上村吉三郎 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.9.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「上村吉三郎」を見ておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【上村吉三郎(うえむら きちさぶろう】 | |
1838(天保9)年1.28日、大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)で、上村庄三郎、アイの長男として生まれる。 1895(明治28)年11.24日、出直し(享年58歳)。 |
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1838(天保9)年1.28日、大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)で、上村庄三郎、アイの長男として生まれる。 | |
1861(文久元)年、家督を相続。その後、倉橋村出屋舗総代、倉橋村什長、組癌などの村役を歴任し、村の有力者の一人となる。 | |
1867(慶応3)年、田中ヤエと結婚。 | |
1877(明治10)年、長男庄作を儲けるが、妻ヤ工は産後の経過が思わしくなく、翌年出直し。 | |
1879(明治12)年、福井ちよと再婚。 | |
1884(明治17)年旧正月、村で毎年行われていた若者たちの「俵かつぎ」を見て、生来の力自慢を誇り、その力比べに加わったが、約100kgの土嚢を持ち上げようとして、それを自分の足に落とし、そのおたすけを山田伊八郎(心勇組初代講元)に願いご守護頂く。吉三郎は、かねてから天理教への入信を勧められており、自分も助けられたので、天理教に入信しようという気持ちがあった。しかし、剛毅で気性の激しい性格であった吉三郎は、「自分も信仰したいが、講元を私に譲ってくれないか」と伊八郎に申し入れ、伊八郎は思案の後これを受け入れる。(稿本天理教教祖伝では明治16年?、城島分教会(現敷島大教会)初代会長) | |
1885(明治18)年2月、吉三郎は心勇組の2代講元になる。3月、心勇組が心勇講に呼び変えられた。 | |
講元になってからの吉三郎は、持ち前の活動力と統率力を発揮して、講の統一拡大と組織化に取り組み、巧みな人事や講を勇ませるような諸活動を指揮して、教勢は飛躍的に伸展した。同年8月、心勇講分講の第1号ができている。 | |
吉三郎は「てをどり」の練習にも大変熱心に取り組み、これによって多くの人が助けられ、心勇講は別名「おかぐら組」ともいわれた。吉三郎は心勇講講元1年の総決算として教祖に真にお喜びいただきたいとして、十二下りのてをどりを教祖に見て頂くことを決意した。以下、「中山みき研究ノート4-6 最後の御苦労」参照。 | |
1886(明治19)年陰暦正月15日、この日は大和では二の正月と言って神詣でをする風習があった。心勇講(後の敷島大教会)の男は白パッチ(股引き)姿の総勢300人が着物の尻をからげてお屋敷に集まり、教祖が最もお喜び下さるおつとめの十二下りを勤めたいと手踊りの許可を願い出た。これがお道で最初の団体参拝だとも云われている。しかし、警察の厳しい迫害の中だったので、おっとめをすると、教祖(おやさま)や初代真柱の真之亮に迷惑のかかることから許可が出なかった。治まらない2、30名は立ち去りがたく、「豆腐屋」の二階(信者の宿泊所になっていた門前の村田長平宅)に陣取り、「この宿屋でやるのなら、かまうまい」と十二下りのおつとめをした。その時お屋敷から山本利三郎が太鼓を持って行き、拍子を取ったと云われている。おつとめを唱和する声を聞かれた教祖は「あれは心勇講の人たちやなあ。心勇講はいつも熱心や。心勇講は一の筆や」と言われたと伝えられている。しかし、すぐに櫟本分署から6名の巡査が出張って来て、教祖、初代真柱などが引致された。講元の上村吉三郎は逃げることなく、警察に、「これは私の責任です。教祖には関係ありません」と訴え続けたが、警察の狙いは教祖にあった。巡査達はお屋敷に駆け込み、教祖のお居間に飛び込んで行った。この時、教祖と、傍でお取次ぎをしていた仲田、桝井が一緒に捕えられ、真之亮は戸主として同道、おひさは付きそいで教祖と共に櫟本分署に来たと伝えられている。高井直吉の話だと、直吉を初め7人程が一緒に捕えられたという。 櫟本分署はそれまでにあった丹波市分署と帯解分署を合併して、2月1日に出来たばかりだった。