力。

 大正14年、出直し(享年49歳)。




(私論.私見)