上田平治、上田いそ

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「上田平治、上田いそ」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【上田平治(うえだ へいじ)履歴】
 1831(天保2)年、大和国式上郡大西村(現・奈良県桜井市大西)生まれ。
 1894(明治27).4.18日、出直し(享年64歳)。
 1831(天保2)年、大和国式上郡大西村(現・奈良県桜井市大西)生まれ。
 1864(元治元)年、義姉山中そののたすかりから入信。
 1894(明治27).4.18日、出直し(享年64歳)。

【上田いそ(うえだ いそ)履歴】
 1836(天保7)年、大和国山辺郡新泉村(現・奈良県天理市新泉町)生まれ。山澤良治郎の妹。姉のそのは山中忠七に嫁いだ。
 1894(明治27)年6.19日、出直し(享年59歳)。息子・民蔵は後に本部員となる。
 1864(元治元)年、兄山澤良治郎よりにをいがかかり入信。子供の民蔵を連れて、よくお屋敷へ帰り、教祖の側で仕えた。
 1887(明治20)年陰暦正月26日には、女性で唯一「かぐらづとめ」の手振りを勤めた。
 1894(明治27)年6.19日、出直し(享年59歳)。息子・民蔵は後に本部員となる。

【上田平治評伝】
 「上田平治先生について 」参照(「清水由松傳稿本」97~98ページより )。
 私の実父清治郎の妹いその婿で磯城郡織田村大西の出身である。いその姉婿山中忠七先生のところへ何かというと遊びに行っている中に、同先生から匂がかかって入信したのが、矢張元治元年一月のことである。もともと田地八反位の小百姓で一人子に民蔵さんが生れたが一生懸命夫婦共稼ぎで産を為し、家宅も新築し田地も二町歩までにふやした。とても実直なおとなしい、山澤為造先生と良く似た型の正直実直な人であった。中肉中背のきしや(きゃしゃ?)な身体つきで、煙草はあまりすわず、酒は好きなほうであった。いそさんは私の実父の兄妹中では一番のきりょう良しであった。よく肉のしまった中肉中背の女で、心根はしっかりしていて、そのくせあっさりした性分であった。平治さんの方は詣り信心であったが、いそさんはなかなかやり手で、お屋敷でもつきあいが多く、教祖様のお側近くにも仕えさしてもらい、何をさしても出来ない事が一つもないという風で重宝がられた。又村でも裁縫の先生をしてお針子をとっていたぐらいであった。

 明治十九年秋大和地方にコレラが流行した頃、教祖様お身上であった時も、丁度籾を門屋に乾かしてあったところへ、十五才であった私が早く庄屋敷へ帰ってくるよう、おいそさんを呼びに行ったことを覚えている。教祖様は間もなくおなくなりになったが御存命中は、何くれとなくお身の廻りや御給仕などさしてもらっていた。それから同年十一月頃から教祖様のお身上すぐれず、本席様に神がかりがあり、遂に翌廿年旧正月廿六日御昇天なる迄お側につききりでお世話申上たが、御臨終の折はかぐらづとめの人衆に加えられていた為、とうとうあわれなかった。このことはお指図に詳細に出ている。その后は教祖様のお守所につとめ、明治廿七年六月十九日五十九才で出直された。

 一方夫の平治さんは生涯詣り信心に終始し、月々の御命日には欠かさずお詣りはしていたが、生涯おやしきでつとめさしてもらうことなく明治廿七年四月十八日享六十四才で出直してしまった。





(私論.私見)