辻忠作

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「辻忠作」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【辻忠作(つじ ちゅうさく)(忠右衛門より改名)】
 1836(天保7)年1.27日、大和国山辺郡豊田村(現・奈良県天理市豊田町)生まれ。 
 1905(明治38)年7.12日、出直し(享年70歳)。
 1836(天保7)年1.27日、大和国山辺郡豊田村(現・奈良県天理市豊田町)生まれ。
 23歳で家督を継ぎ、三代目忠作を名乗る。父の二代目忠作は、梶本惣治郎とおはるの仲人を務めている。
 1863(文久3)年、妹くらと長男・由松の病を助けられ入信。
 天理教初期からの教祖の高弟。明治6、7年頃から教祖のお供をして信仰に励む。
 明治19年春からはお屋敷に詰めて教えを取り次ぐ。凶御幣・肥・てをどりのさづけ。
 1905(明治38)年7.12日、出直し(享年70歳)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇6「心を見て」、9「ふた親の心次第に」、57「男の子は、父親付きで」、62「これより東」、65「用に使うとて」、166「身上にしるしを」、191「よう、はるばる」。
 辻こよは三代目忠作の姉。教祖が裁縫を教えられたお針子の1人。その関係で教祖三女おはるが梶本家に嫁した。
 辻くらは三代目忠作の妹。くらの気の病のたすけを願って、辻家は入信。
 辻とめぎくは明治3(1870)年、現天理市豊田町生まれ。三代目忠作の娘。教祖から女鳴物の琴を習う。同43年、41歳で出直し。
 辻ますは三代目忠作の妻、明治17年(1884)出直し。

【辻忠作逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇6「心を見て」。
 嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ、話が進み、辻忠作を仲人として、縁談を申し込んだ。教祖は、「惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを見て、やる」と、仰せられ、この縁談は、目出度く調うた。おきみは、結婚して、おはると改名した。惣治郎は、幼少の頃から気立てがよく素直なため、村でも仏惣治郎と言われていた、という。
 稿本天理教教祖伝逸話篇9「 ふた親の心次第に」。
 文久三年七月の中頃、辻忠作の長男由松は、当年四才であったが、顔が青くなり、もう難しいという程になったので、忠作の母おりうが背負うて参拝したところ、教祖は、「親と代わりて来い」と、仰せられた。それで、妻ますが、背負うて参拝したところ、「ふた親の心次第に救けてやろう」と、お諭し頂き、四、五日程で、すっきりお救け頂いた。
 稿本天理教教祖伝逸話篇57「 男の子は、父親付きで」。
 明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。

 その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っていたぐらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい。」 とまで言ったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のなかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしく御守護を頂けない。

 明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、「『男の子は、父親付きで』 と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ」 と、言ってくれた。それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ。」と、言った。それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。

 稿本天理教教祖伝逸話篇62「これより東」。
 明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。

 こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。

 稿本天理教教祖伝逸話篇65「用に使うとて」。
 明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、「守りが要る、守りが要る」と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう。」という事になった。そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて、教祖のところへお伺いに行った。秀司から、事の由を申し上げると、教祖は、直ぐに、「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあ/\楽しめ、楽しめ。どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあ/\早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ」と、お言葉を下された。かくて、りんは、その夜から、明治二十年、教祖が御身をかくされるまで、お側近く、お守役を勤めさせて頂いたのである。
 稿本天理教教祖伝逸話篇166「身上にしるしを」。
 明治十八年十月、苣原村(註、おぢばから東へ約一里)の谷岡宇治郎の娘ならむめ(註、当時八才)は、栗を取りに行って、木から飛び降りたところ、足を挫いた。それがキッカケとなってリュウマチとなり、疼き通して三日三晩泣き続けた。医者の手当てもし、近所で拝み祈祷もしてもらったが、どうしても治らず、痛みは激しくなる一方であった。その時、同村の松浦おみつから、にをいがかかり、「お燈明を種油で小皿に上げて、おぢばの方に向かって、『何卒このお光のしめります(註、消える)までに、痛みを止めて下され。』と、お願いするように」と教えられた。早速、教えられた通り、お燈明を上げて、「救けて頂いたら、孫子に伝えて信心させて頂きます。」と、堅く心に誓い、一心にお願いすると、それまで泣き叫んで手に負えなかった手足の疼きは、忽ちにして御守護頂いた。余りの嬉しさに、お礼詣りということになって、宇治郎が娘のならむめを背負って、初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。辻忠作の取次ぎで、宇治郎は、教祖に直き直きお目にかかって、救けて頂いたお礼を申し上げた。

 それから間もなく、今度は宇治郎が胸を患ってやせ細り、見るも哀れな姿となった。それで、お屋敷に帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたら、「身上にしるしをつけて引き寄せた」とのお言葉で、早速着物を着替えて来るようにとの事であった。翌日、服装を改めて参拝させて頂いたところ、結構にさづけの理を頂いた。そして、さすがに不治とまで言われた胸の患いも、間もなく御守護頂いた。感激した宇治郎は、その後、山里の家々をあちこちとおたすけに歩かせて頂き、やがて、教祖の御在世当時から、苣原村を引き揚げてお屋敷に寄せて頂き、大裏で御用を勤めさせて頂くようになった。

 稿本天理教教祖伝逸話篇191「よう、はるばる」。
 但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に十七才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で、激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、「よう、はるばる帰って下された」と、勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだのである。

【辻由松(つじよしまつ)】
 万延元年、辻忠作とますの長男として生れる。文久3年、4歳の時、教祖に身上を助けられる。大正7年、本部員に登用される。昭和6年、出直し(享年72歳)。

【辻とめぎく(つじ とめぎく)】
 明治3年、辻忠作とますの三女として生れる。明治10年、教祖に琴を教えられ、以後おつとめに出る。明治43年、出直し(享年41歳)。




(私論.私見)