清水与之助先生について

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【清水与之助(しみず よのすけ)履歴】
 1842(天保13)年、近江国高島郡中野村(現・滋賀県高島郡安曇川町中野)に農家の三男として生まれる。 
 1901(明治34)年5.13日、出直し(享年60歳)。

 1842(天保13)年、近江国高島郡中野村(現・滋賀県高島郡安曇川町中野)に農家の三男として生まれる。

 1853(嘉永6)年、12歳の時、尊王攘夷論の飛び交う幕末の京都の呉服商大黒屋に丁稚奉公に入る。24歳にして大塚支店長格に抜擢されて業績を伸ばすうち、勤皇志士との交流が始まり、その責めを負って職を辞す。その後は、沖仲仕、船員、外人宅コックを経て神戸三宮で洋酒の空き瓶回収問屋を開いて繁盛する。 

 1883(明治16)年、長兄・伊三郎の疝気(せんき)の病に際し、端田久吉(真明講社兵庫一号講元)に匂いをかけられ入信。兵庫真明組に属す。

 明治16年末、おぢばへ初参拝。教祖からお言葉を頂く。以後、信仰一筋に生き兵庫真明講(兵神大教会の前身)講元になる。教会本部設立の問題が起こるや、梅谷四郎兵衛、増野正兵衛らと共に奔走し公認実現を得る。

 明治20年4月、あしきはらいのさづけを拝戴する。おつとめで手踊りをつとめる。

 明治21年、東京での天理教教会設置には初代真柱一行の先遣隊として上京。

 明治22年、兵神分教会(現大教会)初代会長として活躍する。

 明治32年、専心おぢばへ伏せ込む。
 1901(明治34)年5.13日、出直し(享年60歳)。

【清水与之助逸話】
 教祖伝逸話篇198「どんな花でもな」。
 教祖伝逸話篇198「どんな花でもな」。
 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの3名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

【清水与之助評伝】
 「清水与之助先生について(その①) 」、「清水与之助先生について(その②)」。
 清水の父は、滋賀県高島郡廣瀬村大字中野字大山寺清水伊兵衛の三男である。母はふさ(いのとも言う)長姉がおうめ、長兄が伊三郎、次兄が弥三郎で、幼名を与七というた。大山寺は大津から北方十二里、江若線の大溝駅に下車して約二里ほど西へ入ると、そこにある五十町歩程の大山寺平野の寒村である。昔そこに真言宗のお寺が五十ヶ寺もあり、其の一つが大山寺であったが、織田信長の手で焼き払われ、その原を開いて落ついた某扠大僧都の幾代かの末孫が清水家で、中江藤樹とは縁家である。それで大溝町に住居した中江藤樹(与右エ門)の与の字をもらって名づけられたと伝えている。こうした旧家ではあったが僅々十軒ほどしか戸数のない山中の大山寺では、生涯うだつはあがらぬと、若い時から「ぼて売り」(安曇川の鮎を蒸して行商する者をいう)となって、始終京都市中へ出かけた。その内に市内の或る質屋と懇意になり、そこへ奉公して追々信用されて番頭となった。根がなかなか堅い人であるのに、どんな間違であったか、会計をやっている内欠損の為に暇を出されてしまった。そこで家へは帰らず大阪へ出たが、そこも思わしくないので更に神戸へ出た。当時は西南戦争中で戦地へ行って儲けようと九州へ渡ったが、これも思わしくなく戦后神戸へ帰り、外人から古い空瓶類を買うてこれを日本人に売り生活を立てた。その頃はまだ日本ではガラス瓶が作れなかったのである。その取引で儲かるしまだ独身で身軽な父は、行く先々で女道楽をしたものと見え、大阪安治川の遊郭の山田伊兵衛方で遊ぶ内にその娘分のはると一緒になった。はるは早く両親をなくし伯母に預けられていたが、その伯母も貧乏して九才の時山田方へ貰われ十六の時父に見染め(見初め?)られて、翌十七才の時、「あの男は将来見込のある人だから」と強って養父に奨められて、新世帯を神戸の三宮に持って下駄店を開いた。