建物は、それまでは油絞りの工場であったものを、櫟本の神田三郎兵衛から警察が借り受けていた。櫟本は、江戸時代は東大寺領で、税金が安かったことから、瀬戸内海沿岸の菜種を集め、船と荷車で運んできて油を絞っても採算が取れた。櫟本は商工業が集まった裕福な場所だった。しかし、明治に入ると石油ランプに押されて油の事業は縮小し、設備が空いていた。自由民権運動が壊滅した後でも、平等を説く中山みきに目を光らせていた櫟本分署は、警部補1名巡査16名という大きな規模の分署だった。教祖は人力車におひさと二人で乗り、他の者は腰縄姿で櫟本まで引かれて来た。上村吉三郎は「おまえは関係ない」と言われて、夕方には追い返された。一同はそのまま暗い所に放り込まれ、取調べは夜中に始まった。その時、高井直吉などは、私は教導職ですから天皇家の先祖を神と教えておりますと答え、「そうか、それではおまえは帰ってよろしい」とその夜の内に釈放されたと云う。 |
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夜中から始まった取調べに警察が最初に出して来たのが、教祖の居間から押収した菊の紋(注=『復元』22号、73頁。櫟50)でした。それを突きつけて、「これはなんだ」と問い詰めた。明治初年から敗戦までは、菊の紋を人民が用いてはならないという法律があったから、これで罪を被せようとした。明治20年1月13日のおさしづの前書には、「このやしきに道具雛型の魂生まれてあるとの仰せ、このやしきをさして此世界始まりのぢば故天降り、無い人間無い世界拵え下されたとの仰せ、上も我々も同様の魂との仰せ、右三箇条のお尋ねあれば、我々何と答えて宜しう御座りましょうや、これに差支えます」とある。「右三箇条のお尋ね」とは櫟本分署での取調べのことを言っており、(「警察のお尋ね」とすれば分かりやすいのだが、おさしづが出版された昭和の初めはすでに治安維持法下にあった。警察の尋問にどう答えましょうか、などという出版物は作れないので「警察」という文字を抜いたのです。櫟本分署ではこの三箇条について、どのような問答があったのか)。 まず、「上も我々も同じ魂との仰せ」については、警察は菊の紋を前にして、「これは生神様である天皇家の紋である。人民が用いてはならない」というのに対して教祖は、「天皇陛下も親神の子、私達百姓も親神の子。共に人間であります」と答えている。これは最初の御苦労となった山村御殿における答えと同じである。これに続いて、警察は、「つとめ人衆などと言って天皇陛下の御先祖の神々の御名を用いるとはけしからん」と言って脅す。それに対しては、「天皇陛下が人間なら、その先祖の天照大神、そのまた先祖のくにとこたち、おもたりもまた人間です」と答え、「人間はそれぞれの持ち味を生かして補い合いたすけ合って、皆で陽気づくめの世界を創ることを本性とするものだから、このおつとめでは、つとめ人衆にくにとこたち、おもたりという名前を付けて、それぞれの働きを手振りに表わし、互いたすけ合いを教えているのだ」と 、おつとめの理合いを説かれた。これは三箇条のうちの「このやしきに道具離型の魂生まれてあるとの仰せ」に相当する部分であり、神名に関する問答がその中心であった。天皇も人間なら、その先祖も人間だ、というのが教祖の主張だった。続いて、天皇神話で最も重要な部分である「国生み神話や天孫降臨を嘘というのか」と攻撃して来た。それに対して、教祖は「人間の元初まりは」と語り始め、「泥海の中から小さな生き物を初め出し、その小さな生き物が親から子、子から孫と命を伝えて生き続け、姿の変遷を経て今日まで来た。だから生き物はたすけ合って暮らさなくてはならない」という元初まりの真実を明かされ、これがこの世の始まりだと答えられた。これは三箇条のうち、「此世界始まりのぢば故天降り、無い人間無い世界を拵え下されたとの仰せ」であった。最初の取調べが終わり、翌朝には真之亮が釈放された。教導職だったので帰してもらえたと云われているが、仲田も桝井も教導職であり、真之亮は、天皇を神と説きますと誓って釈放された。高井直吉などは釈放されると、すぐに天皇も人間だと話しているので、いわば偽装転向であるが、真柱中山真之亮は、その後の生涯を神道管長として皇祖神を天理大神と崇め、天皇を生神様と話したり書いたりして、転向者の悩みを味わい続ける。しかし、仲田、桝井の両名は転向を拒んだために檻の中に入れられたと、真之亮は後に書いている。その檻を法務省の図書館へ問い合わせて再現したものが櫟本分署跡にある組牢である。当時は、丹波市分署と帯解分署から一つずつ持って来ていた。取調べは三日間続けられ、どうしても説を曲げないことから、首謀者中山みきは12日間の拘留、弟子達は10日間の拘留と定まった。この間、差し入れに行った辻忠作はそれを次のように書いている。
