(つづき)明治廿一年教会本部設置の折には、諸井国三郎先生と共に準備の為東京へ先行し、初代真柱様は平野、松村両先生をつれて、あとから御いでになった。神様は、『あっちゃむいといても、神が入り込めばこっちむける』と仰言った通り、東京府庁の方は手をうけて待っているかのように北稲荷町四十二番地の借家に、天理教教会本部設置を認可した事は周知の事実である。次いで同年七月おやしきへこれを移転する時、奈良縣社寺掛の拝膳さんが尽力して縣が許そうしないのを許すように奔走してくれた。その后拝膳さんは、長い間本部門前で筆墨屋をしていたが、それをやめるとき残りの墨全部を、本部へお買いとり頂いて助けてもらった。本部では同年十月盛大な開筵式を行い、次いで各地でも教会を置くことになり、明治廿二年二年、郡山分教会がいの一番に設置し、続いて兵神も教会を願出ることになった。ところが講元の富田さんは不熱心で駄目だし、結局担任なしで御許を頂き、担任を増野先生にするか、清水の父にするかおさしづを願った結果、増野はぢばにつとめ、清水は国とぢばと両方つとめよとのことで、清水の父にきまったのである。
兵神は前述の通り、端田富田両氏が早くからつけかけた道で、その内でも富田さんが、三木の藤村家から神戸へ養子に来ていた関係上、出里の兄に匂をかけ、その兄が又金物屋であちこち出歩くので行く先々で匂がけし、これが後の社、加西、神崎、加東、中吉川の五分教会を生むことになった。然し富田さんは三木の兄に匂かけただけで、これ等の信徒を何から何まで世話どりして、遂に五分教会を生むまでにしたのは清水の父である。
父は至って豪胆であり乍ら手堅く、平野楢蔵先生とは全く正反対であった。平野先生は借金してでも、人に迷惑かけてでもかまわん、やりきるという人であった。父は何からでも節約して一切借金せずに手堅くやる方で、いつも平野先生と意見が対立して、双方ゆづらず、東京へ本部設置に上京した時も色々逸話を残している。父は本部の事は何から何迄首を突っこんで、何知らんことがないほどに心にかけてつとめた。当時は何役何役といろいろの役目もなく、あっても極く簡単なもので、主として先生方だけで処理しておられ、教勢もまた微々たるものであった。何しろ几帳面にやらぬと気にいらぬ父の性分とて、あしたは清水先生の当番やと言えば、青年達も特に緊張し、座布団一つの置き方にも注意するのであった。父は行儀が悪いといかん、人前であくびしても不作法だと叱る。随分気むつかしいところがあった。神戸の分教会では、お詣りした信徒が家に帰りつく頃合いまでちゃんと教祖殿に座って其の無事を祈願して寝ないという具合であった。父がよくコレラの病人をお助けに行った話をしてくれたが、明治二十年頃のこと、コレラで誰一人よりつかず猛烈にあげくだししてだんだん冷たくなってゆく病人に、その汚物が両手についたままおさづけをとりつぎはては病人を抱いて直接自分の肌で暖めて助けあげたという。またその頃は道が非常な勢でのびてゆく時代であっただけいろいろの問題がどこでも起きて、その治め向にも父はこのコレラの病気を助けあげる熱心さでやり通していった。今の飾東大教会は飾磨港出身の紺谷九平(久平?)さんが開いたものであるが、最初教会を設置する時に、紺谷さんは姫路へ置くと主張する。周旋人たちは紺谷さんの生れ故郷の飾磨へ置くと言って聞かない。双方がゆづらず、父が行って「それぢゃ姫路にも飾磨にも両方に兵神の直轄教会を新設したら良い」と断を下して、両所一度に新設が出来たが、飾磨は飾東の部下になって現在に及んでいる。三木の方も父が行って教会の新設もさせ普請もさせたのである。こうしてあちこちととび歩いて、良く皆を骨折って仕込み、又真実をつくして立派に今日の兵神の土台を置いてくれた。そしてそのやり方も部下思いで、一切裸にするようなことはせず、皆手堅くやらせ苟も借金しておつくしさすようなことはさせなかった。こんな風で余り親身を労しすぎて身上をこわし早く出直すこととなった。
富田さんは父を評して、「会長さんはほととぎすみたいや。八千八言(こと)泣きやむ迄餌も食べずに泣く、そういう人やった」と述懐している。そしてどこどこ迄もやり切る熟慮断行の人であった。父が手堅かったことについて、春野喜市さんは「盲(めくら)が石橋打れはせんかと、たたいて通るようなやり方の人であった」と言っている。松村吉太郎先生は、「平野はん(楢蔵)は大雑把にやるし、清水(与之助)梅谷(四郎兵衛)さんは手堅いし、わしはその中をとってやって来たのや」と、よく話された。
明治二十一年教会本部設置后、教内では平野楢蔵、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衛、清水与之助の四先生を四天王と称した。松村先生は「そうではない。梅谷、清水、平野、わしの四人や」というておられた。父の手堅いやり方について、それで良いかどうか、いつか御母堂様に伺ったところ、「教祖様は借金なされた事はない。貧乏はなされた。といって借金してでもせいとは仰言らん」と仰言った。おさしづのどこにも「借金してでもやれ、あとは神が引受けてやる」と言うお言葉はない。親としては子が沢山借金したら案じずにおられん。初代真柱様は、「そんなに借金拵えたり、人を倒したりするのは道やない。堅うやるのが道や」
とおきかせ下さり、本席様は、「〇〇(※原文通り)は借金していつも無茶やりよる。あれは大山子や。あんな山子(※1)あらへん。わしは心配で夜もねられん事がある」と仰言っていた。それで兵神も父の手堅い伝統をついで、華手ではないが地味にゆくので結構だと思っている。
「清水由松傳稿本」111~115ページより
※1「山子(やまこ)」…山中に住む妖怪。山の精気の凝ったもの、また、猿の年を経たものという。