 丁度その時三宮駅でつとめている后の増野正兵衛先生と知り合いになった。その内増野夫人おいとさんが目を病んで困ったところが、心安い隣りの茶碗屋吉田栄助夫人おてうさんが、この道を信仰していて、拝んでもらうと不思議に快くなった。増野先生は「そんなものいくら拝んでもらっても快くなるものか」と、反対しておられたが、お隣りののれんが見えなかったのが明瞭り見えるように御守護頂いたので、「これは不思議な神様やなあ」と、始めて(初めて?)信仰する気になってしまった。丁度その頃江州から兄が病気で医者にかかる為にたよって来ていた。養父与之助はすでに明治十六年五月ふとしたことから兵庫でこの道を聞いていたので、となりの増野いとさんが御守護頂いたのを幸い、正兵衛先生と二人で、おやしきへお詣りしたのが、明治十七年二月の事であった。そして教祖様にもお目にかかり、高井猶吉先生からお話を聞かして頂いて、直に結構がわかり神戸へ帰ってから盛んにお匂掛する内に沢山の信徒も与わった。

 当時神戸の講元は端田久吉さんで、水のおさづけを頂いた人であったが、色情の為失敗し、副講元の富田さんは、家業のこんにゃく屋に没頭して道を顧みず、その為あとから道に出た増野、清水両先生が熱心して先になった訳である。その頃のお屋敷は百姓の信徒ばかりで、経済的にはなかなか難渋の中であった。そこへ前記二人が始終金をもって運ばれたので、遂に会計となっておやしきにつとめられることになった。それから清水の父は教祖様御昇天后三ノ宮の店もしまい、お道一條となりおやしきと神戸の方とを両方つとめさしてもらった。(つづく)
 「清水由松傳稿本」109~111ページより
 (つづき)明治廿一年教会本部設置の折には、諸井国三郎先生と共に準備の為東京へ先行し、初代真柱様は平野、松村両先生をつれて、あとから御いでになった。神様は、『あっちゃむいといても、神が入り込めばこっちむける』と仰言った通り、東京府庁の方は手をうけて待っているかのように北稲荷町四十二番地の借家に、天理教教会本部設置を認可した事は周知の事実である。次いで同年七月おやしきへこれを移転する時、奈良縣社寺掛の拝膳さんが尽力して縣が許そうしないのを許すように奔走してくれた。その后拝膳さんは、長い間本部門前で筆墨屋をしていたが、それをやめるとき残りの墨全部を、本部へお買いとり頂いて助けてもらった。本部では同年十月盛大な開筵式を行い、次いで各地でも教会を置くことになり、明治廿二年二年、郡山分教会がいの一番に設置し、続いて兵神も教会を願出ることになった。ところが講元の富田さんは不熱心で駄目だし、結局担任なしで御許を頂き、担任を増野先生にするか、清水の父にするかおさしづを願った結果、増野はぢばにつとめ、清水は国とぢばと両方つとめよとのことで、清水の父にきまったのである。