その後、教祖は取調室から街道に面した部屋に移された。真ん中の部屋に分署長が机を構えて、靴のまま上がり、巡査達は次の間に控えていた。受付巡査の机は入り口の近くにあったといわれている。冬のことなので素焼きの火鉢を和紙で補強した「ボテボテ」と呼ばれるものを、自分の机の下に入れて各自が暖をとっていた。窓は雨戸一枚で、開ければ風が吹きさらしだった。その部屋では、教祖には薄べり一枚しか与えられていなかった。しかし、おひさが機転をきかして座布団を二枚抱えて入っていた。教祖はその座蒲団を敷き、終日、西向きに端座されていた。警察ではさらし者にするつもりだったが、教祖はむしろ心配で寄り来る信徒達にお顔をお向けになっておられた。おひさは若い身空なので、街道に背を向け、真綿を背負って寒さをしのいでいたという。そういう状況の中でも、教祖は自分を取り調べた巡査にまで「おひさや、お菓子を買うてあげなさい」と言われたり、受付巡査のブリキ(当時は鉄をブリキと言っていた)のランプが夜が明けてもついているのを見て、ふと立って消されたという話が伝えられている。このような一見のどかな様子も数日で変わった。教祖はここに来られてから、一度も食事をしていなかった。明治17年の奈良監獄署に御苦労されたときには差し入れのものをお食べになっていた。奈良監獄署の記録では87歳の教祖の歯は1本であったと記されている。櫟本分署に捕えられたときは89歳で、歯は1本か何もなくなっていたかのどちらかである。年寄りで歯のない教祖に、警察は差し入れ禁止という処置をとった。19年頃は、日清戦争のために軍国主義が大いに宣伝されていた。その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、国の方針に仇なす重罪人と見なされた。警察で支給するのは若者向きの弁当である。三日間も苛酷な取調べを受け、寒い所に放置されているので、体は弱っていた。まして歯のない教祖。柔らかい食べ物の差し入れを禁止されたからといって、弁当の固いご飯を飲み込んだら命にかかわった。何とかして教祖に食べ物をと、おひさは自分宛てにお屋敷から柔らかいものを差し入れてもらって、教祖の弁当とすりかえようとした。しかし、監視の目は厳しく、それは取り上げられてしまった。「せめて、ハッタイ粉なりと」と思うのですが、それさえも教祖のお口には届けることができなかった。教祖は梶本の家から運ばれる鉄瓶の白湯を口にするだけの完全な断食になった。警察は教祖が赤衣を着ているから人が寄るとして、別の着物に換えるように要求した。お屋敷では大急ぎで綿のたっぷり入った黒紋付の着物と羽織を仕立て、教祖を少しでも寒さからお守りしたいという願いを込めて差し入れた。夜になると、畳も布団も毛布もないので、板の間に座蒲団を二枚並べ、教祖の下駄におひさの帯を巻いて枕にした。そして、差し入れてもらった黒紋付きのまま、教祖は座蒲団の上に横になり、その上に綿入れの羽織りを脱いでは、それを掛け布団のようにかけてお休み頂いた。しかし、これとて、真冬の寒さをしのぐにはあまりにも甲斐のないものだった。おひさは着物の袖で教祖のお顔を被うようにして、自分の体の温もりで教祖を寒さから守った。それでも、日に日に教祖は衰弱して行った。自分がもしも眠りこけてしまったら、大変なことになるというので、「私はこの間、夜は12日間一睡もしなかった」 とおひさは39年も経って弾圧がゆるくなってから話している。この年は30年来の寒波で、拘留の間に二度も雪が降ったと伝えられている。その中で10日が過ぎて弟子二人が釈放されたが、この時すでに仲田儀三郎は担がれて帰ったといわれている。その後、雪が五寸も積もっているという夜中に、教祖は「一節一節芽が出る…」とつぶやくようにいわれた。これを聞いた巡査は、いくら弾圧しても屈しないぞという不敵な言葉と受け取り、「婆さん、だまれ!」と怒鳴りつけた。おひさは慌てて、「おばん、おばん」と止めた。祖母なので「おばん」と呼んでいた。そのとき教祖は、「ここにおばんはおらん、神様が言うてはんのや」と厳しい言葉を下さった。これは巡査より怖かったとおひさは後に語っている。しかし、巡査はこの声を聞いて、余計にいきり立ち、10日以上も断食を強いられている89歳の教祖を、庭の向こうの井戸端に引き据えた。しかも雪の上である。「頭を冷やしてやる」とばかり、水をかけようとした。おひさは巡査にとりすがって、水はかけさせなかったと語っている。その当時、清水与之助は神田家に頼み込んで従業員になりすまし、分署に続く蔵の陰から中の様子をうかがっていたという。神田家の番頭達も中の状況を伝えている。それによるとある人は頭から水をかけたと言い、またある人は綿入れの衿上を開けて、ひしゃくで背中に水を流し込んだと伝えている。かけた、かけないは問題ではない。警察は世界一列兄弟、平らな世の中などと説く者は生かしておくこともならぬという態度であったとみなすべきである。これで一時に教祖は衰弱の度を加えられた。 |
