先生は上田平治さんのひとり子で、文久元年旧一月三日生れである。中肉中背少し痩せ型でかっちりした身体つきであった。至って親孝心で品行方正、親切な優しい律儀な性質で、酒も煙草も好きなほうであった。
お道の上には母に似てとても熱心で、明治廿六年三十一才の時神道天理教会織田布教事務取扱所長となり、同廿八年旭日支教会の設立については理事としてつとめ、又磯城出張所新設の時所長となり、その后間もなく本部青年となってつとめさしてもらい、同三十年本席邸詰となり、同三十四年六月十四日のおさしづに
『--前略ーーさあ/\だん/\一代をつくしきり、教祖ぞんめい日々つとめ、やう/\かくれ、それから一つ代かはりてなほもすすんでくる、これ一つの理はやくとりたててやってくれ/\、たれかとおもへば名民蔵/\、親二人はやくくれてしもた、さあ/\大西/\/\おやからつくし、二代目かへってつくす理/\、早く理/\/\、又々とうぶん一つ順序/\みな役といふてしてゐる、一時はやく/\』。
準員に願う事に運ばしてもらひますと願い『さあ/\一寸の見習からはじめかけ/\ーー略ーー』とあって、準員の見習となり教祖様二十年祭前の明治三十九年二月六日のおさしづに、『--前略ーーさあ/\もう一ことある/\、さあ一寸一ことといふは日々/\年祭つとめてをる/\とうばん/\といふ、みならゑ/\とゆるしてある、けふからかたをならべて本部員といふ/\、はこんでやってくれ/\』。上田民蔵の事でありますか。『さあ/\上田/\/\』と涙の出るようなおさしづがあって、四十五才の時に本部員の理を頂かれた。尚又かんろ台のおさづけ(ちよとはなし一回あしきをはろうてたすけせきこむ一れつすましてかんろ台を三度三度三度のおさづけ)を頂き、昭和十一年十二月三十一日七十六才で出直しされた。
夫人のおなかさんは、織田村巽淸兵衛さんの長女で萬延元年生れ、民蔵先生より一つ年上である。小柄で勝気なしっかりした人であった。十人近い子供を生み、明治廿八年十月十一日の「上田民蔵本部へ引寄せる願」のおさしづに『さあ/\みなこれ一つ/\、心にかかるだけは理がかさなりてあるから心にかかろ、これ一つ十分ゆるしおく』とあって、大西村の家を皆片づけ売払って、おぢばへつくし、本部の借家へ入れて頂いて、昭和二十一年一月二日八十七才迄長命して、教祖殿にずっとつとめられた。
「清水由松傳稿本」98~101ページより
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