 兵神は前述の通り、端田富田両氏が早くからつけかけた道で、その内でも富田さんが、三木の藤村家から神戸へ養子に来ていた関係上、出里の兄に匂をかけ、その兄が又金物屋であちこち出歩くので行く先々で匂がけし、これが後の社、加西、神崎、加東、中吉川の五分教会を生むことになった。然し富田さんは三木の兄に匂かけただけで、これ等の信徒を何から何まで世話どりして、遂に五分教会を生むまでにしたのは清水の父である。
 父は至って豪胆であり乍ら手堅く、平野楢蔵先生とは全く正反対であった。平野先生は借金してでも、人に迷惑かけてでもかまわん、やりきるという人であった。父は何からでも節約して一切借金せずに手堅くやる方で、いつも平野先生と意見が対立して、双方ゆづらず、東京へ本部設置に上京した時も色々逸話を残している。父は本部の事は何から何迄首を突っこんで、何知らんことがないほどに心にかけてつとめた。当時は何役何役といろいろの役目もなく、あっても極く簡単なもので、主として先生方だけで処理しておられ、教勢もまた微々たるものであった。何しろ几帳面にやらぬと気にいらぬ父の性分とて、あしたは清水先生の当番やと言えば、青年達も特に緊張し、座布団一つの置き方にも注意するのであった。父は行儀が悪いといかん、人前であくびしても不作法だと叱る。随分気むつかしいところがあった。神戸の分教会では、お詣りした信徒が家に帰りつく頃合いまでちゃんと教祖殿に座って其の無事を祈願して寝ないという具合であった。父がよくコレラの病人をお助けに行った話をしてくれたが、明治二十年頃のこと、コレラで誰一人よりつかず猛烈にあげくだししてだんだん冷たくなってゆく病人に、その汚物が両手についたままおさづけをとりつぎはては病人を抱いて直接自分の肌で暖めて助けあげたという。またその頃は道が非常な勢でのびてゆく時代であっただけいろいろの問題がどこでも起きて、その治め向にも父はこのコレラの病気を助けあげる熱心さでやり通していった。今の飾東大教会は飾磨港出身の紺谷九平(久平?)さんが開いたものであるが、最初教会を設置する時に、紺谷さんは姫路へ置くと主張する。周旋人たちは紺谷さんの生れ故郷の飾磨へ置くと言って聞かない。双方がゆづらず、父が行って「それぢゃ姫路にも飾磨にも両方に兵神の直轄教会を新設したら良い」と断を下して、両所一度に新設が出来たが、飾磨は飾東の部下になって現在に及んでいる。三木の方も父が行って教会の新設もさせ普請もさせたのである。こうしてあちこちととび歩いて、良く皆を骨折って仕込み、又真実をつくして立派に今日の兵神の土台を置いてくれた。そしてそのやり方も部下思いで、一切裸にするようなことはせず、皆手堅くやらせ苟も借金しておつくしさすようなことはさせなかった。こんな風で余り親身を労しすぎて身上をこわし早く出直すこととなった。

 富田さんは父を評して、「会長さんはほととぎすみたいや。八千八言(こと)泣きやむ迄餌も食べずに泣く、そういう人やった」と述懐している。そしてどこどこ迄もやり切る熟慮断行の人であった。父が手堅かったことについて、春野喜市さんは「盲(めくら)が石橋打れはせんかと、たたいて通るようなやり方の人であった」と言っている。松村吉太郎先生は、「平野はん(楢蔵)は大雑把にやるし、清水(与之助)梅谷(四郎兵衛)さんは手堅いし、わしはその中をとってやって来たのや」と、よく話された。

 明治二十一年教会本部設置后、教内では平野楢蔵、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衛、清水与之助の四先生を四天王と称した。松村先生は「そうではない。梅谷、清水、平野、わしの四人や」というておられた。父の手堅いやり方について、それで良いかどうか、いつか御母堂様に伺ったところ、「教祖様は借金なされた事はない。貧乏はなされた。といって借金してでもせいとは仰言らん」と仰言った。おさしづのどこにも「借金してでもやれ、あとは神が引受けてやる」と言うお言葉はない。親としては子が沢山借金したら案じずにおられん。初代真柱様は、「そんなに借金拵えたり、人を倒したりするのは道やない。堅うやるのが道や」
とおきかせ下さり、本席様は、「〇〇(※原文通り)は借金していつも無茶やりよる。あれは大山子や。あんな山子(※1)あらへん。わしは心配で夜もねられん事がある」と仰言っていた。それで兵神も父の手堅い伝統をついで、華手ではないが地味にゆくので結構だと思っている。
 「清水由松傳稿本」111~115ページより

※1「山子(やまこ)」…山中に住む妖怪。山の精気の凝ったもの、また、猿の年を経たものという。





(私論.私見)