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3月1日(陰暦正月26日)、教祖ご自身の釈放された。大勢の人達が教祖をお迎えに櫟本分署の前に押しかけた。「釈放」の声と共に、一番に飛び込んだのは富森竹松という布教師だった。この人は地元の呉服屋の息子で、子供の頃から教祖と接しており、後に泉田藤吉達と布教に歩いている。飛び込んでみると、事もあろうに教祖は、昼間だというのに押入れに寝ておられた。おひさが風を避けるために押入れに移して、その上に被いかぶさるようにしていた。もちろん、立てなかった。その教祖を竹松は抱え上げるようにして背中に背負い、人力車に運んだ。しかし、このご身上ではとうていお屋敷までは無理だというので、200メートルほど北にある梶本の家でお休み頂こうとしたが、巡査が「他所へ行ってはならぬ。我々がついて行く」とそれを許さなかった。竹松は教祖の乗った人力車の背中を抱えるようにして泣く泣くお屋敷までお供した。竹松は後に和爾分教会の初代会長となったが、櫟本分署でのことが忘れられず、70を越えた年になっても、分署跡に来ては、いつも、「教祖のご苦労は孫と日なたぼっこをしているような生やさしいものではない。命にかかわる迫害の中でも、難渋だすけやむにやまれんとおっしゃったのだ」と、涙ながらに語っていたという。ようやくの思いで弱り切った教祖をお屋敷にお迎えしたが、それにもかかわらず、この日に力強いお仕込みを下さっている。 それを梅谷四郎兵衛は次のように伝えている。(「道友社・主婦の友社編 『おやさま』51.59頁 主婦の友社 1985年刊。『復元』37号、333頁。 櫟63」)
お話はもっと長かったと思われるが、その意味するところは如何。「こうして外に出てひながたを示すのは本当の善悪を教えるためなのだ。 世界の人は99人までが上に仕えろ、強い者につけと言い、これを忠義だ、孝行だ、善だと教えている。けれども難渋の人をたすけて平らな世の中に立て替えるのが本当の善なのだ。今は厳しくとも将来は必ず明るくなる。それがもう見えてある」と解するのは温和過ぎよう。こうお仕込みをして下さった教祖も、お屋敷にお帰りになったら床についたまま面会謝絶となった。 |
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仲田儀三郎は担がれて釈放され、そのまま寝ついて新暦6月22日に亡くなっている。取調べの厳しさをうかがわせる。 | |
吉三郎は自らの軽率を反省し、教祖のご苦労に報いる思案をし、結局てをどりを熱心につとめ、人だすけをすること以外ないと決心し、信仰的な生気を取り戻していった。1887(明治20)年、教祖が現身を隠された。その後も、道路拡幅ひのきしんに総動員をかけたりしながら、人々の役に立ちたいとますます活発な活動を展開した。早くから三重、和歌山方面へ、さらには北海道へと布教師を送り、物心両面から布教の支援を続け、部内教会設置に対する丹精は人並みではなかった。 | |
1990(明治23)年3.17日、「おさしづ」で城島分教会設置を許され、城島分教会初代会長となる。その後、所有していた山林を売却して神殿普請に取り掛かりる。 | |
1991(明治24)年10.7日、「おさしづ」によって、10.9日鎮座祭、10日開廷式を執行した。 | |
1992(明治25)年11月、大講義に昇級した。これ以前の「おさづけの理」拝戴などの経緯は不明。 | |
1995(明治28)年、海外布教をも志したが、春頃から背中に激痛を感じ、身動きできなくなることがしばしばあり、たびたび「おさしづ」を伺う。 | |
1895(明治28)年11.24日、出直し(享年58歳)。 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇 | |
2022年4.9日、「教祖殿前の梅の木はどこからきたのか?」
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(私論.私見)