高井猶吉(直吉)先生について

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「高井猶吉」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【高井猶吉(たかい なおきち)履歴】
 「高井猶吉(直吉)について」、高井猶久編「高井家資料」(1991年)その他参照。
 1861(文久元)年1.19日、河内国志紀郡南老原村(現・大阪府八尾市老原)生まれ。
 1941(昭和16)年11.21日、出直し(享年81歳)。

 1861(文久元)年1.19日、河内国志紀郡南老原村(現・大阪府八尾市老原)、農業高井猶右衛門とみのの長男として生まれた。
 2歳の時の大けがで足が不自由となり、祖母は猶吉に家代々の農業を継がせず、13歳の時、桶屋に奉公に出した。
 1874(明治7)年頃、姉のおなおの産後の肥立ちが悪く元に戻らず困っていた。その頃河内から大和地方へ塩魚の行商に往来していた人から大和庄屋敷村の神様の噂を聞いた。早速大和の方に向かい御供えしてお願いしたところ、2、3日のうちに御守護を頂き、おなおの婿養子と初参拝。家族一同信心するようになった。
 1879(明治12)年、猶吉19歳の年、悪性の感冒風邪「ぜいき」がはやり、村人の中から14、15人死亡者を出した。猶吉もその感冒に罹った。この時家族も懸命に神様にすがり、河内から大和を遥拝し祈願した。すると間もなく御守護を頂くことができた。まだ見ぬ大和の神様のもとへ御礼詣りに行った。
 その後1年の半分は老原で桶職で稼ぎ、あと半分はおやしきへ参拝し、おやしきの御用を勤めた。
 明治13年、猶吉20歳の時、断然桶屋をやめ、お屋敷に住み込む。宮森与三郎と共におやしき住み込み青年第1号となった。
 教祖から直接お仕込みを受けて、匂い掛け、お助けに励んだ。当時おやしきは官憲の厳しい迫害干渉の中にあった。また経済的不如意の時代でもあった。秀司は信者が警察の監視の中でも参拝できるよう便法として、明治9年頃から蒸風呂兼宿屋業を経営していた。猶吉は宮森与三郎(当時は岡田与之助)とともに、毎日の泊り客(即ち信者)の食事などを手伝い、夜は宿泊人の止宿届けを丹波市警察署へ届けに行った。1日の仕事が片づくと教祖(おやさま)の御前に行って、1日の出来事を報告し、教祖のお話を聞かして頂いた。猶書は素直、正直、無口、誠実によく働いた。おぢばでは道の先輩から深く教理を学んだ。
 明治16年3月、教祖の命を受けて猶吉は宮森与三郎、井筒梅治郎、橘善吉らと静岡県山名郡広岡村の諸井国三郎(後の山名大教会初代会長)の天輪講(後に遠江真明講と改称)を訪ねた。道の理を伝え、「てをどり」の稽古をつけた。
 またこの年、既に明治8年頃から庄屋敷村、三島村で信仰していた人達が、天元(てんげん)講を結び、16年安達秀治郎を講元に選んだ。猶吉は庄屋敷村の北田嘉市郎宅に寄寓しておやしきへ運んでいたので、傍ら天元講の世話取りに当たり、講勤めの後、神様の話を取り次いだ。
 同じ明治16年の5月、中之庄村(現、天理市中之庄町)の沖田源太郎の娘ふじ(当時13歳)が重病を患い、源太郎の妻は庄屋敷村の城(じょう)の家の出であるところから、城家より教祖におたすけを願いに来た。教祖は猶吉を中之庄へ遣わし、猶吉のおたすけによって娘は助かった。中之庄村の人々もたすけをうけ講社ができた。この年天元(あまもと)組<読み方が異なる>が結成され、翌明治17年森川重太郎が講元となった。
 明治17年3.2日、猶吉は教祖より「息のさづけ」と「赤衣のお下げ」を頂いた。この日の前夜、猶吉は夢を見た。翌日教祖に夢の様子を申し上げると、「まだ早いと思うたけど、先に渡しておく。結構な徳を頂くのやで」と仰せになって、息のさづけをお渡しになった。また、お召しになっていた赤衣を脱いで山澤ひさの手を経て、その赤衣をお渡しになった。その時、「おたすけに行く時は、この赤衣を身につけて行くのやで。お前はまだ若い。赤いものを着て歩くのは恥ずかしかろうから、懐に入れて持って行き、おさづけを取り次ぐ時に着て、取り次ぐように。その時は月日の名代やで」と仰せになった。こうして猶書は、教祖からじかに仕込みを受け、後々教祖の話をそのまま伝えた。「教祖から聞かせて頂いた話を、わしは何回でも同じ話をする。自分の考えや、勝手な言い廻しは一言も入っていない」と語っている。
 明治20年のおつとめで、かぐら・てをどりをつとめる。泉支教会(現大教会)3代会長。本部員。
 明治21年、猶吉28歳の年、神道天理教会が公認され、7月おぢばに天理教会本部が開設された。猫舌は教会本部庶務掛、明治25年派出掛拝命。
 明治25年、天元組は奈良支教会所となった。
 明治31年、泉支教会所3代会長、34年には堺支教会所事務取扱、40年には高知県所在教会組合長、愛媛県・三重県などの組合長を歴任。
 明治41年12月。天理教会本部役員、43年高知兼徳島教務支庁長、大正8年には京都・滋賀・福井・石川・富山の各教務支庁長を拝命。かずかずの重責を果たした。晩年数少い息のさづけ拝戴者の一人として、お息の紙を作るうえに老躯を鞭打ちつとめきった。
 1941(昭和16)年、出直し(享年81歳)。出直しの前日まで増井りんと共に、和紙に一日に4,000枚ほど息をかけた。11月21日人々に惜しまれながら出直した。

