上田民蔵

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【上田民蔵(うえだ たみぞう)】
 文久元年、上田平治、いその長男として生れる。 
 昭和11年、出直し(享年76歳)。
 文久元年、上田平治、いその長男として生れる。
 元治元年頃から信仰していた両親の信仰を受け継ぎ、日の元講(旭日の前身)の布教師として働く。
 明治28年、旭日が設立され、理事となる。
 後にお屋敷へ引き寄せられ、本席の側でお仕えした。
 昭和11年、出直し(享年76歳)。
 61「廊下の下を」。

【上田民蔵逸話】
 61「廊下の下を」。
 明治11年、上田民蔵18才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、「民蔵さん、私とおまはんと、どちらの力強いか、力比べしよう」と、仰せになり、教祖は、北の上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖は、ビクともなさらない。民蔵は、そのお力の強いのに、全く驚歎した。又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、「民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで」と、お言葉を下された。民蔵は、「わしは百姓をしているし、子供もあるし、そんな事出来そうにもない」 と思うたが、その後子供の身上から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、「民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」と、仰せられた。後年、お言葉が、次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入った、という。

【上田民蔵評伝】
 「上田民蔵先生について 」参照。
 先生は上田平治さんのひとり子で、文久元年旧一月三日生れである。中肉中背少し痩せ型でかっちりした身体つきであった。至って親孝心で品行方正、親切な優しい律儀な性質で、酒も煙草も好きなほうであった。
 お道の上には母に似てとても熱心で、明治廿六年三十一才の時神道天理教会織田布教事務取扱所長となり、同廿八年旭日支教会の設立については理事としてつとめ、又磯城出張所新設の時所長となり、その后間もなく本部青年となってつとめさしてもらい、同三十年本席邸詰となり、同三十四年六月十四日のおさしづに
『--前略ーーさあ/\だん/\一代をつくしきり、教祖ぞんめい日々つとめ、やう/\かくれ、それから一つ代かはりてなほもすすんでくる、これ一つの理はやくとりたててやってくれ/\、たれかとおもへば名民蔵/\、親二人はやくくれてしもた、さあ/\大西/\/\おやからつくし、二代目かへってつくす理/\、早く理/\/\、又々とうぶん一つ順序/\みな役といふてしてゐる、一時はやく/\』。
 準員に願う事に運ばしてもらひますと願い『さあ/\一寸の見習からはじめかけ/\ーー略ーー』とあって、準員の見習となり教祖様二十年祭前の明治三十九年二月六日のおさしづに、『--前略ーーさあ/\もう一ことある/\、さあ一寸一ことといふは日々/\年祭つとめてをる/\とうばん/\といふ、みならゑ/\とゆるしてある、けふからかたをならべて本部員といふ/\、はこんでやってくれ/\』。上田民蔵の事でありますか。『さあ/\上田/\/\』と涙の出るようなおさしづがあって、四十五才の時に本部員の理を頂かれた。尚又かんろ台のおさづけ(ちよとはなし一回あしきをはろうてたすけせきこむ一れつすましてかんろ台を三度三度三度のおさづけ)を頂き、昭和十一年十二月三十一日七十六才で出直しされた。

 夫人のおなかさんは、織田村巽淸兵衛さんの長女で萬延元年生れ、民蔵先生より一つ年上である。小柄で勝気なしっかりした人であった。十人近い子供を生み、明治廿八年十月十一日の「上田民蔵本部へ引寄せる願」のおさしづに『さあ/\みなこれ一つ/\、心にかかるだけは理がかさなりてあるから心にかかろ、これ一つ十分ゆるしおく』とあって、大西村の家を皆片づけ売払って、おぢばへつくし、本部の借家へ入れて頂いて、昭和二十一年一月二日八十七才迄長命して、教祖殿にずっとつとめられた。
 「清水由松傳稿本」98~101ページより





(私論.私見)