【土佐卯之助逸話】 |
教祖伝逸話篇88「危ないところを」、99「大阪で婚礼が」、149「卯の刻を合図に」、150「柿」、152「倍の力」、175「十七人の子供」。 |
教祖伝逸話篇88「危ないところを」。
明治十四年晩秋のこと。土佐卯之助は、北海道奥尻島での海難を救けて頂いたお礼に、船が大阪の港に錨を下ろしたその日、おぢばへ帰って来た。そして、かんろだいの前に参拝して、親神様にお礼申し上げると共に、今後の決心をお誓いした。嬉しさの余り、お屋敷で先輩の人々に、その時の様子を詳しく話していると、その話に耳を傾けていたある先輩が、話をさえ切って、おい、それは何月何日の何時頃のことではないか。と言った。日を数えてみると、全く遭難の当日を言いあてられたのであった。その先輩の話によると、「その日、教祖は、お居間の北向きの障子を開けられ、おつとめの扇を開いてお立ちになり、北の方に向かって、しばらく、『オーイ、オーイ』と、誰かをお招きになっていた。それで、不思議なこともあるものだ、と思っていたが、今の話を聞くと、成る程と合点が行った」とのことである。これを聞いて、土佐は、深く感激し、たまらなくなって、教祖の御前に参上して、「ない命をお救け下さいまして、有難うございました」と、畳に額をすり付けて、お礼申し上げた。その声は、打ちふるえ、目は涙にかすんで、教祖のお顔もよくは拝めないくらいであった。その時、教祖は、「危ないところを、連れて帰ったで」と、やさしい声でねぎらいのお言葉を下された。この時、土佐は、長年の船乗り稼業と手を切って、いよいよ助け一条に進ませて頂こうと、心を定めたのである。 |
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教祖伝逸話篇99「大阪で婚礼が」。
明治十五年三月のある日、土佐卯之助は、たすけ一条の信仰に対する養父母の猛烈な反対に苦しみ抜いた揚句、親神様のお鎮まり下さるお社を背負うて、他に何一つ持たず、妻にも知らせず、忽然として、撫養の地から姿を消し、大阪の三軒屋で布教をはじめた。家に残して来た妻まさのことを思い出すと、堪らない寂しさを感じることもあったが、おぢばに近くなったのが嬉しく、おぢばへ帰って教祖にお目にかかるのを、何よりの楽しみにしていた。教祖のお膝許に少しでも長く置いて頂くことが、この上もない喜びであったので、思わずも滞在を続けて、その日も暖かい春の日射しを背に受けて、お屋敷で草引きをしていた。すると、いつの間にか教祖が背後にお立ちになって、ニッコリほほえみながら、「早よう大阪へおかえり。大阪では、婚礼があるから」と、仰せられた。土佐は、「はい」とお受けしたが、一向に思い当る人はない。謎のような教祖のお言葉を、頭の中で繰り返しながら大阪の下宿へかえった。すると、新しい女下駄が一足脱いである。妻のまさが来ていたのである。まさは、夫の胸に狂気のようにすがり付き、何も言わずに顔を埋めて泣き入るのであった。やがて、顔をあげたまさは、「私と、もう一度撫養へかえって下さい。お道のために、どんな苦労でもいといません。今までは、私が余りに弱すぎました。今は覚悟が出来ております。両親へは私からよく頼んで、必ずあなたが信心出来るよう、道を開きます」と、泣いて頼んだ。今、国へかえればどうなるか、よく分かっていたので、「情に流れてはならぬ」と、土佐は、一言も返事をしなかった。その時、土佐の脳裡にひらめいたのは、おぢばで聞いた教祖のお言葉である。土佐家への復縁などは、思うてもみなかったが、よく考えてみると、大阪で嫁をもらう花婿とは、この自分であったかと、初めて教祖のお言葉の真意を悟らせて頂くことができた。「自分が、国を出て反対攻撃を避けようとした考え方は、根本から間違っていた。もう一度、国へかえって、死ぬ程の苦労も喜んでさせてもらおう。誠真実を尽し切って、それで倒れても本望である」と、ようやく決心が定まった。 |
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教祖伝逸話篇149「卯の刻を合図に」。
明治十七年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたたいて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、「阿波の土佐はん居らぬか。居るなら早よう出て来い」と。それは山本利三郎であった。出て行くと、「土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻(午前六時頃)を合図に、なんと、月日のやしろにかかっているものを、全部残らずおまえにお下げ下さる、と言うておられるのや。おまえは日本一の仕合わせ者やなあ」と言うて、お屋敷目指して歩き出した。後を追うて歩いて行く卯之助は、夢ではなかろうかと、胸を躍らせながらついて行った。やがて、山本について、教祖のお部屋の次の間に入って行くと、そこには、真新しい真紅の着物、羽織は言うまでもなく、襦袢から足袋まで、教祖が、昨夜まで身につけておられたお召物一切取り揃えて、丁寧に折りたたんで、畳の上に重ねられていた。卯之助は、呆然となり、夢に夢見る心地で、ただ自分の目を疑うように坐っていた。すると、先輩の人々が、「何をグズグズしている。神様からおまえに下さるのや」と注意してくれたので、初めて、上段の襖近くに平伏した。涙はとめどもなく頬をつたうが、上段からは何んのお声もない。ただ静かに時が経った。卯之助は、「私如き者に、それは余りに勿体のうございます」と辞退したが、お側の人々の親切なすすめに、「では、お肌についたお襦袢だけを、頂戴さして頂きます」と、ようやく返事して、その赤衣のお襦袢だけを、胸に抱いて、飛ぶように宿へ持ってかえり、嬉し泣きに声をあげて泣いた、という。 |
