島村菊太郎先生について

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【島村菊太郎履歴】
 高知の人。
 明治44年1.29日、出直し(享年54歳)。

 高知の人。
 南海道地震、次ぐ大洪水により土地家屋を失い大阪へ。
 南堀江の日吉橋北詰で海産物を商ううちに痔を患い苦しむ。真明組*内与市に導かれている友人の都築竹治の勧めに応じて二人でおぢばへ参拝。
 明治21年初頭、鮮やかな御守護を頂く。
 2月、31歳の時、銀代(28歳)と結婚。
 大阪で家業を続けるうちに肺を患い再びおぢばへ参拝。日ならずして快癒。「千人助け」を心定めして高知市でにおいがけに奔走。
 明治22年5月、さづけを拝戴。
 その秋、真明講社高知集談所を開設。道一条に切り替える。
 明治24年9月、分教会設置。
 明治29年4月、内務省訓令で教勢が衰微し、続く高陽支教会の莫大な借金を引き受ける困難の道中に向かう。この大節の中でも部属協会は増え続けた。
 明治33年10.4日、入信13年にして本部准員に昇格。
 明治34年6月、本部員。
 明治41年、一派独立が叶って教会本部役員。
 明治42年、高知大教会に昇格。
 明治44年1.29日、出直し(享年54歳)。

【島村菊太郎逸話】
 教祖伝逸話篇「」。

【島村菊太郎評伝】
 「島村菊太郎先生について」。
 高知の人、高知大教会の初代で、明治二十年頃入信された。身長五尺六寸位、顔にあばたがあり、聲は浄瑠璃声で枯れて太く、いたって正直な物堅いやさしい人であった。明治三十四年頃初代真柱様から、本部員にとおさしづ願われたら速やかにお許しがあった。その前三年ほど準員をつとめておられたが、とても青年を可愛がられた。初代真柱様の実兄松次郎さんが、高知の設置の時からいろいろ世話しておられたが、明治廿四年十月神様のお許しなくて高知へゆかれ、帰って翌十一月三日コレラで出直された。その后息子の國治郎さんが養子となって、高知を継がれたが、これは島村先生の出直される一ヶ月位まへのことだときいている。先生は明治四十四年一月廿九日五十四才で出直しされた。

 「清水由松傳稿本」126~127ページより




(私論.私見)