【高井猶吉逸話】
 教祖伝逸話篇119「遠方から子供が」、130「小さな埃は」、131「神の方には」、151「をびや許し」、173「皆、吉い日やで」、195「御苦労さま」。
 教祖伝逸話篇119「遠方から子供が」。
 明治16年4、5月頃(陰暦3月)のある日、一人の信者が餅を供えに来た。それで、お側の者が、これを教祖のお目にかけると、教祖は、「今日は、遠方から帰って来る子供があるから、それに分けてやっておくれ」と、仰せられた。お側の人々は、一体誰が帰って来るのだろうか、と思いながら、お言葉通りに、その餅を残して置いた。すると、その日の夕方になって、遠州へ布教に行っていた高井、宮森、井筒、立花の4人が帰って来た。しかも、話を聞くと、この4人は、その日の昼頃、伊賀上野へ着いたので、中食にしようか、とも思ったが、少しでも早くおぢばへ帰らせて頂こうと、辛抱して来たので、足の疲れもさる事ながら、お腹は、たまらなく空いていた。この4人が、教祖の親心こもるお餅を頂いて、有難涙にむせんだのは言うまでもない。
 教祖伝逸話篇130「小さな埃は」。
 明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。高井は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、 「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに掃除するやろ。小さな埃は目につかんよってに放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり」と、仰せ下された。高井は、「有難うございました」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。
 教祖伝逸話篇131「神の方には」。
 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、「力試しをしよう」と、仰せられ、御自分の腕を、「力限り押えてみよ」と、仰せられた。けれども、どうしても押え切ることはできないばかりか、教祖が、すこし力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて力が抜けてしまう。すると、「神の方には倍の力や」と、仰せになった。又、「こんな事出来るかえ」と、仰せになって、人差指と小指とで、こちらの手の甲の皮を、お摘まみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なされたこともあった。これは、宮森の思い出話である。 
 教祖伝逸話篇151「をびや許し」。
 明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包ませて頂きましょう。」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲がっていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、「鋏を出しておくれ」と、仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」と、仰せになり、残った袋の金米糖を、「これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで」と、仰せられて、お下げ下された。
  註 これは、産後の腹帯のこと、岩田帯とは別のもの。
 教祖伝逸話篇173「皆な吉(よ)い日やで」。
 教祖は、高井直吉に、 「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで」と、教えられた。
 一日 はじまる
 二日 たっぷり
 三日 身につく
 四日 仕合わせようなる
 五日 りをふく
 六日 六だいおさまる
 七日 何んにも言うことない
 八日 八方ひろがる
 九日 苦がなくなる
 十日 十ぶん
 十一日 十ぶんはじまる
 十二日 十ぶんたっぷり
 十三日 十ぶん身につく
 (以下同)
 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり
 二十一日 十ぶんたっぷりはじまる
 (以下同)
 三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり
 三十日は一月、十二ケ月は一年、一年中一日も悪い日はない。
 教祖伝逸話篇195「御苦労さま」。
 教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、 『御苦労さま』、物もらいが来ても、『御苦労さま』。その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆、一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又、地方のゴロツキまでも、皆、信仰に入っている。それも、一度で入信し、又は改心している、と。これは、高井直吉の懐旧談である。

【高井猶吉評伝】
 「高井猶吉先生について 」。
 河内國老原村の人、もとは桶屋で明治十二年十九才悪性風邪を助けて頂いての入信である。明治十五六年頃からおやしきに入込まれたと聞いている。素直正直無口な人であった為、人から頭が高いように見られ、「頭高井さん」などとあだ名されたが、少しもえらばる所もなく実直によくつとめられ皆から「猶やん猶やん」と愛称された。その夫人は仲田左右衛門(さよみ)さんの長女である。
 先生は無学ではあったが、お息のおさづけを頂かれた。とても記憶の良い人で、お話は真面目な古紀話が多く少しも変らなかった。四国の組合長をされ、その方面の受持であったほか、各地の支庁長をつとめ、晩年は山沢(為造)松村(吉太郎)板倉(槌三郎)三先生と共に本部の元老として重きを為しておられたが、昭和十六年十一月二十一日、八十一才で出直された。
 先生は家庭的には恵まれず、夫人つねさんは早く出直して子なく、中田寅蔵さんを養嗣子に迎えて孫一男一女ができたが若くして出直し、そのあとへ中川義一を入婿にされた。ところが今度は嫁が出直し、更に入婿に嫁を迎えさすという風で不幸がたえなかった。それかあらぬか因縁の理についての御教理を深く説かれた。

 「清水由松傳稿本」119~120ページより

【教祖問答余聞】
 或る時、高井猶吉らが、教祖の御前で、この地と天とは、どのくらいの隔たりがあるものならん、と語り合っていると、教祖は次のようにお諭しされた。『ぢ(地)はぢいとしているからぢイと云う。天は転じ変わるもの故、てんと云うで。又人間の心のく(苦)を以てくも(雲)と云うで。雲が幾重にも出た時は低ぅ見えるやろ。一点の雲もなく、にっ本晴れという日には、なんぼう高いとも、分からんように見えるやろ。これが天やで。人間の心もその通りやで』。続いて、東西南北、どのくらい隔たるものこれにありや、とお伺いすると、教祖は次のように仰せられた。『地球は人間の体の如くや。金銀の出るは、人間の体にすれば、爪や。温泉というは、キュウショのようなもの。草木は毛の如く、水道は血の筋やで。同じ理や』。(「正文遺韻抄」158P)





(私論.私見)