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教祖伝逸話篇150「柿」。
明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十七日におぢばへ到着した。一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、「一寸お待ち」と、土佐をお呼び止めになった。そして、「おひさ、柿持っておいで」と、孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな篭に、赤々と熟した柿を、沢山運んで来た。すると、教祖は、その一つを取ってみずから、皮をおむきになり、二つに割って、「さあ、お上がり」と、その半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいしそうに召し上がられた。やがて、土佐も頂いた柿を食べはじめた。教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早く、次の柿をおむきになって、「さあ、もう一つお上がり。私も頂くで」と、仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を、御自分がお召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、「遠慮なくお上がり」と、仰せ下されたが、土佐は、「私は、もう十分に頂きました。宿では、信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやります」と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして、重たい程の柿を頂戴したのであった。 |
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教祖伝逸話篇152「倍の力」。
明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばへ帰っても、教祖にお目にかからせて頂ける者は稀であった。そこへ土佐卯之助は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から詣りました」と申し上げると、教祖は、「遠方はるばる帰って来てくれた」と、おねぎらい下された。続いて、「土佐はん、こうして遠方はるばる帰って来ても、真実の神の力というものを、よく心に治めて置かんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん」と、仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、御自分の親指と人差指との間に挾んで、「さあ、これを引いてごらん」と、差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、 「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで」と、仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を入れて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であったが、どうしても、その手拭が取れない。遂に、「恐れ入りました。」と、頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん」と、仰せになるので、「では、御免下さい」と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、「さあ、もっと強く、もっと強く」と、仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、土佐は、遂に兜を脱いで、「恐れ入りました」と、お手を放して平伏した。すると、教祖は、「これが、神の、倍の力やで」と、仰せになって、ニッコリなされた。 |
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教祖伝逸話篇175「十七人の子供」。
明治十八年のこと。ある日、教祖は、お側の人達に、「明日は、阿波から十七人の子供が帰って来る」と、嬉しそうに仰せになった。が、その翌日も又翌日も、十七人はおろか、一人も帰ってこない。そのうちに、人々は待ちくたびれて、教祖のお言葉を忘れてしまった。しかし、それから十数日経って、阿波から十七人の者が帰って来た。人数は、教祖のお言葉通り、ちょうど十七人であったので、お側の人々は驚いた。話を聞いてみると、ちょうどお言葉のあった日に出帆したのであったが、悪天候に悩まされて難航を重ね、十数日も遅れたのであった。土佐卯之助たち一行は、教祖のお言葉を承って、今更のように、驚き且つ感激した。そして、教祖にお目通りすると、教祖は、大層お喜び下されて、「今は、阿波国と言えば遠いようやが、帰ろうと思えば一夜の間にも、寝ていて帰れるようになる」と、お言葉を下された。 |
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