岡本善六&シナ

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【岡本善六(おかもと ぜんろく)】
 嘉永2年、生れる。
 明治45年、出直し(享年63歳)。
 嘉永2年、生れる。
 明治5年、尾田シナと結婚。
 明治12年、善六、シナの長男・栄太郎(7歳)がコレラに罹ったのを助けられ、以来、夫婦で常にお屋敷へ足を運ぶ。
 明治23年、日元講の二代講元に就任。
 明治28年、旭日教会設立、初代会長。
 明治39年、会長就任後は本部大裏に努めた。
 稿本天理教教祖伝逸話篇

【岡本善六評伝】
 「岡本善六先生について」参照。
 山辺郡朝和村永原在の人、代々豪農、父の重治郎さんが元治元年一月妹婿の山中忠七先生から道に入信し、生涯を詣り信心で終ったあとをうけて道に入り、旭日大教会の初代会長となった人である。身長五尺四寸位、肥り肉の丈夫ななかなかしっかりした人物であった。

 明治廿五六年頃おやしきで青年をつとめさして頂いていたが、村人の懇請もだし難く、家に帰って村政にたづさわる一方日の元講の副講元をつとめていられた。ところが講元の辻忠作先生が、老年のため、身をおひきになり、明治廿八年日の元講が旭日支教会となった時に、その初代会長に選ばれ自宅を教会としてお許しを頂いた。

 ところが手狭で勝手が悪いので永原の東方に壱千坪許り敷地を買収し、明治三十五年頃教会を新築し、それと共に三島郡郡山詰所北西の土地千五百坪を購入した。その為壱萬八千円程の負債が出来、その整理に困難し、本部から桝井伊三郎、山澤為造両先生が整理に入られ、善六さんは会長を辞任して、明治四十年頃から再びおやしきの青年をつとめ大裏で夫婦して働かしてもらった。

 そして息子の栄太郎さんが、日露戦争に出征して明治三十九年に帰ってから、永原にあった教会を西分教会に六千円ほどで売却し、現在大教会のある田井庄へ移転し、庄司鶴吉さんが地所を献納したので、匂田に建っていた稲荷教会を役員の好村功斎医師が買収して献納、これを造作して建築、会長には山沢為造先生がなられて、整理が出来たのである。
 『明治三十九年十一月二十八日、旭日支教会長岡本善六辞職に付山沢為造後会長に御許願』
 さあ/\尋ねる事情/\、まあ一度はたづねにやなろまい、ようしやんしてみよ、これまで日元講といふであろう、ようゐならんこれよりの理はあろまい、なれどみなみな心の理がなにかの理にならん、尋ねる事情よぎなく事情であらう、よくききわけ、みなみなへんじようでも心をむすんでとほればどんな処どんな処でもみなをさまるもの、なれど一人又一人二人三人事情、何人めん/\事のやうにおもふから、なにしたんぞいなあといふやうになる、世界多くの中にも、こんな理はあろまい、よくききわけてあらためかへ、とほく処はるかな事情でもみなをさまりてある、いかな事情もをさまりある、元一つの道でありながら一つの心、みなそも/\でとほるからなにしたんぞいなあといふやうになりたる、又かはる処人の心、心にそへ、役員/\ともいふ、つめいんともいふであらう、みな心の精神の理をもつて一つでたる理に心をそふて一すじの道をとほれば、これからといふ………」。

 とおさしづがあった。それから間もなく善六さんは出直してしまった。后山沢先生のあとを、桝井安松さんがつぎ、そのあとを善六さんの息子栄太郎さんがつぎ、更に孫の重善さんがついで今日にいたっている。(「清水由松傳稿本」101~103ページより)

【岡本シナ】
 安政3年生まれ。
 明治45年、出直し(57歳)。
 安政3年生まれ。
 明治12年、長男・栄太郎のコレラを助けられ、夫・善六と共に熱心に信仰する。
 明治14年、赤衣拝戴。教祖から温かい親心によるおし込みを頂く。
 明治39年、本部炊事場に務める。
 明治45年、出直し(享年57歳)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇86「大きなたすけ」、。

【岡本シナ逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇86「大きなたすけ」、91「踊って去ぬのやで」。
 大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、7人の子供を授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男の栄太郎と、末女のカン(註、後の加見ゆき)の2人で、その間の5人は、あるいは夭折したり流産したりであった。明治12年に、長男栄太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心は、大きく成人したのであったが、同14年8月の頃になって、シナにとって一つの難問が出て来た。それは、永原村から約1里ある小路村で六町歩の田地を持つ農家、今田太郎兵衞の家から使いが来て、「長男が生まれましたが、乳が少しも出ないので困っています。何んとか、預かって世話してもらえますまいか。無理な願いではございますが、まげて承知して頂きたい」との口上である。その頃、あいにくシナの乳は出なくなっていたので、早速引き受けるわけにもゆかず、「お気の毒ですが、引き受けるわけには参りません」と、断った。しかし、「そこをどうしても」と言うので、思案に余ったシナは、「それなら、教祖にお伺いしてから」と返事して、直ぐ様お屋敷へ向かった。そして、教祖にお目にかかって、お伺いすると、「金が何んぼあっても、又、米倉に米を何んぼ積み上げていても、直ぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大きなたすけはない」と、仰せになった。この時、シナは、「よく分かりました。けれども、私は、もう乳が出ないようになっておりますが、それでもお世話できましょうか」と、押して伺うと、教祖は、「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで」とのお言葉である。これを承って、シナは、神様におもたれする心を定め、「お世話さして頂く」と先方へ返事した。すると早速、小路村から子供を連れて来たが、その子を見て驚いた。8ヵ月の月足らずで生まれて、それまで、重湯や砂糖水でようやく育てられていたためか、生まれて100日余りにもなるというのに、やせ衰えて泣く力もなく、かすかにヒイヒイと声を出していた。シナが抱き取って、乳を飲まそうとするが、乳は急に出るものではない。子供は癇を立てて乳首をかむというような事で、この先どうなる事か、と、一時は心配した。が、そうしているうちに、2、3日経つと、不思議と乳が出るようになって来た。そのお蔭で、預かり児は、見る見るうちに元気になり、ひきつづいて順調に育った。その後、シナが、丸々と太った預かり児を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、その児をお抱き上げ下されて、「シナはん、善い事をしなはったなあ」と、おねぎらい下された。シナは、教祖のお言葉にしたがって通るところに、親神様の自由自在をお見せ頂けるのだ、ということを、身に沁みて体験した。シナ26才の時のことである。
 稿本天理教教祖伝逸話篇91「踊って去ぬのやで」。
 明治14年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と、仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有難いやら、それは、忘れられない感激であった。その後、幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「よう、お詣りなされたなあ。さあさあ帯を解いて、着物をお脱ぎ」と、仰せになるので、何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで丁寧にたたみ、教祖の御前に置くと、教祖は、「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで」と、仰せられた。シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立った。「そんなことをすれば、町の人のよい笑いものになる」。また、おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん」と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい」と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こらなかった。シナはホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、御命を果たした喜びが一つとなって、二重の強い感激に打たれ、シナは心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった。




(私論.私見)